天草の海 家族のひととき
「でも、あなたは帝国に対して・・」
「それ以上、言わないでくれ・・・・・僕のために、君のために、そして娘のために…・」
「そうね・・・・」
今の僕と西姫との情熱とは裏腹に、二人の今の関係はガラス細工のように不安定だった。
・・・・・・・・・
優しい潮騒。それが車両を降りた二人にまで聞こえた。天草、阿久根の瀟洒な鉄道駅近くには海水浴場がある。夏日の傾いた夕刻、僕は西姫に案内されながらその海岸に足を踏み入れた。
「ここは、海が意外と静かなんだね」
「そうね。今の私たちの心の中みたい…・。海面は静か。幸せと祝福の陽を受けて、空にはトンビ・・・・。でも海中はどうなのかしらね・・・・…」
「僕には、迷いのない海に見える。沖からの波もただひたすら大きくゆっくりと突き進む・・・・でも、その波も岸の砂が優しく消していく。君が目の前にいると、僕の心の中の動きはすべて、君に受け止められて優しく消えていくように感じられる」
「砂浜は、全てを受け止めて潮騒に変えていく…。たとえ、嵐の大波であっても・・・・。たぶん私は・・・・・。あなたが目の前にいる限り、全てで受け止めるの。あなたが目の前にいる限り、私は思考が止まるのね。たぶん、私の心はただただあなたのことを受け止めたい。あなたとともに居たいだけ・・・・」
夕闇の中、僕は目をつぶった。西姫も微動だにしないところを見ると、やはり目をつぶっているのだろう。互いの波長がフェーズが共鳴し始めた。互いの思慕が昔の情熱を呼び起こし、互いに絡めていた腕を互いの体へと伸ばす。それが心を、そして感情を、体に古くから刻まれた衝動が二人を包んだ。
物思いにふけっていると、西姫が思い切ったように質問を口にした。
「帝国に戻る気はないの?」
今更なのに・・・・
「僕にはわからない。師匠の鳴沢師には感謝している。今はそれだけにしたい」
僕は鳴沢師と刃を交えた。娘の絶姫が鳴沢に向かって戦いを挑んだ際の出来事だった。そして、帝国の真実を知った今は、僕自身が鳴沢師に対抗して立たなければならないことも、よく認識していた。だが、僕にとって西姫は自分の存在に代えても守りたい存在だった。娘の絶姫が二人の間に与えられている今、西姫と絶姫とを守り切るのが、僕の一番の願いだった。たとえ、西姫が帝国の側に立つアサシンでい続けているとしても。そして、たとえ、絶姫がジャクランの教えに忠実にしたがって鳴沢師を狙い続けているとしても。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ここは幼い絶姫を連れて旅をし始めた時に、二人で初めて寄った観光地なのよ。」
白砂のビーチとエメラルドグリーンの海が目に痛い。
「絶姫は、元気なのかしら。」
その言葉で、僕は再び二人の立場を思い出さざるを得なかった。今や、互いに妥協のあり得ない、互いに互いを完全に滅ぼそうとする陣営の双方に、それぞれが身を置く。それは互いにわかり切っていた。それでも、互いに互いを愛していることも確かだった。少しの波さえ立てないように、そして互いに互いを求めたいという衝動を抑えながら・・・・二人の間の空気を壊さないように、互いに言葉を選んだ。
西姫はもう僕のほうを見ようともせずに、質問を続けている。それは互いに見つめ合えば、衝動的に唇の先を求めあってしまうかもしれないし、敵対者である故に戦いを始めてしまうかもしれなかった。それでも、彼女が僕をこの海岸に連れてきたのは、家族であることを確認すること、そして二人の愛の結晶である絶姫のことを聞きたいためだったのだろう。それとも、以前、家族で会った頃を取り戻したいと思ったのかもしれない。
「彼女は、世界のどこかを巡っている旅の途中だろうな。」
「旅?。」
「そうさ。」
西姫は僕を一瞥し、視線を落としながら質問を繰り返した。
「わたし、獅駄洞でジャクランを追い詰めた時、霊剣操を自在にこなす若い娘に反撃されたの。左手を強かに打たれたわ。敵ながら凄腕の持ち主。怖かった。それが絶姫だったのよね。」
「僕もあの時、君とハルマンとを助けるために駆け付けようとしたのだが…その時だね、その娘と剣を交えたんだ。彼女に不覚を取ってしまったが・・・・。そのあと、僕は彼女に拉致されたこともあって、旅団の巣窟に囚われた。そこで、まさか父と娘だということが分かって…行動を共にしたんだ、そして、ペルシアとその西で大きな戦いがあった。その後、絶姫は自らの目的を悟って旅に出た。僕は…。迷ってレユニオンに行ったのさ。」
僕は、意識的にどこへ戦いに行ったかを説明しなかった。まだ、その時ではないと思ったからだ。
「そうなの。」
西姫はそれ以上、尋ねてこなかった。聞いても僕ははっきり答えないことを知っていたのだろう。沈む夕日が次第に辺りを赤くしていく。それとともに海岸沿いの人影も少なくなっていく。そろそろこの日も終わりが近かった。そう思って帰宅の準備を始めると、彼女は沈む夕日を眺めてぽつりと言った。
「日のあるあの下に私の帝国の本拠があるの。」
西姫は、「私たち」とは言わなかった。僕がすでに敵であること、僕の心が帝国にないことを、再認識したのだろう。
「私は、これからも強くなる修行・苦行を続けるの。神邇達に願い、祈り、託し続けるわ。」
僕は、今のひと時だけを大切にしようと思った。このまま進めば、西姫は帝国のため、僕は帝国から逃げ出したものとして、戦場で対峙するだろう。そして、すでに帝国に敵対している絶姫と、西姫とが対峙することも、必然だった。
・・・・・
僕たちは、再び大江軍浦にいるマードレの許に戻った。
「祈りとは、戦いのためや、勝利のための苦行ではありません。啓典の主との対話です。」
若いマードレたちは、僕たちの目を見つめながらそう言った。家族に対するアドバイスとして訥々と言い聞かせているつもりなのだろうか。だが、過たる内容は物騒だった。たぶん、僕たちは普通のカップルには見えなかったのだろう。アサシンとして育てられた僕たちが、本質的に戦士としての殺気を滲み出していたためだろうか。それとも、不自然に己の強さを求めすぎていたためだろうか。僕たちは、あまりに焦りすぎ、貪欲すぎ、傲慢すぎた・・・・。
「何かを得ようとしてはなりませんよ。何か利益を得ようとすることは、傲慢、貪欲、わがままです。私たちは、まず啓典の主の義と国とを求めるべきです。その対話が祈りなのです。」
啓典の民であれば、啓典の主による時を待つべきだったのだろう。これらの言葉は素直に受け入れるべきだったのだろう。だが、僕も妻の西姫もあまりに戦いの日々に浸りすぎていた。そして、この日と時は、僕と西姫にとっての最後の安らぎの火となった。
それでも、西姫は繰り返し言い続けた。お御堂の中でさえ・・・・・。
「私は強くあらねばならないのです。」
僕があいまいな態度をとっていることを、マードレは見て取ったのだろう。マードレははっきりと疑問を呈した。
「なぜかしら。どんな理由があって?」
この日訪れた時、相対してくれたマードレは、柔らかいまなざしを西姫に注いでいる。
「帝国のためです。帝国は人間に幸せを約束した国。それを守るためです。」
西姫の言葉は、帝国の国術院を卒業した者らしいものだった。
「しかし、強さを与えるのは啓典の主です。たとえ帝国のためであるといっても、今の貴女の祈りは・・・・あなたの思いで作り上げたあなたの願い。それである限り、本当の祈りにはなっていないのです。」
「しかし、それでは願いを祈ってはいけないのですか。祈りに願いを込めても無駄なのですか。願ってもかなえられないなら、何のために祈るのですか。祈ったら、願いはいつかなうのですか・・・・。」
西姫の声はだんだん小さくなっていく。
「そう、いつまでたっても与えられない、とおっしゃるのでしょうね。それでも、すべてには時があるのです。時を待つのです。主の御手に願いを置いて待つのです。」
西姫は、消沈した表情で返す言葉を失っていた。
「時って何よ。」
秋が深まっていく。その寒い夜、寝台の中で西姫は僕に訊ねた。この半年の間、ずっと訊ねたくてうずうずしていたのだろう。
「秀明、あなたは今までどうしていたの。私を追って獅駄洞でいなくなったのはなぜ。なぜ同級生の袁崇燿たちと戦ったの。」
「僕は、家族を守りたかった。今もただ家族を守りたいだけだ。君と僕はこの地で祝福を受けた身だ。そして絶姫はこの家庭で生まれた。だから、僕は家族に約束された未来を祝福のうちに受け継ぎたいだけだ。」
「それなら帝国によって生きればいいではないの?。」
「そうだね。僕が帝国内で存在できる唯一の場は、あの天草だ。この教えは天草のマードレやパードレによって教えられたことだ。帝国に沿いつつ、家族を守るには、そこしかないのだろうね。」
僕はそう答えるのが精いっぱいだった。
その夜。彼らはきた。