番外 野球観戦
「でもひかる、本当に野球観戦で良かったのか?」
「しつこいですよ先輩。そもそも私が言い出したことじゃないですか」
でもそれは、ひかるが避けていたことじゃないか。そう言うこともできず、口を噤む。少し前までのひかるなら、他人が野球している姿なんてできるだけ見ようとしなかったはずだ。
あの日から、フォークボールを投げることを諦めた日から、彼女は少し変わったみたいだった。野球への向き合い方もそうだが、なんだか女らしさに磨きがかかったようだ。綺麗な黒髪はいっそう艶を増し、その笑顔は魅力を増した気がする。
何よりも、あの日から俺は、ひかるが投球している姿を見ていない。
球場までの道のりは、また開始まで時間があるにも関わらず人で溢れかえっていた。熱心なファンたちは、応援するチームのユニフォームを羽織り、気合十分なようだ。
かつてはひかるもそんな熱心なファンの一人だったが、今日は私服のようだ。女の子らしく手足を出した涼しそうな装いは明るい色で統一されて、彼女の屈託のない笑顔によく似合いそうだった。
「ひかるはこの球団のファンだったよな」
「ああ、そうでした。まあでも、今は応援とかあんまりしてないですよ。……なんですか?推しの選手とかいたら、嫉妬しちゃいますか?」
「そんな醜い嫉妬するかよ……」
俺の反応を伺っていたひかるは、にししと笑った。自然な笑み。しかし人混みの中でこちらを見続けていたせいだろう。俺たちの後ろから歩いてきた男と肩をぶつけて、彼女の体がよろめいた。
「おっと、大丈夫か?」
たたらを踏む彼女の肩を支える。薄い布地の奥の熱が伝わってくる。
「あ、ありがとうございます。その……もう大丈夫ですから」
「おお、悪い」
彼女は素早い動きで俺の手から離れると、一歩二歩と距離を取った。しかしなぜか俺の方を向いたままだ。
「前見て歩かないとまたぶつかるぞ?」
「そうですね。……先輩、随分手慣れていましたね。私の知らない間に女性との付き合い方を学んだんですか?」
「そんなわけないだろ。そんな時間なかったし」
何を馬鹿なことを、と思ったがひかるはその後も訝しげにこちらをチラチラと見てきていた。物心ついた頃からの付き合いなのに、どうやってひかるの知らないうちに経験を積むというのか。
今回取れたのは三塁側のファールゾーン、ホームベースからはやや遠い席だ。チケット代のことを考えると、俺たちのようにそこまで熱心でもない観客としては悪くない位置だろう。
球場では多数の飲食物が販売されている。俺たちも夕食にするために食品を買い込んで席に着いた。
ひかるは先ほど買い込んだうちの一つ、チュロスを口にくわえていた。細長い棒状のそれを一口食べると、満足げな顔をする。相変わらず甘いものが好きらしい。その様子をなんとなく眺めていると、ふいにひかるがこちらを見た。
「欲しいですか?」
「いや、そういうわけでは……」
「あーん」
「いやだから……ムグッ」
否定しようと口を開くと、むりやりチュロスを口にぶち込まれる。楽しげな彼女は人の話をまるで聞いていなかった。咀嚼しながら彼女の方を睨むと、俺の顔を見て笑っていた。
「あははは!怖い顔が膨れたお口で台無しですよ先輩!」
……こいつ。ひとまず、口の中のものを飲み込む。俺はひかるの柔らかそうな頬を摘まむと、グイグイと引っ張った。
「いひゃい!いひゃいです!離してください!」
痛がるひかるを見ているとなんだか俺も楽しくなってきてしまう。ああ、そういえば小学生の頃にもこんなことあったっけ。男児だったひかると今のひかるの頬の柔らかさは、同じくらいかもしれない。
「いひゃいですって!はなして!」
「お、悪い」
痛みにひかるが若干目に涙を滲ませていたので離してやる。……涙目でこちらを睨んでくる彼女の顔を見ていると、何かに目覚めそうだった。ぷりぷりと怒るひかるは、未だ少し涙を浮かべながらもこちらに命令してくる。
「ひどいです!お詫びにこのたこ焼きを私に食べさせてください!」
彼女の大きく開けた口に、たこ焼きを放り込む。その味に満足いったようで、先ほどまでの怒ったような顔から一転、楽し気な顔に戻った。チョロい。
ひかるとの雑談に花を咲かせていると、どうやら試合が始まったようだ。選手たちがグラウンドで躍動する。外野席からは応援歌が響き、球場は熱気に包まれた。
木製のバットが鈍い音を響かせるたび、球場には多数の歓声や溜息が溢れる。そして多数の注目を浴びる選手たちは、それをものともせず自分のパフォーマンスを発揮していた。
「プロってすごいですよね」
ひかるがぽつりと呟く。
「これだけのプレッシャーのかかる状況に身を置きながら、あんなに凄いプレイができる。……私が野球を続けていたとしても、プロになんてなれなかったかもしれませんね」
「……プロだって、一人で野球してるわけじゃないだろ。ピッチャーが困ったらキャッチャーが駆け寄る。同じだよ、俺たちと」
「そう、か」
投手のボールを打ち返し、木製のバットが鈍い音を立てる。客席に飛び込むファールボールを知らせる笛が鳴った。見上げると、頭上には白球。ファールボールは奇跡的な確率で、俺たちの方へ飛んできた。
「ひかる!」
何か考えている様子の彼女に声をかける。ようやく、彼女はこちらに飛来する白球に気づいた。
「え」
「伏せろ!」
ひかるが頭を下げる。俺はボールの着地地点へ左手を伸ばす。緩い弧を描いて飛んできたボールは、ひかるへと迫り──そして俺の手の中に収まった。おずおずと頭を上げたひかるが、俺の手の中の白球を見つめる。
「あ、ありがとうございます」
「大したことはしていない」
実際あのままひかるにボールが当たるかは微妙なところだった。
「先輩」
「なんだ」
「私、ボールが飛んできても手が出ませんでした」
「そうだな」
自分の頭上の白球を見つけたひかるは、ただ俺の声に従って身を屈めた。
「まあ、グローブしてたわけじゃないし、そっちの方が安全だったろ」
実際素手でボールを掴んだ俺の左手はじんじんと痛みを訴えてきている。硬式球など素手で取るものではない。
「先輩は、どうして私に屈むように言ったんですか?」
「……なんでだろうな」
一言名前を呼ぶだけでも良かったのに。どうして俺は彼女にボールを捕ってほしくなかったのか。
「先輩、ボール貸してください」
「ああ」
ひかるの小さな手が白球を掴む。しばらく手の中で遊ばすと、人差し指と中指でそれを挟む。フォークボールの握り。
「やっぱり、大きいですねぇ」
その呟きには、もう以前のような焦燥はなかった。ただ事実を確認するような囁き。彼女はこちらを見もせずに、俺にボールを放ってよこした。無回転のトス。
「先輩、私を守ってくれてありがとうございます!」
満面の笑みに、俺は少しも陰りを見出すことができなかった。