ケデロンの攻防
ジャラールの目に、眼下の闇に散らばる光点の広がりが映る。それは、ケデロンの谷から神殿の丘の城砦を囲む敵軍の膨大な布陣だった。
「地元の住民も、周辺の国々の人間たちも逃げた後だから、神殿の丘はもうこれで孤立してしまったな」
それを聞いた僕は、ペルシア人部隊の雰囲気が心配だった。
「ペルシア人部隊は、浮足立っているんじゃないのか」
「それはない。部隊のペルシア人たちもビアクトラのパシュトン人たちも、俺たち工作員の言葉を信じてくれた。俺たちは、残りの民と預言された啓典の民たちだ。確かに未来は見えない。孤立している。逃げ道もないように見える。だが、ぎりぎりまで待つんだ。必ず道は開かれる」
僕は、彼の確信に満ちた言葉に励まされた。
神殿の丘へと至る道と崖。以前の戦いのときに焼け残った城壁と神殿は、夜の闇と同化するほどの黒焦げを残したまま、そびえたっている。
「敵軍、動き始めています」
僕の思考はそこで中断された。
………………………
鳴沢は再び立ったケデロンの陣営で、神殿の丘を眺めていた。
「今回は見つけなければならない」
鳴沢にとって、啓典は一切謎のままだ。
「捕虜たちが言っていた・・・・旅団と彼らの側の民たちは・・・・『啓典の民』であり、啓典とは彼らによれば救済なのだと言うが・・・・。帝国の是とする輪廻転生から人間たちを脱落させようとする動きだ。そんなものが救済だというのか。………………『啓典は救済として創造主の霊感によって記されたものだ』と、捕虜たちが言っていた。『その元である掟の石板は、救済を人間たちに最初に教えたものであり、創造主によって直接に記されたものだ』とも言っていた。旅団の奴らばかりでなく、帝国を支えるレッドカトリックや、長崎にいたカトリックと言われる集団がもつ書簡も、同じようなことを伝えているように見える。それらに共通する伝承は、『奴隷の家からの解放』だと言う。今考えると、カトリックの書簡集も啓典と呼ばれるものなのだろう。そんなものが帝国内にまで入り込んでいたとは。そんなものがあるから、人間が輪廻転生から迷い出てしまう、そして帝国の是とする輪廻転生をつかさどる俺のタブラカス結界が危ういものになってしまう。・・・以前に神殿の丘を占領したときには、啓典の元となった石板があるはずなのにその神殿は空っぽだった。なんの手がかりもなかった。創造主の神殿であれば、啓典の主が直接にその指で刻んだという『掟の石板』があるはずなのだが、前回の占領時には神殿の中には見当たらなかった。太古のユダ王国の時代に持ち去られたに違いない・・・・それなら、持ち去られた際の何らかの手がかりが欲しい」
鳴沢は思考を中断させられた。林康熙が司令官席の前にドカドカと入り込んできていた。
「師匠、全軍包囲網を確立しました。神殿はもはや我々のものです」
「まだ手に入ってもいないものを、見込みで言うな。それで、どのように攻め立てるのか?」
「旅団の防衛組織は工作員とはいえ、少数です。一気に攻め上がりましょう」
「わかった、任せる。ただし、神殿は破壊してはいかんぞ」
「はい」
帝国は、四方から神殿の丘に迫りはじめた。中でもワディアリジョズの坂を登ろうとする帝国軍陸戦部隊と、神殿の丘を死守しようとする旅団工作員部隊のゲリラ戦は、激しかった。僕たち旅団側の工作員は、散在する墓所の洞穴に潜み、通過した帝国軍の背後を襲い、城砦からの落石と共に城壁に取り憑く軍勢を谷へ落とす。その活動だけで、そのあたりの帝国軍通常兵力は初めから薄かったこともあり壊滅した。隣接する城壁間際では、ジャラール指揮下のペルシア人元傭兵部隊と帝国本国軍がぶつかり、帝国軍陸戦隊を粉砕していた。
そして、満を持したように帝国アサシンが前面にでてきた。
「ジャラール、下を見ろ。帝国のアサシン部隊が、例の金剛腕盾を抱えて前進してくるぞ」
「ああ、わかっている。俺たちには吹き颪の剣がある」
「いや、安心できないぞ。吹き颪の剣が効かない場合があったではないか。結界の源である神邇達が見当たらない。このままでは敵の結界を没滅できない恐れがある」
「ああ、わかった。警戒しておこう」
帝国のアサシンたちは、おそらく国術院の卒業生たちと在学生をかき集めたのだろう。見かけは帝国陸戦部隊と比べても隊列を組めないほど少ない人数だった。しかし、彼らは明らかに周囲に結界を幾重にも重畳させつつ前進してくる。それを見つめていたジャラールは、僕たち最前列の工作員に向けて、声をかけた。
「第一列、吹き颪の剣をかざせ。第二列、結界消滅とともに敵アサシンへ突撃。第三列、第四列も突撃用意」
一斉に上がる僕たちの鬨の声。一斉に天からの息吹がアサシンへと吹き下ろされていく。その次に結界が消える…はずだった。しかし吹き颪の剣は結界に何の作用も起こさなかった。やはり、結界を生む神邇たちは近くにいなかった。逆に、地に散乱している短剣や小銃、機関銃が一斉に宙に浮かび、僕たち工作員へ刃を向けた。
「ジャラール、いけない。引っ込め」
「わかった!。全員城塞内へ撤収!」
僕たち工作員は、猛烈な銃弾と刃の雨の下、城壁の中にこもるのが精いっぱいだった。城壁に激突する銃弾と剣の轟音が一段と強まる。僕は、ジャラールたちに向かって大声を上げた。
「このままでは、城壁が突破される。君たちはここを脱出し、ジャクラン司令の元へ撤収しろ。ジャラール司令の下で防衛線を構築しなおしてほしい」
「秀明、君はどうするんだ?」
「僕には絶姫がいる」
「どうするつもりだ?」
「僕たちはここで待っていなければならないんだ」
「何を? え? 誰を? 」
ジャラールはそのやり取りに面くらった。たぶん、僕の思いつめたような目つきに何かを感じ取ってくれたのかもしれなかった。
「ジャラール。お願いがある。ここを脱出したら、ジャクラン司令に伝えてほしい。これからの戦いが僕にとっての因縁の戦い。旅団の未来、帝国の未来を、われらが啓典の民のものとするために。再び会えないかもしれない。でも必ず戦い抜くから、と、ね」
「わかった。君と絶姫とに天の加護と祝福とがあるように祈る」
ジャラールたちは、急ぎ足で神殿至聖所脇の最下層の隠れ階段へと消えていった。
・・・・・・・・・・
城壁の一部が崩れる轟音が響いた。すでに城壁の内側には味方は誰もいないはずだ。城塞内部になだれ込むアサシンたちの足音と腕盾の音が近づいてくる。だが、まだ時間はある。ここで何かを待たなければならない。神殿トカゲがまた来るのを待たなければ・・・・・
突然、礼拝堂の壁が崩れた。砲撃がここまで届くようになった証拠だろうと思えた。が、まだ待つべきなのだろか…・。ふと、崩れた壁の中から出て来たものは古い包み、その中にパピルスを見出した。そのパピルスにはエチオピア高原を示す文字が見て取れる。おそらく、石板に関係する書簡なのだろう。おそらくは預かり状か? その途端、神殿が大きく崩れた。
「父上、ここはもう危ない。それが私たちに託されたものでは?」
「しかし、神殿トカゲ・・・・六星老人は来なかった」
「でも、それ以外はめぼしいものは見当たらないわ。それに、そのパピルスはきっと帝国にわたってはいけないものよ」
「そうか。そうだな」
僕はそういうと包みを首にかけ、絶姫とともにジャラールたちのおりていった至聖所脇の隠れ階段を下りて行った。もちろん、入り口を破壊しつくして・・・・