008-女神様と異世界の扉
顔の周りがひんやりして気持ちいい。
あの時、女ゾンビにとどめを刺されたのだろう。
それなのに意識が戻りつつある。
異世界への転移があるのなら転生もあり得るのだろう。
不憫な最後を迎えたので、神様が転生を許可してくれたのかもしれない。
異世界転生って本当にあるのだな。
このまま目を覚ませば、よくある女神様とのご対面といったところだろう。
少しの期待を込め、クシードは目を開けた――。
――が、視界に映ったのは女神様では無い。
あの女ゾンビのドアップ顔。
お互いの目と目が合い、見つめ合い……
そして、お互いにパチパチと瞬きをしていると――
「うわああああぁぁぁぁーーーーッ!!!!」
「きゃああああぁぁぁぁーーーーッ!!!!」
絶叫が見事にシンクロした。
何が起こったのか理解できていないクシードは、反射的に目の前の相手を両手で突き飛ばしていた。
銃を構えて戦闘態勢に入ろうも、左腿のホルスターには何も無い。
周囲を見渡すが、落ち葉や短い草花、そして、なぜか血のついたハンカチがあるだけで、やはり銃はどこにも見当たらなかった。
突き飛ばされた女ゾンビはむくりと立ち上がり、直立不動でクシードを見ている。
まだ何かやる気なのだろうか。
警戒したクシードは咄嗟に格闘術の構えをとった。
この手負いの身体でどこまで戦え――。
「ん?」
右肩の痛みが引いたと言うより、数十針縫う様なケガが、跡形も無く消えていることにクシードは気づいた。
「ケ、け……ぇが、チャん、ちゃン、あぁしま」
「エガ、ちゃん? あおしま?」
か細い声。
女ゾンビはクシードに対して、何かを訴えかけていることがわかる――が、ひと言物申したい。
何を言っているのか分からないと。
それより不可解なのが、顔と肩のケガは跡形もなく消えていた。
「ケガ、治してくれたん?」
クシードが問いかけると、女は急にヘッドバンキングを始めた。
シルクの様に綺麗で、クセの無い真っ直ぐな青色のロングヘアーが躍動感のある動きを見せている。
「どんな頷き……いや頷いてんの、それぇーッ?!」
せっかくの美髪を無駄に使って……。
だが、ヘッドバンキングは首や脳に負担がかかるので、あまりオススメしない。
ヘッドバンキングの影響が出たのか、女の顔がみるみる青ざめていき、口を抑えながら苦悶の表情を浮かべると、茂みの方へと駆けて行った。
突如、穏やかな森林の中にヴィクトリアの滝が現れた。
大雨が降った後なのか、色は淀んでいる。
しかし、勢い良く流れ落ちる、アフリカが世界に誇る圧倒的な大瀑布の水量は、小鳥たちのオーケストラを背景に濁音の旋律を奏でていた。
濁音の演奏が終わると、女は樹木の根元に置いていた、自身のであろう、小さな鞄から水筒をおもむろに取り出すと、水分を口に含み、ガラガラとうがいを始めた。
――あれはどう見ても人間の行動だ。
「だっ、大丈夫……ですか?」
クシードは生演奏を久しぶりに見た。
僅か数分の出来事だが、乱れてしまった髪と疲れ切った横顔から演奏の激しさが伝わってくる。
なんだか今の方がゾンビらしい。
「…………ァカン」
終演の余韻に感極まったのか、涙声が聞こえた。
彼女はクシードが落とした銃をなぜか持っていた。
少々感情任せに差し出してきたが、クシードが銃を受け取ると、彼女は顔を見せることもなく、早急に走り去っていった。
呆然と、クシードはその後ろ姿を目で追う。
勝手なイメージだが、清楚な服装から彼女は育ちの良いソプラノ歌手みたいだった。そんな上品な彼女が残していったは、まさかのモザイクの滝壺。
風下にいれば、ソプラノとメゾソプラノのデュオを組んでいたのかもしれない。
風上におって良かったぁ……。
などとクシードは一瞬思ったが、そんなことを言っている場合ではない。
第1異世界人である彼女から聞きたいことがたくさんあるのだ。
「ちょっと待って下さいよぉぉぉーーーッ!!」
クシードの叫びも虚しく、青色の髪の乙女に届くことはなかった。
◆◆◆
彼女の後を追い、林道を走るクシード。
彼女はものすごく足が速かった。
五輪のマラソン競技ならば金メダル確実じゃないかってくらい速く、すでに後ろ姿の気配が感じられない。
これだけ速ければ、あの蜂から逃げられたのでは……?
クシードは途中で走るのを止め、しばらく砂利道を歩いていると視界が開けた。
周囲は緑の草原が広がっており、道はモーセの海割りの様に真っ直ぐ伸びていた。
その先には夕焼けに照らされた建造物が見える。
まるで映画のワンシーンのような光景だ。
近くまで来ると、この建造物は撮影用に作られたハリボテではなく、敵の攻撃から街を守るために、レンガを積み上げて造られた堅牢な城壁とわかった。
高さは目視約13〜15mと巨大。
4〜5階建てのビルに相当するサイズ感。
これがグルリと一周していると思うと、造るのにどれだけの費用と日数を要したのだろうか。
道は出入り口の大型の外門へと続いており、外門から内側にはたくさんの人が見えている。
クシードのようなお馴染みの人間がいれば、青髪の彼女の様に頭にケモノ耳と、腰に尻尾のある獣人。他にもエルフの様に長い耳を持ったヒト、角の生えた人等々、様々な人種がいた。
みんなコスプレでは無いのは顕著だ。
本当に異世界に来た感じがする。
多種多様な種族が行き交う中、先程見た青色の髪に、ネコ耳を生やした女性がポツンと立っていることに、クシードは気付いた。
彼女もクシードの存在に気付いたが、視界に入るや否や、なぜか首を反対方向に回した。そしてクシードが彼女の下まで来ると、“今気付きました”と言わんばかりの顔をした。
逃げたかと思いきや待っている。
彼女は色々と何をしたいのだろう。
「先程は大変でしたね。体調は――」
クシードが青髪の女性に話しかけると、彼女は手に持っていたA4サイズ程度のスケッチブックを、いきなり、クシードに見せてきた。
クシードは、まじまじとスケッチブックを見ると、このスケッチブックには初めて見る記号が羅列されている。
手書きなのは明瞭。
しかし、PCで打ち込んだ様に規則正しく、とても綺麗だ。
この綺麗な記号の羅列は文章……なのか?
唐突に筆談を迫る辺り、彼女は聴覚に障害でもあるのだろうか――。
いや、ケガを治してくれた時、か細い声ではあったが会話はギリギリ成立していたので、障害を持った可能性は低い。
文字は分からなくても、言葉はなぜか通じる。
ミオ曰く、異世界に行くと本当になぜかよくあることなのだ。
「……すいません。ボク、字が読めないのです」
「エッ……?」
彼女は目を泳がせながら、驚いた様な言葉を発し、スケッチブックを裏返して自身の方へ向けると、怯えたように呼吸が乱れ始めた。
“文字が分からない”という言葉に対して、驚いた声と、スケッチブックを裏返すと言う行動は、多くの人がやりそうな行為。
やはり会話が成立している。
だが、何かと謎の行動も目立つ――。
乱れた呼吸が整ったのか、彼女はスケッチブックを表彰状を読み上げるかの様に持つと、言葉を発した。
「てらぁぁすけて、い、いラ、ゲホッ、ゲホッ……」
「…………ええっ?」
甲高い裏返った声を発し、最終的にむせた。
目は大きく見開き、呼吸はハァハァとより一層、荒くなっている。
色々と大丈夫なのだろうか?
「たらすけて、いいいらら、いた、いた、いたダダだき、アアりアリアリアリヴェテテ、ありゃりゃがトー、ごごゴざい、ま、ましゅううたぁぁぁ」
「…………ええっ?」
まばたきは一切せず、時折声は裏返り、真顔で彼女は“表彰状”を読み上げていた。
クシードが怪訝な顔をすると、彼女もう1回言う。
でも聞き取れない。
“本当の異世界は言語が違うため聞き取れない”とか、そんなレベルでは無く、この世界の人でも聞き取れないと思ってしまうレベルだ。
クシードは、一言一言、単語ごとに区切ってもらうように懇願すると、ようやく理解できた。
内容は、『助けて頂き、ありがとうございました』である。
クシードが通訳すると、彼女はスケッチブックをめくり、再び呼吸を整えた。
「おおぉぉオレオレオォ、オラオラオラ、レオレーに、に、およよよび――――」
「えーっ……?」
どもりが激しく何を言っているか分からない。
再度、単語ごとに区切ってもらった。
「お礼に及びませんが、この後、一緒に夕食はいかがでしょうか?」
クシードが何とか解釈すると、彼女は小刻みに高速で首を縦に振った。
その首の構造は一体どうなっているのだろう……。
それと、頭を激しく動かすんじゃあない。
公衆の面前で新しい滝を誕生させる気かッ!
かなり強引ではあるが、美女からディナーのお誘い受けたクシード。普通ならば嬉しいシュチュエーションだが、どうしたものか、拒否反応がある。
彼女は血走った目を剥いた状態で鼻息を荒くし、クシードを見つめ、お誘いの回答を待っていた。
彼女は話し方にクセがあるだけだ。
ケガを治してくれるので、良い人なのだろう。
それに、ここは異世界だ。
言葉はなぜか通じても文字は読めない。
無一文な上、ホームレスなのだ。
今後の生活のことを考えると、回避してはいけないイベントなのかもしれない。
「ヨ、ヨロコンデ……。チョード……オナカモ、スイテマシタシ」
クシードは視線を逸らしながらも承諾した。
「良かったぁ……」
彼女は、ぼそりと小さな声で呟いた。
その声はクシードにも聞こえており、“普通に喋れるんかい”っと、心の中でツッコんでいた。
「あ、あ、アノ、アァータタタタタタワタワタワー、み、ミ、ミるみル――――」
オロオロしながら、叫ぶように何か発言したが、案の定聞き取れないので、クシードは数回聞き直した。
「――ミルフィ・アートヴィーレさん」
どうやら自己紹介をしていた様で、これが彼女の名前である。自分の名前もまともに言えないなんて重症だ。
「ボクは、クシード・シュラクスって言います」
彼女はスケッチブックにサラサラと書き込んだ。
恐らく“クシード・シュラクス”と書いたのだろう。
自己紹介も終えたクシード達は門をくぐり、街中へと入って行った。