絳州での戦い
長恭が翼州に出陣した。南朝では、陳の建国に対応するために、青蘭の父王琳から斉へ援軍の要請が来た。
長恭が、翼州への出兵に参戦してから、一か月が経ち四月になった。
ほどなく朝議が開かれ、慕容儼が率いる援軍を王将軍が支配する長江流域に派遣することが決まった。郢州で、簫莊を皇帝に擁立した王琳は、皇帝簫莊により侍中、大将軍に任じられ、安城郡公に封じられた。斉からの援軍の報告を受け、王琳は梁の皇帝簫莊と共に長江の上流から東に下る準備を始めた。
端午の節句も近付き、宣訓宮には、鮮やかな紅色や紫色の躑躅の花が咲き乱れていた。
皇太后に召された王青蘭は、蓬の餅を持参して、延宗と共に宣訓宮を訪れた。
青蘭は、門衛の小安に案内され、正殿の前に立った。すでに正殿の扉の前では、延宗が宦官の白順に向って不満げに口をとがらせていた。
「だれか来ているの?さっきから待っているんだけれど」
後宮でも怖いもの知らずで、甘やかされている延宗は、宦官の伊白順に早く通せとせっついているのだ。
「延宗様、白順を困らせるものでは、ありませんよ」
青蘭が背中から声を掛けると、延宗は振り向いた。
「誰かと思えば、青蘭か。義姉上と認めたわけではないのに・・・」
青蘭が姉のように自分を諭したので延宗は、悪態を口にした。
王青蘭は相手にせず満面の笑みを浮かべると、礼儀に則った丁寧な礼をした。
「延宗様、射術の鍛錬は怠りなくやっているのかしら?」
青蘭は、黒目がちな瞳で延宗を見遣った。
「馬鹿にしないでくれ、ビュンビュンとやっているよ」
延宗は同じぐらいの背格好の青蘭の肩を右手で突くと声を挙げて笑った。
延宗は、ふざけた表情を収めると急に真面目な顔つきになり、青蘭に近寄ると小声で言った。
「父上への援軍が決まり、誠によかったではないか」
青蘭は、小さく拱手をすると笑顔を見せた。
その時だ、扉が開き延宗と青蘭が呼ばれた。正殿の堂の入り口に至ると、帳の陰から先客の背中が見える。
「あの方は?」
青蘭は、隣に並ぶ延宗の耳元に唇を寄せた。
「あれは、高帰彦です」
高帰彦といえば、高敬徳の父高岳を陥れ死に追い遣った男である。その讒言の後も、皇帝の寵臣として尚書左僕射の地位を占めている佞臣である。
高帰彦は、宦官のような柔らかな物腰で言った。
「皇太后さま、陛下にお会いくださるのですか。皇太后様のお言葉、陛下はどれほど喜ばれるか。愚かな私にも想像が出来ます。すぐにでもお伝え致します」
高帰彦は丁寧に拝礼をすると、数歩後ずさり退出してきた。顔を合わせたくない延宗と青蘭は、衝立の陰に隠れた。高帰彦は、楊韻に追随する権臣である。
『高帰彦は何のために皇太后様に謁見に来たのか。宮中で何があったのだろう』
青蘭は、不安な面持ちで高帰彦の背中を見送った。
堂に入ると、皇太后は何時もの温顔をで二人を迎えた。
「皇太后様、端午節にちなんで、蓬餅を作ってきました。お口に合うかどうか」
持って来た食盒(取っ手付きの重箱)を侍女の千秋に渡した。
「おう、居房で茶を入れさせよう」
二人は居房に通され、卓の周りに座った。
婁氏の居房は、窓が開けられ涼しい風が通ってくる。窓からは、清輝閣の回りに植えられた紫の菖蒲が、赤い壁に映えて艶やかに揺れている。
「延宗、青蘭よ。端午節にはよい知らせが聞けると思っていたが、絳州での城攻めはなかなか難しそうじゃのう」
先ほどの高帰彦の訪問は、城陥落の朗報では、なかったらしい。
「皇太后様、延宗様は射術も大分上達しました。今度、披露したいそうです」
青蘭は、茶杯を傾けながら延宗を流し目で見た。
「ほう、それは頼もしい。この祖母に見せてくれるか?」
「御祖母様、上達したのは本当ですが、御披露するほどでは・・・」
延宗は、青蘭を睨んだ。
「延宗、早く初陣を果たしたいと申していたな。この祖母が斛律将軍に推薦しようほどに」
婁氏は、射術の鍛錬をしているという孫の成長に目を細めた。
「兄上がお帰りになったら、お目にかけます。そうしたら、斛律将軍への推挙をお願いしますね」
延宗は、青蘭を引きずるようにして宣訓宮を退出し、青蘭の馬車に同乗した。
「青蘭殿、いきなり御祖母様に披露する話は、酷すぎる」
延宗は、青蘭をなじった。
「初陣、初陣と言いながら、鍛錬を怠るとは、戦を侮っているのでは?延宗様は、まだ本当の力を出しておられません。それが、私は残念なのです」
幼くして母を失い、皇后の庇護の下で育てられた延宗に苦言を呈する人はいない。本当の力を出せと言われて延宗は戸惑った。
「本気でやれば、兄上に劣らないと?」
青蘭は、延宗の真剣な眼差しに微笑むと何度も頷いた。太陽の日差しに暑くなった空気を逃すように、窓を開けた。
数日後、今上帝高洋は、婁皇太后への拝謁を果たした。正月の宴以来のおよそ四か月ぶりの母子の対面であった。
★ ★
五月の中頃、王琳率いる梁を助けるため、慕容儼の率いる斉の援軍一万が長江北岸に派遣された。
勢いを得た王琳の軍は、郢州を出て長江の北岸を東進し、濡須口一帯に勢力を広げた。淮水と長江の間の合肥は、北朝と南朝の境であり、濡須口は、巣湖の南岸に位置している水運の重要地である。巣湖は、長江から北に突き出た湖で、巣湖と長江を繋ぐ濡須水の河口部を濡須口と呼んでいた。濡須口の支配は、南朝の物資の流通経路である長江の水運を支配することに繋がった。
この時、青蘭の父王琳将軍は、斉の支援により戦略的に重要な地域を支配していたのである。
一方北方の絳州では、困難な闘いが続いていた。
翼城を思いの外容易く落城させた斛律将軍であったが、白馬城の攻略は困難を極めた。
白馬城の側を流れる汾水の西はすぐに周の領地であり、
兵量の補給から考えると、周の方が有利であった。斉軍は、五千兵で白馬城の東に包囲の陣を敷いたが、城の守りは堅く、攻撃の度に兵力が摩滅していくばかりであった。
幕舎の外に出ると、下弦の月が五月の夜空に掛っている。長恭は、昼の暑さがまだ残る広場に出た。白馬城を包囲する陣中には、各武将達の幕舎が建並んでいる。
出陣してから、およそ三ヶ月の月日が経っている。
『青蘭は、鄴で同じ月を見ているのであろうか』
長恭は、胸元から、金の簪を出してみた。木蓮をかたどった翡翠の簪である。木蓮の翠色の花弁に触れると、青蘭の頬のように滑らかで仄かに温かい。
『明日、白馬城を落すための決戦に向う。青蘭、私を守ってくれ』
この三か月の戦いの勝敗を決める戦いである。先ほど、決起の酒宴が行われ、士気が多いに盛り上がったところだ。
長恭も、外の広場では調練で鍛え上げた兵士達一人一人の杯に酒を注ぎ、激励の言葉を掛けたのだった。兵達は長恭とともに戦う中で、その武勇を知りこの美貌の青年に何か神懸かり的な武運を感じているようになっていた。権高な人が多い皇族の中で、長恭は皇子でありながら兵に対して常に仁愛の心で接し、決して傲慢さを見せなかった。
しかし、長恭は自信に満ちた外面とは反対に、心の内では国を守る義務感と殺戮への罪悪感が、心を苛んでいた。他の将兵の前では、斉のため国を守るためと己の武勇を誇っていても、夜寝台に横になると、考えまいとしても翼城の戦闘で手にかけた将兵や民の顔が浮かんでくるのだ。兵士達が寝静まった頃、夜空を見上げ青蘭を思う時間だけが、人間らしい温かさに戻れる時であった。長恭は、簪を額に押しつけると、翡翠色の木蓮の花に唇を当てた。
次の日、斉軍は陣を引き払い、およそ騎兵二千が絳川に、三千が翼州に向って出立した。白馬城の敵兵をおびき出すためである。追撃の時間を与えるように、兵の歩みはことさら遅い。
長恭も左軍の武将として、騎馬を駆っていた。
斛律光は、南北朝時代最強の将軍であると言われている。将兵の鍛錬、戦略に長けるだけでなく。その償罰は公正で、常に仁愛心をもって将兵に接していたという。そのため、将軍のためなら生命を賭して戦おうという将兵が多かったのである。
また、軍議では、諸将の話をよく聞き、最後に発言することが常であった。高長恭は、参議として諸将の側にいながら、斛律将軍の用兵、人心掌握の術を学んでいたのである。
『孫子』に『近くともこれに遠きを示し、遠くとも近くを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り』とある。近づいても敵には遠くと見せかけ、遠方にあっても敵には近くに見せかけ、利を求めているときはそれを誘い出し、混乱しているときはそれを奪い取るのは、兵法の基本である。
白馬城より、周軍の騎兵三千が絳川に向って慌ただしく出発した。絳川奪取の意図を察知したのである。文侯鎮の付近で周軍が追いつき戦闘になった。予想をしていたとは言え、白馬城の騎兵は精鋭である。態勢を整えた斉軍と周軍との戦闘は苛烈を極めた。
その時、翼城に向うように進軍していた右軍が大きく迂回して追いついた。右軍三千が左翼から襲いかかると、周軍は大きく陣形を崩した。
ほどなく、多くの兵を失った白馬城が落城し、孤立無援となった絳川は陥落した。
苦戦をしていた周国境、絳州での激戦を制して、長恭は凱旋間近であった。