第3話 なにも言わず彼女に甘える
時が止まった。いや、呼吸が止まっただけかもしれない。
突然、家のベランダから山の天辺に瞬間移動したような、空気の薄さを感じた。急激な気圧の変化に、心臓がポテトチップスの袋のようにパンパンに膨れて爆発しそうな、そんな錯覚を覚える。
いや、え……なに?
音にしたつもりだったが、声になっていなかった。
なんでこんなにも狼狽しているのか、それすらもわからない。
目の前がチカチカ光って、支えがなければ立っていられないとでもいうように、ベランダの塀を強く掴んだ。デコボコしたざらついた感触が、今の心に似ている気がした。
『というか、留守電残してたんだけど再生してないなー?
妹様の声を無視するとはなにごと――』
なにかを言っている気がしたが、まるでノイズが走っているように理解できなかった。
わかるのは、妹の声音は軽く、大したことを言ったつもりではないこと。
それは事実で、僕だって特別驚くようなことではないと思っている。
ふーん。そう。考えとく。
それだけで終わる返答。どーするかなー、と悩むのは部屋に帰ってからで、重く受け止めるようなことじゃない。
だって、元々その可能性はあって。
こっちに1人残っていたのは、出張のタイミングが中学3年の半ばで、もう少しで卒業だったからだ。
だから、だから、だから………………なんだ?
ヤバい。脳の大事な糸がプツンと切れたように、思考が死んだ。
『じゃ、そういうことだから。
考えといてねー。ア・フイ・ホウ~』
待って。
そう声を出そうとしたが、言うだけ言って切れてしまった。
ツーツー、と。
電話が切れましたよ、とスピーカーが伝え、パッとホーム画面に切り替わる。
なんで、最後までハワイなんだよ。
どうでもいい悪態をついて、崩れ落ちるようにズルズルとしゃがみ込む。
出張が延びた。
それはいい。
北海道で家族と一緒に住む。
住み慣れた街を離れるのは寂しいとはいえ、また家族と一緒に暮らせるのは良いことだ。たった1年の一人暮らし体験だったなと思うだけ。
――鎖錠さんと……離れる。
良くない。それは、とても良くないことだった。
胸の内が暗く淀む。透明だった水に土が混ざり込んで、泥になったかのように粘りついて、重い。
ただのお隣さん。
1ヶ月かそこら、一緒に居ただけの女性だ。
恋人ではない。友人とすら言えるかもわからない。
なのに、どうしてこうも心をかき乱されるのか。
「……あぁぁぁぁっ」
ぐしゃぐしゃ。無造作に髪をかき乱す。
正直、関係性はどうあれ、他人にここまで入れ込んだのは初めてだ。
多分、そこには不安がある。
雨に濡れた、捨て猫のような女性。
目を離したら路地裏の闇に溶けて消えてしまう。そんな、儚く脆い彼女を憂う。
どれだけ親しくとも赤の他人だ。
そう冷たくあしらうには、触れ合うようになってからの1ヶ月はあまりにも濃密で、距離が近すぎた。
悩んでもしょうがない、か。
今直ぐに答えが出るものでもない。というか、混乱しすぎて頭が回んない。
重力が数倍になったような身体の重さを感じながら、立ち上がる。
そのままのそのそと窓を開けて、リビングへと戻った。
「……女?」
戻った瞬間、僅かな沈黙の後の第一声は小さな棘であった。
ムッツリと唇を曲げて、どこから持ってきたのか胴の長い猫のぬいぐるみを抱えている。
「いや妹」
女で間違いはなかったが、肯定するには忌避感があった。
生物学上の性別というより、関係性というか、心情的なモノを問われている気がしたからかもしれない。
「そう」
と、どうでもよさそうに口にすると、ぎゅっと猫の首が締まった。
ぬいぐるみだから表情は変わらないはずなのに、布が絞られてめちゃくちゃ苦しそうに見える。やめてさしあげて。
なんだかそんな彼女の姿を見ていると。
寂しいというか、愛おしいというか。
恋しくなってくる。
自分で自分の心の動きがわからない。
けれど、身体は理解しているのか、なにも命令したつもりはないのにふわふらと、足を動かして座椅子に座る鎖錠さんに近付いていく。
「リヒト?」
呼ばれ、膝をつく。
不思議そうな顔をする彼女の膝に、トンッと頭から倒れ込んだ。
「うーっ」
唸りながら、鎖錠さんの太ももに頭を擦る。
心の冷静な部分が『これはセクハラなのでは?』と冷や汗を垂らしているが、今はぐじゅぐじゅと疼く感情のままに行動した。仔犬が甘えるみたいだ。なんて、どこか他人事めいた感想を抱く。
「なにが……、」
頭上で、鎖錠さんがなにか言いかけたが、途中で口を閉ざした気配がする。
言葉の続きはわかる。閉ざした理由も。
それは恐らく、僕が鎖錠さんの事情を追求しないからで。
彼女自身そのことを良しとしているのに、それを犯すのは卑怯だとでも思ったのだろう。
過去とか未来関係なく。
一緒にいるだけで心地良い。
ある種の停滞を受け入れている。
それを壊したくない。
抱く気持ちはきっとイコールだ。
だから、相談はできなかった。
それは鎖錠さんの事情を訊かないからで、僕の事情だけ話すなんてアンフェアだ。
……なんて、彼女と同じようで真逆の思いを抱えているからでもある。
あぁ。こういう思考がお互いを鎖にように縛って、停滞させているのかもな。
雁字搦めが良いだなんて、とんだドMだ。思考の辿り着いた先に気分が滅入る。
結局、なにも言わず、甘えることしかできない。
心の中で自嘲気味に笑う。おかしな話だ。
甘えられるのに、心の内側は明かせないなんて。
触れ合うことは許しているのに、相手の事情には踏み込まないし、踏み込ませない。
それは酷く歪で、水面に薄く氷が張った湖に立っているような心許なさがあった。
どちらかが終わらせようとすれば、呆気なく氷が割れて、この関係は終わりを迎えるのだから。
スンッ、と鼻を動かす。甘い匂いがした。
「鎖錠さんの香りがする……」
そういうと、ガッと肘がつむじに落ちてきた。痛い。