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蘭陵王伝 清明の記  (5)  作者: 天下井 涼
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王琳の怒り

相次ぐ斉国の醜聞に何もできないと長恭は自分の無力を感じるのだった。そして、重陽節も近い九月の始め、待ちに待った父王琳からの返書が届くのであった。

赤い曼荼羅華(まんだらげ)の花が川縁(かわべり)に咲き、薄紫の萩の愛らしい花が丸い葉の間に散見される秋となった。もうすぐ重陽節(ちょうようせつ)である。陰陽思想(いんようしそう)では、陽数が極まる九が二つ重なる九月九日を重陽と呼ぶ。邪気(じゃき)を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わしたりして祝う節句である。


青蘭が、前庭で菊の鉢植えに()り水をしていると、江州からの遣いが戻ったとの知らせが入った。父の王琳将軍に青蘭の求婚書と皇太后令の写しを送ってから、すでに一か月半が経っている。父王琳からの返書が届けば、結納となり婚約が成立するのだ。青蘭の胸が高鳴った。


價主様(かしゅさま)が、お呼びでございます」

ほどなく、青蘭は母桂瑛から呼ばれた。

「母上、お呼びでございましょうか」

青蘭が挨拶をすると、桂瑛は人払いをして珍しく自分で白磁の茶杯に茶を注いた。

「江州より遣いが戻った」

青蘭は、感情を殺した母の声に違和感(いわかん)を覚えた。佳瑛は、青蘭を横に座らせると茶杯を勧めた。香しい菊花茶の香りがあたりをつつむ。

「父上は、こたびの婚姻、・・・不承知(ふしょうち)だ」

鄭氏は、感情を抑えた顔で言い放った。青蘭は、母が何を言っているのか解からなかった。

「え?母上、今何と・・・」

「父上からの返書に、長恭殿との婚姻に同意できないと(したた)めてあったのだ」

青蘭は、榻に座りながら地面が崩れ落ちるような衝撃を感じた。

「何故なのです?・・・父上は、私の出奔(しゅっぽん)をまだお許しになっていないからですか」

青蘭は、父親の拒否に力なく(とう)脇息(きょうそく)に崩れ落ちた。自分は、父上にそんなに憎まれていたのか。敬愛(けいあい)する父王琳からの憎悪が、青蘭は悲しかった。


「いいや、理由は違うようだ。斉からの援軍の要請に反対していた高帰彦殿を翻意(ほんい)させたのは、高敬徳殿だったのだ。そこで敬徳殿に恩義を感じて反対なされているのだ」

なぜそこに高敬徳が出てくるのであろうか。

「敬徳様に、父上が協力を頼んだのでしょうか?」

「いいや、敬徳殿は父上の窮地を知り、自ら動いたのだ。それで、父上は敬徳殿に義理を感じ、長恭殿との婚姻は認めないと言ってきたのだ」

かねがね、皇太后府の要望は知らせてはあったのだ。鄭佳瑛は、困った御仁(ごじん)だというように、天井を仰いだ。父王琳の頑固(がんこ)さは斉でも知れ渡っている。


士大夫(しだいふ)の家では、娘の婚姻は、その父親によって決められるのがしきたりである。家長の了承(りょうしょう)を得ない婚姻は野合(やごう)として軽蔑(けいべつ)され、正式なものとは認められない。王琳が完全な斉の臣下であれば、皇太后令は絶対である。しかし、梁の皇帝である簫莊(しょうそう)(いただ)いている王琳であれば、拒否することもできるである。

もうほとんど成立したと思っていた婚姻が、父の反対で破談になろうとしているのである。それは、敬徳への義理立てというよりは、父の反対を押し切って江陵を出奔した青蘭に対する、怒りなのだと思った。


『父上の反対があっては、正式な婚姻はできない』

「私たちの婚姻は、許されないのですか、・・・母上」

青蘭は、必死に母の腕に(すが)りついた。ここで諦めたら、長恭との絆は途切れてしまう。佳瑛は、涙に濡れた青蘭の顔を見た。

「破談は、母とて本意ではない。・・・しかし、こう離れていては、・・・私が江州に行って父上に会って来ることにしよう」

「母上、本当ですか?」

青蘭は愁眉(しゅうび)を開き、涙顔の唇が僅かな笑みに歪んだ。

「ただ、まず皇太后様にお知らせして、そのお怒りを静めねばならぬ」

鄭佳瑛は、眉を寄せると深い溜息をついた。


      ★       ★


ほどなく、鄭氏は婁皇太后により宣訓宮に呼び出された。鄭家と高長恭の婚姻は、宮中でも噂になり始めていて、王琳将軍からの遣いが戻ったことは、皇太后にも伝わっていた。

「王琳将軍は、いつの婚儀を望んでいるのか」

婁氏は、温柔な眼差しを鄭氏に向けた。鄭氏は、顔を伏せたまま、床に手をついた。

「皇太后様、誠に申し訳ございません。・・・王琳は、不承知(ふしょうち)であると返書を寄越(よこ)しましてございます」

一瞬正殿に緊張が走った。

「鄭佳瑛、そなた何を言って居る」

「父の王琳が、不承知であると申してきました」

鄭氏の言葉を理解すると、婁皇太后の顔に、誇りを傷つけられた怒りが宿った。

「何と、我が孫高長恭と王青蘭との婚姻のに不承知であると、王琳が申しているのか?」

王琳は、稀にみる忠臣で頑固者(がんこもの)であると評判であった。しかし、皇太后からの賜婚(しこん)を拒絶するとはどういう考えなのであろう。斉との関係を断つという意思表示なのか。

「理由を聞こう」

「我が娘が原因で敬徳様との婚姻が破談になったと、義理を感じているのです」

「婚約まで行かなんだと聞いておるが」

さすがに、梁への援軍の話はここではできない。義理堅い王琳の性格ゆえであると話をした。

「皇太后令を何と心得る。・・・分かった。この婚儀は破談であるな」

婁氏は、不機嫌にきっぱりと言い放った。

「お、お待ちください。皇太后様・・・」

鄭氏は、膝をついたままにじり寄ったが、婁氏は不機嫌に退出を言い渡した。

「皇太后様、どうか御猶予(ごゆうよ)を・・・。夫を説得するために、私が江州に行って参ります」

婁氏は、瞑目してしばらく考えていたが、重い口を開いた。

「長恭は、私の自慢の孫じゃ。破談など・・・。猶予は・・・一か月じゃ、一か月以内に返答(へんとう)を持ってくるのだ」

鄭佳瑛は、拝礼すると重い足取りで宣訓宮を退出した。


       ★         ★


宣訓宮の後苑、夜の静寂に長恭の叫び声が響き渡った。

婚姻の拒絶を皇太后から聞かされた長恭は、怒りを抑えられなかった。長恭の剣が鋭く真っすぐ突き出され、空を切ると松明の明かりを反射して(ひるがえ)った。

「たあっ、・・・とおっ・・・」

長恭は、心の鬱屈を払うように声にならない叫びを発しながら、剣を振るった。体を回し横ざまに払うと後ろに振り向き、空気を引き裂く音をあげながら袈裟懸(けさがけ)けに切りつけた。

「なぜだめなのだ。・・・私では許されぬのか」


皇太后に呼ばれ、婚約に胸を躍らせて正殿に赴いた長恭であった。しかし、そこで告げられたのは、『否』という王琳からの無情な返答であった。

「御祖母様、なぜなのですか。なぜ、王琳将軍は、この婚姻を許さぬと・・・」

祖母の寵愛に()れぬようにしてきた長恭は、自制心(じせいしん)をかなぐり捨てて祖母に問うた。

「粛も知っておろう。青蘭は、敬徳との婚姻を自らの行いで破談に追い込んだ。王琳は、敬徳への義理立てをしておるのだ」

「敬徳とは、婚約には至らなかったと聞いています。いまさら、義理立てなど・・・。斉から援軍を出してもらっているにもかかわらず、皇太后令を無にするとは・・・」

もう解決済み出ると思っていた問題が再び障害となるなど、信じられぬ。

「そなたと、婚姻を望む高官の息女は、枚挙(まいきょ)(いとま)がない。無理して娶っても、敬徳より許嫁(いいなずけ)を奪ったと悪評がたつであろう。粛よ、この婚姻あきらめよ」

皇族にとって正室の存在は、政治的後ろ盾を得て、政治的勢力を広げるという意味合いが大きい。正室の家長の支援がなければ、これからの皇族としての存在にも影響がある。想い人は、側室として別に娶ればいいというのが一般的な考え方であった。


「いやです。諦められません。・・・私は、青蘭以外娶りません。私が江州に赴き王琳殿を説得して参ります」

父の高澄に似た清澄な長恭の瞳が悲嘆に曇り、形のいい唇が悔しさに歪んでいる。婁氏は、息子から寵妃荀翠蓉(じゅんすいよう)を引き離し、長恭を長らく父親に会わせられなかった苦い過去を思い出した。

「ならぬ。・・・そのような事させられぬ。・・・鄭佳瑛に江州に行かせるようにした。いばし猶予を与えたゆえ、返答を待とう」



青蘭の母鄭佳瑛が江州に行き、父王琳を説得するという。

「私は、青蘭の婿として相応しくないというのか」

敬徳への義理立てなど、方便(ほうべん)に過ぎない。皇子でありながら王位を持たぬ位の低さのためであろうか。皇太后以外の後ろ盾を持たないためであろうか。武功を立て、職務にまじめに専念しても、財物の多さや引きの強さが支配しているのが、朝廷の現実なのだ。

己の想念(そうねん)の不吉さを振り払うように、長恭はしゃにむに剣を振るった。



      ★      ★



鄭家の後苑の小径には、黄色や薄紅の菊の鉢が置かれ、木々の紅葉を彩っていた。

しかし、先日父王琳将軍の返事を聞いてから、青蘭には菊の鮮やかさも、紅葉の美しさも全てが色褪せて感じられた。


青蘭が臥せっていると聞いた長恭は、見舞いに鄭家を訪れたのだ。

「聞いたよ。父上のお許しがなかったのだね」

青蘭の臥内(がない)に案内された長恭は、榻牀(とうしょう)の端に座った。起き上がった青蘭は、目に涙を溜めて俯いている。

「私が、父上のお怒りを買ってしまった。江陵から逃げたことを、まだ許してくださらないのだわ」

青蘭は、後悔を口にした。そもそも青蘭が江陵にとどまっていたら、二人の出会いはなかったのだ。

「君のせいじゃない、私が不甲斐(ふがい)ないせいなのだ・・・」

長恭は、言葉を続けることができなかった。開国県公という爵位のためであろうか。それとも、後ろ盾も財力もないのが政治的に不満なのであろうか。

「師兄、そうじゃないの。江州への援軍に、敬徳様が助力してくださったそうよ。そのために、父上は敬徳様に恩義を感じて・・・お許しにならないの」

青蘭は、二人の(あずか)り知らないところで、二人の婚姻を阻む動きがあったのだ。敬徳は青州にいながら、長恭の知らないところで、王琳将軍のためにそのような動きをしていたのか。単に散騎侍郎として職務に励んでいるだけの長恭にはとてもできないことである。長恭は、己の力の小ささに愕然(がくぜん)とした。ただ自分にあるのは、青蘭への思いと絆の強さだけだ。

「どんな困難に()っても、・・・君を娶る」

長恭は、青蘭の側ににじり寄ると、涙に潤んだ青蘭の瞳を見詰めた。想い人を守る力が欲しいと思った。

「大丈夫だ。二人が一緒になれるように方策(ほうさく)を考えよう。私に任せてくれ」

長恭は青蘭を優しく抱き寄せると、髷を結わず背中に垂らした豊かな髪を撫でた。


次の日の早朝、鄭佳瑛は数人の供を連れただけで、朝霧の中を江州に旅立った。


       ★     ★


絳州からの凱旋後、斉では論功行賞(ろんここうしょう)が行われ、高官の異動が多くあった。

青州刺史であった高敬徳は、中央に戻り侍中の職に昇進したのである。侍中は、いわば皇帝の政策顧問(せいさくこもん)であり、決裁(けっさい)を受ける上奏文の選択を司り、斉の政の趨勢(すうせい)を左右できる地位である。その職にわずか十九歳で就く高敬徳は、高一族の中でも出色(しゅっしょく)の存在であった。


嬌香楼(きょうこうろう)は、鄴都で一番の妓楼であった。揺らめく蝋燭(ろうそく)の灯火が、紅殻色(こうかくしょく)の壁に映り、薄帳(はくちょう)の影が艶めかしく扉に映る。

八月に侍中を拝命した高敬徳が、青州での仕事の引き継ぎを終了し、鄴都に戻ったのは九月の上旬であった。敬徳は、侍中に就任するに当たり、長く侍中の職にある高徳正(こうとくせい)を嬌香楼に招いた。


高徳正は、高顕(こうけん)を父に持ち、字は士貞、本貫は渤海郡(ぼっかいぐん)である。皇族ではないが、北斉建国の功労者であり、藍田公(あいでんこう)に叙せられていた。建国以来長らく侍中を勤め、国政に関わってきた今上帝高洋の寵臣である。幼少から聡明で、立ち居振る舞いが美しい好漢(こうかん)であった。

高徳正は、高敬徳の父高岳(こうがく)とも親交があり、敬徳が幼少の頃から、清河王家を訪れては政治談義(せいじだんぎ)に花を咲かせる仲であった。


敬徳は青州刺史として青州に赴任していたが、王琳将軍からの援軍の要請(ようせい)を知り、高徳正に個人的な手簡を送って高帰彦の翻意(ほんい)を依頼したのである。王青蘭との縁談は破談になってしまったが、かねてから王琳将軍の武勇と矜持(きょうじ)には憧憬(どうけい)の念を抱いていた。王琳将軍の危機に対して、与力(よりき)をしたいと考えたのである。

その心中に、文叔への友情と共に姉である王青蘭への未練がなかったと言えば嘘になる。江陵に顔合わせに赴いたときには、気にも留めなかった破談であったが、できたら改めて婚姻を申し込みたいと思っていたのであった。


敬徳が妓楼に着くと、徳正はすでに部屋に入っていた。

高徳政は、四十半ばの偉丈夫(いじょうふ)である。武人としての逞しさはないが、張り出した(ほほ)と時に厳しく相手を見据える目が、意志の堅さを示していた。


徳正が正面に座り、敬徳が隣に座ると、酒肴(しゅこう)と酒が運ばれてきた。ほどなく嬌声(きょうせい)とともに技女達が入っくると、胡舞(こまい)が披露された。

「徳正様、先日は王将軍への援軍のこと、かたじけない」

「なあに、高帰彦のように()()かれる者など動かすのは容易(たやす)い」

高徳正は、妓女の舞に目を遣りながら笑みを浮かべた。

『それにしても、何故わざわざ(わし)に遠方から助力を頼んだのだろうか?』

青州からわざわざ遣いをよこした心中を量りかねて、徳正は敬徳の晴朗な面差(おもざし)しを窺った。敬徳の隣りに座った年若い技女が、色っぽい流し目で酌をしている。

「侍中の先輩として、政の心得(こころえ)をお聞かせ願いたい」

敬徳は、新任の侍中らしく自分で酒瓶を取りながら、先輩の(くん)を聞く(てい)で、徳正に訊いた。

舞でひるがえる技女の(すそ)と、大きく開いた胸元に目を奪われていた徳正は、敬徳の質問で我に返った。

「うまく調和を図りながら流されず、柔和を(むね)としながら屈せず、寛容でありながら操守(そうしゅ)を乱さ・・・」

「『荀子』の暴君への仕え方ですか?」

敬徳は憮然(ぶぜん)とした表情で徳正に質問した。

徳正は、驚いて酒杯越しに敬徳を観た。そして、居住まいを改め酒杯を干すと技女達を退出させた。広い部屋は急に静けさに満たされた。妓楼の嬌声が遠くに聞こえる。

「清河王が、『荀子』を読んでいたとは・・・」

「皇族は、学問を知らぬとお思いですか?」

徳正は、酒瓶を取ると探るような眼差しで酒を注いだ。徳正が、『荀子』の暴君への仕え方の一部を口にすることにより、今上帝は暴君であると言ったに等しい。皇族の敬徳が知らないと思ってつい口を()いで出てしまったのだ。

『敬徳は、官吏としての学問も修めていたのか』

父親から受け継いだ清河王の爵位(しゃくい)だけで、侍中の官職を得たわけではないのだ。徳正は、高徳を見直す思いであった。

「士貞(徳正の字)殿のご助言、肝に銘じます」 

敬徳は、改めて清雅(せいが)な瞳を細めると、微笑して拱手した。

『敬徳は皇族だが、父親の冤罪(えんざい)を考えると、鮮卑族の中で、一番陛下を恨んでいるのかも知れない』

徳正は、敬徳と自分の酒杯に酒を満たした。

「常山王の諌言(かんげん)については、どう思っている」 

徳正は、今上帝の弟である常山王高演が、陛下に刺されたいきさつをかいつまんで語った。

『私が、青州にいる間に、宮中ではそんなことが起こっていたのか』

敬徳は、溜息をついた。昨年末、敬徳が青州刺史として赴任して以来、今上帝の暴虐の度合いは、どんどん酷くなっていたようだった。

「常山王は、斉のために諌言した。勇気ある方です」

しかし、そのために胸を刺され瀕死の重傷を負うという事態になってしまったのだ。

「まったく、この斉はどうなっているのやら。忠臣である常山王は刺され、佞臣(ねいしん)の高帰彦は、父上を讒言(ざんげん)で陥れていながら、今でも寵臣の一人なのだ」

いつもは、人当たりのいい温顔を見せながら、今夜の徳正は心の不満を隠さなかった。

『父の(かたき)は、必ず取ってやる』

敬徳は、これまで封印(ふういん)してきた思いを、胸によみがえらせた。



      ★       ★



家妓の舞が終り、拍手が辛家(しんけ)の堂を包んだ。観菊の宴に長恭も招かれていた。菊花酒が杯に注がれ、主人の辛術が立上がった。

「斉の繁栄と諸将の健康と武勇を祈念(きねん)して乾杯」

長恭は、何杯目かの酒を口に流し込んだ。


長恭は昼間に青蘭を見舞った時のことを思い出した。敬愛する父親に婚姻を拒絶された青蘭の落胆ぶりは目を覆うばかりであった。

『何故なのだ。私が王位を持たぬからか。後ろ盾を持たぬ皇族の端くれだからか』

援軍に助力をしてくれた敬徳への義理立てなど、ただの方便に過ぎないのではないか。敬徳のような高官の子弟であったら、何があろうと反対せぬであろう。身分の低い母から生まれた皇子は、普通の官吏よりも価値がないというのであろうか。

婚姻を認めるとの懿旨を出してくれた御祖母様は、いったん破談だと言ったが、一か月の猶予を与えたという。しかし、このままでは、青蘭との婚姻などおぼつかない。


長恭は、また何杯か杯を重ねた。高一族に多い酒の乱れを見聞きしてきた長恭は、朝堂に出てからも決して酒に飲まれるようにはなるまいと心に決めていた。酒宴にはできるだけ出席せず、酒の量も常に自分の決めた量を過ごすことはなかった。しかし、破談の危機という困難な現実を受け入れられない長恭は、いつの間にか自分の酒量を越えてしまっていた。

肘を突き、酩酊(めいてい)する額を支えていると、主人の辛術(しんじゅつ)が目の前にいた。

「皇子、別室で酔いを醒まされてはいかがであろう」

辛術の隣りを見ると、先ほど紹介された辛術の娘の辛瑯炎(しんろうえん)が控えている。今までは、皇太后がほどよい時を選んで中座ができるように遣いを送ってくれていた。しかし、今日はまだ来ていない。

「娘の瑯炎が、別室まで御案内致します」

酔いに支配された長恭は、立ち上がることができなかった。長恭は、瑯炎に支えられながら立ち上がると堂を出た。堂の外は既に深夜の暗さを示しており、ところどころに灯籠が掲げられている。皇宮への金明門も閉まっているだろう。

瑯炎に支えられながら回廊を進む長恭は、一層酔いの深さを増した。ふらついた身体を支えるように回廊の柱に寄り掛かり、星空を見上げると青蘭の姿が思い出された。

『なぜ、青蘭と一緒になれないのだ。私は青蘭に相応しい男じゃないのか。敬徳なら許されるのか』 

酩酊(めいてい)の中で僅かに残った嫉妬心(しっとしん)が、唯一の理性だった。


「長恭様、客房はもうすぐですわ」

瑯炎が、鼻にかかったような喜びを隠せない声で囁いた。

『何がもうすぐなのだ。婚姻はまだまだ遠い』

長恭は、瑯炎に支えられよろめきながら歩みを進めた。瑯炎の伽羅(きゃら)の香りが、長恭の側で立ち上る。

「私、以前から長恭様のことを・・・」

瑯炎が、暗闇の中で長恭を見詰めながら囁きかける。ほどなく、瑯炎が、一番はしの扉を開けた。中には燈火(とうか)がほの暗くと灯り、菊の香が漂っている。

「こちらが、長恭様の房ですわ。・・・私がお世話致します」

瑯炎が、長恭の帯に手を掛け、衣を脱がそうとする。重陽節の菊枕が、蝋燭(ろうそく)の灯りに魅惑的(みわくてき)な影を作っている。

『これは、罠だ』

頭の片隅で囁く声がした。長恭の酔いが瞬く間に覚め、自分の置かれている立場が理解できた。

「それに及ばない。世話は結構だ」

長恭は、瑯炎の手を強く払い、冷たい言葉でぴしゃっと言うと扉を閉めた。

「長恭様・・・」

瑯炎は、しばらく扉の前でうろうろしていたが、やがて諦めたのであろう姿を消した。


『辛父子は、ここで既成事実(きせいじじつ)を作り、この娘を側室に送り込むつもりなのだ』

すでに婚約が近いことは、知れ渡っているはず。しかし、そんなことはお構いなく政治のためか、娘の恋情のためか分からぬが、妾を押しつけてくる。

皇太后が酒宴では途中で遣いを送り、長恭を中座させていた理由が初めて分かった。

長恭は、深酒にも(かか)わらず夜明け前に目を覚まし、闇暁(あんぎょう)の中を早々に辛術邸から宣訓宮に戻った。 



     ★      ★



『敬徳が、侍中として戻ってきた』

この度の絳州の戦いで、論功行賞として高官の昇進が行われた。そしてその影響で、高敬徳が青州刺史から鄴都に戻り、侍中に昇進したのである。侍中は定員四名、侍中府の中枢である。長恭の上役の散騎常侍(さんきじょうじ)と共に、皇帝の側近顧問(そっきんこもん)として政務の枢要(すうよう)に関わる職務である。


行賞(こうしょう)が行われ、一人を昇進させることにより、何人かが官職を異動する。だれかが青州刺史になれば、敬徳が他の官職に異動するのは当然である。しかし、戦で昇進を勝ち取るのが誇りの鮮卑族にあって、戦に出ていない敬徳が出世したのは納得(なっとく)をできない思いであった。


長恭が、上司の廬思道(ろいどう)に敬徳昇進の話を聞いたのは九月の中旬であった。しかし、散騎侍郎として地道に職務に励む長恭には、侍中府の長の一人である敬徳と顔を合わせる機会がなかったのである。

『敬徳は、私が絳州で戦塵(せんじん)にまみれている間に、青州刺史から侍中に駆け上ってしまった』

二つ違いの幼なじみが、遙か上の侍中になっているのを、見たくないという気持ちもあった。

その日、長恭は、広蓋(ひろぶた)に上奏文を乗せた宦官と共に、侍中府の正房に向っていた。

「長恭」

どこからか、長恭を呼ぶ声がした。宮中では、宮女の声が聞こえるのは普通である。その時は、無視して進むに限る。

「長恭」

もう一度、聞き覚えのある声がして、大きな手が肩を捉えた。振り向くと、すぐ後ろに敬徳の笑顔があった。長恭は、表情を消しながら、宦官の目を意識して丁寧に拱手した。

「高侍中殿」

敬徳は、侍中府の高官である。

「上奏文を、お届けするところです」

敬徳は、傍らの宦官を一瞥(いちべつ)すると、書房に届けておくように命じ、長恭を中庭に誘った。

「長恭、久し振りだな。やっと鄴に戻ったよ。積もる話がある。付き合え」

宦官は気を利かせて盆を掲げると、書房に去って行った。


中庭は、木々の葉がすっかり落ち、僅かに山茶花(さざんか)の花が赤や白の彩りを添えていた。

「敬徳、いつ帰ったのだ」

長恭は、二人だけになると昔通りの友の口調に戻った言った。

「つい先日だ。青州にはまだやることがあったのに、・・・呼び戻された」

敬徳は、不満げに笑った。

「ふん、侍中と言えば高官だ。十九やそこらで侍中とは立派なものだ」

長恭は、嫉妬心が言葉に出ないように笑みを浮かべた。

「なあに、数合わせだ・・・私など、お飾りのようなものだ」

漢人に牛耳られているという鮮卑族の不満を逸らすために、皇族の一員である高敬徳を侍中に加えたというのである。または、父高岳を(ほお)むってしまったことへの高帰彦の罪悪感の裏返しか。この当時、斉の政は漢族と鮮卑族の微妙な均衡(きんこう)によって成り立っていた。


「そう言えば、王文叔は元気か?」

真面目な顔をしていた敬徳が、(あご)に手を当て急に笑顔で聞いてきた。文叔とは、青蘭が顔氏門下で学問に励んでいたときの字である。青蘭の失踪の時、長恭は敬徳を疑って清河王府を訪ねたことがあった。

「ああ、元気にしている。顔氏門下は辞めたみたいだけれどね」

「そうか、・・・姉の王青蘭殿は、・・・元気なのか?」

敬徳は、以前縁談が進んでいたのは、王文叔の姉だと思っているのだ。青蘭は、江陵を逃げ出した(やま)しさで、敬徳に打ち明けられずにいたのだ。


「私は悔やんでいるんだ。あの時は、それほど興味がなかった。だから立ち消えになってもかまわなかった。でも、文叔と知り合って、あいつの姉なら娶りたいと思う気持ちもある。落ち着いたら王琳将軍に申し込みたいと思っているんだ」

『敬徳が、婚姻を申し込む?』

自分との婚姻話が頓挫(とんざ)しているというのに、敬徳は父親に婚姻を申し込むというのか。長恭は、地面が崩れ落ちたような衝撃に襲われた。

『先に、父親の王将軍が承知をしてしまえば、万事休(ばんじきゅう)すだ』

「いやあ、青蘭殿には想い人が居ると聞いている・・・」

長恭は、言葉を濁すと仕事の忙しさを理由に敬徳と別れた。



青蘭の父王琳の反対に合い、婚姻がとん挫する。そんな時、侍中として昇進をして都に戻って来た敬徳は、青蘭への好意と婚姻の意思を長恭にはなすのだった。

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