冬の日
「私がおとりになるわ。私が捕まれば、とりあえず時間を稼げるから。しかし、ここに来るアサシンは康熙よ。貴方を裏切り者として非常に憎んでいるわ。多分、このままでは貴方の気配を見つけてしまう。だから、今は逃げないとダメ!」
僕は西姫を残して、脱出したカトリックの民と共に、沖の船に乗り込むしか選択肢はない。夜に響くヘリの音。時間はなかった。
………………………
僕にとって、そして西姫にとって、家族であることを取り戻したいと願いつつ過ごした半年だった。だが、愛娘の絶姫が戻るはずもなく、そうであれば不安定な日々はやはり崩れ去る時が来た。
冬が近づいたある日の夕刻のことだった。この地区のパードレが、地区の外れにある我が家へやってきた。
「おばんです」
「おや、パードレ。どうしたのですか」
パードレの顔が戸惑いと緊張にこわばっていた。
「司教区から秘密の連絡があって....」
彼は声を少し震わせながら僕たちに尋常でない事態を伝えた。
「明後日、帝国香港のレッドカトリック本部から監察使がやってきます。そして、帝国の武装警察まで来ることになっています。西姫。貴女を逮捕するためかもしれません」
「逮捕するって....なぜ....」
逮捕とは穏やかではなかった。僕と西姫は顔を見合わせた。
夜、季節風が海を騒がせていた。波の割れる音以外は何も聞こえない深夜となったころに、辺りが寝静まった寝具の中で、西姫はようやく語りだした。
「私・・・・香港へ調査に行ったことがあるのよ。そこにはレッドカトリックの本拠地があって……。そこへ行ったことで本部を驚かせたからかしら……」
「君は、その本部へ突然に押し掛けたのかい?」
「私はレッドカトリックのメンバーよ。いつだって行けるわよ」
「国術院の卒業生レベルが調査のために直接行くのかい。僕がいたころは、通常、依頼をして専門部署に任せていたものだよ。」
「今でもそうだけど…。直接行ってもいいはずよ」
「それは権限外だったはずだぜ・・。しかし、そんな程度のことで逮捕されるかなあ。」
「たしかにそんな小さなことではないわね。とすると、失われた啓典について調べたことが問題だったのかしら」
「失われた啓典?」
「そう、奥の奥の書庫・・・・なかなか書庫全部を自由にさせてくれないから、少しの間鍵を借りて自由に歩き回ったのよ。」
「カギは正当に借りたんだよね。」
「少しの間だもの。非公式・・・・いや、黙って秘密に・・・・だったわ。」
「それだけではあまり大きな問題ではないね。」
「そうでしょ。ただ・・」
「ただ?」
「閉ざされていたエリアに、まさか・・・・さらに奥があったのよ。今まで何回か行ったことがあるのだけれど、その時だけ、ふと気づいた奥の奥の場所だったわ」
・・・・・・・・・・
香港のレッドカトリック本拠。西姫は、秘密書庫の奥に入り込んだ時、その時だけ気づいた石の扉を見出していた。
「今まで気づいたことのないところね」
・・・・僕の記憶では、そこは今まで意図的に巧妙に隠蔽されていたはずの穴蔵だった。その扉を開けると、そこには本の本隊から切り離されたような書簡集が隠されているという。ジェネシス、それは聞いたことのある書簡だった。しかし、そのほかのエクソダス、ジョシュア、ヨブ、イザヤ、エレミヤ・・・。西姫が天草でいくらかなじんだことがあるものの、公式には習ったことも見たこともない文書類だった。だが、それらがまさか禁書として隠されるような文書だったとは・・・・。
「誰も入り込まないところにあったから、持ち出しても気づかれないわよね。ちょっと借りるだけだし…。」
西姫はそう独り言を言いながら、自らのカバンの中に無造作に収めてしまった。こうして西姫はそれらをそのまま天草まで持ってきていた。
・・・・・・・・
次の日の朝、昨夜来てくれたパードレを家の狭い部屋に呼び込み、西姫は僕とパードレにだけ古い書簡を見せてくれた。
「秀明、それからパードレ。その時の書簡を見せてあげるわ。」
僕はそれらを読んで何のことかわからなかった。いや、すっかり忘れていたのかもしれない。
「これらが何を表すのかねえ。」
パードレは、驚いたように僕たちを見つめながら指摘した。
「これらは、今でも私たちが大切にしている部分です。これをレッドカトリックは捨て去っていたのですか?」
「多分、失われた古代の啓典ね。『残りの民』たちを再び集めるための・・・・・」
西姫はそう指摘した。それを聞いたパードレはひどく困惑した顔をした。
「これらは、私たちが今でも大切にしている啓典です。それをレッドカトリックは隠ぺいしていた。いや捨て去っていたのでしょうか。とすると、これらが明らかになることは彼らにとって都合が悪いこと、帝国を揺るがす事態なのかもしれませんね。」
僕は、その言葉に恐怖を感じた。西姫が持ち出したものは、公になってはならない書簡だった。しかも、それらをずっと堅持してきた長崎のカトリックの民たちは、レッドカトリックのみならず帝国にとって、あってはならない存在ということになる・・・・。
僕は一言答えた。
「レッドカトリック本部がこの事態を知ったということは、帝国政府もこの事態を把握し、しかもすぐに対処しなければならない危機的なことなのでしょう。ということは、カトリックの人々すべてが、ここから逃げ出す必要があります。ここの民たちは、すべて啓典に言う『残りの者たち』ということになるからです。」
この指摘にパードレは、はじめから覚悟していたかのように受け止めていた。
「わかりました。脱出の準備をしなければなりません。監察使の後に、帝国の手がここに伸びることになるでしょう。」
パードレを見送った僕に、西姫が話しかけてきた。
「それから、あなたも逃げて。あなたこそ、この事態の元凶とみられているわ。あなたが帝国から絶姫の側についたときから、あなたは帝国に敵対したのよ。あなたがここにいることが分かったら、この事態をあなたが引き起こしたと、帝国は考えるわ。帝国のアサシンたちは、私があなたを愛してしまっていることを知っているわ。だからこそ、帝国のアサシンたちはあなたを憎んでいるわ。さあ、あなたは私の愛する人。逃げてちょうだい。そして、あなたはこの書簡を彼らとともにあなたが持って行ってくれない? これには確かにレッドカトリックが捨て去った大切な記述が多くあるわ。レッドカトリックなどによって帝国が成立した時に、誰かが意図的にこのように処置したに違いないわね。レッドカトリックは、何か大きな間違いをしているわ。今はどんなことかわからないけど…」
「わかった。僕が持っていくよ。でも、いつか君もこれらの書簡の意味するところを知るべきだよ」
「私にはそんな資格はないわ。その書簡集はあまりに神々しいもの。私が汚してはいけないもののように思えるの」
「そんなことはないよ。君がこの書簡を見つけたのだから。つまり君自身がこの書簡と遭遇することは必然だったんだよ。だから、君自身が学ぶべきところ、知るべきものだよ。僕たち人間一人一人にとって、自由と慈愛を溢れさせてくれるはずだ…。自由と慈愛は最後の審判の時の免罪符となる・・・」
「その最後の審判・・・それは輪廻転生を崩壊させる事態よ。帝国の守ってきた渦動結界と輪廻転生を崩壊させるなんて・・・・・。私は帝国の礎。帝国を裏切ることはできない。私は帝国自身なのよ…」
その言葉の意味することは、僕にって西姫が妻であること、愛する女であること、絶姫の母親であることを、すべて否定することにつながりかねなかった。重苦しい絶望という沈殿が、僕の心を満たし始めていた。
レッドカトリックの監察使は一通り集落の中を見て回るだけだった。しかし、カトリックの民たちが逃げ出したその夜に天草一帯を急襲したのは、雪の舞う海域を封鎖する戦闘艦隊の黒い影と、アサシン林康煕と新たに結成された武装警察の兵士たちだった。