エクソダス
星明りだけの黒い海面。僕の目指す船団は全て灯火管制の下にある。島影を黒く映し出す空の星空の淡い光の幕屋。その幕屋に、船影もまた黒く浮かぶ。僕は、その黒い影をひたすら探した。やっと見つけた一隻。それが五島列島 宇久島の北端に浮かんでいる。それが僕の目指した船体だった。
波を立てないように静かに泳いでいく。足ひれと小型モーターのみが頼りの遠泳だった。
「掴まれますか?」
船員が海面まで階段を下ろし、最下段から白い棒を差し出した。
「ありがとう」
すでにエンジンが始動し、極低音の振動が大きくなり始めている。
「さあ、急いでください。この海域も危険なのです」
通された狭い船室。着替えを済ませて船橋に上ると、そこに例のパードレがいた。
「パードレ、あなた方にお預けしたあの書簡はどうしたのですか?」
「すでに先行する船団に託してあります。でも、西姫さんはどうしたのですか。一緒ではなかったのですか」
「彼女は、残りました。僕たちが逃げ切れるように…・・」
「そうですか。彼女は帝国で最高ランクのアサシンですものね。私たちと一緒に来ることが出来なかったのでしょう。やはり、それは帝国に対する裏切りなのでしょう。でも、なぜそれほどまでに帝国に尽くすのでしょうか」
「僕にはわかります。彼女は帝国と言うものが体にまとわりついて離れないのです…・」
纏わりついて離れないという表現は、適当ではない。むしろ、彼女自身が帝国を支えてきた存在であると言える。
「帝国に大きな音があるということでしょうか? それなら、彼女は私たちを告発することもできたのに・・・・。どうして、私たちの脱出を助けてくれたのでしょうか」
この問いは僕の心を引き裂いた。僕と彼女の心は、互いに愛し合っていることを知っているがゆえに、彼女の心が引き裂かれていることも分かっていた。
「彼女の中に帝国である部分と、私とあなたたちに属する部分とがあってせめぎ合っているのです。それ以上は言えない・・・・」
僕はパードレにそう答えると、進路を真っ直ぐに睨むようにして航海士に質問した。
「帝国艦の動きはどうなっていますか?」
「すでに今、此方に向かいつつあります」
パッシブレーダーには、すでに海域を離脱し始めたいくつかの船が見える。そして、南の海域に帝国の武装警察を派遣した数隻の艦隊の影がこちらへと動き始めている。今は、一刻も早く海域を抜け出すときだった。僕はそれを見つめながら提案をした。
「確かにそうですね。彼らの動きを予測して動く必要があります」
僕ののった船のみが、僕を待って出発を遅らせていた。その遅れを挽回するには、彼らの裏をかく必要があった。
「これを手に入れてきました。そう、これは彼らの作戦図です。彼らは必ず私たちの船団を追ってくるはずです」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
司教区から連絡を受けたその夜、各地区の民たちは沈黙の闇の中であわただしく動いていた。深夜になると、潮が引くように各地区から人々が消え、パードレや長老たちもまた各地区の退避状況を確かめつつ暗闇に消えていった。その際、最後となった大江軍浦のパードレが僕と西姫の許に寄ってくれた。
「随分準備がいいんですね。あっという間に皆がいなくなってしまうとは…」
「私たちは、この時が来ることを覚悟していました」
「どういうことですか」
「こうなることを、私たちは知っていました。それは前もって皆の心の中に知らされていたのです」
「知っていた? でも、これからどうするつもりなのですか?」
「原城跡の地下には、先祖たちががいざという時のために大型の黒箱舟をいくつか用意してあるのです。」
パードレによれば、その夜のうちに、崎津や大江軍浦など天草の各地区の民たちが、静かに原城跡へ集まるということだった。その規模を考えると、彼らが無事に逃げおおせるには何らかの工作が必要だった。
「パードレ、この書簡集を預かり、先にアークで出発してくれませんか。私たちも後ほど乗船ポイントである五島列島の北端 久保島の海上に向かいますから。」
僕と西姫は、失われた啓典の古代書簡集をパードレに預け、天草市の殉教公園に向かった。そこから、天草港に上陸した帝国の武装警察を観察するためだった。
風が港から声を運んでくる。
「全員整列。各部隊報告せよ」
アサシン林康煕の声だった。
「全員揃っています」
「各部隊はそれぞれ地区に分散し、対象となる人間を残らず逮捕せよ」
アサシン林康煕の狙いは明らかに天草各地のカトリックの民たちだった。明らかに工作がなければ、原城跡に逃げ込んだ民たちが見つかってしまう。
「秀明、ここで二手に分かれましょう」
「どうするつもり?」
「貴方が林康煕を挑発してちょうだい。ここにいるはずのない貴方が目の前に出ていけば、彼は驚くはずよ。そして彼は必ず貴方を捕まえようとするわ。武装警察を動員してね」
「それで君はどうするんだい?」
「じゃあ、わたしは残った武装警察をひきつけましょう。彼らの狙いは、私をかくまったカトリックの民たちね。だから私自身がいれば、捕まえようとするはずよね」
「どうするつもりだ? まさか、残るなんて言わないよね」
「あなたがおとりになるだけでは武装警察は海上に向けて出てしまうわ。陸にまだ残党が残ていると思わせなければ、あなたは逃げられないわ。だから、武装警察を陸に引きとめておくためには、私がおとりにならないとだめよ」
「それで僕が逃げろというのか?」
「そうよ」
「だが、君を置いて行けというのか」
「違うわ、私はあくまで帝国側の人間よ。しかも、最高ランクのアサシンなのよ。だから平気なの。でも貴方は帝国の敵。だから、ここで二手に分かれるの・・・・」
「いや、それでは君が僕を逃がしたように見られてしまう。あのお御堂の中に君を縛って監禁しておくよ。そうすれば、僕やカトリックの人たちが君を監禁していたと考えさせることになる」
「それで・・・」
「そのうえで、すべてのことを僕が仕組んだと耳打ちするんだ。そうすれば、海に出たとしても武装警察や帝国艦の皆は、僕を追うことになる」
「わかったわ。」
僕の目が西姫の目を覗き込んだ。これで別れれば、再び会えるのはいつになるのだろうか。その思いが二人の間に激情を生んだ。二人だけの熱病のような一瞬。交わしたキスが懐かしい熱情を呼び起こす。そしてディープな快感が衝動を増す。それが二人を互いに呪縛のように縛り付ける・・・・。
しかし猶予はなかった。僕は、なお僕との接吻を止めようとしない西姫を縛り、お御堂の宿直室に閉じこめた。
「これ、ゆるゆるよ」
西姫はうるんだ眼を僕に向けながら指摘した。しかし、きつくは縛れなかった。
「そうだけど、時間もないし……」
「そうね、なんとかごまかすわ」
「西姫。元気でな」
「あなたも……」
・・・・・・
港や天草市内はすべて灯火管制をしていた。武装警察が動きやするするためだろうか。港では暗闇の中に波の音が聞こえる。
スウェットスーツに着かえたら、もう陸上を歩く服は不要だった。冷たい空気を感じながら、港のはずれに行くと、用意してあったボートがある。このまま逃げ出してもよかったのだが、サボタージュ工作をさらに重ねる必要を感じた。
桟橋には、帝国のいくつかの艦船が係留されていた。その一つ一つにボートを近づけ、船尾のスクリューに鎖を絡ませていく。すると、一つだけ大きな指令設備を持った船があった。これが旗艦なのだろう。
作戦計画図、それが欲しかった。指令所のボードに概要図が掲示されている。ここから初めて天草全土に部隊を展開させるのだろう。それを読み取っていると、後ろから声がかかった。
「だれだ?」
そこには禿げ頭のアサシン林康煕が怪訝そうな顔をして一人立っていた。驚いているというより、怪しんでいるといったほうがよいだろうか。敵か味方か判別できていないらしい。黒いスウェットスーツでは誰だかわからないのだろう。
「林康煕、久しぶりですね。」
「俺の名前を知っているのか。上官を呼び捨てにするとは失礼な奴だな。どこの部隊の人間だ。」
「独立の行動者です。」
「独立? 今の時代にそんな奴はいない。今はすべてが組織化されている。アサシンであれば配下に兵隊たちがいるはずだ・・・。お前、何者だ。」
康煕はそう言いながら、僕の顔をじっと眺めていた。
「お前、宇喜多秀明だな。」
そういった途端、外からの兵士たちが駆け込んでくる。彼らは艦橋の当直士官たちだった。
「お前ら、こいつを逮捕しろ。」
僕はその言葉と同時に数人を引き倒して外に飛び出した。
「じゃあな。」
響き渡る警報、遠くからの駆け足の音に、階段を駆け上がる足音が重なる。大勢の兵士たちがこちらへと殺到してくる。艦首へ追い詰められた僕は海へ飛び込むしか道はなかった。
飛び込んだ後の周りには、多くの怒号が聞こえる。深く潜りつつ、ボートへと静かに這い上がると、複数の探照灯が僕を照らした。
「あそこにいるぞ。」
周りには、見知らぬ神邇達の結界がいくつも展開している。不利だった。すでに康煕が力を発揮できる舞台が整っていた。
「速く脱出しないと…。」
「相手はあのボートだ。撃沈しろ」
「急げ。」
陸上からのみならず、複数の船から十字砲火が浴びせられ始めた。
「霊剣操…」
小さく諳んじながらボートを射程外へ。その航跡波めがけて複数の弾頭が降り注ぐ。僕の発する霊剣操は響き渡っているものの、アサシンたちの操作で弾頭は次第にボートに届き始めている。さらに、すべての艦船が動き始めていた。
「ほとんどの部隊が僕を追い始めている。これで時間稼ぎができる」
やはり艦船群は動きが鈍い。サボタージュが効いている。ボートはもうすぐ湾外に出られるところまで来た。
その時、遠く五島列島から打ち上げられた花火が大きく響いた。
「全員乗船完了。」
僕は、追ってくる艦船を従えながら、ボートを自動操縦とさせたまま、沖へ出た。思ったより時間を要したものの、帝国艦は全てがボートを追って南へと出ていった。こうして、やっと取り決め通り五島列島のランデブー地点へ向かうことができた。
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武装警察は、各地区でローラー作戦を始めていた。その際に武装警察隊は拘束されていた西姫を保護した。それもあって、西姫の狙い通り、康煕たちアサシンは、僕が再び陸に上がって西姫を狙うとみて、躍起になって天草一帯を引き続き調査し続けた。他方、武装警察は、西姫を杭州府へ連行していった。
鳴沢は、西姫を質問攻めにした。彼の眷属であるはずのクビルすなわち西姫が、彼の知らないところで勝手な真似をしたことに、戸惑いと怒りとを覚えていた。
「西姫 なぜ書簡を見つけ出し、持ち出したのだ。さては裏切ったな」
「いいえ、私は書簡を持ち出し、この国から書簡を捨て去ったつもりです。なぜ残していたのです。私はそれらを処分し、レッドカトリックの教えを完全なものにしたのです」
この時の商伽羅は、目を妨げられていた。長らく天草に目を向けなかったのと同じように。
「天草でそれが古来からの書簡であったことを確認したのです。それが有ると無いとでは、教えに大きな違いが生じます。私たちの教えでは、空であること、むなしいことを明むることによってこの世における苦しみにこだわらずに生きれば、輪廻の中で何回も生きることができるはずです。それを、古い書簡は否定しています。これがあってはならない教えでなくて何でしょうか・・・。私は、確かに夫ともにいました。しかし、この教えの違いで彼とは決定的に相いれないのです。それが彼に知られ、私は幽閉されたのです」
この説明は理にかなっていた。鳴沢は納得するしかなかった。鳴沢はその傲慢さゆえに見えなくなっていたものが徐々に増えていた。