それぞれの罠
気付いたとき、まず目に入ってきたのは、四方から注ぐオレンジの光・・・。その強い光の下では、全てがオレンジに染められ、かえってモノクロの世界にいるような錯覚に陥る・・・・。
西姫は、光を乱反射する壁に囲まれた中に、椅子がひとつあるだけの部屋に通されていた。ナトリウム灯の光が部屋を満たしている。正面のスクリーンのはるか上に窓があり、そのあたりに人の気配が動く。ただ、西姫のいる部屋を覗き込む者はいなかった。
目の前のスクリーンには三角形・六角形、それが円へと滑らかになる…、それが歪むと∞へと、そして回転・・・・周期的に変化する図形がエンドレスで繰り返されている。彼女は背もたれのある椅子に後ろ手に縛られ、そんな図形のスクリーンを強制的に見させられていた。鳴沢は、時々部屋の中に入って来ては西姫の様子を見る。何かの変化を待っているように見える。
「さて、西姫。今から質問をする」
「なんでしょうか。持ち出した書簡については、すでに廃棄したと申し上げたはずです」
「書簡は、廃棄したとお前が言っている場所から、まだ見つかっていないがね」
「でも、廃棄したのですからそれ以上は証言のしようがありません」
「何度も同じ質問と答えを繰り返すのかね。まあいい、それにも飽きた。今回は、書簡のことではない。お前の心のありようについてだ・・・・。何度質問しても知らを通すつもりらしいので、お前の心のありようを検査させてもらうよ」
鳴沢は西姫の心の抵抗を抑え込み、その中を見通そうと渦動結界を濃厚にしながら質問をつづけた。
「お前は逮捕される前に監禁されていたというが……、お前を保護した林康煕の話では、拘束されて幽閉されていたようだが」
「はい、それは林康煕にも話した通りです」
「お前、私をだませると思っているのか? お前は私の眷属だぞ!」
それでも西姫は心の奥底に思いを秘めた。自分自身さえ騙すように自己暗示をかけた。
「報告したこと以外、私には何も存じません。危ない目に遭った私を、そのようにあしらわれるとは、どのような考えからそのようにご判断なさるのですか?」
「殺されていないのであれば、お前を捕まえていた奴はお前に何らかの思いを持っていたと考えられるな」
「私を捕まえていた者・・・・」
西姫は危うく心に僕の面影を浮かべてしまうところだった。だが、西姫が心の奥底を隠し通せたにもかかわらず、鳴沢は詰問の調子を変えなかった。
「西姫、いや、九尾狐よ。私は商伽羅、サゥヴァ。この世を統べる摩醯首羅。大天使アザゼルぞ」
「やめてください」
鳴沢は素手で西姫の首をとらえ、空中につるし上げた。西姫は恐ろしさのあまり九尾狐に変化しながら尻尾で身を隠そうとする。鳴沢は畳みかけるように声を太くした。その声を発するとともに、鳴沢は龍の姿で九尾狐の首を捕まえていた。
「お前には、お前を捕まえていた者に対する思慕がある。無駄だ。そのような大切な相手への思いは隠せないものだ。お前は、レッドカトリックの教えを完全なものにした、と言ったな。そうだ、お前はあの捨て去られたはずの古代書簡を読んだゆえ、お前の思いがさらに強くなったようだ。ならば、お前のその思いを捻じ曲げてくれるわい」
西姫は抵抗したが、容赦なく心にねじ込まれてくる鳴沢の声の渦に、気を失った。
・・・・・・・・・・・・
西姫の意識は、ぼんやりとしていた。自分の名前、自分の声、自分の思考、そして周りの人間たち、目の前の怪物・・・・・。何がどのようになっているのか、明確に考えることができなかった。何か…儀式のような、そうだ、礼拝と呼ばれる帝国の宗教儀式・・・・見慣れているはずの儀式でも、いま周囲で執行されているものは特別の儀式に違いない。しかも司式者は鳴沢…。西姫は窮地に立たされている予感がした。
「林正煕、あなたは権西姫を妻として迎えるか? 帝国の礎たる摩醯首羅に誓うか?」
「はい」
林正煕と呼ばれた若い男は、18歳の青年。面影もしぐさも雰囲気も、若いころの林康煕とよく似ている男だった。
「権西姫、あなたは林正煕を夫として迎えるか? 是なれば帝国の礎たる摩醯首羅の前にて沈黙を以って答えよ」
結婚式なのだろうか。鳴沢、つまりアザゼルが目の前にいるためか、過去の生の記憶がよみがえる。それは九尾狐である自分が西姫として第七の生を受ける前の記憶だった。火の煬帝国を支えた藻姫(クヴィル第一生)、土の煬帝国を支えた妲己(クヴィルの第二生)、金の煬帝国を支えた褒姒(クヴィルの第三生)、水の煬帝国を支えた女嬌(クヴィルの第四生)、木の煬帝国を支えた阿紫(クヴィルの第五生)、そして、今、最後の煬帝国を支えている西姫(第六生)は、そして、来るべき最後の生は魔女となって帝国と命運を共にすることになる。すべては摩醯首羅たるアザゼルによって操られる人形のような人生を何度も繰り返す…・・。今は、また鳴沢ことアザゼルによって欺瞞と謀略に満ちた結婚を繰り返そうとしていた。
今はここで何かを言わなければ…。そう思うものの、西姫は心の奥底に疼く反駁を意識化できていない。結婚する二人を前にした鳴沢は、西姫の心の動きを察知し、干渉力を強くした。そのせいで、西姫は夫が林正煕であることが記憶にねじこまれ、それまで愛したもの、愛した家族、いまでも愛し続けているはずの者の記憶をすべて封じられてしまった。
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「司令長官、間宮海峡の砕氷哨戒艦から緊急連絡が入っています」
杭州府の参謀本部の中、艦隊司令部に隣接する一角に、新しくしつらえた帝国軍司令長官執務室があった。そこに鳴沢が戻ると、側近たちが慌てて駆け寄ってきた。
「何事か?」
「特殊形状の船が多数、海峡を越え、アムール川を遡上中」
「特殊形状?」
「はい、おそらく天草から大量に脱出したカトリックの民たちの船団だと思われます」
「そうか、昔の潜伏キリシタンの奴らだな。いままで帝国の辺境で目立たない奴らだったから捨て置いたのだが、今になって帝国に反旗を翻し、そして逃げ出し始めた・・・・。おそらく、残りの書簡も奴らが持ち出したのだろう。」
「そうみて間違いないと思います。船団を構成する艦艇数は30ほどです」
「おのれ、私を出し抜くとは・・・・いや、やつらを封じ込めて撃滅できるチャンスだ。艦隊司令部に伝令。艦隊の最大戦力をもってそいつらを追わせろ。これは新たに司令長官となった鳴沢の命令だと言ってな」
慎重に西姫の記憶を操作する礼拝式を終えたばかりの緊張から、鳴沢は少しばかりいらだっていた。ちょうどその時に、まんまとカトリックの民に逃げられたという報告を受けるほど、怒りを覚えることはなかった。彼はいままで誰かにことごとく出し抜かれたことを疑っていたが、この段階で確かに出し抜かれたと確信したらしい。
「このはかりごとは工作員の仕業に違いない。この私に死角を生じさせるとは…誰なのか…。大天使ミカエルか? しかし、天使どもの気配は一切感じられなかった。まさか、あの秀明か?」
鳴沢にとって、ケデロンの谷で見えた僕は決して油断のならない教え子だったのだろう。その僕に思いがいったとたん、鳴沢は艦隊司令部に伝えた命令を変更した。
「命令を追加する。司令長官の旗下にある最新鋭の近衛艦隊群を追随させろ。敵は油断ならない相手だぞ」
「しかし、近衛艦隊まで繰り出すことになれば、ほぼ主力艦隊の全部を使うことになります。主力艦隊はわれらのトラの子です。それを丸ごと繰り出すことは、危険です」
「敵の規模が分からないときには、最大戦力で当たるのが常道だ」
こうして鳴沢は全てを見通せないことにいら立ちつつ、作戦行動をとらせていた。
僕は黒箱舟船団の後に何らかの追想者を想定していた。それは僕の予想とは違た帝国艦隊の砕氷哨戒艦であり、此方を観察できるほどの距離の近さまで来ていることに驚いた。僕は慌てて、船団の航路を再検討する必要を感じると、パードレ、マードレや天草の長老たちと相談し、今後の策を相談した。相談して達した結論は、陽動と隠密。それは、彼らとのしばしの別れを意味した。
「大多数の艦船をサハリンの東の入り江に隠したうえで、僕が一人で空の箱舟を使い、電磁気学的効果によって、多数の船団に見せながらアムールを遡上します。そして皆さんは・・・・・ここで皆さんと僕とはお別れです。皆さんは僕の合図とともに東へ、ベーリング海の東へと、そして啓典のたちの土地コロンビア南北連邦へと逃れていってください。そして、『荒らす憎むべき者』との戦いの時が来たことを世界に知らせるのです」
新月となったその夜、僕が操艦する一隻を光学的に数十隻の幻影に増幅させアムールへと遡上していった。その急速な動きに慌てたように、砕氷哨戒艦がアムールを遡上してきた。哨戒艦の姿が消えたのに合わせて、のこりの黒箱舟たちは夜の闇と氷の流れとに乗りながら、サハリンの東岸の入り江に消えた。
哨戒艦はやはり帝国艦隊を呼び寄せていた。帝国の艦隊が来ることは当然なのだが、それらは主力の全艦隊。それほど、カトリックの民の持ち去った古代書簡集は、鳴沢や帝国の指導者にとって都合の悪いものであることを物語っていた。
僕一人を乗せた船は、アムールの中央を遡上した。僕の使った複合光学効果によって、哨戒艦には凍りつつあるアムール川を、多数の船が遡上する姿が見えつづけていただろう。哨戒艦の報告によって帝国艦隊は多数がアムール側を遡上し始めている。僕にとって驚きだったのは、帝国主力艦隊に追随するように、鳴沢の近衛艦隊までもがアムール河口へ入りこもうとしていたことだった。当然、僕の狙いは近衛艦隊の最新鋭艦たちとなった。
鳴沢が長官を務めていた陰陽太一局の研究機関は、この最新鋭艦によって、以前はオンゼナのみが使用していた移動可能な結界を実現していた。おそらく神邇たちでは実現できなかった移動可能な結界を、移動機構に内蔵した渦動機関の太極によって増幅または発生させるのだろう。
つまり、近くに、結界を生じさせる力を太極に注ぐ神邇たちがいれば、彼らを太極とともにそのまま運ぶ手段も実現しているメカニズムである。もしくは、神邇たちが近くにおらずとも、鳴沢やもしくは遠隔地にいる神邇たちの広範で強大な結界が展開されている領域であれば、その結界を増幅して結界を強めてさらに展開させることも可能になっていた。
移動可能な太極として考えられるもの。僕の経験では、ある結晶構造のガーネットであるはずだった。産地の一つは、帝国領内だったカムチャッカ半島の火山地帯。そしてその時に僕は知らなかったのだが、アラビア半島のハジャル山地やアカバの近くも、有力な産地だった。特にアカバ近くに産する岩石から得られる橄欖石は、重力龍ドラクレアの魔力濃縮力を有していることで、従来のガーネットの二十倍の増幅率を持つに至っていた。
これらの結晶は、地球外核付近から上昇するマントルプリューム中で、橄欖岩の結晶構造が変化する際、禍々しい力によって魔石となったガーネットであろうと思われた。色もおそらく緑黄色・・・・。通常の魔石であれば、アザゼルの眷属龍バラウルによる力の影響を受けたものである。この力にさらに、重力龍ドラクレアによって圧力を加えたことによって、結晶構造を永遠に維持できるようにマントル中で圧力が加えられているものだった。
いまや、それを大規模に実現した最新鋭の艦隊。おそらく、帝国のトラの子だろう。僕は注目せざるを得なかった。
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「鳴沢司令長官、哨戒艦より連絡。多数の特殊形状艦船がアムール川上流へ差し掛かっています。わが艦隊は最大戦速にて追いつく見込みです」
「近衛艦隊より連絡。河口より上流一面には氷結しつつある川面が確認できます。先行する艦隊の報告通り、敵特殊形状艦船を氷漬けにできそうですね」
鳴沢は、成り行きをほくそえみながら来ていた。だが、そのあとの報告を聞いて、鳴沢は怒りのあまり龍の憤怒の姿までさらしていた。
「哨戒艦より連絡。わが艦隊は敵特殊艦隊を足止めし、氷漬けにしました。もうすぐ臨検に入ります。・・・・申し上げます。敵艦隊は・・・・敵艦一隻のみ。わが全艦隊はアムール川に閉じ込められました」
「サハリン北端灯台より・・・」
鳴沢は怒りのあまり報告の声を遮った。
「サハリン北端灯台? なぜそんなところから報告があるのだ・・・・しまった」
「…サハリンの北方からベーリング海、アリューシャン列島に沿って逃げていく大船団を観測しました」
「特殊形状船団であると思われます」
「近衛艦隊に追わせろ。彼らの最大戦速であれば、追いつけるはずだ。いいか、オホーツク海を出る前に捕捉しろ」
「報告・・・・です。近衛艦隊も、アムールの氷結につかまっています」
「なんだ。なんだと? 何が起きている?」
鳴沢は怒りと戸惑いに、そして激情にもかかわらず、考えをまとめつつあった。その考えは、鳴沢にとって苦く、受け入れがたいものだった。すなわち、鳴沢は、初めて宇喜田秀明の策に嵌ったことに気づいた。
こうして、僕と天草の民たちは帝国から古代の隠された書簡を持ち出し、逃げおおせることができていた。それは、帝国に対して拮抗する力を預言によって周囲に与えることを意味する。それが引き起こす事態は・・・・鳴沢、帝国の礎たる摩醯首羅、大天使アザゼルの存在を脅かす力を生み出し、帝国全体に行き渡る渦動結界に対抗する周囲世界の啓典の民たちに反撃の機会を与えることになる。それは不気味な末法の姿であり、オバデアの予言、黙示録の成就を暗示するうごめきだった。
そんな悪夢のようなひらめきが鳴沢の背中を初めて脅かした。それは焦りを生み、失敗を続けさせた。
「陸上部隊を東北区へ送れ。北京から北の東北区、シベリア区を奪還することはできなくても、われらの活動を支えられる補給線を形成できればいい。」
アムールとその近海は冬の季節を迎えていた。陸上部隊による補給路構築の結果は面のような広がりはなく、単に線で点を繋ぎとめているだけの心もとないものにしかならないことは明らかだった。