死海の古文書
次の日の夕刻となった。洞窟は再び夕闇の中に溶け込んでいく。少しでも明かりのあるうちに、僕は絶姫としっかり話し合わなければならなかった。
「絶姫、お前、俺の認識力に干渉できるのだろう? 西姫を忘れさせてくれ」
「何を言いだすの? 何を考えているの?」
「お前はお前自身を西姫と認識させたことがあるだろう」
「え? そんなことは・・・・」
「僕がお前を西姫と思い込ませたことがあった。それが今も尾を引いている。だから、西姫を忘れてしまえばもう罪を犯すことが無くなる…・」
「え? どういうこと?」
「このままでは、僕はお前を抱こうとする罪深い行為に走りかけてしまう」
「でも、私もあんたが好き・・・・。あんたしかいないのよ。私には・・・・」
「僕は父親だよ」
「あんたがそう言っているだけよ」
「お前にそのクルスを送ったのは僕だ」
「そんなこと、ほかの人が送ったことと、たまたま符合しただけよ」
「僕は父親だ」
「そんなこと、信じない」
「信じていないのか? わからないのか? 僕はあんたの父親なんだぜ。ここでは、互いに罪を犯してはならないんだ」
「じゃあ、なんで同年齢なのよ。『偶然だ』っていうの? 今は、同じ思いを持っている若い男女にすぎないわ」
「いや、僕にはわかるんだ」
「いやよ。もう私は耐えられない」
「頼む。それはやめてくれ。そして、僕に西姫を忘れさせてくれ」
「だから、私を見て」
「そういうことじゃない。僕の記憶を操作して元に戻してくれと言っているんだ」
「わかったわ。私が忘れさせてあげる」
「そ、そういうことじゃなく…・」
絶姫はそこの言葉を遮るように再び僕に身を晒した。それも、目をしっかり覚ましている僕の目の前に。彼女は、再び悲嘆にくれた若い娘の涙目を僕にぶつけてくる。僕は感情の高ぶりを抑えつつ、ただ一つの望みを欲した。
「ああ、キリエレイソン。啓典の民として、残された民として、御言葉を・・・・」
その時、僕の寝かされていた床の下に異物を感じた。起き上がって床を払うと、そこにはあの神殿トカゲがうずくまっており、羊皮紙を咥えて鎌首をあげていた。ボロボロの羊皮紙。おそらく、この洞窟に隠されていた古代の啓典の写し……。その文書を広げると、部分的に読めるだけのもの。それは死海文書の切れ端だった。
「あなたは私が示す地に行きなさい」
「あなたの行く手に立ちはだかるものはないであろう。私は、モーセとともに居たようにあなたとともにいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」
神殿トカゲは書かれているそれらの言葉を語り始めると、羊皮紙が共鳴をし始めた。さらに、その共鳴が絶姫の首に掛けられたクルスを光らせる。それが絶姫の心を冷やし、僕の高ぶりを抑える。その時二人に聞こえたクルスの発する言葉は、光となって僕と絶姫への働き掛けを始めた。次第にその声の響きが遠くなる。
「悩み多き男よ。あなたは秀明から聖戦士アキーと名を変えよ。そして誤りの多き女絶姫よ。ジャクランに係る希望を捨ててはならない。そのために、あなたは絶姫からトゥアエと名を変えよ。・・・・・さあ、聖戦士アキー(Hakeem)とトゥアエ(touaille)よ、あなた達は私が示す地に行きなさい。あなた達の行く手に立ちはだかるものはないであろう。私は、モーセとともに居たようにあなたとともにいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」
これらの言葉が、夢うつつのまま終わった時、僕と絶姫の中で何かが書き換えられた。
目覚めた時、僕は聖戦士アキーとなった。そして、僕の傍にはどのように処したのか、思いを閉じ込めてアサシンの姿勢をとったタエが座り込んでいた。
「アキー、目が覚めたかしら」
「トゥアエ…言いにくいなあ、タエと呼ぶのがいいかな」
「アキー、あんたもそして私も何かを背負わされているのかしらね」
「あの光で、声で僕たちは心を置き換えられてしまった」
「そう表現するのがいいかしらね」
「そうだな。じゃあ、タエ、ここを出よう」
僕は、タエのクルスを光らせた羊皮紙を首の包みに収め、立ち上がった。
外へ出た僕とタエは、外のまぶしさに驚いた。それほどまでに僕とタエは昼を、いや外の明るい世界を忘れていた。死海は再びの春の朝日の昇る中、光を反射している。そのきらめきに、僕は目をしばたいた。外はすでにハマシーニの砂嵐の季節を終えていた。
「アキー。私たち、動き始めないと、ね。」
「この洞窟が、いやこのあたり一帯が強い渦動結界に覆われているんだな」
「ここを抜け出せれば、また時を取り戻せるのかしら」
「わからない。結界を出ればまた時の流れを取り戻せるだろうが。しかし、もう六十年もたったというのだろう?」
「そう、私たちの所属していた旅団もどうなったのか・・・」
「僕たちは、まず状況を調べよう。それから対策を考えよう」
僕たちは、死海の谷ののぼり坂を上がっていくと、やはり結界は薄くなっていく。ここを脱出すれば、再び僕たちは時の流れに合わせることができるはずだった。
帝国が神殿の丘を占領して以来、パレスチナの一帯からは人々が全て逃げ去っていた。僕らは何らかの食べ物を得ようと死海から南へと無人の領域を歩いている。街と思われたところは全て廃墟だけのゴーストタウン。唯一人のいるところは、以前タエが潜入した帝国人たちの街。盗み出した食べ物は、乾燥レーズン、オリーブの実、干からびたパンというものばかりだった。それでも、無人の荒野を南へ進んでいく僕たちには、その食べ物だけが頼りの心細い道行きだった。
夜、月明かりがあればよかったのだが・・・・新月の時期なので、頼りない星明りを頼りに南へと進む。朝を迎えれば、太陽を避けるために岩陰に逃げ込む。太陽が昇り始め、岩陰に休む僕たちの目に映るのは、黄土に染まった山々に囲まれた盆地。樹木はおろか、草さえ見えない乾燥しきった砂漠。いつまでこの光景が続くのだろうか。
一週間ののちに、ペトラの黄土の山々と砂の山の向こうを下がっていく方に、深い藍のアカバ湾が見えて来た。ようやく僕たちはアカバの街に来ていた。そこには、岩山の上に巨大な要塞があり、そのふもとに多くの「レジデンス」と言われる宿泊施設を伴ったリゾート都市があった。そこに、啓典の民たちがいればいいのだが・・・・・
町の外からうかがうと、レジデンスを出入りする者たちは、白の半そでシャツに半ズボン。占領地でリゾートを満喫している人々だった。黒いヒジャブのタエと、アマーマを被ったトーブ姿の僕とは、明らかに様子が異なっている。そして、彼らは、民間の帝国人ばかりでなく、岩山の要塞の兵士たちや事務官たちなのだろう。彼らは人種的にはインド人をはじめに、漢民族、東瀛人と言う煬帝国を構成する帝国人ばかりだった。そうであれば、漢民族の血筋のタエや東瀛人の僕も、彼らと同じようにリゾートの格好をすれば、彼らの中で違和感なく歩き回れるだろう。彼らと話をすれば、何かわかるかもしれない。
僕らはそう考え、リゾート地にふさわしい服装を整えることにした。
夜も更けて払暁近くになって、リゾート地の街並みはようやくは眠りにつこうとしている。その時んなって、僕らはリゾート地に店を構える一軒のブティックに忍び込むことができた。
「アキー、その半そでと半ズボンでいいのね。露出していた顔だけ日焼けしているわね」
「タエも、似たようなものだろうが・・・・。そんな露出の多い服装にするのか?」
タエはスリーブレスに短めのスカートを選んでいた。僕は疑問を持ちながらも、それ以上タエに何も言わなかった。
僕たちは、朝にならないうちに、レジデンスの立ち並ぶ通りを歩き始める。すると、朝の道路の脇に店を構える喫茶店を見つけることができた。そこには、数人の帝国人たちが朝食を楽しんでいる様子だった。彼らの雑談から、何かがつかめるかもしれない。
そう考えながら、僕とタエは隅のテーブル席を選んだ。そして、聞こえてくるのはどうやらこの街の支配階級に属する帝国人らしかった。
「お前、この前もジベタの女に手を出したんだって?」
「ああ。アーティカと言う名前だったかな。あいつらは追い詰めると必ず『いつか、必ず』と言って目を閉じるんだぜ。絶望しかない状況でも心を閉じれば苦しまないとでも思っているらしいぜ」
「何をしたんだ? お前、まさかその女の体に手を出したのか?」
「ああ、浅黒くて、筋肉質だったなあ。相当抵抗されたがね。嫌がるんだったら、街を出ればいいんだよ。でもそれはできないはずさ。ここの周囲は帝国のトランシルバニア総督の力の根源たる魔石の産地、いわば総督の根拠地だ。あいつらが生きていくにはこの街の中、俺たちの街の中で働くしか食べ物を得られないのさ」
「今はその辺でもうやめとけよ。いくらここら一帯をを支配しているからってな。今、ここペトラのアカバ要塞には、杭州府から出張って来た林聖煕とかいう欧州方面軍司令の筆頭アサシンが来ているらしいぜ」
「だから、やめておけとでもいうのかよ。そんな堅物の軍人が、こんなリゾート地に来るわけないだろ!」
ちょうどそのテーブルに、浅黒い男が注文された食事を持ってきた。
「おぎゃくさまごすずぃのとおり、お持ちしますた」
帝国人たちは、その男を一瞥して嘲笑しながら返事をした。
「ちゃんと喋れないのかよ。お前たちはろくに言葉も話せないのか?」
「もうすぃわけあでぃませんですだ」
「ああ? 何を言っているんだ?」
「お前らジベタの民たちは、やっぱり言葉を失ったようだね」
そう言われた浅黒い男は、怒りを目に浮かべた。
「旦那さんたち…たすぃかにおれぃたぢは、御言葉を失っただよ。でも、必ず、おれぃたちをいかすぃてくださるありがたい方が、ここを取り戻しに来てくださるよ」
「へえ、いつだよ」
「いつか、必ず・・・」
「出たぜ、そのフレーズ。アーティカとか言ったかな、あの女もそう言って耐えきっていたなあ」
「旦那さんたち・・・・アーティカに何をした…」
浅黒い男は突然怒りに顔を震わせ始めた。それに驚いた帝国人たちは慌ててテーブルから立ち上がった。
「なんだ、お前、俺がこの街の最高指導者であることを知らないのか」
「『さいくおしどおしゃあ』? そんなお偉い方が、おらのアーティカを生きるしかばねにしたんか? ひでえことを・・おらの娘に・・・・・」
彼は激高のあまり、帝国人たちの首を締めあげた。と同時に警備中の帝国兵たちが殺到し、浅黒い男はたちまち床に組み伏せられた。
「旦那さんたち・・・・あんたら…おらの、おらの・・・」
「ジベタの分際で私にこんな真似を・・・・。衛兵、このジベタをすぐ銃殺しろ」
衛兵たちは、暴れるジベタの男を後ろ手に締め上げながら連行し始めた。
「おらの・・・おらの… おらの娘を」
彼の悲痛な叫びは大きくなり、それは大きな嘆き、叫び声となった。助けを求めるような彼と目の合ったタエは我慢できずに立ち上がり、衛兵たちにとびかかった。その時、入り口から老年のアサシンが入ってきた。
「お嬢さん、ここで暴れてはいけないよ。衛兵、どうしたのかね、何事かね」
「は、いま、この街の指導者様に危害を加えようとしたジベタの男をとらえたところです」
「その男かね。泣き叫んでいるではないか…」
ジベタの男はまだ泣き叫んでいた。
「おらの、おらの娘はもう目を開けてくれねえんだ…、おいらのアーティカを生きるしかばねにしたんだ…」
その声を聞いたアサシンは、ジベタの男の顔を覗き込み、その次の瞬間、先ほどの帝国人たちに向かって眼を剝いた。
「最高指導者が何をしたのかね、帝国人たるお前たちは何をしたのか、と私が質問しているのだよ」
帝国人たちは恐れをなして顔を伏せている。しかし、アサシンは怒りを納めなかった。
「衛兵、ジベタの男を放してやれ。そして、この帝国人二人を要塞の私の事務所まで連行しろ」
喫茶店はようやく静けさを取り戻した。そしてアサシンは静かに食事を始めている。長居は無用だと感じた僕は、タエを急き立てて帰ろうとした。
「そこの二人、帝国人なのだろ? 私が誰だかわからないのかね。鳴沢様の根拠地であれば、だれでも私の名前を知っている者だと思っていたが・・・・」
この時、衛兵の一人が戻ってきた。
「聖煕様、先ほどの男たちは、この街の最高指導者でした」
「ありがとう。あとで厳罰に処すことにしよう」
僕たちは「聖煕」という名を聞いて、少しばかり驚いた。
「やっとわかったかね。君たち、おかしな帝国人だな」
僕たちはそれを聞きながら無言で喫茶店を出るしかなかった。