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蘭陵王伝 清明の記  (5)  作者: 天下井 涼
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婚姻への奇策

敬徳に、青蘭に対する婚姻の意思があることを知ると、策に窮した長恭は、師父の顔之推の元を訪ねた。


九月の中旬、長恭は久しぶりに顔之推邸を訪ねた。顔氏邸の前庭の木々は色付いて黄や朱色の葉を風に揺らしている。

垂花門(すいかもん)から前庭に入ると、多くの門弟が(のう)を担いで出入りしている。長恭が入門したころに比べ、門弟の数が格段に多くなっている。顔之推の名声を頼って、入門してきたに違いない。

長恭が内院を歩くにしたがって、多くの好奇に満ちた目が白眉(はくび)の貴公子に集まった。翡翠を付けた銀の華やかな冠を付け、上等の衣装をまとった美貌の美丈夫は、漢人の多い学庭では目立つのである。

ほどなく、従人としての仕草を身に付けてすっかり成長した元烈(げんれつ)が、長恭に声を掛けた。長恭の肩ほどの背の高さになっている。

「皇子様、お久振りでございます」

元烈は、丁寧に拱手(きょうしゅ)した。少年ながらも、卑しからざる風韻(ふういん)を感じさせる。

「旦那様が、お待ちでございます」


正房に入ると、顔之推は、師父への挨拶を済ませた長恭を笑顔で迎えた。

「長恭、久しぶりだな。婚儀の日取りでも決まったか?」

顔氏のおどけたような言葉を聞いて、長恭は力なく(うつむ)いてしまった。

「その婚儀ですか、・・・どうもできそうにないのです」

顔氏は、長恭に()(椅子)を勧めた。

「思うに、・・・そなたと王琳将軍の令嬢の婚姻は、斉にとっても望ましいと思うのだが、何か問題でも?」

「それが、・・・求婚書と懿旨(いし)を送ったのですが、王琳将軍から、同意を得られないのです。実は、・・・」

長恭は、青蘭が江陵を出奔(しゅっぽん)してきたことや、王琳に対する敬徳の助力などを正直に話さざるを得なかった。

顔氏は、話を聞くと(あご)(ひげ)を抑えながら、しばらく瞑目(めいもく)した。王将軍が、礼を尊び娘王青蘭と皇族の高長恭との婚姻を承諾できない心中は、儒者として十分に理解できるのである。

「青蘭こそ、我が妻。共に白髪になるまで()()げたいと思っているのです」

青蘭は、清澄(せいちょう)な瞳で顔之推を見詰めた。

「王琳は、何よりも礼と義を重んじる士大夫(しだいふ)だ」

同じ梁の廷臣として仕えていた王琳は、顔之推にとってよく知る仲である。王琳は顔之推に劣らない筋を通す忠義者である。

しかし、ここに未来に絶望した二人の愛弟子がいる。顔之推は、二人に斉の明るい未来を賭けてみたいと思った。

「長恭、墨を磨ってくれ、・・・皇太后を説得したのか?・・・なかなかだ」

顔之推は、料紙を出すと、王琳将軍への手簡を(したた)めた。もう一度読み返すと顔氏は、溜息をついた。

「策はある。しかしこれは下策かも知れん。重要なのは、青蘭をそなたが説得できるかだ」

顔之推は、王琳への言葉を記した料紙を長恭に渡した。

「青蘭との婚姻のためでしたら、どのようなことも(いと)いません」

長恭は立ち上がると、顔氏から渡された手簡を凝視した。

「王琳に青蘭を勘当(かんどう)させ、伯父の鄭述祖(ていじゅつそ)の養女とするのだ。さすれば、斉の臣下の令嬢となる。臣下同志の婚姻となれば皇太后の懿旨が有効となろう。・・・姑息な手段だが、高敬徳への筋は通る。ただ、この下策、青蘭が承諾するかが問題だ」

父王琳が、恩のある高敬徳に対して申し訳が立たぬと、罰として娘を勘当するのである。父娘の縁を切ることにより、青蘭は叔父鄭述祖の養女となる。そうなれば、皇太后令により青蘭と長恭が婚姻することに道義的な問題は無くなるのである。

中原一の学者と言われる顔之推が、王琳説得の手簡を長恭に与えた。長恭は、眉根を寄せ苦し気な表情をして料紙を折りたたむと、懐にしまった。

師父(しふ)のご助力ありがとうございます。必ずや己の意思を貫きます」

長恭は、深く礼をすると顔氏邸を退出した。


即日、長恭は料紙を選び手簡(しゅかん)を認めると、顔氏の文と一緒に青蘭の母親の鄭佳瑛(ていけいえい)のいる江州に送った。半月ほどして、青蘭の母鄭佳瑛は鄴都(ぎょうと)に戻り、皇太后に承諾(しょうだく)の知らせを届けた。

十月の上旬、王青蘭は母方の伯父である鄭述祖の養女になった。そして十月の下旬には、今上帝の婚姻の聖旨と結納の品々が、伯父の家に届けられた。こうして、婚約の儀式は円滑に進み、王青蘭ならぬ鄭青蘭と高長恭の婚約は正式に成立したのだった。


           ★                 ★


冬の蒼空が晴れ渡った十月、延宗は、武芸の稽古のために斛律衛将軍府を訪れていた。

安徳王延宗もすでに十五歳である。皇宮で李皇后に甘やかされて育った延宗も鮮卑族の皇族らしく武功を立てたいと一念発起した。今上帝に初陣を願ったが、初陣に相応しい武芸の力量を得てないために相手にもされていなかったのだ。そのため、長恭の勧めに従って斛律将軍府に通い、斛律光の息子たちに交じって武芸の稽古に励むようになったのである。


延宗が、四阿の中に座り手巾で汗を拭いていると、山茶花の花の陰から斛律蓉児が、茶器を携えて現れた。

「延宗兄上、剣の鍛錬お疲れ様」

蓉児は、いつになく笑顔を浮かべると卓の上に茶器を並べた。

斛律蓉児は、斛律光の嫡出の長女である。斛律光は多くの息子を持っていたが、嫡出の女子は二人しか伝わっていない。待望の女児として愛育された蓉児は、我が儘だが明るい少女となった。

延宗は年下の我が儘な少女が苦手であった。兄たちに比べて年の近い延宗に対して、遠慮のない親近感を示したからである。

蓉児は、いつになく笑顔を作って茶杯を延宗の前に勧めた。

「延宗兄上、温かい茶をどうぞ。お飲みになって」

延宗は、湯気を立てる茶杯を持って、一口飲んだ。爽やかな香りとすっきりとした茶の苦みが特別の銘茶のしるしである。

「なんだ、蓉児。僕に茶を入れてくれるとは、どいう風の吹き回しなのだ」

気詰まりな雰囲気に、延宗は目を細めて蓉児をながめた。しばらく逡巡していた蓉児は、思い切ったように延宗を凝視した。

「延宗兄上、長恭兄上が、・・・王琳将軍の娘と婚約したとの噂は本当なの?」

何年か前、蓉児が大街の行列の途中に手巾を贈ったということが延宗の耳にも伝わって来た。その後、長恭と蓉児が婚姻するという噂が皇宮に広まったのだ。しかし、なぜかその話はいつの間にか立ち消えとなった。

その後、叙任に向けて学問に励むようにとの皇太后からの命により、長恭は顔氏門下に入門した。自ずと、長恭は顔氏邸に通うようになり、斛律将軍府に足を向けなくなったと聞いている。

なぜ、今ごろ蓉児の口から兄の婚姻の話が出るのであろう。

「ああ、本当だ。皇太后令がでて、・・・兄上の婚姻は決まったのだ」

今年の初めの頃、凱旋の後に長恭と青蘭の婚姻は簡単に決まるかと思えた。しかし、父である王琳将軍の反対にあい、婚儀の話は頓挫しそうになった。その後、長恭と青蘭の共通の師父である顔之推の尽力により、紆余曲折を経て十月に婚約が決まったのだ。

「私は、納得いかないわ。長恭兄様が梁の降将の娘を娶るなんて」

蓉児は、頬を膨らませると口を尖らせた。

「いくら、梁の旧臣を取り込むためとはいえ、長恭お兄様が犠牲になって、王琳の娘を押し付けられるなんて・・・」

確かに、鄴城で一番の佳蓉を詠われた兄の高長恭が、いきなり梁の将軍の令嬢を娶るということで、様々な憶測が流れていた。梁の勢力を取り込むために、王琳将軍の令嬢と政略結婚をさせられてというのも、悪意のある噂の一つである。

「兄上は、政治の犠牲になったわけではない。自ら進んで・・・」

延宗は、いきさつを説明しようとしたが、兄の美貌に憧れる女人にとっては、どのような美姫であっても、相応しくない醜女になってしまうだろう。

「幼き頃より、兄たちと武芸の稽古に励む兄上を見て来たわ。私こそが妻になると思って来たのよ。でも、・・・長恭兄様には想い人がいると知って、・・・諦めていたの」

蓉児は、遠い蒼空を見ながら続けた。

「以前、須達兄上が長恭兄様に酷いことを言って傷つけたの。父上は兄様との婚姻を決して許さないと。・・・でも、私は諦めきれずに、兄様に会うために顔氏の学堂に忍んでいったわ」

そのとき、長恭の想い人の話を耳にしたという。顔氏の学堂では、自分には決して見せない親し気な笑顔を見せる長恭を目撃したのである。長恭には自分の知らない世界があるのだと、蓉児はその想いを諦めたのだという。

「お兄様には、想い人がいると噂を聞いたの、・・・だから、私じゃだめだと、諦めた」

蓉児は、目に涙を溜めて俯いた。

「それがよ、・・・想い人がいる長恭兄様が、政略結婚で皇太后様に王将軍の娘を押し付けられたと聞いたの。・・・納得いかない。・・・許せない気持ちだわ」

「蓉児、君が許せないと言っても、どうなるものではないぞ。それに、もう決まったものを、どうもできまい?」

延宗は、腕を組むとどうしようもないというように空を見た。

士大夫の令嬢や子息は生活に不自由しない反面、婚姻相手は親や君主によって決められてしまうのだ。しかし、蓉児は、自分が諦めた長恭が、皇太后から政略結婚により梁の女子を押し付けられたことに納得がいかない。王将軍に否を言わせないために出してもらった皇太后令が、望まぬ婚姻という誤解を広げてしまったのである。

「兄上は、この婚姻を喜んでいるのだ。皆が祝福している。蓉児も・・・」

「長恭兄上は、忠義心と責任感の強い人ですもの。きっと、王将軍の令嬢を大切にするわ。・・・でも、兄上が想い人と一緒になれないなら・・・、私にも考えがある」


延宗は黙って茶杯を飲み干すと、ため息交じりにかぶりを振った。

自分も蓉児もその婚姻の相手は斉の国の政の動向により、決まるに違いない。延宗は、困難の末想い人との婚姻を手に入れた兄が心底羨ましいと思った。


            ★                ★



立冬も過ぎた十一月の始め、長恭と青蘭は清河王府を訪問した。空は冬の鈍色(にびいろ)を示し、いつ雪が降っても|おかしくない空模様(そらもよう)であった。


初冬の寒さが馬車の隙間から忍び寄って来る。長恭は、披風を大きく広げて青蘭の肩に掛けた。

師兄(あにうえ)、本当にこんな雪の降りそうな日に、出掛けるの?」

「青蘭、今から敬徳の清河王府に行くのだ」

長恭の言葉に、青蘭は顔を暗くした。青蘭は、敬徳と長恭の三人で会うことを避けてきたのだ。青蘭が江陵から出奔し、敬徳との婚姻から逃げてきたことは、当時の女人として決して許されることではなかった。敬徳に酷い屈辱を与えたと言っていいのである。子靖と文叔が、王青蘭であったことを隠して、長恭と婚約したと敬徳に知られれば、面罵されても何の不思議はなかった。

「青蘭、敬徳を一生避けるわけにはいかない」

長恭は、力なく俯いている青蘭の顔を覗き込んだ。

「分かっているの。でも、敬徳殿に申し訳なくて」

長恭は、冷たい青蘭の手を取ると、膝の上に横抱きに乗せた。青蘭は長恭の肩に手を伸ばして抱きついた。

「大丈夫だ、敬徳は、私の親友。そんなに器の小さい男ではない」

まだ結納も済んでいない婚姻の約束をネタに、青蘭を侮辱するような男とは長恭には思えなかった。しかし、二人が親友であるからこそ、裏切られたという思いは強くなるのでなないか。自分が二人の友情を壊してしまうのではないかと青蘭は恐ろしかった。

長恭は、自分の披風で青蘭を包んだ。青蘭が長恭の胸元に頬を寄せると、長恭の体温がじんわりと伝わってきて、沈香(じんこう)茉莉(まりか)花の香りが立ち昇った。

「分かったわ、文叔だと言うわ」

長恭は馬車の揺れを感じながら、青蘭の髪に手を遣った。


高官の屋敷が立ち並ぶ戚里(せきり)で大きな面積を占める清河王府の蓮池も、十月の立冬を過ぎると睡蓮(すいれん)の葉は枯れ、僅かに茎だけが、水中から姿を見せていた。


「長恭が、許嫁(いいなずけ)を連れてやってくる」

敬徳が、青州刺史(せいしゅうしし)から鄴都に戻ってきてみると、長恭が皇太后の懿旨により婚約するという噂を耳にした。皇族の中でも、最も親しくしていた長恭であるにもかかわらず、婚姻について何も知らせがなかったのが敬徳には不思議であった。

常々心に思う女人をこそ娶ると言ってきた長恭であった。しかし、皇太后の懿旨を受けた賜婚(しこん)であってみれば、その息女が長恭の想い人であるはずもない。

『きっと、長恭は想い人への思いが叶わず、皇太后の勧める息女を娶ることになったに違いない』

長恭は、関心のない女人に対していたって冷たいことを、敬徳は知っている。

『男子たるもの、娶る妻に、少しは気を遣うように注意を促さねば』

敬徳は、居房の掛物(かけもの)を選びながら苦笑いをした。

開国県公(かいこくけんこう)という爵位(しゃくい)を得て、散騎侍郎(さんきじろう)という官職に就き、皇太后が勧める妻を娶れば、すでに宮中の政争に巻き込まれていると言っていい。その泳ぎ方を間違え、夫婦間の諍いを起こせば、命さえ危うい。

敬徳は、曹操の『呦呦として鹿は鳴き』から始まる詩賦を選び、壁に掛けて見ていると、長恭の馬車が到着したとの報告が来た。

「客房に通せ」


窓を開け放して雪化粧(ゆきげしょう)の後苑を観た。

『清河王府は、空虚(くうきょ)だ』

三年前、父の高岳が讒言(ざんげん)により刑死(けいし)してから、母が後を追うように身罷(みまか)った。そして、敬徳は父を罪に落とした高帰彦への敵討ちを密かに誓った。清河王府の財力を使って高帰彦の邸や皇宮にも間者を送り込み、その動向を常に監視しているのだ。高帰彦を失脚させるために、常にそのすきを狙って来た。しかし狡猾な高帰彦は、皇帝の寵を失うどころかますます権勢を強めているのだ。

仇を取るためなら命を賭する覚悟が必要だ。失敗すれば族滅の恐れがある。妻を含めて清河王府の者すべてが罪に問われるのだ。そのため、敬徳は父の死以来、婚姻は政治上の取引だと毒づきながらも降るようにもたらされる婚姻話を避けていた。王青蘭との婚姻話も江陵の内情を探るための口実に過ぎなかった。

しかし、王子靖を知って以来、敬徳の凍り付いた心に柔らかな希望が芽生えた。この屋敷に王子靖の姉を娶ったら、実現するかもしれない温かな心のやり取りは、族滅の恐怖を超えて輝いて見えた。

一昨年は、王子靖の姉の病によって沙汰止(さたや)みになってしまった婚姻であったが、もう一度正式に申し込めば、信義に厚い王琳将軍のことだ、無下(むげ)にはしまい。


敬徳は、几案(きあん)に座ると料紙を広げた。

『求婚書』を認めるのは、二度目であった。前回は、江陵の偵察(ていさつ)の口実として、求婚書を書いたのである。しかし、今は切に王子靖の姉を娶りたいと思っている。敬徳は、しばし躊躇(ちゅうちょ)した後、筆置きに筆を戻した。


             ★          ★


敬徳は、隣の部屋に入った。父高岳が亡くなって初めて気が付いたが、客房の様子を知られずに隙見する仕掛けが設けられていたのだ。敬徳は、客房側の絵に顔を寄せた。絵の所々が(のぞ)き穴になっており、客房の飾り彫りに繋がっているのである。

敬徳は、長恭に気付かれずに噂の許嫁を観てみたいと思ったのである。女子には冷淡な長恭が、押しつけられた令嬢にどのように接しているのか、観てみたいものだ。


長恭と許嫁は、こちらに背を向けて開かれた窓から冬の庭を眺めていた。

「いい屋敷だろう?」

こちらに振り向いた長恭は、笑顔で許嫁を見た。

「優しい母、導いてくださる父、温かい姉、花の咲き乱れる後苑。私には全てが(あこが)れだった。(うらや)ましかった」

「素晴らしいご家族だったのですね」

令嬢(れいじょう)は、女人にしては背が高く髷を低く結って、金細工に赤い珊瑚(さんご)で花を形造った(かんざし)を刺している。

「私には決して手に入らないものだった」

長恭は、瞳に露を宿しながら令嬢の方を見た。長恭が、婁皇太后に引き取られたころ、長恭は清河王府によく遊びに来ていた。敬徳は、長恭をからかってはよく笑わせたものだった。

『そんな事を思っていたのか』

敬徳は、両親を失い皇太后府で生活していた長恭の孤独を思った。

『そして、私もその大切なものを失ってしまった』

讒言(ざんげん)した高帰彦(こうきげん)に敵を討つ、それは長い道のりだ。力を付け尚書左僕射(しょうしょさぼくや)である高帰彦を破滅(はめつ)に追い込んでいくのだ。 


赤い珊瑚の簪についた歩瑤(ほよう)が揺れて、長恭は許嫁の肩を抱き寄せたようだった。

「家の在り方はどれぞれ、師兄は師兄の我が家を作ればよいのです」

令嬢は、長恭を見上げながら言った。

『師兄?』

それは、王文叔(おうぶんしゅく)が長恭を呼ぶときに使っていた言葉だ。敬徳はより一層顔を寄せて観ようとした。

「寒くないか?」

長恭は、披風(とふう)を令嬢の後ろから着せ掛けた。そして、女人には冷淡な長恭には珍しいことに抱きしめるとその首筋に唇を沿わせた。

『堂々たる色男ぶりだ』

こんな手練手管(てれんてくだ)をいつ学んだのだ。敬徳は、皮肉な笑いを浮かべた。

その時、聞き覚えのある笑い声がして、令嬢が長恭を背にして振り向いた。そこには、金の簪を付けた子靖がいた。

『子靖、いや文叔なぜそなたが、長恭の腕の中に』

「師兄、不意打ちは士大夫として如何(いかが)かと・・・」

文叔は、美しい眉を上げて睨んだ。

「青蘭、孫子も言っているではないか『兵は、詭道(きどう)なり』と」

長恭は、笑い声混じりにそう言うと、白孤の襟飾(えりかざ)りの付いた披風をまとった青蘭を後ろから抱きしめた。


混乱していた敬徳の頭が一瞬に整理された。自分が助けた王子靖は、長恭の学友王文叔であり、王将軍の息女王青蘭であったのだ。そして、王青蘭の母親が鄭價(ていか)價主(かしゅ)鄭桂瑛であることを、思い出した。

『私は、何と愚か者であった。長恭の許婚は、私が逃した王青蘭であったのか』

敬徳は音を立てないように居房に戻ると、几案の上に広げられた料紙を見た。そう言えば、子靖は、常に感謝を示しながら、自分の出自については語らなかった。王青蘭は長恭と付き合いながら、子靖であることを自分には隠していたのか。長恭も知っていたから、婚姻について知らせなかったのか。

敬徳は、料紙を掴むと音を立てて破った。

『二人は、私を騙してきたのか』

文叔の姉への思いは、長恭にもほのめかしてきた。信頼していた長恭に騙されたという無念さが、腹の底から湧き出てきた。

婚姻は、政略の一つだと常々言って来た。自分は女子など決して愛さないと信じて来た。しかし、想い人を長恭に取られたと知った時、腹の底から湧き出る苦しさは嫉妬ではないか。


『なぜ、早く思いを告げなかったのだろう』

後悔(こうかい)の念が、敬徳を支配した。自分は王子靖が女子であるということに、気付いていた気がする。仇打ちの為には、家族を持ってはならないという思いが、気づかない振りををさせていたのだ。一歩踏み出すことを躊躇わせていたのだ。敵討ちをもくろむ自分と皇太后の庇護を受けている長恭、どちらが青蘭は平穏な暮らしが待っているだろう。

『自分には、会いうる人と幸せな婚姻を望む資格がないのだ。敬徳』

何故隠していたと二人を責める醜態(しゅうたい)を見せれば、青蘭との絆は途切れ、友として顔を合わすことさえできなくなるだろう。

『もともと、婚姻など考えるべきではなかったのだ』

敬徳は、丸めた料紙を蝋燭で燃やすと、拳で胸を叩いた。そして、家宰(かさい)を呼ぶと、長恭達を案内してくることを命じた。


       ★         ★


ほどなく回廊に衣擦れの音がして、扉の前で止まり、長恭が青蘭を伴って現れた。

長恭は(かお)り色の長衣に、海老色(えびいろ)の外衣を優雅に着こなしている。隣の青蘭は、文叔と名乗っていた時とは違って女人の衣装に身を包んでいる。白藍色(しろあいいろ)の上襦に乙女色(おとめいろ)の長裙、吉祥紋(きっしょうもん)刺繍(ししゅう)した珊瑚色(さんごいろ)の外衣をまとっている。

二人が、そろって礼に従って挨拶をすると、敬徳が長恭の腕を捉えた。

「長恭、二人の間で改まった挨拶などいらぬ」

敬徳は内心の動揺(どうよう)を隠しながら、長恭に温厚(おんこう)な笑顔を見せた。長恭は、自分の後ろに隠れようとする青蘭を引き寄せながらその横顔を見た。

「敬徳、紹介しよう。こちらが、先日私と婚約した鄭青蘭殿だ」

長恭の横で、青蘭はまなざしを伏せ、触れれば壊れそうな瑠璃細工のような風情(ふぜい)でたたずんでいた。金歩遙が揺れシャランと鳴った音が、敬徳を切なくさせた。


「久しぶりだな、青蘭殿。いや、文叔どのかな?」

青蘭は、敬徳の言葉に驚いて顔を上げた。

「敬徳様、御存じだったのですか?」

「当たり前だ。青蘭そなたの男装に騙されるのは、女子に(うと)い長恭ぐらいだ。私ぐらい女子に詳しくれば・・・」

敬徳は、女垂らしとの噂を利用して、青蘭の懸念を解こうとした。青蘭は、ここで誤解を解かなければ。長恭の妻として敬徳から逃げ隠れするわけにはいかないとの思いで、勇気を振り絞った。

「敬徳様、私王青蘭は、江陵から出て敬徳様との縁談を破談にしました。この無礼は許されぬことかと・・・」

青蘭は、胸の前に手を合わせると丁寧に稽首(けいしゅ)した。

「なに、縁談があっただけ、結納もしていない。それに、江陵に出向いたのは梁や周の偵察をするためであった。懸念に及ばぬ」

「鄴都への道中、助けていただいたのに、命の恩人に正式な礼もしておりません」

思い出すと、敬徳には幾重(いくえ)にも助力をしてもらっているのだ。青蘭は済まなさに、涙を浮かべた。

「正式な礼など、子靖と敬徳の間では必要なかろう。なあ、長恭?」

青蘭をあえて子靖と言う敬徳の言葉に、青蘭への未練(みれん)が透けて見える。

「敬徳の助力がなければ、青蘭は鄴都に来られず、私たちの婚姻もなかったのだ。敬徳に礼を申さねば」

長恭は、前で手を組むと丁寧に拱手した。

「そのような堅苦しいことはよい。江南から取り寄せた茶を馳走しよう」


居房には、卓を囲むように椅が用意してあった。

従人により茶器が準備され、敬徳が手ずから茶杯を満たした。

「婚儀は、何月になるのか?私も招待してくれるだろう」

敬徳は気まずさを打ち消すように、茶杯を勧めながら、あえて婚儀の時期に触れた。

「もちろん、ぜひ来てくれ。来年の三月になる」

『敬徳は、文叔の姉へ求婚するつもりだったのだ。青蘭について知っているはずないのに』

長恭は、敬徳の気持ちを図りかねた。長恭と青蘭は、年明けの元宵節の灯籠見物の約束をして清河王府を後にした。


      ★     ★


十二月になり、長恭と青蘭の師父である顔之推が、奏朝請(そうちょうせい)として出仕することになった。奏朝請は、本来は爵位を持つ者が無官のまま朝議(ちょうぎ)参与(さんよ)する官職として定着していた。つまり、顔之推は、朝議に出席できる政策顧問(せいじこもん)に就任したのである。


今上帝高洋は、兵権(へいけん)を握る鮮卑族勲貴派(くんきは)の将軍達を、牽制(けんせい)するために漢族の官吏(かんり)達の力を必要としていた。しかし、度重(たびかさ)なる酷薄(こくはく)所業(しょぎょう)により、今上帝への信頼は地に落ちてしまった。

高洋は、酒気を帯びると狂気に近い残酷さを示す反面、素面(しらふ)の時には至って小心で高名な文人や学者を好んだ。

政策の決定に悩んだときには、たびたび陽休之(ようきゅうし)を訪れ政治手法を諮問(しもん)していたという。しかし、酩酊(めいてい)の時が長くなり酒乱の風が強くなると、その諮問も無駄(むだ)になることが多くなっていった。


そこで、皇帝としての権威を高めるために、中原一の学者であると言われていた顔之推の権威を借りようとしたのである。何よりも、周を捨てて黃河を下り、斉へたどり着いたという逸話が、高洋の虚栄心(きょえいしん)をくすぐった。

その虚栄心を、顔之推が利用したのであろうか。それとも、乱脈(らんみゃく)を極める斉の(まつりごと)に顔之推が、手をこまねいていることができなくなったのであろうか。

多くの漢人官吏(かんじんかんり)にとって、顔之推の出仕は、常山王(じょうざんおう)高演(こうえん)の負傷によって失われた朝廷への信頼を回復させる最後の希望であった。

     



顔之推の協力を得て、婚姻を成就させた長恭は、真実を伝えるべく敬徳邸を訪ねた。長恭の裏切りと言える行為に、親友だった二人の友情はどうなるのでしょうか。

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