モアブの地の逃避行
六星老人、いまや大天使長ミカエルと言うべきだろうか。彼によって差し示された洞窟は、死海の東側の崖の中腹。絶姫は、重い傷のために気を失っている僕を苦労して運び上げた。だが、瀕死の僕の傷をどうすればよいか、絶姫には答えがなかった。ただ、なんとか敵の目から逃げきり、僕と僕の持っている包みを旅団の拠点もしくはジャクランの許に送り届けることだけを考えていた。
「信頼できるジャクランなら、なんとかしてくれる」
絶姫は今、ジャクランの安定した表情とどっしりとした印象を思い出していた。
・・・・ファザコン気味の絶姫にとって、ジャクランは幼児から育ててくれた父親のような存在だった。絶姫と同程度の年齢の名ばかりの父親、秀明とは違い、どんなときにも絶姫を受け入れ、包み込む優しさと強さを持った、男の中の男だった。今、頼れるものは、旅団本部のジャクランしかいなかった・・・・
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鳴沢はいらだっていた。僕と絶姫とが六星老人の導きにより、死海の付近のどこかの洞窟に潜んだことは把握していた。しかし、鳴沢や帝国アサシンたち、神邇たちの眼の前には、死海周辺の洞窟が無数に確認出来ているものの、僕と絶姫の隠れた洞窟はいまだに発見できていなかった。
鳴沢は、神殿にあった何かが旅団と啓典の民達の未来に関わる秘密であることを直感してきた。それを、鳴沢は僕達を探し続けてきたのだった。だが、いま、僕と絶姫とがそれを持ち出したため、自ら神殿の丘に居座り、シリアからシナイ半島に至るまでの一帯を帝国の支配下に置くとともに、死海からモアブの地に至るまでを埋め尽くすように強い結界を発する神邇を配し、鳴沢自身の発動する強力な結界と重ね合わせて彼らの神域を最大限に強めた。これによって僕と絶姫とが隠れ潜んでいる可能性のある無数の洞窟を、全て強い結界で封じていた。
こうして二人のいる洞窟とその周辺は、一日が一年となるほどの強い神域に閉じ込められた。
これらの結界が完成した時、鳴沢は自らに誓いを立てて決意を固めていた。
「その啓典とやらの、歴史的遺物を持ったまま隠れているなら、永遠に時の牢獄へ閉じ込めてやる」
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「湿気だわ!」
絶姫は洞窟の奥から流れてくる微かな湿気に気づいた。
“泉があるのかしら。そうなら彼を介抱することができるかもしれない”
絶姫は秀明を岩盤の上に寝かせ、ブランケットを掛けながら洞窟の奥を見つめた。しかし、明かりの差し込まない暗がりには、湿気以外何も感じることができなかった。
「父上、この洞窟の奥へ行って見るわ。少しばかり、ここで休んでいて」
気を失ったままの秀明を置いて、絶姫は篝火を頼りに洞窟の奥へと進んでいった。
「奥の方が湿気が強いわ。地下水の匂いが感じられる」
絶姫が篝火で照らしつつ洞窟の奥へと進むと、暗がりの奥から水の滴る音が響いてくる。泉があるに違いない。さらに進んでいくと、幸運なことに洞窟を下へと降り切ったところに、澄んだ大きな泉が奥深い地下空間を占めていた。
「これなら、ここの水で父上の傷の治療ができる」
洞窟入り口にとって返すと、絶姫は秀明を再び背負って洞窟の奥へ、下へと降りていった。
地下の泉のほとり、百平米ほど下ったところにひろがる踊り場に秀明を横たえると、絶姫は一通りの手当てを始めた。手掘りで秀明の体近くに窪みを作り、そこに水を導きいれる。絶姫は、そこから水を掬いあげては傷に掛け、清めるしぐさを繰り返す。絶姫が秀明の介抱をしている姿は、慣れない手つきながら熱心だった。
その夜、外は砂漠地域特有の極寒が襲った。水辺の傍に寝かせられた僕は、傷による発熱に加え、寒さによって体温を奪われつつあった。ブランケットを何枚も重ねてもらったのだが、僕の衰弱は増すばかり。絶姫は身を挺して素肌に素肌を当てがい、僕の体力を維持し続けてくれた。
こうして、傷の手当てはその後も続いた。僕は傷と感染症とによって発熱と悪寒が幾日も続く。僕が癒えるには日数を要した。さらに心の傷は、手当だけで癒されるものではなかった。意味ありげに続く悪夢は、西姫の血だらけの姿が霧のように薄まり、四散していく姿。それが何回も繰り返される。
絶姫によれば、僕は「西姫」の名を何度も繰り返すだけだったと言う。それでも、十日ののち、やっと熱は下がり、峠は越えたと言っていいほどには回復していた。
いくらか回復すると、この時に僕が見る夢は、熱にうなされていた時とは違って西姫との具体的なやり取りになった。悪夢と言うより、悔恨の夢と言ったほうがいい。
「西姫・・・・・」
「僕は、力がなかった。何もわかってなかった。また繰り返してしまった。僕は存在すべきでなかった。僕のせいだ、僕のせいだ」
「僕を亡き者にしてくれ。殺してくれ。僕が代わりに死ぬべきだった。僕は最初からいなかったほうがよかった」
うなされているとしても、単にうわごとのように繰り返し名前を呼ぶのではなく、夢の中で叫ぶその言葉、つまり悲嘆と言い訳と悔恨と絶望とがそのままま次々に言葉となっていた。自らの声で目覚めつつあるときに、僕はいつも祈りを口にするしかなかった。
「ああ、僕らのいくべき道を示したまえ。・・・」
絶姫は、そんなときの僕を心配して毎回のぞき込んでいた。
「ああ、西姫」
悲嘆の夢のゆえに、僕は西姫を失った現実を受け入れられず、僕は娘の絶姫を抱き寄せようとした。暗闇の中でまだ自由の利かない僕は、何かに取り憑かれていた。毎日、毎夜、目に入った絶姫を西姫に見えてしまうことに苦しんだ。まだ本当は正気を取り戻してはいなかった。
「だめです。私は娘ですよ」
僕には聞こえなかった。初めこそ僕は無力であり、絶姫も僕を抑えることができたのだが………。リハビリと共に力が戻ってきていた。ただ、目の前にいるのが西姫に見えたのだ。やがて、僕は絶姫を抱き寄せるほどの力が戻った。慌てた絶姫だったが父の腕力に叶わない。僕自身が絶姫の胸の振動と首にかけたクルスに気づき、やっと思いとどまる。抱き寄せた時のにおいは西姫ではなく、間違いなく絶姫のそれだった。その繰り返しを何度も何度も何度も。
「なぜ、おまえが・・・・」
「ダメです。私です。絶姫です。・・・・」
この繰り返しの日々が続いた。
「父上、持ち出したものは何なのですか…・」
僕が西姫との悲嘆の夢にさいなまれているとき、絶姫は僕の意識を未来へと引っ張るために、そうささやいた。彼女はそう言いながら、僕の首に下げられた包みを広げる。それは古代ユダヤ語で書かれたパピルスの文書。そして洞窟に来た際の大天使ミカエルの言葉だった。
絶姫はその包みの意味を考えた。神殿において、本来あるべきところの聖櫃安置所の後ろの壁の、控えの洞にしまわれていた文書。借用証のようなものでは、と絶姫は推定した。そのときには絶姫に分からなかったのだか、貸し出されたものは、神殿に本来安置されているはずの十戒を入れた啓典の聖櫃ではないか・・・
そこまで考えが及んだ時、僕と絶姫は、この洞窟に導き、洞察を与えてくれた六星老人、つまり大天使ミカエルを遣わしてくれたその啓典の主に感謝した。
こうして六十日の間、僕は絶姫によって解放され、慰められ続けた。僕の栄養源は全て絶姫が苦労して集めた物だった。タンパク源のイナゴと、野蜜、時折カラスの運び入れるパン。そして湧水を使ったスープ料理。これらの栄養源によって僕は養われていた。
僕はようやく病床から起き上がり、歩行のリハビリをはじめた。そろそろ、この洞窟から出て旅団の本拠地へ。僕らはそう考えた。その夜、絶姫は帝国の動きを探るために、近くの帝国の街へと潜入を図った。
暗闇にまぎれて忍び込んだ守備兵室で絶姫が聞いた話は、彼女にとって衝撃だった。
「ここの指揮官として、欧州方面軍筆頭アサシンの林聖熙様が来るんだとよ」
「こんなところにか?」
「なんでも、トランシルバニアの鳴沢総督の許に派遣される途中らしい」
「わざわざ好き好んで鳴沢総督のところへ行くのか?」
「なんでも、鳴沢総督のお気に入りの魔女クァレーンが聖煕様を欲しているらしい」
「それだけで、呼び寄せられているのか」
「それだけじゃない。聖煕様はご尊父様ご母堂様の慰霊にここを訪れるんだとよ」
「慰霊の旅かあ」
「なんでも、60年前にご尊父様の林正熙様と、御母堂様の権西姫様が、旅団の工作員に殺されたんだと。」
「えー?」
「彼は、国術院を首席で卒業するほどに国術を極めたそうだ。もう旅団は壊滅したし、彼らの本拠地も粉砕された後なんだが。鳴沢総督はまだ手に入れていないものがあるらしい」
「じゃあ、伝説の霊剣操を極めているのか?」
「そうらしい、その力でもって、まだ征服を完遂していない欧州の辺境を征服し尽くすそうだ」
「ここは新指揮官様には因縁の地らしいな」
潜入先で絶姫が知ったのは、すでに外界は60年を過ぎ、帝国はアフリカと欧州を征服しつつあり、他方旅団が壊滅状態であることだった。そのとき、絶姫の頭の中に浮かんだのは、あのころすでに年老いていたジャクラン。そのジャクランがおそらくこの世にいないと考えられるほどの年月だった。そして、おそらく旅団の仲間たちも・・・・。その孤独は絶姫にとって耐えられないことだった。
その後すぐに、絶姫は洞窟に帰った。暗闇の中、絶姫は灯りもつけずに独り言を繰り返していた。
「もう、60年もたっていたなんて・・・・・。幼い時に経験した時の速さ。旅団は滅びた………愛したジャクランは、もういない。周りは全て帝国に征服されているなんて・・・・。もう、私を助けてくれた仲間たちもいない。孤独な私に残されたのは、この世に父と言い張るこの人だけ・・・・」
暁が近くなるころ、絶姫は寝ている僕を異様に長く見つめていた。
「こんな頼りない男・・・・。この人が父親? 違うわ。そう言いはっているだけの同年齢じゃないの! それに、私を見てくれるのは、もう、この人しかいない・・・・」
そう言うと、絶姫は寝入っている僕に身を晒した。
「西姫………。」
僕ばやはり意識が混濁した状態だった。僕はされるがまま。絶姫は熱に浮かされたように…。二人は蝋燭だけの暗がりの中で熱に浮かされるかのように身を寄せ合った。だが、この時、僕は絶姫の揺れる胸に、光るクルスの揺れを見て我に帰った。それは幸運だった。僕はずれ落ちたブランケットを取り戻し、絶姫の体を覆って押し留めた。もちろん、父娘が互いにそれを相手に求めることは許されることではなかった。
だが目の前で嘆き悲しむ絶姫をどう扱えばいいのか。僕自身が最愛の女を失ったこと、ましてやその原因が自分の罪深い行いであることに、打ちひしがれている。同じ悲しみにある者同士なら、互いに傷を舐め合うことになってしまうのだが、今の僕と絶姫とでは、また過ちを犯しかねない。悲嘆に暮れて身を晒した若い娘の涙目が僕を見上げた時、病み上がりの僕は戸惑うばかりだった。