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蘭陵王伝 清明の記  (5)  作者: 天下井 涼
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長恭の求婚

周との激烈な戦いから凱旋した長恭は、念願の求婚書を送ってもらう。婚姻が近いと確信した長恭は、さらに関係を深めようと、宝国寺の参拝に青蘭を誘うのだった。

七月の初旬に凱旋(がいせん)した長恭は、皇太后に婚姻を願い出た。二日後、皇太后府の宦官である石奢(せきしゃ)が、求婚書と皇太后令を携えて鄭家を訪れ、鄭佳瑛に賜った。そして時を置かず、求婚書と皇太后令の写しはすぐに江州にいる王琳将軍の下に送られた。承諾の返書が来れば、婚約の成立となるのだ。


凱旋の三日後、残暑の続く日差しの中、長恭は青蘭を伴って宝国寺へ参拝に出かけることになった。

馬車に乗った長恭は、鄭家に着くと長恭は素早く馬車から降りた。長恭は香り色の優雅な長衣に縹色(はなだいろ)背子(はいし)を着け大門の前に立つと、大門の中の鄭家の人々が、一斉に挨拶をする。晴れがましさに長恭の頬が自然に緩んだ。

家人の間から、桃染め色の上襦(じょうじゅ)に若菜色の長裙(ちょうくん)、鮮やかな紅鶸色(べにひわいろ)の背子を着けた青蘭が、恥ずかしそうに人波に押し出されながら出てきた。

「長恭様に、ご挨拶を申し上げます」

長恭が両手を広げて抱き締めようとすると、青蘭は手を合わせてぎこちなく挨拶をした。

長恭はもどかしさに負けて、いきなり青蘭の手を取ると強引に馬車に乗り込んだ。そして、呆気(あっけ)にとられる鄭家の人々を置き去りにして馬車は出発した。


「いきなり、馬車に引っ張り込むなんて・・・」

青蘭は隣に座ると、紅を刷いた唇を尖らせ、清澄な瞳で長恭を睨んだ。

「君を早く抱き締めたかった・・・」

長恭は、青蘭の手を握って引き寄せ、逞しい腕の中に捉えた。薄絹の下に息づく肌の柔らかさに、長恭は、手のひらに力を込めた。

「陣中でどれほど君を想っていたか・・・」

青蘭は、言葉の意味を問うように長恭の瞳を見詰めた。何時もは清婉(せいえん)な長恭の瞳が、今日はいつにない熱い妖艶(ようえん)な光を帯びている。

「君が、欲しい」

荒々しい感情が形のいい唇から漏れ、薄絹の下から透けて見える肌の白さと茉莉花(まりか)の濃厚な香りが、長恭の渇望(かつぼう)を刺激した。

長恭は目を伏せると、青蘭に顔を近づけ唇に優しくゆっくりと口づけした。

「どんなに会いたかったか・・・」

長恭は熱い息で(ささや)きながら、青蘭に身体を預けるようにして抱きしめた。馬車の中の夏の熱気と青蘭の衣の紅鶸色の鮮やかさが、長恭を陶然(とうぜん)とさせた。


『青蘭、君を永遠に自分のものにしたい』

衣から抜けきれない戦塵(せんじん)の血の香りが、長恭を荒々しい感情に駆り立てた。長恭は、鬱屈(うっくつ)した魂のありかを探すように、深く強く唇を求めた。長恭の唇が青蘭の唇から首筋に降りると、広く開けられた衿元に沿わされ、上襦の肩が乱暴に下ろされた。青蘭の首の(くぼ)みから下に向かって、長恭の唇がなぞろうと動いた。

唇から逃れようと(さえぎ)った青蘭の手を、長恭が強引に掴んで抑え込もうとした。

「師兄、いやああ・・・」

青蘭が思わず身を引いたとき、青蘭の右手が飛んで長恭の左頬が激しい音を立てた。平手打ちが飛んで長恭を叩いたのだ。

「師兄こんなこと、・・・ひどい」

青蘭は、そう叫ぶと険悪(けんあく)な眼差しで長恭を睨んだ。そして、瞳に涙を(たた)えて乱れた襟元を整えた。我に返った長恭は、拒まれた屈辱感(くつじょくかん)と青蘭を傷つけた悔恨(かいこん)で言葉も出ない。青蘭は壁際に身を寄せ、唇を震わせながら涙にぬれた瞳で長恭を見た。

『何てことをしてしまったのだ。・・・青蘭を傷つけてしまった』

後悔(こうかい)で捉え手を伸ばそうとすると、青蘭の身体がびくっと動いて顔をそむけた。共に学び信頼していた長恭が、手荒(てあら)な行為に及んだことは、青蘭にとって衝撃的なことであった。長恭は、背けている青蘭の顔を覗き込んだ。眉根を寄せた青蘭は、言葉もなく唇を噛んでいる。

「すまない。君を傷つけるつもりはなかったのだ。君を愛している・・・」

長恭は椅に置かれた白い手にゆっくりと手を重ねたが、青蘭は振り返らなかった。


堂には入り見上げると、金色の盧舎那仏(るしゃなぶつ)が見えた。

宝国寺の堂内には左右に千手観音(せんじゅかんのん)薬師観音(やくしかんのん)が配され黄金色に輝いている。長恭と青蘭は、長い三本の線香を香炉に供えると、仏前に(ぬか)づき三礼をした。青蘭は、手を合わせる長い間祈っていた。

『師兄の無事を感謝いたします』

青蘭は、長恭の無事を感謝しつつも、名節を踏みにじる長恭の心ない行為を思い出し涙が滲んだ。


僧都(そうず)に挨拶をして堂の外に出ると、青蘭は真夏の陽光の明るさに目眩(めまい)を感じてよろめいた。すかさず長恭が、逞しい腕で支えた。

「青蘭、大丈夫か?」

覗き込んだ長恭の眼差しは優しい光に満ちている。しかし乱暴に触れられた唇の感覚が(よみがえ)って青蘭は体を固くした。


夏の強い光の中、青蘭は急ぎ足で楼門に向かって歩き出した。しかし、歩幅の大きな長恭は、すぐに追いついて青蘭の手を捉えてしまった。

「青蘭、待ってくれ・・・話を聞いてくれ」

長恭は、青蘭の腕を取ると、有無を言わせず歩き出した。

宝国寺の庭は有名であるが、いつも人気が少ない。参道を右に折れ、鐘楼(しょうろう)の横を過ぎると小さな門をくぐり庭園に入る。灌木(かんぼく)に囲まれた小径を行くと、地形を生かした小さな流れが左に見える。

築山の上の四阿(あずまや)に入ると、人影はなく涼風が襟元を過ぎていく。二人は並んで座った。

「青蘭、さっきは、乱暴なことをして悪かった。」

あれ以来、二人は、ほとんど口をきいていない。

「私は感情で動く人間ではない。でも、・・・」

いつもは、弁舌爽(べんぜつさわ)やかな長恭が、しどろもどろである。

「陣中で、どれほど君に会いたかったか・・・その感情を抑えられず・・・。君を失いたくない」

長恭は、眉根を寄せ汗をかきながら子供のように言い訳をしている。清雅(せいが)な長恭が()ねたように唇を尖らせた。

「大丈夫、・・・もう怒っていないわ」

青蘭は顔を上げてぎこちない笑顔を作ると、長恭の肩を指先でつついた。

「師兄、・・・好きよ。でも、そういう事は、・・・まだ・・・」

「分かった。・・・みんなに祝福される日まで・・・待つよ」

長恭は、おずおずと青蘭の手を取り、両手で握った。


      ★       ★


八月になり、戦勝後の報償(ほうしょう)が行われた。斛律(こくりつ)衛将軍は朔州刺史(さくしゅうしし)に任じられ、高長恭は、開国県公に叙爵(じょしゃく)された。それに伴って北斉の朝廷では、大幅な人事の異動が行われた。段韶(だんしょう)司空(しくう)に登り、高演は、大司馬(だいしば)となった。高湛(こうたん)尚書令(しょうしょれい)に加え司徒(しと)を兼ねた。

 

前日には、勅使(ちょくし)が来ると宣訓宮に知らせが来ていた。長恭が盛装(せいそう)をして清輝閣で待っていると、勅使の宦官が現われて聖旨(せいし)を読み上げた。(ひざまづ)きながら長恭が受けた爵位は、開国県公であった。こたびの戦功を寿(ことほ)いだ後、楽城県(らくじょうけん)開国県公の言葉が長恭の頭上で発せられたのである。

「感謝致します」

長恭は、内心の動揺を抑えて両手で聖旨を受ける。勅使が帰った後も、長恭はしばらく立上がることができなかった。

『なんで、開国公なのだ』

第四皇子である自分が、王位ではなく何で開国県公なのだ。調練を厳しく行い、兵士を統率(とうそつ)したと自負している。戦にあっては、先陣に立ち自ら(げき)を振い、多くの首級(しゅきゅう)を挙げた。諸将達の評価も決して低くない。第五皇子である弟の延宗でさえ一昨年に安徳王の爵位を賜っている。それなのに、第四皇子である自分が戦功を挙げても、なぜ王位を得ることができないのか。

長恭は他の侍女や宦官達が去った堂房で、ゆるゆると立上がった。長恭付きの吉良だけが、傍らで心配そうに見詰めている。


「若様、・・・」

長恭は聖旨を掴むと、重い足取りで正殿に向った。聖旨を受けたら、皇太后に報告しなければならない。

『淡々と、感謝を示して・・・』

幼少のころから母親の身分の低さゆえ侮りを受けても、平静を装って来たのだ。他人に心の内の悔しさを見せず、誇り高く生きる事こそ自分を保つ術だったのである。


正殿の堂には入ると、すでに知らせを受けているのか皇太后は居房の窓際に立っていた。

長恭が、皇太后の前で拝礼しようとすると

「おお、粛か、礼はよい」

皇太后は、長恭の身体を腕で支えて立ち上がらせた。見上げた祖母の眉が曇っている。

「先ほど、開国県公の爵位を賜りました」

婁氏は、長恭の言葉を聞いて溜息をついた。事前に叙爵の内容を知らされてはいなかった。しかし、他の皇子たちとの兼ね合いを考えると、王位は確実だと思っていたのだ。

「そうか、・・・私も知らなかった。まさか・・・」 

戦功に合わせた叙爵を決めるのは、宰相(さいしょう)楊韻(よういん)である。楊韻にとって、長恭は、皇族を束ねる婁皇太后の秘蔵(ひぞう)っ子として避忌(ひき)すべき存在なのだろう。婁氏は、広げられた聖旨を眺めながら肩を落した。

「段韶に話して、もっと・・・」

「いえそれには及びません。・・・初めての爵位です。今後の励みに致します」

尚書右僕射(しょうしょうぼくや)の段詔の助力で長恭に王位を得させようとする婁氏の言葉を、長恭は強く制すると決意を述べた。皇太后は実の祖母であるが、心の内の不満を正直に話すことはできない。今回の報償への不満が陛下の耳に入れば、謀反(むほん)と捉えられかねないのだ。

「そうか、江南から取り寄せた清明茶(せいめいちゃ)だ。」

婁氏は、長恭に榻を勧め茶杯を満たした。いつもは、心を和ませる清明茶の芳しい香も、今日の長恭の心を明るくすることはできなかった。

「・・・失礼します」

長恭は、(うつむ)きがちに茶杯を干すと、居房を退出した。


前庭の木槿(むくげ)の花に、晩夏の陽光が容赦なく照りつける。長恭は、だれにも会わないように足早に清輝閣に向かった。

『悔し涙も流せないこの宮殿は、我が家なのか?私の居場所はどこにもない・・・』

宮中では、発した言葉が伝わらないということはない。自分の居所にいながら長恭は叙爵への不満も、侮りへの怒りも口にできないのである。長恭は宣訓宮に居ながら自分は孤独であると思った。

『青蘭に会いたい』

許嫁(いいなずけ)とは言え、同門の兄弟弟子(きょうだいでし)だったときのように、度々会うわけにはいかない。堂の弓架(きゅうか)に掛けた弓矢を手に取ると、報償への怒りがむくむくと湧上がってきた。

『何故、皇子である私が開国県公なのだ。調練での努力も戦での奮闘(ふんとう)も意味がないというのか』

鬱屈した感情が秀麗(しゅうれい)な瞳に宿り、侮蔑に対する怒りが熱い悲鳴のように桃花の唇から吐き出された。

「だれよりも強くなりたい」

長恭は、素早く三射放った。

「私は、決して負けない」

歯を食いしばって、二射放った。言葉や素振りに表せないだけに、長恭の感情は内向し、矢筋は乱れに乱れた。


     ★         ★


数日経って、爵位授与の祝いを名目に、延宗が宣訓宮の矢場を訪れた。

「兄上、開国県公とは驚いた。てっきり王位を賜るかと思っていたのに、さては・・・」

延宗は、頬を膨らませて片眉をしかめた。延宗は、あくまでも率直である。

()めよ。延宗、それ以上は言うな」

長恭は、鋭い語気で延宗を(さえぎ)ると、(つが)えた矢を射た。弓は、僅かに中心を外した。

「私に不満はない。まさか、宮中で口に出しているのではあるまいな」

となりで控える延宗に向かって言った。

「もちろん、僕だって馬鹿じゃない。そんなこと言わないよ・・・」

長恭は、眉も動かさない冷静さで、四射目と五射目を放った。

「それより、延宗そなたは、私が居ない間に怠けて居たのではあるまいな?」

長恭は、爵位の話を打ち切ると、射術の鍛錬の話に逸らした。


「大丈夫です。ちゃんと稽古をしてました。それより、金虎台(きんこだい)の話を聞いた?」

長恭が的から矢を抜き戻ってくると、延宗が、彼に似合わぬ真剣な顔で訊いてきた。

「金虎台の話?」

長恭は、昨日侍中府で同僚の散騎侍郎が、金虎台で何かあったらしいと話していたのを思い出した。延宗は、皇后の元で生活しているために、宮中の情報が早いのである。

「そう、金虎台で叙爵の宴があったのだが・・・」

その後延宗が語った事は、長恭にとって驚くべき事であった。


数日前、斛律光は朔州刺史(さくしゅうしし)を命じられ即刻朔州に赴いていた。斛律光以外の高官が、金虎台に招待されて叙任の宴を催したのである。

そして、その宴の座興(ざきょう)として、囚人達が渡り橋から下へ落とされたというのである。その高さは、十間(二十メートル)以上あり、多くの囚人(しゅうじん)は、血みどろの中で死んだという。

血の気の多い鮮卑族の将軍達も顔色を変えた。さすがの高洋も座興を半ばで中止し、箝口令(かんこうれい)が敷かれた。やがては、その噂も宮中から皇宮、鄴城内へと際限なく広がっていった。

「囚人の死を(さかな)にして、酒を飲んだというのか」

長恭の唇は震え、頬が蒼ざめた。

「狂っている。死罪にするなら、他の方法もあろう。座興にするなど、・・・紂王(ちゅうおう)にも劣る」

南北朝時代の刑罰は、見せしめの意味合いもあって市中公開で行わるのが通常であった。しかし、それは厳然たる刑罰であり、今日の倫理観で判断するべきではない。囚人の死をさながら酒肴のように弄ぶことはさすがに人倫に背くことであると考えられていた。


紂王と言えば、池酒肉林(ちしゅにくりん)姐己(ほうじ)への寵愛、そして炮烙(ほうらく)の刑で知られる歴史上最も暴虐(ぼうぎゃく)な君主である。何事も真摯(しんし)に取り組む長恭にとって、叔父が皇帝である王朝で、紂王に並ぶ残虐(ざんぎゃく)な処刑が行われたと言うことは、衝撃的な事実であった。

『これが、天命を受けた皇帝のやることか。民に会わせる顔がない』

共に顔氏門下で儒学を学んだ青蘭に、どう話せばいいのであろう。延宗が弓を手に矢場に向うと、長恭は平静を装い、力なく四阿の柱に背を預け、やっと自分を支えた。


     ★      ★


朝晩は涼風が吹き、丹桂(きんもくせい)の黄丹色の花が甘ったるい芳香をまき散らす秋になった。

八月十五日は、中秋節である。中秋節は、十五夜の月を観賞するだけでなく、秋の収穫を祝い家族の絆を強める場でもある。中秋節の宴では、家族が集まり月の形をした焼餅や果物を食して中秋を祝うのが常であった。


東魏の孝静帝(こうせいてい)は、紀元五五十年北斉が建てられると、中山王に落され、皇后も中山王妃そして太原長(たいげんちょう)公主と呼ばれるようになった。 毒殺の恐れが続き、中山王妃は、常に中山王の側を離れることはなかった。

しかし、中秋節の宴では、皇后の李姐娥(りそが)よりの招待で正式の懿旨(いし)が出され、仕方なく兄弟達が集う宴に出掛けたのである。


孝静帝は王妃にとって望んだ婚姻の相手ではなかった。しかし、父高歓や兄高澄に圧迫されながらも、魏の王朝を守ろうとする夫の矜持(きょうじ)と人柄にふれ、共に戦うようになったのである。

平陽公主(へいようこうしゅ)が、宝国寺に参拝に行っている。夕方には迎えに行っておくれ」

中山王妃は、宦官にそう念を押すと、迎えの馬車に乗り込んだ。


その夜の中秋節の宴は、兄弟が皆そろい、(なご)やかな雰囲気の中で進んだ。酒が進むと乱れて来ると言われる高洋が、中座(ちゅうざ)したので兄弟は一気に緊張が解けて、和やかな歓談が繰り広げられた。中山王妃は、皇后に勧められるまま後宮で就寝した。


早朝、中山王妃は侍女の悲痛な声で起こされた。

「王妃様、中山王様と皇子様が亡くなられました。公主様は行方不明でございます」

昨夜、中山王と皇子二人が中山王府で毒殺されたのである。

「あっ」

中山王妃は、言葉を失った。中秋節の家族の宴、李皇后からのたびかさなる招待、機嫌のよい皇帝の中座、自分の早い酩酊(めいてい)、昨夜の何気ない違和感が一つに繋がった。

『洋は、私を後宮におびき出し、その間に中山王と子供達を毒殺したのね』

ほどなく、中山王妃のいた信徳殿(しんとくでん)は近衛軍によって包囲され、中山王府には帰れなくなった。


中山王毒殺の噂は瞬く間にそして密かに広まった。一番衝撃を受けたのは、婁皇太后であった。それが真実であると分かると、婁氏は悲嘆のあまり起き上がることができなくなった。

「何故、中山王を殺さねばならぬのだ。・・・斉の建国時の約束を忘れてか。・・・何の力も持たぬのに」

婁氏は、力なく頭を枕に乗せて言った。

「あまり嘆かれますと、お体に触ります」

秀児は、薬湯(やくとう)の匙を差し出しながら慰めた。


病の知らせを受けて今上帝高洋が見舞いに訪れたが、面会は叶わなかった。王琳への援軍で、一度は和解した母子であったが、中山王の毒殺の件で母子関係の不和は決定的なものとなった。

中山王の死によって、中山王妃の称号を失った太原長公主は、宮中の太原長公主府に軟禁(なんきん)され監視(かんし)を受けるようになった。自死の恐れがあったからである。そして、宝国寺に参拝していた平陽公主の行方は、洋として知れなかった。


       ★        ★


数日後、常山王高演が、母皇太后の見舞いに訪れた。

高演は、婁昭君(ろうしょうくん)所生の三男である。温和で博識(はくしき)であり李同軌(りどうき)を師として学んできた。高家の例に漏れず美丈夫であり、高歓の面影を一番引き継いでいるかも知れない。婁氏は長男高澄の死後、兄弟の中では三男の高演を一番信頼し寵愛してきた。高演は、兄の高洋が斉を建てると、常山王に封ぜられ、幷州(へいしゅう)尚書令、司空、録尚書事を歴任し、この年には、大司馬となっていた。


高洋が酒に溺れ酷薄(こくはく)の度を増すに従って、婁氏は息子との関係を隠し反って疎遠(そえん)を装っていた。高洋の嫉妬心(しっとしん)を恐れたのである。しかし、婁氏が心痛のあまり倒れるに至り、高演は見舞いに訪れた。

「母上、お体の具合はいかがですか」

高演が榻牀の帳の外から声を掛けた。

「演か・・・」

帳の中から、白い手が伸びて高演の掌を掴んだ。

「そなたも出ていたのか中秋節の宴・・・」

「はっ?」  

高演は、中山王毒殺の顛末(てんまつ)が正確に皇太后に伝わっていることを悟った。

「そなたは、中山王が殺されたとき、暢気(のんき)に酒を飲んでいたのか?」

婁氏の声は、怒りに震えていた。そして高演を掴んだ手を放した。

「私は、何も知らず・・・申し訳ありません」 

高演は、病床の母の顔を見ることができなかった。婁氏は、高澄が暗殺され高洋が斉を建国して以来、ひたすら一族の平安を願ってきた。娘二人の婚姻を犠牲にして建てた斉国である。その後、鮮卑族の反対を押し切って李姐娥が立后されると、漢族と鮮卑族の対立を避けるため、後宮の外に隠棲(いんせい)する道を選んだのである。

しかし、中山王と皇子が毒殺されるに到り衝突を避けようと己の選んだ道を後悔していた。秀児が帳を開けて、婁氏を手助け起こした。婁氏は哀傷に満ちた顔で高演を見遣った。

「演よ、そなたに頼みたい。・・・一族を守って欲しい」

強い眼差しで息子を見詰めると、力なく目を閉じた。帳の奥に見える母の顔は憔悴(しょうすい)しきっている。


斉の国は、父高歓と母婁昭君で基礎(きそ)を造ってきたと言っていい。母皇太后の斉への信頼が揺らいでいるのだ。高演は、『一族を守って欲しい』との母の言葉を反芻してみた。中山王家の毒殺のような事態を防いで欲しいと言うことであろうか。それとも、兄の高洋は、皇帝に相応しくないと言うことであろうか。

「母上、斉と一族を守りまする」

高演は、やっとの事で起き上がっている婁氏に力強く誓った。

『母上は、謀反を起こせと?・・・いやそんなはずがない』

高演は、母婁皇太后の言葉に首を(ひね)りながら常山王府に帰った。



      ★       ★



侍中府の前庭には、菊の花鉢が置かれ重陽節の近いことを知らせている。

長恭は、開国県公に封ぜられたと言っても、二百戸の加増があっただけで、散騎侍郎としての職務は何ら変わるものではなかった。


長恭は、初秋の爽やかさの中、侍中府の書房に入ってきた。すでに、几案では廬思道(ろしどう)が上奏文の弁別に当たっている。長恭が、廬思道に挨拶をして几案(きあん)に座り、筆墨を出していると、思道が近付いてきた。

「長恭殿、聞いたか?」 

「はっ?」

長恭は、思道の言っている意味が分からず、晴朗(せいろう)晴朗(せいろう)な瞳を見開いた。戸惑っていると、思道が身振りで書庫房に誘う。朝の書庫房は、まだ無人である。廬思道は、書架(しょか)書冊(しょさつ)を探す素振りをしながら、小声で言った。

「昨日、常山王が、陛下に刺された」

常山王高演と今上帝高洋は共に、長恭の叔父である。高演は、その温柔な人柄で皇族の中でも信頼を得ている人物である。

「常山王は、ご無事なのですか?・・・」

「ああ、剣で肩口を刺され、瀕死(ひんし)の重傷とのことだ。陛下の乱行を諌言(かんげん)したためらしい」

長恭は、言葉もなかった。そして、それを知ったときの皇太后の心痛が心配された。

『自分の子供同士が血を流したと知ったら、御祖母様はどれほど嘆かれるか・・・』

長恭は、皇太后の心中を思うと、慚愧(ざんき)の念に耐えなかった。


官服姿の長恭が戻ってきたのは、申の刻であった。

門衛から青蘭の来訪を聞いていた長恭は、清輝閣の扉を荒々しく開け、真っ直ぐ青蘭の待つ居房にやって来た。

「来てくれていたのか」

長恭は、立上がった青蘭の肩を抱いた。

「中山王が毒殺されて、御祖母様が心痛のあまり床に伏せられたのだ」

中山王家と言えば、昨年末長恭と行ったばかりである。

「中秋節に中山王妃を邸外に呼び出し、その間に毒を盛られた」

「誰が毒殺など・・・」

青蘭が問うと、分かっているだろうと長恭の玲瓏(れいろう)な瞳が答える。中山王妃の悲嘆を思うと、青蘭は言葉もなく首を振るばかりだった。

「ところが、先日陛下に諌言した常山王が、陛下に刺されたのだ」

常山王と言えば、実の弟である。諌言した弟を兄が刺すなどということが、あるのだろうか。兄弟で父王琳を支えているのを見て来た青蘭にとって、兄弟での刃傷沙汰(にんじょうざた)など信じられぬことであった。

「まさか・・・」

「今朝、廬思道に聞いた。・・・本当だ」

長恭は、身体を預けるように(とう)に座ると、額に手をやった。

高洋は、これまで銅雀台(どうじゃくだい)、金虎台と氷井台の三台の改修を行い、さらに宮殿と游豫園(ゆうしょうえん)を造営するなど、多くの血税を使った建築を行っていた。民の困窮(こんきゅう)を顧みることなく、皇帝は贅沢(ぜいたく)の限りを尽くしながら、残虐な行為を行っていたのである。

『何という事だ。斉は、どんな国なのだ。金虎台での惨殺、中山王の毒殺、常山王の刺傷などあってはならないことだ』   

自分が皇族であることが恥ずかしい、自分が命懸けで守った斉はそんな国なのだ。怒りに唇を歪ませ拳で卓子を叩いた。

「許されぬ・・・」

陛下を呪う言葉を青蘭に聞かせたくなくて唇に拳を当てた。長恭は、卓子に肘をつくと、怒りで蒼ざめた頬を手で二度叩いた。


青蘭は、怒りと悲嘆にくれる長恭の背中に腕を伸ばし、体を寄せた。

「師兄、常山王は、身をもって陛下を御諫(おいさ)めしたのね」

長恭が、振り向くと青蘭は長恭の肩に顔を寄せて来た。常山王は、父上の兄弟の中でも、最も聡明(そうめい)で国を憂いている皇太后の希望である。

長恭は、溜息をつくと腕を伸ばして青蘭を抱き寄せた。

「常山王は、立派な方だ。しかし、そのような忠臣が瀕死(ひんし)の重傷を負わされるとは、・・・」

「南朝は戦乱の中にあるけれど、斉の宮中も安寧(あんねい)ではないのね」

青蘭の瞳が困惑(こんわく)に揺らめき、桃花のような唇が(かす)かに震えた。

「自分は、ただ実直に政務に励めばいいと思っていた。しかし、理不尽な政に臣下も民草も疲弊(ひへい)している。力が欲しい。正しいことをするための力が欲しいのだ」

長恭は、青蘭の顔を覗き込むと頬を近づけた。



凱旋の喜びもつかの間。こたびの恩賞を心待ちにしていた長恭が、賜ったのは開国県公の位であった。悔しさに堪える長恭。そんな中、斉の朝廷では、皇帝高洋が昏迷をを極め、残虐な所業に及んでいた。何もできない自分に悔しさを感じながら、力が欲しいと思う長恭であった。

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