西門豹廟の破壊
周国境での戦いが続くなか、斉の国内では、雨が降らず旱魃の被害が起きていた。そんな中、雨を降らす神として崇拝されて来た西門豹廟が、多く破壊されるという事件が起きた。
五月の青空の下、青蘭と延宗は馬を引いて城門を出ると騎乗し、林虎山を正面に見て西に駆けた。今日の青蘭は婁氏の命に合わせて、男子の髷を結い小さな冠を付け、藍色の長衣に身を包んでいる。
小暑も過ぎた五月にもかかわらず野の草はしおれ、所々の草は土色に枯れている。ここ一か月はほとんど雨が降っていない。
二人は、漳水に至り馬を降りた。漳水の河畔の喬木の林に入ると、陽光は遮られ涼しさを感じる。青蘭は馬から降りて、水筒を取り出し喉を潤した。今日の青蘭は、男子の髷を結い地味な藍色の長衣に身を包んでいる。
昨夜延宗からの手簡が来て、西門豹廟の巡察して来るようにとの皇太后の命を知らせて来たのだ。
「延宗様、西門豹廟の何を見てくるようにとの御命なのですか」
青蘭は、手巾で汗を拭った。
「何者かが、多くの西門豹廟を破壊したのだ。壊された廟の様子と誰が壊したのかを調べてくるようにとの御命なのだ」
延宗も腰の水筒を取ると、喉を潤した。
「何と陛下が、西門豹の廟を壊したという噂を宮中で聞いたのだよ」
延宗は、苦虫を噛みつぶしたような顔で思わぬことを言い放った。
「まさか、陛下が守り神の廟を壊すことなどありえない。そのような愚かのことをする君主はいないはずよ」
青蘭の言葉に、延宗は何も言わず顔をしかめた。
この時代よりおよそ千年前、春秋戦国時代に、灌漑を整備し鄴の農業の基礎を作ったのが、西門豹である。中原でも豊かな地域となった鄴の人々の崇敬を集め、その周辺には大小の西門豹廟が多く築かれ信仰されて来たのだ。魏の曹操は、その死に際して西門豹廟の側に墓陵を作ることを遺言したという。それほど鄴の人々の信仰を集める西門豹廟を、いったい何者が、この干魃の時に破壊したのであろうか。
鄴城は、二つ存在する。北斉のこの時の鄴城は、三国時代に曹操が建設した南城である。その北には、春秋戦国時代から漢代に渡って栄えた北城が存在していた。西門豹が鄴の人々のために灌漑工事をしたのは、この北城である。
青蘭と延宗は、馬鞭を振うと漳水の東岸を北へ向った。
漳水からは、西門豹の灌漑事業により多くの溝が掘られ鄴城より北の畑を潤している。しかし、よく溝を見ると流水は少なく末端までは行き届いていない事が分かる。
北城跡を右に見ながら北進すると、小さな西門豹廟が見えてきた。これは、小さな三尺(およそ一メートル)ほどの祠と言っていい廟である。祠は何者かによって手荒く倒された後、立て直されたのであろう。
青蘭と延宗は、祠の前に額づくと手を合わせ三拝した。
「小さい廟でこれほどとは・・・」
暗い予感に延宗は眉を潜めた。
六月が麦の収穫の時期である。ところが降雨の不足により五月になっても麦の生育が悪い。灌漑が行き届いているはずの鄴城の北でこのような惨状であれば、他は推して知るべしであろう。
『このまま、雨が降らねば、鄴城周辺は、大凶作になるに違いない』
青蘭は、深い溜息をついた。
「あの林の中に、大きな西門豹廟があるようだ」
延宗が手元の地図を確認しながら、河畔に見える林を指さした。喬木の間に点々と見えるのは、民であろう。多くの人々が林を出入りしている。
青蘭と延宗は、馬の腹を蹴り、林の入り口で馬から降りた。馬を引いて林の中に入ると、中央は広場になっていた。
広場には基壇が築かれ、その上に石造りの西門豹廟が建てられていたのである。しかし、小さい殿舎ぐらいの大きさの廟は、右側が大きく崩れ左半分の瓦もほとんど落ちている。廟の回りには、壊された石材が散乱し、基壇の端には供物の果物や花木が献げられているのが悲しく見える。
基壇の回りには、多くの男女が右往左往していた。ある者は、崩れた石を片付け、ある者は涙に暮れながら祈りを捧げている。
「西門豹廟を、こんなにしおって・・・」
壮年の農夫が、顔を赤らめて憤慨した。
「よりによって、日照りの時に何で西門豹廟を壊しちまうんかねえ」
埃にまみれた農婦が、石を片付けながら溜息をついた。
延宗が、前を横切った農夫を呼び止めた。
「なぜ西門豹廟が、このように壊されてしまったのです?」
農夫は、地味だが商家の若様風の延宗を見た。信心深い若様が心配で、様子を見に来たと思ったのであろう。
「三日前でさあっ、黒い衣の衛兵が来て壊していったんでさあ」
よく聞いてくれたと、怒りを隠さず話し出した。延宗は、頷きながら二、三質問すると銭を渡した。
「十人以上の黒衣の衛兵とは、近衛軍だ。あの者によると、鄴城以北の廟はほとんど壊されたらしい」
延宗は、青蘭の耳元に口を寄せると小声で言った。その時、二人の足元で老婆が破壊された廟に向って祈りだしたので、二人は数歩退いた。
「廟をこれほど壊すとは、・・・民の心を何と思っているのか。この所業は、白起にも等しい」
青蘭が数十万人を殺しつくした秦の将軍を例にとり、怒りの言葉を吐くと、延宗が袖を引いて止めた。
「青蘭、声が大きい」
怒りが収まらない青嵐は、延宗を睨んだ。延宗は、青蘭の腕を掴むと人気のない林の中に連れていった。
「この斉で、近衛軍を動かすことができるのは?」
延宗は、長恭に似た端整な眉目で青蘭を見詰めた。
「陛下以外は、・・・近衛軍の動かせない」
「廟の破壊を命じたのは、噂通り陛下だというの?」
青蘭がまさかという思いを口に出すと、延宗は苦しげに眉を潜めて頷いた。
辺りを見回すと、農民とは見えない衣の男達が辺りを窺っている。地味ながらも良家の若様然とした装束の青蘭と延宗は、民の中で目立つ存在である。批判的な民の動きを監視する間者かも知れない。二人は見物を装い談笑すると馬を引きながら何気なく廟を離れた。
林を出て辺りに人気がなくなると、青蘭は延宗を凝視した。
「民の信仰の拠り所を、皇帝が破壊するなんて信じられない。斉は、そんな国なの?延宗様」
延宗は、青蘭の視線を外すように遠くを見て歩き出した。
「僕は、皇族でありながら、その疑問に否と答えられないのが辛いのだ」
延宗は瞳を暗くして目を伏せた。真っ直ぐな性格の延宗にとって、仕えるべき君主で叔父でもある皇帝の乱行は、聞くに堪えないことであろう。
「まあ、私達は見聞きしたことを、そのまま復命するのみだ」
青蘭は、延宗の気持ちを引き立てるように強いて明るく言うと、笑顔を作った。
太陽は中天を過ぎ、西へ傾きつつある。西の方を望むと、遠く林虎山が蒼天に薄紫色の姿を見せている。
『師兄のいる平陽は、あの林虎山より遙か西の果てだ』
青蘭は、その隔たりに目の奥が熱くなった。
「延宗様、白馬城が落ちたら、師兄はいつごろ凱旋されるのですか」
視線を落していた延宗は目を上げた。そして、青蘭の視線を感じると困ったように口をすぼめた。
「斛律衛将軍は、絳州まで平定する心積もりなのではないか。まだ、凱旋の予定は届いていないのだ」
絳州まで陥落させるまで凱旋しないという延宗の言葉に、青蘭はたちまち昏さに包まれた。
『それでは、師兄はいつ戻ってくるか分からない』
絳州は、黃河が南から東へ流れを変える場所であり、斉から周の領土に突き出たような地形になっている。黃河の水運を支配する要衝なのである。何か月かかっても陥落できるとは限らないのだ。
青蘭と延宗は、これぞれの思いに肩を落しながらも、茜色の夕日の中鄴城に戻って行った。
★ ★
「そうか、西門豹廟は、それほど破壊されているのか」
榻に座った皇太后は、青蘭と延宗の報告を聞くと肩を落し溜息をついた。
「黒い衣を着た衛兵が、壊したというのか」
「私が民より訊き取りをしましたところ、三日前十人ぐらいの衛兵らしき者が、漳水付近の廟を壊して回ったと・・・」
黒に鹿の織り紋のある衣は、近衛軍の徴である。そして、近衛軍は皇帝の意を体して動くのである。
婁皇太后の脳裏に、暗い予感が湧いてくるのだった。
「京師府でさらに調査するように段韶に命じよう。ただ、このことは他言無用じゃ」
婁氏は、苦渋に満ちた表情で二人を観るときっぱりと命じた。
「肝に命じまする」
二人は、丁寧に拱手すると正殿を退出した。
宣訓宮は空の明るさにも拘わらず、前庭は、すでに夕闇の中にあった。回廊に灯された灯籠に照らされて、夾竹桃の花が赤い陰を作っている。
延宗は、男子の装束に化粧っ気のない面貌は、延宗にとって平凡であると感じられた。そんな青蘭に、美丈夫の誉れ高い兄長恭が執心するのが、理解できなかったのだ。しかし、今は分かる気がする。黄昏の中、秀でた鼻梁に長い睫に大きな瞳が清澄に輝いている。他の女人と違って青蘭は媚びを売らない。化粧していない青蘭の横顔は、不思議なほど清光に輝いていた。
★ ★
鄭家の公苑にある四阿、大暑も近いうだるような暑さの中で、青蘭は『孫子』を手にしていた。蓮池の辺に植えられた合歓の木の花さえ、暑苦しさを感じさせる。青蘭は、卓上の冷たい茶で喉を潤した。
母鄭佳瑛によると、慕容儼の援軍により父王琳将軍は、濡須口周辺に大きな勢力を誇っているという。自分が江陵から逃げたことに、父王琳の戦略に痛手を与えてしまったことは、青蘭の悔恨の種であった。王琳の率いる梁が大きな勢力を誇っていることで、やっと安堵する青蘭であった。
長恭が出陣して以来、三か月以上経っている。延宗からの情報によると、絳川の竜頭城を攻略したものの、平陽の白馬城の攻略は難航しているという。
夥しい兵糧が、鄴城を出て久しい。籠城戦は、膨大な兵糧と時間を要するのが常識である。半年や一年のときを要する場合もある。
『孫子』にもある。
『兵は拙速なるを聞くも、未だ功久なるを賭ざるなり。夫れ兵久しくて国の利する者は、未だこれ有らざるなり』
『戦争には、拙速ということはあるが、恒久という例はない。そもそも、戦争が長引いて国家に利益があるということは、あったためしがない』
絳州の攻略にしては、周の懐深く攻撃する戦いである。青蘭の心に黒い不安と共に涙が溢れて来た。
「青蘭、そこにいたのか」
声のした方を振り向くと、延宗が正房から続く小径を走ってくる。
青蘭は、慌てて涙を拭くと、立ち上がった。最近延宗は、射術の稽古を理由に、頻繁に鄭家に来ている。そのために、案内も請わないで後苑に入ってきたのだ。
青蘭は、四阿を出ると笑顔を作った。
「延宗様、おいででしたか」
青蘭は、両手を合わせ丁寧に礼をした。
延宗は慌ててきたのか、衣も乱れ息も荒い。
「六月末に兄上が戻ってくるぞ。凱旋だ」
「本当に?・・・師兄がお戻りになると」
青蘭は、全身の力が抜けて倒れそうになり延宗に支えられた。
「今朝、絳州より伝令が来て戦勝の報が入ったのだ。青蘭殿に早く知らせたく・・・」
延宗は、青蘭を促すと四阿に入った。
「でも、すぐには戻れない。絳州の采配を決めてから、凱旋となるだろう。・・・今回の活躍を思えば、兄上の念願の王の爵位も賜るはず」
長恭が、爵位を熱望していたは、初耳であった。
「師兄は、そんなに爵位には拘っていなかったはず」
青蘭が何気なく言うと、延宗は急に渋面になった。
「何のために兄上が努力してきたのか、青蘭は分からないのか?許嫁失格だな。まったく、慌てて知らせに来て損をしたよ」
延宗は、明るく笑うと冷たい茶の入った青蘭の杯を一気に干した。
★ ★
六月の末に、斛律衛将軍が率いる北軍が凱旋した。
前日に安陽で軍装を整えた北軍を、皇帝以下全臣下が、宮城の正門である中陽門で出迎えるのである。
青蘭は、巳の刻(午前十時~十二時ごろ)に鄭家を出ると、開化坊に面した中庸門大街に向かった。これほどの男女が鄴城に居たのかと思わせる人出である。人々は日頃の憂さを忘れ、戦傷の喜びに沸き立っている。
「斛律将軍は、たいしたもんだ」
「国立大将軍がいれば、怖いものなしだ」
凱旋の軍を出迎える民衆の中からは、斛律衛将軍を讃える言葉が、あちらこちらから挙がっている。
夏の太陽が、中天から人々をぎらぎらと照らしゆらゆらと陽炎がたっている。人息れで、気が遠くなろうとしていたとき、城門から入ってくる北軍の軍旗と戟の林立が見えた。やがて、騎兵が城門より入城してきた。
よく見えるように薬房の基壇に上がると、一際大きな駿馬に跨がった斛律光衛将軍の姿が見えてきた。
斛律光は、四十代半ば、豊かな髭を湛え鋭い眼光が辺りに威を振っている。黒明鎧が、真夏の陽光を受けて力強く輝いていた。
青蘭は、斛律光の後ろに視線を走らせた。斛律将軍の後ろには、軍師以下属将が続いている。
属将の中に、明光鎧を纏った長恭が見えた。
豊かな黒髪で髷を結い翡翠を鏤めた冠が銀色に輝いている。茜色の斗篷が馬の歩みに合わせて翻り、長恭の後ろに垂らした髪に明るさを添えてた。少し日焼けした頬に、清澄な瞳がじっと前を見据え、美しい唇が緊張のせいか固く結ばれている。青蘭は、歓迎の人混みの間から長恭をよく観ようと背伸びをした。
長恭は、騎上からさり気なく視線を左右に配り、青蘭を探した。あまりに多くの人出で青蘭を見付けることができない。いずれ鄭家に行けば会えると分かっていながら、自分がいない間に姿を消したらと急に不安に襲われたのだ。三間ばかりのところに長恭が近付いたとき、青蘭は思わず大きく手を振ってしまった。貴族の令嬢としては、あるまじき行いである。縹色の袖で、長恭は青蘭の存在に気付いた。
『ああ、・・・青蘭、会いたかった』
そうなんだ、君に会うためにこそ戦塵にまみれて来たのだ。大きく片手を挙げた長恭は、青蘭の方に笑顔を見せ、馬上で小さく拱手した。
武勇を誇る将軍達の中で、眉目秀麗な長恭はどうしても衆目を集める。青蘭は声を掛けることもできず、中陽門に向って進んで行くのを黙って見送るほかはなかった。
「なんて麗しい若様なの」
「素敵な御方。こちらを向いて笑ったわ」
青蘭の回りの女人達は、そんな会話をしながら袖を引き合っている。長恭が功を立て表舞台に立てば、注目を集める機会も多くなる。しかし、他の女人の目にさらされると長恭への誘惑も多くなるのである。それを思うときの、この心の疼きは世に言う嫉妬という感情であろうか。目の前を通り過ぎる騎兵や歩兵を見送りながら、青蘭はこの不思議な感情を持て余していた。
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中陽門では、今上帝高洋が皇后李姐娥以下高官達を従えて斛律衛将軍を出迎えた。そして、文昌殿の前の前庭では、盛大な凱旋式が執り行われた。
ほどなく戦勝の宴となった。文昌殿の堂には、今上帝高洋と皇后李姐娥を正面にして、左右に斛律光衛将軍と丞相の楊韻が座している。
肌も露わな妓女の妖艶な舞踊が繰り広げられ、戦勝を寿ぐ皇帝の褒詞で宴が始まった。左右には漆塗りの几が向かい合わせに配され、戦塵の香を纏った諸将が座を占めている。
長恭も参軍として末席に連なった。若い宮女が流し目で媚びを売りながら杯に酒を注いだ。
酒杯を取ると、強い酒を口に流し込む。目を閉じると大街で自分を迎えてくれた青蘭の姿が目に浮かぶ。
「長恭殿の武勇には驚かされたぞ」
右斜め前の席の独狐永業が、酒瓶を持って話しかけてきた。
独狐永業は、兵糧を取り仕切る実務に長けた人物である。宮女が長恭の酒杯に注ごうとするのを手で制して、永業は長恭の杯に酒を注いできた。
「武勇などと・・・諸将には叶いません」
長恭は、若者らしい精美な笑顔を見せると酒杯に口を付けた。
「いやあ、化粧をすれば、宮女より美しいのに、剣を取れば敵なしとは恐れ入ったよ」
堂の中央では、技女が紅色の紗を翻し胡舞を踊っている。
『褒め言葉なのだろうか』
『女にも見紛う』それは、幼少の頃より長恭を苦しめてきた言葉だ。
美貌であるが身分の低かった母親の出自を侮蔑するとき、後ろ盾を持たぬ長恭の立場を弱さを揶揄するとき、その言葉は容赦なく長恭に投げつけられた。長恭の美しい眉目が怒りに凍りついた。
「武功を立て、お役に立ちたいと思います」
長恭は、何時になくぶっきら棒に言うと唇をかんで横を向いた。温和な人柄だと信頼していた独狐永業に酔いの勢いとは言え、思わぬ恥辱を受け戦勝気分は、すっかり台無しになっていた。
近衛軍の若い将兵による剣舞が始まった。
「まったく、礼儀を知らぬ輩だ」
隣の席の斛律須達が、膝を進めて長恭の耳元で呟いた。須達は斛律光の次男で、長恭の剣術・射術の師匠であった。
「長恭、気にするなあれでも褒めているつもりなんだ。悪気はない」
須達は、長恭の嫌気を払うように言うと、酒瓶を取った。
「今回の戦で、そなたはめざましい働きをした。まったく素晴らしい」
須達は、長恭の気を引き立てるように目を細めて笑顔を作った。
「凱旋の時の娘達の目の色を見たか?そなたの方ばかり見ていたぞ。」
須達は、酒杯で長恭の肩口を突くと、長恭の酒杯に軽く打ち付けた。
夕闇が迫り、堂に燈火が灯された。剣舞が終り、胡姫の扇情的な踊りになっても、宴は終了の気配がなかった。
強い酒で乾杯が繰り返され、徐々に理性が失われていく。長の戦で女人に餓えた男である将達が、給仕に当たる宮女に卑猥な言葉を投げかける。男の中にも、長恭に粘り着くような好色な視線を向け酒瓶を持って寄ってくる輩もいる。
『ああ、何事にも動じないほどの地位と強さを身に付けたい』
長恭は、不快に目を細め深く息を吐いた。
その時、文昌殿の宦官が、小走りにやって来た。
「皇太后様が、お呼びでございます。今すぐに宣訓宮に来るようにとの命でございます」
男であって男でない宦官は、晴豅な長恭の瞳を見ると顔を赤らめた。
「分かった。すぐ行くと伝えてくれ」
皇太后は、気に染まない宴に長恭が出ていると、遣いを送り中座の助け船を出してくれた。しかし、こたびは四か月も会っていないので、本当に具合が悪いのかも知れない。
長恭は、回りの諸将に理由を話すと、席を立った。
朝堂を出ると、宦官の吉良が待っていた。
「皇太后様に、何かあったのか?」
長恭は高齢の祖母が心配で、まずは訊いた。
「皇太后様は、お元気でいらっしゃいます。皇子様が早くお戻りになれるようにとの、御配慮でございます」
吉良は、笑顔で拱手した。
文昌殿の階段を足早に降りていく。長恭は、このまま金明門を出て鄭家へ駆けつけたいと思った。
しかし、青蘭との婚姻のために為さねばならないことがある。王琳将軍のいる長江との距離を考えると、心が急くのだ。
「吉良。青蘭は元気か?」
「はい、お元気です皇子様。よく宣訓宮にいらっしゃいます」
長恭は、青蘭の名前を聞くだけで瞳が潤んだ。
「吉良、そなたはゆっくりと来るがよい」
長恭は、そう叫ぶと長い階段を駆け下りていった。
★ ★
二日後、宦官の石奢が、求婚書と皇太后令を持って鄭家を訪れた。長恭が一刻も早い遣いの派遣を願ったのである。そして、求婚書は即刻肥州にいる王琳将軍の下に送られた。
長恭は、武功を挙げて鄴都に凱旋した。婚姻に向けて心躍らせる長恭であった。