最終話 フォークボールが投げられない
いつかと同じ、夜の公園。俺とひかるは、飽きもせずキャッチボールをしていた。いつもなら軽口をたたきながらダラダラと続け、疲れてきたらやめるのだが、今日が違った。
「亨、座ってくれないか?」
「……本当にやるのか?」
ひかるからの、キャッチャーとして球を受けて欲しいという要求。以前の俺なら、嬉々としてそれを承諾しただろう。しかし、少し前のひかるの様子を思い出してしまう。山なりにしか届かないボールと、投げることすら叶わない得意玉。慟哭するひかるの様子はあまりにも痛々しくて、今でも鮮明に覚えている。
「今日で、最後だから」
「……分かった」
そんなことをそんな顔で言われては断れないではないか。キャッチボールで使っていたグローブをバッグに仕舞い、代わりに使い込んだキャッチャーミットを取り出す。左手に馴染むそれを携えて先ほどの位置に戻る。
その間、ひかるは地面を運動靴で掘っていた。軸足を嵌め込む穴を掘るその様子は手慣れていている。
「ストレート、いくぞ」
「来い」
豪快なワインドアップから、左足が大きく上がり、やがてこちらにつんのめるように倒れる上体。そして、遅れて右腕が振りぬかれる。
上級生相手に三振を取りまくっていた頃のひかるを彷彿とさせる、洗練されたフォーム。きっと沢山練習したのだろう。筋肉を失った状態で前のフォームを再現するのは難しい。いつかフォークボールを投げられなかった時よりも、間違いなく上手くなっている。しかし、そこから放たれるボールが、あまりに遅い。ミットを前に突き出し、できる限りの快音を鳴らす。
「ナイスボール」
心から、そう言う。いいボールだった。コントロールは正確で、バックスピンの掛かったボールは失速することなくミットに飛び込んできた。しかし、ひかるの顔色は優れない。彼女が目指しているのはこんな球ではないと、不満を露わにしている。
返球を受け止めて、足元をザッザッっと乱暴に掘る。
「もう一球だ」
先ほどと全く同じフォームから、球が繰り出される。そして、球速もまた、先ほどと同じだ。コントロールも伸びも、完璧。それでも、ひかるが満足することはない。
投げる。投げ返す。投げる。投げ返す。
二人の間には会話は生まれず、ただミットとグローブが白球を受け止める音だけが夜闇に響いた。完璧だったひかるのフォームが、徐々に崩れ出す。一球投げるたびに右ひじが下がり、次第に呼吸も苦しくなってきたのか、肩を上下させ始めた。
「もうやめないか、ひかる」
ポツリと呟いた言葉は、思いのほか響いた。彼女の動きがピタと止まる。やがて、大きく息を吐くと、俺よりも小さく呟いた。
「最後、フォークボール」
振り抜かれた右腕から飛び出した白球は、俺とひかるの間にポツンと落ちた。
「ひ、ひかる」
かけるべき言葉も見つからないままに、駆け寄る。いつだって、ひかるを励ますのは俺の役目だったのに。サヨナラのピンチでも、ノーアウト満塁の絶体絶命のマウンドでも、俺が声をかければひかるはすぐに立ち直ってくれるはずだったのに。フォークボールが投げられなくなってしまった彼女のことは、励ますことができなかった。
18メートルを駆け、俯いた顔を覗き込もうとする。どうすればいいのか分からなかったが、せめてひかるの顔を見たかった。しかし、ひかるの顔が突然上がる。その表情は、驚くことに笑顔だった。
「すいません、亨先輩。帰りましょう」
不安になるほどの完璧な笑み。それは、たった今夢が完膚なきまでに叩き潰された少女の顔としてはあり得なかった。
「それはいいけど……その、大丈夫か?」
「はい、心配してくださりありがとうございます」
声は陽気で、笑みを浮かべている。それでも、彼女の様子は俺を不安にさせた。
「本当か?その、無理すんなよ」
「心配性ですね、先輩は。……そんなに不安なら、私の部屋まで来てくださいよ」
「……は?」
それだけ言うと、ひかるは俺の前をずんずんと進んでいってしまった。
帰り道を無言のままに二人で歩く。いつもなら下らない会話を交わしているその道が、今はとても気まずかった。夜の街路に人影はなく、二人の足音だけがその場に響いていた。
しばらく歩きひかるの自宅までたどり着くと、こちらに手招きした。
「どうぞ先輩。挨拶は不要です。両親は今日不在です」
「あ、ああ」
有無を言わせぬひかるの様子に、大人しくお邪魔する。
ひかるの部屋は、相変わらず殺風景だ。何も落ちていない床に、綺麗に片付いた勉強机。ただ、今日は部屋の隅に置かれた棚のカーテンが開かれていた。いつかトロフィーとメダルが置いてあった、三段立ての棚は、どうやら野球用具の置き場らしかった。しばらく使われた様子のないスパイク、グラブのオイル。それから、使い込まれたハンドグリップ。
唐突に、前を向いていたひかるが振り返る。その瞳はこちらを真っ直ぐに見つめていたが、その内心を推し量ることができなかった。
「こっちです」
ひかるの腕が伸びてきて、俺の腕を掴む。意外に強い握力。無理に振りほどこうとすれば彼女を傷つけてしまいそうだった。だから、俺は急に腕を引かれても抵抗できなかった。
「うわっ」
されるがままに、ベッドに倒れ込む。二人分の体重の乗ったベッドが軋む。俺の下にはひかるの華奢な体があって、慌てて手を付く。彼女に覆いかぶさるような体勢は心臓に悪かった。きめ細やかな肌も、柔らかそうな唇も、今ならなんでもできそうだ。自分の内から湧き上がる微かな期待に声が震える。
「ひ、ひかる、その悪ふざけは止めてくれないか」
「ふざけてなんてないですよ」
その言葉は、蠱惑的とすら言えた。ひかるは掴んだままだった俺の手を引き寄せて、自分の胸に押し当てる。柔らかい感触が、右手いっぱいに広がる。
「私は抵抗なんてしないですから、好きにしていいですよ」
「……は?」
思わず、聞き返してしまう。俺たちは幼馴染で、親友のはずだ。ひかるの姿形が変わっても、関係性までは変わらないはずだった。
自分の胸に俺の手を押し当てたままで、ひかるがポツリポツンと言葉を紡ぐ。
「やっぱり、野球のできなくなった人生に価値なんて見出せませんよ。今の私には、何もありません。人生を捧げた野球を無くして、何のために生きるのか分からないですよ。だから、亨先輩が私の人生にもう一度意味を与えてください」
その声は無機質で、感情を感じさせなかった。
「い、今のひかるでも野球ができないわけじゃないだろ。それに、俺なんかがお前の人生の意味になんて……」
「なりますよ。一度は亨先輩の言葉に救われた気がしたんですから。でも、それだけじゃ足りなかったんです。──あなたのために生きるだけじゃ足りなかったんです。私のすべてをあなたに捧げさせてください。理想の彼女像でもなんでも演じましょう。この体を好きにしていいです。これでも手入れには気を遣ってきましたから。全部です。私の全部」
俺の腕を掴む右手の力が強まる。それは人生の意味を見失った彼女の、切実な懇願だった。おそるおそる、確認する。
「それは、今の関係のままでは嫌だ、ということか?」
「……はい」
少しの沈黙の後に、肯定する言葉が返ってくる。その言葉に嘘偽りはないように見えた。しかし。
「ひかるは、俺が好きなのか?」
「…………はい」
今度の肯定には、迷いがあるようだった。
「俺は正直、お前の好意がなんなのか、分からない。元からあった親友としての好意なのか、女になったお前の、恋愛的な好意なのか。……お前だって、分かってないんじゃないか?」
ようやく、ひかると目があった。その瞳はわずかに潤んでいるようだった。
「分かるわけないじゃないですか!俺がお前を好きだったことも、私があなたを愛しく思うことも、中途半端は私の本当の感情じゃないみたいで、どれが本物なのかなんて分からないんですよ!──苦しいんだよ!私にはもうあなたとの関係性くらいしか残っていないのに、それすらも分からない自分が嫌なんだよ!だから今ここではっきりさせたかった!私が女であることをお前に肯定してほしかった!」
いつの間にか、彼女の瞳は涙に溢れていた。分からないと嘆くその姿は幼子のようだった。俺は胸に当てられていた手を離すと、その両肩を掴んだ。
「少なくとも、俺は泣いている女の子に答えを迫るようなことをしたくない。──分からなくたって、いいじゃないか。だって俺だって分からない。ずっと男だった俺だって、分からないんだよ、ひかる。お前に抱く感情が親愛なのか、愛情なのか、それとも情欲なのか。でも、それをすぐにはっきりさせたいとは思わない。俺は、今の関係が好きだよ。昔と同じようにお前とキャッチボールして、たまの休日を一緒に過ごして、下らない会話をして。……それじゃあ、ダメなのか?」
恐る恐る聞いて、ひかるの濡れた瞳を見つめる。
「……今のままでも、私を必要としてくれるんですか?」
「当たり前だろ。何年一緒にいると思ってるんだ」
「……そう、ですか」
ひかるは俺の背中に手を回すと、俺の体を抱き寄せた。
「ひ、ひかる、まだ答えは出さなくてもいいって……」
「少しだけ、このままでいさせてください」
体の下にひかるの体温を感じる。それがどこか落ち着く気がして、抵抗せずにそれを受け入れることにした。
「先輩。私、フォークボールはもう投げられなくて良いかもしれません」