ジブチの廃墟 1
晩秋の昼間、澄んだ空気であれば、僕たちが進む焦げた茶色の山脈がアカバ湾と並行していることがよく分かっただろう。暗闇で見えないはずの細い道が、この岩山に沿って続いているという。僕とタエだけでは到底歩けない夜の闇の中を、ジベタの民たちは狐とともに歩んでいく。
「あの声は狐なの?」
「そう、啓典にあるように、狐には必ずねぐらとする穴がある。彼らを先導させれば、俺たちも昼にねぐらとする場所を見つけることができる。ゆえに俺たちは狐を同行しているのだ」
タエは説明を受けても返事をしない。それほど集中しなければ足を踏み外してしまう。
「前が見えないわ。どこに足を進めればいいの?」
タエが不安そうに声を上げる。僕も同感だ。こんな暗闇でジベタの民たちはよく歩みを進めることができる。そんな考えを見透かすかのように、ジベタの民たちがくすくすと笑う。彼らのことをあらかじめ見知っていなければ、暗闇に響く薄気味悪い笑いになっているだろう。
「前を行く人間の足音をよく聞いてくれ。その足がけった音の場所に足を下ろす。そうすれば安全だ」
「そんな器用なこと、できないわ」
「啓典を読んだことがないのか。目を見開き、耳で聞く。それが道を見出すことになるべ」
タエは少し怒ったように無口になった。
放牧の民である此処のジベタの民たちは、牧羊と夜の闇での防衛のために、狐たちを飼いならしていた。この時も、はるか先を行く狐たちが僕たちの先を行きつつ、細い道を先導しているらしい。静寂で冷たい空気のはるか先で、ときおり吠える声が聞こえる。この先は安全であることを知らせているらしい。
星明りの山道から遠くを見ると、乾季の大気の向こうに長い明かりの列が見えることがある。旅客列車なのだろう。そのあとに続く貨車の音から見ると、旅客の車両につなげられた貨車も長大であることが分かる。帝国がアジアからアフリカ、そして欧州に至るまで敷設した鉄道。鉄道の周辺には、神邇たちの存在が感じられる。彼らの結界が鉄道線路を守るように覆っている。帝国が大陸一帯を完全に支配していることを意味している。やはり、帝国が全ての戦いに勝利し、この世のすべてを覆い尽くしているのだろうか。
それに対して、ジベタの民たちは 昼は木陰、岩陰で休み、夜になってから道を進む。ジベタの民たちは帝国が支配するようになってから、このように活動するようになったらしい。それは、帝国にジベタの民たちの全容を把握させないためであるらしい。それほどジベタの民たちはどこまでも広がっているらしい。
十数日の移動後、岩山の道は急峻な斜面を降りるようになった。暗闇に波の音が聞こえてくる。その近くのモカと言うところに、小さい自然の入り江があるという。その先のムラードでは、帝国がジブチ攻略の際に用いた港湾が今も使われているということもあり、帝国を警戒しないわけにはいかなかった。
「あの入江は、われらのものではなく、エチオピアの啓典の民、つまり漁民たちの退避場所なのです。すべて、話はついています。今夜の闇にまぎれて船を出してもらうよ」
「ありがとう」
「あんたたちの未来は俺たちの未来だからな。だから助けたんだぞ。だから・・・・必ず未来を、希望を…」
彼は言葉を詰まらせた。それほど儚い希望だった。それほど小さな希望だった。
「みなさん、ここまでありがとう」
僕とタエはこう言って小さな船に乗り込んだ。
船の船長は無口だった。だが、どこへ行くかをすでに理解しているようだった。船は、真っ直ぐに対岸へ進んでいった。そびえたつ岩の壁が近づいてくるにしたがって、岩の上にある星が照らす廃墟が見えてきた。
「ここ、見たことがあるわ…」
「僕もそうだ。いや、この光景は見たことがある…海から近付いていくのは二回目・・・・そう、ジャクラン司令に僕の艦隊到着を報告した時…。しかし、足りない。やはり足りない。いや、無くなっているんだ、そうか・・・・やっぱり旅団は全滅したのか…・」
「ジャクランはどうしたのかしら…」
「ジャクランも…旅団のみんなも、全ていなくなったんだ」
「アキー、旅団は全滅させられたのよ…。そして、60年経っているの…・・。もう、何もかも遠い昔に、無くなってしまったのよ」
ジブチは、確かに破壊され尽くしていた。それも、60年も前に・・・・・。
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「ジブチの要塞跡に登っていくのかい?」
その老人はジブチの海岸線まで船で載せてくれた。オモロ族の老人だと名乗る彼は、そう言って僕とタエを見つめた。
「あの要塞跡は呪われている…・。能力がないなら行かねえほうがいいが・・・・・」
老人の声はかすれつつあった。
「あの辺りには何かがある。入っていった奴は、なかなか帰ってこれねえ。それでも何とか帰ってきたやつはいる。…帰ってきたやつは、皆同じことをつぶやくんだ。蒼白な顔をしてな・・・・『あそこに入り込んだ時、変な声が聞こえ始めるんだ。その声の主を探しちゃいけなかった。でもな、探し始めるよな・・・・そうすると、破壊されたばかりの建物がいくつもあるところに出る。そこにはたくさん死んだやつがいた。そいつら、さっきまで生きていたような顔をして仰向けになっているんだ』とね」
僕とタエはそれが神邇による渦動結界であることを直感した。
「そこに行ったことのある誰かを紹介してくれませんか」
「そんな奴は、生き残っておらんよ」
「どうして? どういうことですか」
「そういうやつはいずれも自殺した」
「え?」
「彼等は、皆、歳を取らねえまま帰ってきた。だが、そのころには家族たちが死に絶えている。帰ってきた家は廃墟か、崩れ去っているんだ。周りには見知った奴が居ねえらしい。それが心の闇に重なって、絶望するらしい」
「絶望して…・誰もが、ですか?」
「いや、一人はいるが・・・・生きてはいるが、絶望の中にいるためか、無言のままの男だ」
「絶望は、あきらめを経て輪廻転生へ迷い込ませる帝国の支配の現れです。帝国では、全ての人が稼働結界の中で輪廻を繰り返し、あきらめを悟って闇に沈み込んでしまいます」
「闇? それは何だ? ゲヘナなのか?」
ゲヘナと言う用語を聞いたとき、僕はこの老人がただ者ではないと警戒した。
「ゲヘナ…ではなく、生きたままの地獄と言えるでしょう。例えば、輪廻転生の繰り返し、無気力、むなしさ、孤独感・・・それ等は絶望と言えるものです。帝国では、全ての人間がその中に閉じ込められて、寂静の中に封じられているのです」
「すべての人間が…・。じゃあ、帰ってきたやつらは帝国の闇に、絶望に閉じ込められるているっていうのか」
「いいえ、ジブチから帰って来た彼らは、絶望に捉えられながらも多少とも耐えてきたはずです。彼らにはその忍耐があった。それゆえ結界の中で練達を得て、その練達が多少とも希望を生んでいるはずです。だから、絶望の中でも生きている人がいるなら、その人に会わせてほしいのです」
老人は、半分呆れまた怒りながら浜辺の漁村の民家に入っていった。そこは、長い間だれも住んでいないはずの廃屋だった。そこに、一人の青年が佇んでいた。
「おい、イドリース」
彼のあきらめきった顔から、絶望しか彼の心の中に残っていないように見えた。
「イドリース、お前はこの家の住人だといったよな」
老人はそう言って彼を僕たちの前に連れてきた。
「この家には、はるか昔に一人息子を失った老夫婦がいたんじゃ。十年前に二人の老夫婦が亡くなってからは、無人だった。そこに彼がひょっこり来たんだよ。彼のいうには、三十日ほどジブチのあの場所からから抜け出せなかったそうだ。彼は、ここの息子だというんだ」
彼は確かに絶望したままのように見えた。僕は、彼に掛ける言葉がなかった。