青蘭と延宗の友情
長恭は、周との国境、翼州での遠征に出陣していった。長恭の弟の延宗は、絶世の美女でない青蘭を兄の恋人と認めたくなかった。
『師兄は、今頃は上党辺りまでは行ったであろうか?』
宣訓宮の後苑の四阿に通された青蘭は、桃の花が美しく咲く睡蓮池を見遣りながら、長恭を思った。
もうすぐ上巳節である。
正殿の方から歩いて来る婁氏の隣りで、安徳王延宗が人懐こい笑顔を見せている。
青蘭は笑顔で四阿を出ると、皇太后と延宗の前に進み出て礼に従って挨拶をした。
「皇太后様に、御挨拶を申し上げます」
延宗は、女人の長裙姿の青蘭を眩しげ眺めた。
象牙色の上襦に鴇色の長裙を着け、春らしい鮮やかな浅葱色の背子(ベスト)を身に付けている。女人にしては長身の姿に映えて、いやに艶めかしい。青蘭が浣衣局から出られるように協力したのは兄の長恭の為であった。その青蘭が義理の姉になると話は違ってくる。かねがね憧れの兄の正室は、絶世の美女こそ相応しいと思っていたのである。納得できない気持ちで、延宗は唇をとがらせた。
宮中で美女を見慣れている延宗にとっては、化粧もほとんどしない青蘭は、平凡な小娘に過ぎなかった。
『何でこんな小娘が、兄上の正室になるのなんて許せない』
「皇太后様、今日は菓子を持ってきました」
青蘭は、滋養のつく菓子を盛った皿を食盒から出した。菓子から、甘い香りが広がる。
「おう、そなたの作る菓子は格別だ」
侍女が、四阿に茶を運んできた。婁氏は、青蘭に椅(背もたれのない椅子)を勧めた。
「延宗、食べるがよい」
甘い物に目が無い延宗は、不満顔ながら一口酥に手を伸ばした。
「うまい」
延宗は菓子を頬張り、茶杯を一気に飲み干した。
延宗は気持ちを逸らすように、矢場の的を見遣った。
「僕と射術の勝負をしないか?僕に勝ったら姉上と呼んでやってもいい」
延宗は、目を細めると青蘭を見た。延宗は、後宮でも今上帝や李皇后に甘やかされて育てられたせいか、我儘を言い出すと後に退かないのである。
「これ、延宗。女人に弓矢の勝負とは、なんとする」
婁皇太后は、延宗をたしなめた。延宗は手元で育てている長恭に次いで、寵愛している孫である。
「いいえ、延宗様がそう仰るなら、お相手しますわ」
青蘭は、強気に胸を張った。
「斉の皇族の名誉に賭けて、南朝の女子になど負けない」
南朝の貴公子達の軟弱振りは、斉では周知の事実である。ましてや、女子であればその腕前は物の数ではないであろう。腕を真っ直ぐ後ろに引き放つ。見ると三本の矢は的の中央を避けて疎らに当たった。
「まあこんなもんだね」
延宗は僅かに顔をしかめた。
青蘭は唇を緩めると、上襦の袖をまくり上げた。鄭家に戻って以来、時々は稽古をしている。青蘭は、弓の弦を引き手応えを確かめながら的を見た。
『矢は、全身で射るのだ。正しく構え、矢を番え正しく引けば、自ずと的を射る』
長恭の言葉が、耳の奥に響いた。青蘭はゆっくり深呼吸すると、矢を番え、呼吸を整えゆっくりと引いた。息を止めて放つと、矢は的の中央を僅かに外れた。矢を取ると舞うように二射いる。矢は的の中央に当たった。
「おう?」
延宗は、驚いて小さく叫ぶと青蘭を見た。女子に負けたと思うと、延宗の頭に血が上った。
「女子に負けるなんて・・・悔しい」
延宗は、的の所まで行くと、唇を噛みながら的から矢を引き抜いた。南朝の女子に何としても負けを認めたくない。
その時、侍女が現われて、常山王高演の来訪を皇太后に伝えた。
「そなた達、勝負がついたら・・・正殿に来るがよい」
婁氏は立ち上がり、笑顔で二人を見比べると戻っていった。
常山王高演は婁皇太后所生の三男で、長恭の叔父に当たる。酒を飲むと時に乱れる兄の高洋に比べて、高演は、博識で温和温和な人柄が知られていた。また、兄の高澄に似て端整な顔立ちで、その立ち居振る舞いには、優雅な風韻を漂わせていた。
長兄高澄の死後、同母三人の兄弟の中で、婁皇太后が一番信頼を寄せる息子であった。
「青蘭殿、まだ勝負はついていない。もう一番やろう」
婁氏が戻ったのをいいことに、延宗は勝負を決めず青蘭に矢を三本手渡した。
「お望みなら、もう一勝負」
先ほどの矢筋で、腕前の程度は分かっている。
今度は、延宗もしっかりと足元を固めて、慎重に構える。矢は、先ほどより正確に中央に寄って的に当たった。
次に、青蘭の番である。三本の矢を几に並べたとき、そうっと延宗が側に寄ってきた。
「そう言えば、父上の王琳将軍は、・・・長江北岸で苦戦をされているとか?」
延宗は、耳元で天気の話しをするようにさりげなく言った。
『永嘉王の帰還で、斉との同盟が実現したはずではないか』
「はっ?永嘉王が帰還したので、攻勢に出ていると聞いているのですが」
青蘭は異な事を聞いたと延宗を睨んだ。
「いいえ、宮中の噂で王琳将軍から、援軍の要請があったとの話しを聞いたものだから・・・」
延宗は、思わせぶりな態度で腕を組んでいる。
『援軍の要請?』
南朝での父王琳の戦いの様子は大まかにしか聞いていない。もしかすると、斉に援軍の要請をするとは、かなり苦しい状況なのではあるまいか。黒雲のような不安が、青蘭の指先を狂わせた。矢は的の上の方に当たった。
『延宗様は、父上の話で動揺を誘おうとしているのだ』
青蘭は、頬を引き締め動揺を見せないようにした。
「斉は、今、周国境での戦を抱えている」
延宗は、矢場に立つ青蘭の隣りに立ち言葉を続けた。
青蘭は、息を殺して二射目を射た。今度は下にずれてしまった。
「同時に南北で戦いを構えるのは、斉にとっては問題があるとの声がある」
三射目は、少し持ち直したが、青蘭の負けである。青蘭は、溜息をついて弓を延宗に戻した。
「前半は青蘭殿、後半は僕の勝利だね。今日の勝負は引き分けだよ」
延宗は、得意気に肩をそびやかすと子供らしく声を出して笑った。
『延宗様は、本当に負けず嫌いだこと』
青蘭は、延宗の卑怯なやり方に悔しさを滲ませ下を向いた。
しかし、青蘭にとって、勝負より気になるのは、南朝での王琳の戦況であった。
「父上よりの斉に援軍の要請が来たのは、本当なのですか?」
青蘭は、父王琳の様子を知りたくて延宗に訊いた。
「ああ、それは嘘じゃない本当だ。陛下と楊韻が、話していたのを聞いたのだよ」
延宗は、唇を尖らせた。延宗は、李皇后の庇護の元、後宮で暮らしているので政の機密に関する情報に触れる機会も多いのだろう。
青蘭は、延宗の無礼な態度にも気にする様子も見せず袖を直すと、黒目がちな目で延宗を見た。化粧していない澄清な頬が上気し秀麗な唇がいやに眩しい。
「延宗様、もし・・・宮中で父に関して何か分かったら、知らせてくれないでしょうか」
青蘭は、化粧っ気のない頬の汗を手巾でぬぐいながら、掬い上げるように延宗を見た。
『兄上は、なんでこんな小娘に心を奪われたんだ』
宮中で斉一の美姫と謳われた李皇后の端華な姿を見慣れた延宗にとっては、清爽な青蘭の容貌は、少年にさえ見え、納得できない気持ちが先に立つ。
「青蘭殿、残念だが宮中で耳にしたことは、漏らすことはできない」
延宗は腕を組むと、もったいぶった様子でうそぶいた。
「ただ、後宮で父に関する噂話を聞いたら、知らせて欲しいのです」
「まあ、噂話ならいいけれど・・・。その代わり、建康の菓子を作ってくれるか?」
延宗は、首を傾げ考える振りをした。
「もちろん、僕が青蘭殿を義姉として認めたわけじゃ無い。・・そう、王将軍を尊敬しているんだ」
延宗は、悔し紛れに肩をそびやかせた。青蘭は、延宗の思わぬ言葉に目を見張った。
「陛下も仰っている。王将軍は、信義に篤い稀に見る忠臣だと。だから、力になりたいのだ」
西に傾いた日が、桃花を照らしている。滴り落ちるような新緑の眩しさに、青蘭は目を細めた。長恭も同じ夕日を眺めているのだろうか。
★ ★
この年の一月南朝では、王琳は江州の汾城に至り、水軍兵十万の調練を行った。
二月、梁に到着した永嘉王簫莊は皇帝に即位し、王琳を侍中・使持節・大将軍・中書監・安城郡公に任命した。
しかし、長広中流に割拠する魯悉達の恭順を得られず、王琳は、それ以上東下することはできなかったのである。
一方、斛律光率いる斉の軍勢は、三月の初めに鄴都を出立すると、上党郡の壼関城を経由して安平郡に入った。
安平は、黃河の支流の沁水の辺に位置する交通の要所である。斛律光は、安平に本拠を置くと翼城の攻略に掛った。
汾水の上流の晋陽や南朔州を支配している斉であるが、黃河が、南から東に流れを変える絳州の地域は、周の勢力範囲であった。この流域の城の支配は、水運の支配を意味し軍事上でも重要な地域であった。
翼城は、東の山地の河川が合流し澮河となり、西に流れを変える辺に造られた城である。澮河は、やがて汾水に合流する。そして、汾水は西に流れて大河の黃河と合流するのである。
斛律光は、およそ五千の兵を翼城攻略に向わせた。斛律光指揮下の軍は、当時中原や江南をふくめ最強の呼び声高い軍隊であった。歩騎五千が、翼城に迫ると、翼城を守備している兵は浮き足だった。
通常城攻めには、守備兵の十倍の兵力が必要であると言われる。しかし、翼城の城兵は千の兵にもかかわらず、既に戦意を喪失させていた。
斛律光は、武勇に優れているだけでなく、間諜を用いた情報戦にも長けていた。
長恭は、翼城攻略に参戦していた。
『孫子』の謀攻篇で言っている。
『軍を全うするを上と為し、軍を破るはこれに次ぐ』
斛律光は翼城内に間諜を潜伏させていた。安平から翼城に向かって五千の兵騎を急襲させると、兵糧に火を放って城兵に打撃を与えた。城内の民や城兵の士気を失わせた上で、攻撃を仕掛けたのである。
あえて西門の攻撃を手薄にして、退路を残すことにより城兵の士気を削ぎ、白馬城への撤退を促しながら、長恭たち斉軍は、城内になだれ込んだ。斛律光の威名は周にも轟いていた。斛律の軍旗を見ただけで、敵兵は足をすくませ戦意を喪失するほどであった。
必死の抵抗を試みる城兵との血みどろの白撃戦が繰り広げられ、多くの無辜の民が逃げ遅れて斬殺された。長恭は、馬上から檄を揮い、下馬しては剣で打ち払い多くの敵兵を打ち取っていった。華麗な長恭の鎧が、敵兵の血しぶきで赤く染まった。
数百の周兵は包囲されていなかった西門から脱出して行った。その多くは、西に位置する白馬城のある平陽に落ち延びていった。
斉軍は、ほとんど無傷で翼城を陥落させることが出来たのである。
★ ★
長恭が出征してからおよそ一ヶ月、既に鄴都は、初夏である。鄭家の後苑にある蓮池の回りには、躑躅が咲き藤の花が、美しい紫の花を滴らせていた。
「ほら、僕だって的を外しませんよ」
延宗は、持参した弓で矢を番えると、思いっきり引き絞ってから放った。青蘭は、鄭家に来るといきなり射術を披露し始めた延宗を、苛立った眼差しで見詰めた。
「延宗様、大分射術が上達しましたね」
「このぐらい、軽いですよ」
延宗は、ちょっと得意気に笑った。
「延宗様、絳州での長恭様のついての情報を、知らせてくれるので無くて?」
四阿に入ると、延宗は手巾で汗を拭いた。
「もちろん、青蘭殿の一番の望む知らせがある」
延宗は卓の上の茶で喉を潤すと、笑顔になった。
「一昨日、伝令が来て、・・・翼城の陥落を知らせてきたのだ」
もったいぶった様子で、延宗は青蘭を見上げた。
「翼城の陥長落?・・・それで長恭様は、ご無事なの?」
青蘭が切羽詰まった声で詰め寄ると、延宗はその勢いに押されて言った。
「伝令の兵士に訊いたら、兄上はお元気だ。しかも、多いに活躍をしたらしい。戦神のごとき働きだったと言っていたよ」
戦神のようなという言葉が、青蘭の胸を突いた。慈悲深く温順な性格である長恭が、兵士から戦神と言われるほどの戦働きをしたという。
青蘭は、婚姻のために手柄を立てようと危険を犯しているように思える長恭が心配で堪らなかった。
「青蘭殿、兄上の強さを知らないの?剣術で兄上に敵う者は、恐らくいないよ」
青蘭が知っているのは、文人としての長恭の姿である。長恭には、自分の知らない武人としての面があるに違いない。
「少しは、僕の力を認めてくれた?」
延宗は、嬉しそうに破顔したが、素直すぎる自分に気が付いて横を向いた。
「菓子だけじゃ、合わないんじゃないかな」
青蘭は、自分の嬉しさを素直に表現できない延宗が可笑しかった。
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一月中旬に、鄴都を発った永嘉王簫莊は、二月中旬に長沙に到着した。郢州で簫莊を梁の皇帝に奉戴した王琳は、長江中流域に勢力を伸ばしていた。
しかし、長江中流に割拠する魯悉達のを帰順させることができず、王琳は、それ以上東下することはできないでいたのである。思うように梁の旧臣が集まらなかった王琳は、斉に援軍を要請してきたのである。
鄭桂瑛の元にも、ほどなく援軍を送るよう斉の朝廷に働きかけるべく手簡が来た。
「手の者に探らせましたところ、鮮卑族の将軍達は、援軍の派遣に賛成しておりますが、楊韻を初め官吏立ちが反対しているとのことでございます」
家宰は、榻に座る鄭桂瑛に申し訳なさげに目を向けた。
「斉の漢人官吏は、元を正せばみんな梁に仕えていた身であろう。梁王朝の再興を願う将軍に援軍を出さぬとは、忠義の心を忘れてしまったのか。皇帝の高洋は、どのような考えなのであろうか」
桂瑛は、横の卓子を苛立たしげに掌で打った。
「今上帝は、王琳将軍に対して尊崇の念を抱いていると聞いています。しかし、軍務を統率するの鮮卑族の将軍達の勢力が拡大することを警戒しているのではないかと」
高洋は、斉の皇帝として即位したが、同じ東魏の将軍として戦塵にまみれてきた鮮卑族の将軍達や皇族の輿望を集めることが出来ていなかった。そのため、高洋は、漢人官吏の力を使って、鮮卑族の力を削ごうとしてきたのでる。
王琳将軍は漢人ではあるが、援軍を送り鮮卑族が武功を立てれば、勲貴派の勢力を増すこととなるのである。
鄭桂瑛は、斉朝廷内の勢力争いのために、押し潰されそうな王琳将軍の志の儚さを思いやった。
「楊韻を動かすことが出来るのは、誰であろう」
「・・・中原一の学者と言われる顔之推様であれば、もの申すことができるでしょう。しかし、顔之推様は、財物を贈っても、そのようなことはなさらないかと」
顔之推は、漢人に広く影響力のある学者である。しかし、黄河を下って周から脱出したように、硬骨漢である顔之推に対して、生半可な説得や財物の贈呈は、反って反対派に回しかねない。
「そういえば、顔之推様や陽休之様が、太学のような学堂を作りたいと考えていると漏れ聞きました」
漢王朝では、王朝の官学である太学があり、士大夫の子弟の教育に当たっていた。そこで教育された士大夫が、官吏として政務に当たっていたのである。
顔之推は、官学を作ることにより斉の漢人による支配を堅固なものにしたいと考えたに違いない。
「官学の設立への協力を条件に、顔之推様に楊韻様への働きかけを依頼しよう」
鄭桂瑛は、料紙に筆で幾つかの言葉を書くと、家宰に渡した。
「顔氏邸に訪問の遣いを、ここに書いた贈物を準備してほしい」
家宰は料紙を受け取ると、退出しようとした。
「ああそれから、これは青蘭には内密に」
「もちろん、存じております」
家宰は、笑顔で振り向くと深く礼をした。
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高帰彦は、朝議に向いながら大きなあくびをした。昨夜高帰彦は、王義之の『蘭亭序』をまねた曲水の宴を開いたのである。そこに高帰彦は、高徳正を招いた。
高徳正は皇族ではないが、高歓のころから黄門侍郎を勤め、北斉建国に多大の貢献をした功労者である。この時は、侍中府の侍中を長く勤めていた。皇帝の政務秘書官である。
しかし、常に矜持を守り、自他に厳格さを求める高徳正は、今上帝におもねる佞臣である高帰彦を忌避していた。そのため、遊宴に招かれても、何かと理由を付けては出席しないことの方が多かった。
ところが、昨夜の曲水の宴では出席しただけでなく、宴のために詩賦を作ったのである。
高帰彦は、機嫌良く酒杯を重ねていた。
「尚書左僕射殿、雅な曲水の宴とは、さながら王義之ですな」
上席に座る高徳正が、慇懃な言葉遣いで遊宴を褒めた。
「王義之とは、恐れ多い。我が邸は蘭亭にはほど遠い」
高徳正の言葉に、高帰彦は満更ではない笑みを浮かべた。
「仁英(帰彦の字)殿、陛下の御親任は、いや勝るばかりですな」
高徳正は、瑠璃の酒杯を傾けた。
「しかし、寵臣であるあなたが、手をこまねいているとは、どうしたことでろうな。・・・陛下の顔色がもう一歩優れぬと思わぬか」
高帰彦は、謎かけめいた高徳正の言葉に、片眉を上げた。
「さあ何の事やら、陛下は至って健康であられる」
「身体のことではない、ここのことだ」
高徳正は、手で胸を押さえた。
『陛下の気鬱の原因は、皇太后様と対面でくぬこと』
今上帝高洋は、正月の宴で酒の勢いで皇太后を殴って以来、母親との面会を果たしていなかった。何度宣訓宮を訪ねても、病気を理由に顔を見ることは出来なかったのだ。
遊牧民族の鮮卑族においては、母親への孝行は最も尊重されるべきものであった。
高帰彦は、溜息をついた。
「陛下には、何としても気鬱を晴らしていただきたいのだ」
高徳正は、頷きながら高帰彦を見詰めた。
「策が、無くはない。・・・陛下が王琳将軍の忠義心に好意をお持ちなのは、知っておろう。将軍の忠義に心を動かし援軍を送っていただくのだ。皇太后様は、陛下の御心に心を動かされるであろう」
高洋は、同母の五兄弟の中でも容姿に恵まれず、母からの愛情が薄かった。それ故母親から認められたいと切に望んでいたのである。
太武殿の御書房、皇帝高洋は、唇を歪めた。
「陛下、王琳将軍から、援軍の要請が再度来ております」
尚書右僕射の段韶が、いつもの温順な笑顔を見せて言った。
「陛下、先月に検討中との断りの返答をしたにも拘わらず、こたびは、梁皇帝よりの国書という形にしてきました」
尚書左僕射の高帰彦は、今までは新興の陳とも梁の旧臣に味方するとも態度を決めず、北方の周との戦いに集中するべきだと考えていた。
「陳とはいずれ、対峙しなければなりませぬ。もし、梁の旧臣が全て陳に投降していたら、陳の勢力は倍増しておりましょう。毒を以て毒を制するということもあります」
段韶は、多くの戦陣を経験した老練さで高帰彦を見遣った。
「なるほど、援軍を送ることにより、陳の勢いを止めるのか」
高洋は、珍しく酒が抜けた目で頷くと、扇子で脇息を打った。
「王琳将軍は、忠義心の篤い事で有名です。武将の模範となりましょう」
高洋が、援軍に傾きつつあることを感じた高帰彦は、おもねるような笑いを浮かべて王琳を称賛した。
「そうだ、死してなお忠義の心を持たれる元帝が羨ましいものよ」
梁の元帝は、生前王琳将軍の声望を嫉妬しその兵権を剥奪したことがあった。しかし、元帝が危機に陥ると王琳将軍は恩讐を越えて、常にその先陣に立ったったのである。
「王琳将軍を助力するのは、徳を積むことにもなりまする」
高帰彦は、だまって論議の成り行きを見守っていた楊韻に目を遣った。楊韻は、能吏である。酒乱と言っていい高洋が、どうにか斉を統治してこられたのは、楊韻の働きと言っていい。
「それでは、長江に援軍を送るように朝議にかけましょう」
楊韻は、気持ちの読めない無表情で、皇帝に奏上した。
「そうか、朕は忠義に篤い王琳将軍を助けたい。朝議にかけ人選を進めてくれ」
楊韻、高帰彦、段韶の三人は、丁寧に拱手した。
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ほどなく朝議により、王琳将軍へ慕容儼が率いる援軍を派遣することが決まった。
斉からの援軍の報告を受け、王琳は簫莊と共に長江の上流から下り、濡須口周辺を侵攻する準備を始めた。
翼州では、周との国境で激戦が続いている。一方青蘭の父王琳への援軍が送られることになった。皇宮の情報を知らせてくれる延宗と青蘭の友情がだんだん育っていった。