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風史外伝  蹉跌の残像と残影

作者: 自然海遠

蹉跌の残像と残影

第一章 取調べ

「お前! 警察を甘う見とんのか?」

大きな声とともに体が引き寄せられた。そして宙に浮いた。背中が壁に打ち付けられた。そして記憶はそこで途切れてしまった。

どれくらい時間が経ったのだろうか? 人声の気配に記憶が戻りかけた瞬間、顔に冷たいものを感じて思わず身震いが襲った。瞳体を抱き寄せられ椅子に座らされる間に背中の傷が痛み辛かったのを覚えている。瞳の焦点が合うのに1分ほどの時間が経っただろうか? 口ひげを生やした取調べ官の顔に笑みが戻っていたが、重雄の心は萎えていた。

「水飲むか?」

取調べ官の声に重雄は素直に頷いた。

「素直に喋れば痛て目におわせん。」

隣に居たもう一人の巡査がコップの水を差し出した。

「手荒いことをしたな。 済まんな。」

 重雄は頷くだけだった。観念していたのだ。

「改めて聞く、名前は?」

「長屋重雄と言います。」

「生年月日と歳、住所?」

「明治3年7月4日、16歳、神戸市中山手通り6丁目2番です。」

「ん、神戸市? 神戸市からなんで大阪に?」

「父の砂糖商いの手伝いに…得意先を…。」

景山英ひでとはどげな関係じゃ?」

「小学校の先生じゃったけん…。」

「先生? …。岡山の学校に通とったんか?」

景山英は以前は岡山研智小学校の助教であった。小学校就学時から英才の誉れが高く、高等小学校卒業と同時に15歳で女性ながら母校の助教に採用されていた。

景山英が助教になった翌年、重雄は研智小学校上等科に転校してきたのだ。明治13年(1880年)のことだった。

重雄は11歳で父・男依およりの商売の都合で岡山から神戸に転居した。しかし神戸の小学校上等科に馴染めず今で言う不登校になってしまった。止むを得ず男依は重雄を岡山に戻す決断をし、世間体も考えて元々通っていた又新小学校の隣の研智小学校に転入させたのだった。

岡山に戻った重雄は慣れた岡山弁の雰囲気の中で元気を取り戻したもののその生活は空虚感に満ち溢れていた。住いは大手門前の紙屋町にあり、幼少のころからの奉公人水田源内の世話になってはいたが、やはり家族とは違った遠慮を感じていた。元々通っていた又新小学校には顔見知りの友達もいたが、研智小学校には顔見知りの友達もいなかったのである。小学校の授業が終わっても直ぐには帰らずぶらぶらと放っつき歩く日常だった。

ある日の授業で代理の教壇に立ったのが助教となって1年経った景山英だった。重雄は目を見張る思いでその授業を受けた。それまで女性の先生など見かけることなどなく、空虚だった重雄の瞼に5歳年上の景山英の精気溢れる姿が焼き付いた。そしてその日から重雄の眼差しは景山英の姿を追うようになった。

景山英は慶応元年(1865年)岡山野田屋町で父・かたしうめの次女として生まれた。確は家老の陪臣ながら、岡山藩の祐筆・役小姓などを務め、維新後は邏卒(後に巡査と改称)として警察に勤めていた。母の楳は確の6歳上の再婚であったが岡山県の女子教練所が設けられた際に教師に就任した才女でもあった。

「景山英」は巷では「景山英子」呼ばれていた。この時代は上流階級の女性に「子」を付けるのが流行りで、先端を行く女性のステータスシンボルとして親子共々「景山楳子・英子」と名乗り、巷でも「景山英子」という名で通っていた。

重雄は学校が終わると人知れず町中に 「景山英子」の後姿を求めるようになっていた。

この頃自由民権運動が第2次高揚期を迎えていた。明治14年(1881年)五代友厚と黒田清隆の官有物払い下げスキャンダルは自由民権運動の標的となり、民権派と目された大隈重信が下野する政変に発展し、自由民権運動を鎮静化するために「国会開設の勅諭」が出されることになった。しかし運動は収まる気配はなかった。板垣退助は日本最初の本格政党となる自由党を結成したのだ。

自由民権運動は全国的に燎原の火のごとく拡がりを見せたが、とりわけ大阪や岡山には熱心な活動家が多かった。大阪は首都を東京に持って行かれ、岡山は幕末の活動の評価が薩長土肥に偏っている事への不満が底流にあった。「王政復古の大号令」が発せられた直後に起こった神戸事件の後遺症でもあった。

(注1)「王政復古の大号令」は慶応3年12月9日、神戸事件は慶応4年1月11日。

岡山では小林樟雄など5名が自由党員となっていた。そして景山英子の姉の夫・沢田正泰はその自由党員の一人であった。重雄は景山英子の影を追いながらいつしか岡山自由党の取り巻きになっていた。幻影に少しでも近づきたいとの思いであったのだろう。

この時代の結婚年齢は現代と違って早かった。景山英子も例外ではなかった。縁談の申し入れも多く、後の海軍大将藤井較一や首相となる犬養毅からの縁談もあったと伝えられる。重雄が相手にされる筈もない叶わぬ片思いだったのだ。

明治15年(1882年)5月、景山英子にとって運命の日が訪れた。京都生まれの自由民権活動家の岸田俊子の「岡山県女子に告ぐ」という演説を聞きその後結成された岡山女子親睦会に参画した。そして研智小学校助教を辞め母の楳子と共に私塾「蒸紅学舎」を開いた。恵まれぬ子女たちの教育に力を注ぐことになったのである。自由民権活動家景山英子が誕生したのだ。

父・確は取り締まる側の警察官だった。家庭事情は複雑となった。

翌明治16年5月、重雄は自由民権運動の演説会場に居た。そして今や岡山では押しも押されもせぬ活動家となった景山英子の紅一点の演説を食い入るように聞いていた。

この頃の演説会は講演が終わると演士を囲んで懇談と称して酒席の場を設け遊びに耽ることが当たり前に行われていた時代である。しかし重雄は未だ14歳、そのような場に侍るような年齢ではなかった。いきおい講演会の後は旭川中州に拡がる歓楽街を遠くからしゃがんで眺めていた。

寂しい思いをしていたのは景山英子も同じだった。重雄は人影を感じ、ふと見上げた。追い求めていた景山英子がそこにいた。

「今日の会場に居たんかね? どっかで見た人じゃね。名前は何ちゅうのかいね?」

 景山英子は明らかに年下と分かる重雄に来やすく語りかけたのである。重雄は初めて交わす会話に胸を時めかして答えた。

「長屋重雄と言います。研智小学校上等科に在学しています。来春卒業です。今日の先生の演説に感銘を受けました。」

 重雄は初めての会話に心臓が止まる思いで答えたが、景山英子の返事は意外なものだった。

「なんで男衆は何かというと酒を飲んで女子衆を追い回すんじゃろうね?ああいうのは嫌なんじゃ。除け者にされとるようじゃけん。」

 景山英子は思いがけない愚痴をこぼし、長々と身の上話をし始めたのである。

景山英子19歳、重雄14歳の初夏であった。重雄が教え子で年下であることに安心し、心の内を吐露し始めたのだった。

そしてこの日を境に講演会の後には堀端で語り合う二人の姿が見られるようになった。景山英子は重雄の自由民権運動の指導者になっていったのである。ただし重雄の胸に秘めた思いとは別に、景山英子にとって重雄はあくまで年下の教え子だったのである。

実際この年に景山秀子は小林樟雄と婚約することになる。ただしこの婚約を重雄が知っていた気配はない。重雄に断りを入れたり事情を説明する必要もないことだったのだ。

明治17年(1884年)3月重雄は研智小学校を卒業し岡山を離れ神戸に戻った。神戸に戻った重雄は父の仕事を手伝う素振りで配達と称して大阪に出ることが続いたが、あまり商売には身を入れず、自由民権運動家との接触に気を取られていた。大阪は自由民権運動活動家も多く色々な情報が得られたのである。

重雄が岡山を去って暫くの8月、景山英子は私塾「蒸紅学舎」の生徒を引き連れて自由党の納涼大会に参加した。そして当局の目に留まり蒸紅学舎の解散命令を受けることになった。明治13年(1880年)に制定された集会条例違反を問われたのである。蒸紅学舎は生徒の評判がよく、小学校に通わず蒸紅学舎に通う生徒も多数いたため予てより目を付けられていた。父・確は警官であった。景山英子は岡山に留まることの無駄を悟り、そして母にも言わず岡山を出奔した。そして船で大阪に向かったのである。

景山秀子は大阪の親戚の藤井家に身を寄せたが、噂はすぐに広まりやがて活動家の仲間内から重雄の耳にも入ることになった。

そして重雄は教え子ということで暫く景山英子の道案内役を任されたのである。

この頃板垣退助の自由党は急進派の台頭で分裂気味となり10月29日大阪天満の太融寺で終に解党大会が開かれることになった。日本初の本格政党は僅か4年で瓦解することになる。

景山英子は重雄の道案内で大会後の太融寺を訪れ小林から板垣退助を紹介された。

板垣は甚く景山英子を称賛し東京での勉学の面倒を見ることを約束し、土佐出身の坂崎紫瀾を尋ねて上京することになった。

重雄の胸を時めかす束の間のお供は僅か2か月で終わったのだ。しかしこのお供には約1年後に続編があった。

翌年明治18年(1885年)11月23日いつもの通り大阪駅を降りた重雄は二人の警官に取り囲まれた。

「景山英こと景山英子を知っているな?」

重雄は何のことか分からず返事をした。

「はい?」

「大阪警察本署の者や。事情聴取に本署迄同行して貰うからな。」

 重雄は事情が分からないままに警察本署に連行された。そして取調べを受けたのだ。

取調官は廣澤鐵郎警部補が担当であった。この当時は電話も発明されたばかりで写真もロクになく警察官の連絡も徒歩、面通しも事情の分かっている警察官・巡査が行うしかなかった時代であった。 廣澤鐵郎警部補は景山英子の道案内をしている長屋重雄を現認し顔を覚えていたのだった。

一等巡査(警部補)は鹿児島出身が多く、部下の4等巡査は岡っ引き時代の役職を引き継いでいたのでもっぱら大阪出身者で占められ、扱いは手荒かった。

最初は何で連行と思ったりもし、景山英子のことを聞かれると話をしてよいものかどうか戸惑いが先に立っていたので口を濁すことが多かったのだろう。それが4等巡査の逆鱗に触れたのだった。気絶から覚めた重雄は事情が分からぬままに質問には素直に答える気持ちになっていた。

岡山での景山英子との出会いを話し始め教え子として大阪での道案内の関わり合いを話しだすと廣澤警部補は身を乗り出して色々質問を浴びせた。もっぱら岡山出身者への質問が多かった

「小林樟雄との関係は?」

「岡山県自由党の党首で、時折声は掛けて貰っていた。」

「自由党の夜の宴会は?」

「私の出るような場所やないけん、行ったことはないんじゃ。景山先生がよう愚痴をこぼしのを聞きよったけんの。」

「どんな愚痴を言うちょった?」

「男衆は何で酒飲んで女子ばかり追いかけるんじゃろうと嘆い取ったんをよう聞いたんじゃ。」

 廣澤警部補はふっふっと笑うと、

「女? わいは何も知らんのか? 男は誰でんそうじゃ。内密の話は酒席でするもんぞ。」

「…、長屋重雄言うたかのう、そのうち景山英の取調べが始まっから、嘘偽りがなければ放免になるやろ。それまで1~2週間辛抱してくれや。手荒い真似して済まんかった。」

 廣澤警部補は部下の4等巡査に目配せをして言った。

「大したことはしちょらんから丁重に扱っやれよ。」

 重雄は4等巡査に連れられて中之島の監獄に護送された。この時代車がある訳ではないので腰縄で本署のある大手門前から中之島まで歩くことになった。道中知人に合うか心配だったが幸いにも気付くことはなかった。

 中の島監獄で10日経ち月が変わった早朝に重雄は無罪放免となった。看守は何も教えてくれなかった。中の島から大阪駅に向かう途中で屯して新聞を読む連中に出会った。

 見出しが踊っていた。

「東洋のジャンヌダルク 景山英が全面自供!」

第二章 重雄の改心と事件の実相

その瞬間背中に痛みを感じた。取調べの恐怖がよみがえったのだ。新聞紙上を賑わすような大きな事件?と直感した。

神戸に帰る汽車賃はあったが、新聞を買うと歩かんと帰れんなぁと思った。何せ10日も家に帰らなかったのである。家族はみな心配しているだろうし、訳を聞かれて当然だろうし、何も喋らない訳には行かないだろうし、何の事件に巻き込まれたのか知らないで話するのは拙いだろうし…事件の中身をどうしても知って帰りたいと思ったのである。

「おやじさん、何の事件なんかいな?」

幸いなことに聞いた親父はよく聞いてくれたと得意になってありったけの話をし始めた。

「いやぁ何でもな、先月23日にな、大阪で元自由党の跳ね上がり残党の幹部が一斉逮捕されたんや。同じ日に長崎では17人も逮捕されたんやと。それでなその中に21歳のな、妙齢の別嬪さんが混じってたんやけどな、所持品から爆弾が出てきたと大騒ぎになったんや。おととい17人全員が長崎から大阪に連行されてな、潔よう真っ先に別嬪さんが白状したらしいわ。自称景山英子言うてな、詳しいことはこれからやけど岡山の小学校の先生をしよったらしいわ。そんで東洋のジャンヌダルクと新聞が書き始めたんや。」

重雄はヒヤッとした。素直に喋って良かったと思った。そうでなければ当分釈放されることはなかっただろう。そして疑問が湧いてきた。景山英子が爆弾? そんな話は聞いたこともなかった。いずれにしろ、これで家族には言い訳が出来ると思った。長崎で逮捕された景山英子の知り合いというだけで取り調べを受けたみたい…と言えば良いかと思ったのだ。

昼過ぎに神戸に着き自宅に戻ると父母は留守で、火鉢のお守をしていた妹の小菊が迎えてくれた。

「兄上、どないしたん、父上も母上も心配しよったで。…。」

小菊は未だ12歳、詳しい事情を話しても分る筈もなかった。

「疲れたわ、ちょっと寝るから夕方まで起こさんといて…。」

重雄は自室で布団に包まると父と母への言い訳を頭に描いたが、暫くすると睡魔に襲われ眠りこけてしまった。

夕方になると母の照が起こしに部屋に入って来た。布団を軽く叩いて語り掛けた。

「重雄、ご飯じゃけん、起きな。」

 重雄は憂鬱な気分だったが素直に従った。食卓では父の男依が座って待っていた。

「この度は心配かけました。」

 うな垂れ改まった挨拶に男依は言った。

「大阪市内を探し回ったけんな、23日に元党員が多数逮捕と聞いたんでのもしやと思たんじゃけど、警察に行ったら参考人として拘束はしとるけど、長崎で逮捕された者たちが移送されるまでは釈放はお預けと言いよったんで、まぁ大丈夫かと思とったけん、良かった。これを薬に運動から手を洗うて商売に勤しんでくれたらそれでええわい。」

 男依の言葉に重雄は素直に頷いた。今まで父の言葉には抵抗を感じる事が多かったが、この時初めて真摯に父の仕事を手伝おうと心を改める気持ちで聞いていた。

今まで父の背中を見ていたものの砂糖事業には何となく抵抗感があったが、初めて素直に父を手伝おうと改心した瞬間であった。

それまで重雄は何となく父親の砂糖事業に対する敬意が希薄であった。その理由というか父の背中から目を逸らすようになる些細な出来事がいくつかあったのである。

小学校下等科と上等科の入学は砂糖事業の節目と重なり重雄は知った友達のいない学校に入学することになった。幼心に砂糖事業の所為でと感じていた。

研智小学校時代の岡山では幼い頃からの奉公人水田源内家族が身の回りの世話をしてくれ不自由することはなかった。そして時折水田源内は昔話をしてくれた。源内は男依が自ら志願した函館戦争の戦友だった。

「坊ちゃま、男依様とは供に函館戦争に行った仲なんじゃ。二人とも戦功を夢見て志願したんじゃけどな、江戸城攻撃し東北に転戦した連中は皆郷士に成れたんじゃけどな、わしは維新のお陰で郷士の夢は叶わなんだ。男依様はな、維新のお陰で加増どころか150石が20石以下に減らされての、挙句の果ては砂糖商売を始める羽目になったんじゃ。」

重雄は水田源内の愚痴の聞き役をさせられたのだ。そして父の男依は不本意ながら砂糖商売を始めたと胸に刻み込まれ、砂糖商売に否定的な印象が醸成されていったのだ。

重雄を咎めることなく「砂糖事業に勤しんで」という父の言葉に真面目に手伝おうという気になった重雄であったが、心の内のわだかまりをそのままにする訳にはいかなかった。

「父上、なんで砂糖事業を始めたんかいの?」

 素直に尋ねる重雄に男依は心を開いて話し始めた。

「長い話になるけどな、砂糖事業を始めたのはな、武士に見切りをつけた函館戦争仲間とな何か始めようと相談したんじゃ。そんでの、先代の明誠が関わった砂糖事業を始めようということになったんじゃ。先代が今際に語た「来世では武士はやめ商売人がええな」と言った言葉が背中を押してくれたんじゃ。」

そして男依は砂糖事業に辿り着くいくつかの出来事を子細に語ってくれたのである。

男依は明治元年の函館戦争に自ら名乗りを上げ備州兵の斥候として参戦した。しかし思うような戦功を挙げられず翌年傷心で帰郷した。傷心が癒えないまま戦友久保田の娘の照を嫁に迎え、明治3年(1870年)に岡山で生まれたのが重雄だった。 

 明治6年(1873年)重雄が4歳の時、男依は武士を捨て商売を始める決断をした。先代・明成が祐筆として藩侯の池田斉敏と慶政に命じらて関わった砂糖事業に惹かれ、当時の小田県浦田村(現倉敷市)に移り住んだ。男依の実母「きく」の実家だった。翌明治7年(1874年)娘が生まれ、祖母の「きく」の名に肖って小菊と命名されたた。

明治9年(1876年)男依は商売の展開と重雄の教育も考え岡山に戻り、重雄は第一学問所(後に又新小学)の下等科に就学した。丁度第一次反抗期に差し掛かった頃で、見知らぬ友達の中で子供心に辛い思いをさせたかも知れないと男依は語った。

明治13年(1880年)男依は戦友の砂糖商売仲間から大阪か神戸から洋糖を仕入れるよう迫られた。函館戦争で斥候を務めた男依に相応しい役割だと…。

男依は神戸事件の当事者瀧善三郎の従兄弟だった。善三郎は切腹と引き換えに発足間もない新政府の苦境を救い、救国の烈士と讃えられていた。妻の照とも相談の上、善三郎の辞世の下句「神戸が浦に 名をやあげやむ」に惹かれ神戸に移り住むことにした。

11歳の重雄は上等科に進学するところだった。神戸の言葉は重雄には馴染めなかった。そして第二次反抗期に差し掛かる頃でもあった。学校に行くのを嫌がった重雄を岡山に戻すことにしたのだと…。そして元々通っていた又新小学ではなく研智小学校上等科に転校させたのは、出戻りと言われると辛いだろうからと語ったのである。

重雄は初めて詳しく父の心の内を知り、砂糖事業への否定的な気持ちが氷解した。

「父上、これから砂糖事業を勉強し直すけん…。五代さんにお世話になった話を詳しく聞きたいんじゃ・・・。」

「五代さんのう・・・。この前亡くなった…。」

五代とは五代友厚のことである。2ヵ月前に糖尿病の悪化で東京で亡くなったと新聞で報道されていた。

「昨年の12月だったかのう、ジャーディン・マセソン商会の支店長のお披露目が有った際にの、五代さんも主賓で来られての、挨拶させて貰ったんじゃ。そんで神戸事件の助命嘆願でお世話になった瀧善三郎の従兄弟じゃ、父の明誠が池田斉敏候・慶政候にお仕えした縁で砂糖商売を始めています言うて自己紹介したらな、斉敏候もお世話になっとったんかと感激しての、大切な人じゃけん良しなにお頼み申すと支店長のライル・ホームさんに直接紹介してくれたんじゃ。」

(注2)池田斉敏は島津斉彬の弟で、斉彬は五代に才助という名を与えてくれた恩人である。

重雄はこの時理解した。先祖の因果が今の砂糖事業を支えているのだと…。そして改めて長屋の名を汚すまいと心に誓ったのだ。

この日を境に重雄は民権運動のことは忘れて砂糖事業の勉強に身を入れだした。

しかし好奇の目で東洋のジャンヌダルクと称された景山英子の自白は都度新聞を賑し、大阪事件と称される全貌が報道され始めた。

事件は自由党の一部急進派が解党直後に朝鮮で発生した甲申政変(1884年12月)を利用して朝鮮に混乱をもたらし日本に政変を誘発しようと企てた事件であった。首謀者は大井憲太郎、小林樟雄、磯山清兵衛などで、朝鮮に渡り混乱を誘発する渡韓組と資金集めをする残留組を編成し、1年後の明治18年(1885年)秋口、大阪に集結し淀屋橋の旅籠・原平に長期滞在した。

そして渡韓組の爆弾運びを託されたのが景山英子であった。女の方が目立たないと婚約者の小林樟雄から指示されたのだ。

大阪滞在が長引くと渡韓組の規律は乱れ始めた。どうせ命も危ないからと大阪の紅灯街で散財を始め、資金集めと称して泥棒を始める始末であった。

大阪府警部長(現在の本部長)大浦兼武かねたけは頻発する事件にかん口令を引き、秘かに泳がす方針を取った。

やがて相次ぐ同志の乱脈ぶりに愛想を尽かした景山英子など8名は、先発隊として先に長崎に出向し長崎で後続隊を待つことにした。

しかし行動は全て大阪府警に察知されていた。一行が大阪の川口港から長崎に向かったのを確認すると大浦は自ら部下を引き連れ後便で長崎に向かったのだ。

景山英子だけは別行動だった。爆弾を運ぶ役目は目立たぬよう一人で大阪から神戸に向かい神戸から長崎に向かったのだ。

そして運命の日が来た。翌日に渡韓を控えた11月23日、大阪と長崎で同時に一斉検挙されたのだ。大阪で逮捕されたのは大井、小林、磯山など幹部たちで、長崎で逮捕されたのは後続部隊を含め17名、景山英子は紅一点だった。そして驚愕の事態が発覚する。景山英子が爆弾を所持していたことが衝撃となって伝わった。新聞は東洋のジャンヌダルクと書き立て始めた。

重雄は新聞の報道を追って初めて自身の果たした役割を飲み込んだ。重雄は人伝に景山英子の道案内を頼まれ胸を躍らせ大阪から神戸港まで景山英子を案内したのだ。しかしノーマークと言う訳ではなかった。秘かに尾行する廣澤鐵郎警部補の目が光っていた。

大阪事件と呼ばれるこの事案は、翌年までに芋づる式に検挙され取り調べを受けた者二百数十人、逮捕者139名、起訴された被告63名に及んだ。

裁判は事件規模が大きいため司法権を確立したと言われる児島惟謙の指揮のもとで明治20年5月に開始され96回の公判を経て9月24日に判決が言い渡された。43名が有罪、20名が無罪、景山英子は三重監獄に収監された。

景山英子は収監に当たって小林に愛想を尽かし婚約解消の便りを送ったと言われる。

第三章 交錯する淡い恋

ジャーディン・マセソン商会の神戸支店開設は明治7年(1874年)であった。神戸-大阪間に鉄道が開通した機会に進出した。幕末の主に兵器を扱う事業から鉄道などの民生事業に比重を移す狙いだった。やがて香港車糖と呼ばれる洋糖も取引が増えつつあった。

男依の砂糖事業は香港車糖を岡山の仲間や大阪の小売商に卸す役割であった。

重雄は熱心に砂糖事業を勉強し、片言ながら英語も喋り始め、徐々にジャーディン・マセソン商会の担当からも信頼を集めるようになっていった。大阪事件の判決の後は話題にも上らなくなり心の傷も癒えたのである。

明治21年(1888年)男依はライル・ホームから晩餐の招待を受け重雄と二人で訪れた。そして一人の青年を紹介された。青年はエドガー・ビビアン・エドと名乗った。ライルの甥で18歳、直近にライルの紹介でM・M・S(三菱郵船汽船)に入社したとのことであった。M・M・Sは月に一度定期的に運行されており、これからはエドの船を選んで長崎と往来する、19歳の重雄と同年代で紹介したかったと話をしたのだ。重雄は嬉しくなった。長崎のホーム・リンガー商会の役員と神戸のジャーディン・マセソン商会支店長を兼ねているライルから認められた証であった。

(注3)ライルは28年前、万延元年(1860年)21歳で来日しており、日本語は達者であった。

ライルは今は亡き五代との関係を懐かしそうに語った。慶応元年(1865年)薩摩の留学生たちを引き連れイギリスに渡って以来の付き合いだと語ったのだ。その時五代才助はイギリスで関研蔵と変名を使い、兵器と紡績機械100台の契約を行った。

兵器の購入資金は薩摩藩の手当てを受けていたが、紡績機械は手当てされていなかった。しかし五代は契約しライルに頼み事をした。薩摩に海産物を集めるからそれを上海に売ってそれで6万両を捻出しろと…。紡績機械は当時の最大のメーカー・プラット兄弟社であった。そして商社はエド兄弟社だった。

プラット兄弟社の薩摩担当技師長はライルの兄・エドワード・ゾーラブ・ホーム、エド兄弟社のオーナーはライルの姉婿、即ちエドガーの父・フレデリック・チャールズ・エドだった。ライルの所属するグラバー商会はその商流に入らなかった。その代わり薩摩の海産物を上海に売りさばく役割を担ったと懐かしそうに語ったのだ。五代とは綱渡りのような商売を共に歩んだ戦友だったと…。

エドガーは聞いた。

「いつの話?・・・」

「エドガーが生まれる前1866年(慶応元年)だね。兄さんのセシルが3歳の頃だ。結局父さんのフレデリックも支払われるか心配で日本に来て薩摩に立ち合いに行ったよ。兄のエドワード・Z・ホームは長崎にホーム・リンガー商会を設立してからイギリスに帰ったんだ。今、私がホーム・リンガー商会の取締役になっているのはそういうわけだね。」

男依と重雄はライルの話を黙って聞いていた。そして何故ライルが五代の紹介を真摯に受け止め、支援してくれているか理解したのだ。

この夜、男依と重雄はエドガーを自宅に招待し親交を深めた。15歳になった妹の小菊は興味津々で台所から覗き見をしていた。

翌明治22年(1889年)正月、男依は重雄を伴って岡山の砂糖仲間に挨拶に訪れた。20歳になった挨拶であった。

(注4)江戸期の元服に替えて、明治9年(1876年)太政官によって20歳が成人と布告されていた。

岡山から神戸に戻る船上で男依は重雄に語り掛けた。

「これからは岡山の仲間には一人で行っても大丈夫じゃ。自信が出来たかの?」

 重雄は頷いて呟いた。

「ライルさんに認められた気がしたけん…。」「五代さんとライルさんの絆のお陰じゃの。」「五代さんの話に興味が湧いたんじゃけど、海産物はそんな儲かるんかと思たんじゃ。」        

男依は暫く考えて言った。

「兵庫津に着いたら高井屋にでも聞いて見ようかの、廻船問屋の仕事もしよるけん。」

 高井屋は元々岡山藩御用達で下級武士向けの旅籠であった。兵庫津に着くと高井屋当主の高井徳三郎が相手をしてくれた。

「集めるんは訳ないけど売り先はあるん?」

 拍子抜けするような答えだった。

「そうじゃの、目途が付いたら相談するわ。」

 男依と重雄は思案投げ首で帰途についた。

岡山から帰って間もなく2月が近づき重雄にとって気になる新聞記事が目に留まった。2月11日大日本帝国憲法公布に伴い大赦令が出され、大阪事件の服役者も一斉に釈放されるとの記事だった。重雄は震えた。そして何が何でも景山英子に会おうと思った。2月11日景山英子は三重県監獄の表門から釈放され6人の同志の出迎えを受けた。13日に大阪駅に降り立つと万歳の声が響き渡り、数万人の歓迎人・見物人の中を人力車で凱旋し、終点の東雲新聞社前で花束を受けた。重雄はその群衆の中にいたものの景山英子と会話することは出来なかった。しかし数日後景山英子が大阪の川口港から船で岡山に向かうことが分かり、重雄は桟橋で待ち構えたのだ。6人の同志に囲まれた景山英子は見送り人の中に重雄を見つけ駆け寄ってくれた。

「重雄君、元気じゃったんじゃね。」

「取り調べは辛かったけど、何とか釈放されたんじゃ。ところであれはどうすればええかいの?」

「何とか処分しとかんといけん。」

「判った。」

これが重雄と景山英子の最後の会話だった。

船上の人となった景山英子は岡山に向かった。岡山にうら若き女性・東洋のジャンヌダルクを出迎える人々は熱狂し歓迎した。しかしこの日を最後に自由民権運動は終息した。憲法で翌明治23年(1890年)に総選挙と決まり運動の大義名分をなくしたのである。

秋が近づくとライルから報せが届いた。ライルの甥、エドガーの兄のセシル・ゾーラブ・エドが学業を終え、ジャーディン・マセソン商会の砂糖担当として着任するという報せだった。

男依と重雄は奮い立った。ライルの分身として甥のセシルが砂糖担当として着任するのである。一月ほどしてエドガーの船でセシルは神戸にやってきた。26歳だった。少しは日本語を勉強してきていた。

これには若干複雑な父・フレデリック・チャールズ・エドの家庭事情が反映している。

ホーム一族の母・ヘレンはセシルが長男ではあったが、フレデリック・C・エドの後妻であった。前妻の遺児が長男チャールズ・エドだった。

フレデリック・C・エドはトルコを主な拠点とする裕福な中近東貿易商で跡継ぎとなるのは前妻の長男チャールズ・エドだった。

しかし後妻のヘレンは自身の長男セシルや次男エドガーにも何かを継がせたい願望を持っていたのである。

フレデリック・C・エドは薩摩の紡績機械を届けに日本に来た際に日本人の真摯な態度に好感を持って帰った。そして一緒に日本に渡ったライルの兄・エドワード・ゾーラブ・ホームは長崎にホーム・リンガー商会を設立してイギリスに帰った。長崎にはライル・ホームが残って頑張っている。

フレデリック・C・エドの出した結論は、前妻の長男チャールズ・エドにはトルコ方面の貿易利権、後妻の子供たちにはホーム一族が拠点としている日本貿易と分け与えることだった。そしてその方針に基づいて教育をしたのである。

着任したセシルは取りあえずどこかに寄宿することになった。当然男依は手を挙げたのである。砂糖商売を考えると有利になるのは自明の理であった。こうして26歳のセシルは長屋家の寄宿人となった。そして長屋家の砂糖事業は順風満帆の風情となってきた。

重雄の妹・小菊は16歳、箱入り娘の小菊がセシルに好意を抱くのに時間は掛からなかった。機会を見つけては無邪気に英語を教えてと話しかけていた。

セシルも同じ思いであった。異国に来て女性と出会う機会など紅灯街の置屋ぐらいしかなかったし、町中で見かける女性との接点を持つのは危険すぎた。無邪気に語り掛ける小菊にセシルの心も傾いた。

二人を見ていた重雄は自身の淡い恋を振り返っていた。岡山での生活を思い出した。岡山では世話をする人はいたものの、潤いの少ないものであった。そして出会ったのが運命の人景山英子であった。人知れず胸を焦がした思いは重雄には叶わぬ淡い恋だった。

重雄は二人の恋を叶えたいと思案を始めた。秘かに男依にも相談したが男依は反対せず、ところでお前はどうするのかと訊かれた。男依は長屋家が3代に渡って養子で綱渡りをして家系を繋いできたことを心配していたのだった。21歳になっていた。岡山に居れば誰かれなく縁談も持って来てくれるのだろうけど、知り合いのない神戸では期待することは出来なかった。ましてや警察にご厄介になった重雄においそれと見つかる筈はなかった。重雄は自分の事は後で考えよう、まず小菊に思いを叶えさせてやりたいと…。

明治23年(1890年)5月末、男依はセシルと小菊を誘って人力車で神戸港までやってきた。夕刻にはエドガーの船が到着する筈だった。突堤の入り口で人力車を降り、3人で突堤の先端まで歩いて海を眺めていた。

やがて和田岬の彼方にM・M・Sの船が見えてきた。重雄はエドガー用の人力車を頼んでくると言って足早に元来た方に戻って行った。人力車のところまで来ると突堤の先を見やった。二人が肩を寄せ合っているのを見届けると人力車に乗って車夫の溜り場に向かった。

二人は何を話したのだろうか?セシルは口ひげを生やした180cmを超える巨漢だった。小菊は150cmにも満たない小柄な乙女であった。この時代に男女が寄り添う姿を見るのは稀なことだった。生まれ故郷のリバプールの海だったのか倉敷の五軒屋の海の話だったのか…? 傾いた陽が波を煌びやかせ潮風が頬を撫でたのだろう。何も語らずとも二人の心を確かめ合った時間に相違なかった。

遠くで見守っていた重雄はいつか岡山のお堀端で景山英子と初めて言葉を交わした日を思い出していた。やがて船の汽笛が二人の時間の終わりを告げた。

セシルと小菊の頬は上気していた。船を迎えた突堤は喧騒となってきた。重雄は二人に近づいて人力車で待機するよう促した。

第四章 蹉跌の残像

翌朝、重雄は小菊に問いかけた。

「いいね。」

 小菊は恥ずかしそうに軽く頷いた。昼過ぎには昼食と称してセシルとエドガーに会った。そして徐に日本の結婚制度についての話題を提供した。セシルは顔を赤らめながら聞いていた。

「日本では仲人がいて結婚を段取りしてくれるんじゃけど、異邦人の場合はどうすればええんかいの?」

 セシルは意を決して答えた。

「ジャーディン・マセソン商会では日本人との結婚は禁止されている。叔父のライルも独身だし、イギリス流の方法では無理だろう…。」

(注6)当時ほとんどの外国商社は異国でのトラブルを避けるため日本人との結婚を禁止していた。

 しかしこの返事はセシルのゴーサインだった。どういう方法があるかという意味だった。

 当時の日本の壬申戸籍制度では妾は正妻の横に妾と記載され保護されていた。妾が何人いても一緒だった。これは家督継承に苦労した江戸時代の慣習の名残だった。しかし異邦人が戸籍制度に則った結婚をするためには異邦人が日本に帰化して日本の戸籍を作る必要がある。

(注6)当時のイギリス領事は日本へ帰化しても意図的に英国籍の抹消手続きを履行せず、小泉八雲など二重国籍になる例が頻発した。

しかし帰化しないで結婚している例も多かった。それは妾と記載する戸籍制度が出来る前の奉公人契約の慣習に則っていた。江戸時代の妾の保護制度に倣って慣習化していた制度だった。契約は奉行所、維新後は新たにできた警察で手続きが行われた。外国人居留地は治外法権であるが、雑居地は警察の管轄下にあり江戸時代の制度が便宜上慣用されていた。男も女も国籍は変えずに正妻のいない妾・事実妻の保護制度とも言えた。

 セシルはこの制度ならジャーディン・マセソン商会の内規にも触れずライルも了承するだろうと伝えた。

(注7)壬申戸籍の妾の記載は明治31年(1898年)改正された。妾の記載がされた過渡期は25年続いたことになる。

 横で聞いていたエドガーが面白いことを言い始めた。

「折角だから新婚旅行に長崎や上海に行けば…。奉公人なら乗船名簿に名前の記載もしないから手続きは簡単だしね。」

 こうしてセシルと小菊の結婚手続きは時期を見て進めることになったのである。

第1回帝国議会選挙は7月1日に行われた。15円以上税金を払った者だけに与えられた選挙権で、男依たちに縁はなかったが重雄は歴史に関与出来た思いで満足を覚えた。

 重雄は一家の主人然として着々と結婚の手続きを進めた。手続きは大して難しくもなかったが、男依は徐々に家業も重雄に委ねるつもりで任していたのだ。

明治24年(1891年)の正月を迎えた。重雄は男依の名代として岡山の砂糖仲間を訪ね、併せて小菊の婚礼の案内を触れ回った。結婚は2月19日の木曜日、大安の日と決めた。旧暦の1月11日、神戸事件発生の日だった。

重雄は叔父の河田長にも挨拶に行った。河田長は男依の弟・修三郎であったが、養子として河田家に迎えられた。河田家はその昔池田斉敏の命で備州の砂糖集めを命じられた河田嘉一郎の縁戚筋で、その縁も有り男依と一緒に砂糖事業を始めたのである。名前の「長」は壬申戸籍の届け出に当たって長屋家の出自を標すために選んだ名だった。

「重雄、分かった、是非出席させて貰わんとな…。ところでお前はどうするんじゃ?」

重雄はかねがね気にしていたことを聞かれたのだ。重雄の結婚は?という問いかけだった。

「警察のお世話になったことも有るし、家禄もなくなった長屋家に嫁も養子を迎えるのも無理かなぁ…と思とんじゃ。」

「養子も…。長屋家が絶えてしまうのう…。」

「イザとなれば小菊に子供が生まれれば養子に出来るかなと思とんじゃ。血筋は繋がっとんじゃし。」

「そうじゃのう、それなら良いな。それにしても景山英子に関わってえらい目におうたのう。親父の景山確は優秀な男で明誠(重雄の祖父)の下で祐筆を務めとったんじゃけど…。」意外なこの縁は重雄が始めて聞くことだった。「知らなんだ、そんな関わりがあったん…。」  

帰りの船はゆっくり考え事が出来る時間であった。

「兵庫津の高井屋に寄って結婚式の引き出物にする海産物を頼もう、セシルが見て興味を示してくれて海産物取引の切っ掛けに出来ればいいなぁ。そうなれば売り先はセシルが考えてくれるだろうし…。」

「そうそう、あれを片付けとかんといけんな、セシルと小菊に部屋を明け渡す前に…。」

 あれとは景山英子が神戸から長崎に出港する際に預かった荷物の事だった。中身を知っている訳ではなかったが、乗船前に「重た過ぎるから預かっておいて…。」と言われて持って帰った荷物だった。警察の取り調べの際にも聞かれることはなく黙っていた。しかし景山英子が爆弾を所持していたことが発覚し新聞紙上を賑わすようになると、もしかしてと疑念を持ったままに過ごしていたのだ。

 2年前の2月、景山英子が釈放されると判ってどうしても会わなければと思ったのは、その荷物をどうすればよいか聞くためだったのだ。大阪の川口港で景山英子を待ち構え、やっと話をする機会が来たものの景山英子は「何とか処分しとかんといけん。」と短く答えただけだった。しかしその言葉を聞いて重雄は確信したのだ。疑いは確信に変わった。

慌てて処理をする必要もなかったので処分は伸ばし伸ばしにしていた。しかしセシルと小菊の祝言が迫り部屋を明け渡すことになると待ったなしの状況となったのだ。

兵庫津に着いて出在家町の高井屋に向かった。高井屋では息子の繁蔵が迎えてくれた。引き出物にする海産物をどうするか意見を聞きながら決めていた。そしてふと目に留まったものがあった。

「これはなんかいの?」

「ああ、これは爆竹ですわ、正月祝いの余りものですな。また2月の旧正月前に売れるのでそのまま置いとるんですわ。」

 重雄は直感した。景山英子の荷物を処理する時に役に立つ。カモフラージュになる。

「結婚の祝いの景気づけに鳴らしてみようかのう…。前もって試してみるけん、分けて貰おう。」

1月は新年の祝い事に使う砂糖の配達に忙殺され結婚準備は中々進まなかったが、2月に入るとそうも言っておられなかった。

節分に旧来の武家のしきたりに沿って祝言前の内輪だけの門出式の日を迎えた。小菊は母の照に正装させて貰い、セシルと男依、重雄の前に現れた。

母の照が言った。

「この衣装はの、五軒屋の祖母の「きく」が小菊のためにと遺してくれた形見なんじゃ。その時にの、これも渡してやってくれと言われた文書があるんじゃ。「きく」が長屋家から暇を出されるときにの、祖父の明誠から「わしの子を宿した証として、持っとかんけん。」と言われて渡されたそうじゃ。長屋家の血筋の証じゃと…。」

重雄の祖父・明誠は3代続いた養子で長屋家に入っていた。結婚後も暫く子宝に恵まれず子宝を授かりたい一心で奉公娘の「きく」を懐妊させたのだった。しかし当時の妾は正妻の許可が必要だった。許可は出されるどころか「きく」が暇を出され五軒屋に戻されることになった。そしてその時の別れ際に明誠から長屋明誠の子の証にせよと「きく」に手渡された文書だったのだ。

時代が移り「きく」の実子の男依が長屋を継ぎ砂糖事業を始めるため五軒屋に戻った。そして五軒屋で生まれた娘が「きく」に肖って小菊と名付けられた。衣装と文書は自身の分身となった小菊に、長屋家に寄せる「きく」の思いを伝えるため照に託したものだった。

門出式は長屋家の絆を確認する儀式ともなったのである。

門出式から暫く経った日、やはり大安の日だった。重雄は意を決し件の荷物と爆竹を持って家を出た。家人には爆竹を試してくると言って出てきたのだが、内心では景山英子への未練を断ち切る儀式とする積りだった。

家から歩いて10分ほど、重雄は田畑を縫って宇治川の河原に佇んだ。遠くに神戸港の船影が見えた。6年前景山英子の残した荷物を預かって長崎に旅立つ景山英子を見送ったあの突堤が見えた。セシルと小菊が肩を寄せ合った突堤でもあった。

重雄は大きく溜息をつくと荷物を見やった。思い出の詰まった荷物だった。そして徐に紙包みを解き始めた。重雄が想像した通りだった。今更犯罪人の汚名を、長屋の家名を汚すわけにはいかない。脳裏に警察の取り調べの苦痛が蘇った。嫌な思い出の雑念を振り払うように荷物に触った瞬間であった。

重雄は大きな音と共に崩れ落ちた。薄れ行く記憶の中で走馬灯が巡り、お堀端で見上げた景山英子の残像が瞼から消えていった。長屋重雄、享年22歳。2月13日、奇しくも2年前景山英子が大阪梅田に姿を現し群衆の中を人力車で凱旋した日だった。

景山英子は獄中で大井憲太郎から求婚の手紙を受け取っていた。そして応じた。釈放後未婚で大井の子供を身籠ったものの 大井の背信から親友の清水紫琴と骨肉の愛憎劇を繰り広げ大井を見限った。その後社会運動家の福田友作と結婚そして離婚し、年下の石川三四郎と同棲をしたと伝えられる。

景山英子は子供のころマガヒと揶揄われていた。男か女か分からないという意味だった。しかし獄中の22歳の時、遅まきながらの初潮を迎えた。獄中で東洋のジャンダルクは魔性の女に変身したのだ。

重雄はそのことを知る由もなく若かりし少女の面影を瞼の残像に閉じて逝ったのだ。些細な蹉跌から明治初期の世相を駆け抜けた青春だった。活動の証として実現した総選挙がせめてもの救いだったかも知れない。

第五章 重雄の遺した道標

重雄の死は巷には爆竹の取り扱いを誤った事故として処理された。そして2月19日に予定されていた祝言は当然延期になり重雄の初7日の法要に置き換わった。

桜が咲く頃、男依と照、小菊は重雄の遺骨を抱いて岡山を訪れた。3月には岡山まで汽車が開通していたので初めての汽車の旅となった。小菊は18歳になっていた。女性の元服は18歳までに行う慣習で丁度良い機会だった。長屋家を繋ぐ者は小菊しか残っていなかったので親戚筋一同に顔繋ぎをする良い名目となったのだ。

男依の弟の河田長とは初七日で会っていたが改めて主役として挨拶する機会となった。河田長は重雄が遺した秘めた思いを話した。

「重雄はな、小菊に男の子が生まれたら養子にして後を継がそうと考えよったで…。重雄の喪が明ければ祝言も挙げられるじゃろう。そうなれば長屋家も安心じゃの。」

誰もが同じ思いだったに違いない。重雄の家督継承へ秘めていた思いを小菊は一身に背負ったのである。重雄の遺した道標だった。

岡山に重雄の遺骨と建墓を託して3人は神戸に戻った。男依はまた砂糖商売に明け暮れる日が続いた。重雄のいなくなった分、男依の負担は増えたがセシルと小菊の結婚を励みに頑張ろうと働いた。

翌明治25年(1992年)2月13日に重雄の喪が明け、2月15日の大安の日を選んで祝言が執り行われた。岡山から参列する親戚の便を考え、重雄の1回忌と祝言は日を置かずに行ったのだ。

祝言は日本風に執り行われた。唯一変っていたのは指輪の披露だった。小菊の指に指輪が輝いた。小菊を生涯連れ添う妻としてイギリス式に迎えたいというセシルの希望で重雄が生存中に計画した儀式だった。小菊はセシルの気持ちを素直に喜び受け入れた。

祝言が終わって間もなくの3月6日、エドガーがお膳立てした新婚旅行に旅立つことになった。神戸港から長崎に立ち寄るとライル・ホームが手ぐすね引いて待っていた。晩餐はホーム・リンガー商会のフレデリック・リンガーの招待であった。ライルはこの機会にリンガーを紹介したかったのである。

リンガーは幕末に五代が注文した薩摩の紡績織機納入に来日したエドワード・ゾーラブ・ホーム(ライルの兄、セシルとエドガーの叔父)が、長崎滞在中に共同で設立したホーム・リンガー商会の相方だった。それから20数余年、長崎きっての貿易商として名を馳せ、欧米数ヵ国の領事や代理を任されるほど国際社会の信用を得ていた。

長崎での会食はセシルの縁者への初めての披露でもあった。この時小菊は初めてレディーコギクと呼ばれたのだ。

(注7)エドガーのお膳立てで実現した外遊で小菊はセシルのメード扱いになっていた。この夜初めて脚光を浴びることが出来たのだ。この日の晩餐会場は長崎のグラバー庭園に世界遺産として保存されている。因みにエドワード・ゾーラブ・ホームが滞在した鹿児島の異人館も世界遺産となっている。セシル・ゾーラブ・エドと同じミドルネームを持つ理由はホーム家の母方がトルコのゾーラブ家出身であったからである。

リンガーは英語でセシルに語った。

「ライルから聞いていたが素晴らしいレディーだね、上海の兄もびっくりするだろうね。」

長崎港での積み荷が終わると船は揚子江を目指した。上海にはイギリスの租界があった。神戸の居留地と良く似ていて小菊はすぐに気に入った。上海では長崎のリンガーの兄・ジョン・メランクトン・・リンガー夫妻が面倒を見てくれた。帰りの船の予定までの数週間は上海で過ごしたが、長期の滞在は小菊を和装から洋装に変身する機会を提供することになった。髪も変えた。日本髪を手入れしてくれる髪結いがいなかったので洋髪に変える良い機会だったのだ。そしてこの上海で小菊はセシルの2世を身籠って帰国した。

翌明治26年(1893年)1月1日金髪気味で青い目の可愛い男の子が誕生した。セシルの命名で「ひさし」と名付けられた。英語のCELEBRATIONを日本的に表現した名前であった。二年前、重雄が生前に意図した道が拓けようとしていた。

砂糖商売は二年ほど順調であったがこの頃から徐々に欧州甜菜糖が出回るようになりジャーディン・マセソン商会の香港車糖を圧迫するようになっていった。明治19年(1886年に)鈴木商店に入社した金子直吉が力を付け始めていた。明治28年(1895年)頃には急激に欧州甜菜糖取引を増大させ始め、男依の砂糖商店も影響を受け始めた。砂糖業界の地殻変動が静かに進行していた。

日清戦争が終わり小菊のお腹に二人目の子が宿った8月頃、長屋邸の筋向いに越してきた一家があった。壽と同じ年頃の子がいたが、外見で異邦人の子であることはすぐに分かった。どちらも4歳で互いに気に入ったのか子供同士で遊ぶようになると、母親同士が友人になるのに時間は掛からなかった。

それが小泉セツだった。互いに異邦人の夫を持つ境遇をセツと語り合い励ましあう日々が続いた。

セツは松江の下級武士の娘で養女に出されていたが実家の跡取りがなくなったため復籍し、小泉家の当主になっていた。今は夫が日本に帰化する手続きをしていると語り、小菊は羨ましさを覚えた。やがてセツの夫の帰化が認められ小泉八雲と名乗るようになると、暫くして一家は東京帝国大学英文学科講師の辞令を受け越していった。僅か1年ほどの交流だったが、小菊の心に異邦人セシルとの関係を考える宿題を残していったのだ。

小泉八雲が帰化して間もなくの6月15日小菊は2人目の男の子を出産する。今度は男依と照が名を付けることになった。二人は神戸に出てきた秘めた思いを込めて「千賀雄」と命名した。神戸事件の瀧善三郎の母・千カに肖った名を付けたのだ。

セシルは壽と千賀雄には英語で語り掛けることが多かった。セシルが日本語で語り掛けると下手な日本語を覚えさせてしまう。英語で語りかけ、英語を理解し喋れる子に育て一緒に海外に出るのを夢見ていたのだ。

小菊はセシルをご主人様と呼び、セシルは小菊をKOGIKU、時にはLADY KOGIKUと呼びかけていた。壽も千賀雄も小奇麗な服を着て日本人離れした風貌であったので周りは羨望の目を持って見つめていた。砂糖商売のお陰でお菓子は豊富であったので近所の子からは羨ましがられ、壽はお山の大将になっていった。何せ英語を操るお山の大将などいなかったのだ。

しかし夢のような生活も下り坂に差し掛かっていた。砂糖業界の地滑りが始まった。ドイツの欧州甜菜糖はドイツ帝国最後の皇帝ヴィルヘルム2世の下した輸出保護政策の下でさらに価格が低下したのだ。

男依は岡山の砂糖仲間から欧州甜菜糖に負けない仕入れ価格をと度々要請され始めた。しかし岡山の砂糖仲間はやがて男依がジャーディン・マセソン商会の香港車糖以外の砂糖を仕入れるのは無理であることを理解した。そのため明治29年(1896年)新たに欧州甜菜糖の仕入れ会社、岡山砂糖株式会社を設立することにしたのだった。

2年後明治31年(1898年)3月、ジャーディン・マセソン商会は日本での砂糖貿易の一時中断を決定した。香港車糖は終にドイツの輸出政策の下、欧州甜菜糖への屈服を余儀なくされたのである。国内では欧州甜菜糖を大量に仕入れる鈴木商店が急激に商圏を拡大しつつあった。万事は休したのである。

第六章 蹉跌の残影

セシルは上海で引き続き砂糖貿易を担当することになった。セシルは男依にその旨を伝え海産物貿易に活路を見出す相談をした。重雄の描いた道筋が唯一の出口に思えたのだ。セシルと決意を確認しあったものの男依は不安に駆られていた。すでに55歳だった。重雄がいてくれたらとの思いが拭えなかった。

数日たってセシルは小菊に話をした。

「上海にはいつまで?」

「海産物が成功したら…。いつか帰る…。」

 セシルは力なく答えた。目途が立っている訳ではなかったのだ。小菊は床の中で小泉セツの残した宿題を思い出していた。セシルが日本に残る選択はあり得ない気がした。上海に付いていく選択も考えられなかった。兄の遺した道標とも言うべき海産物貿易の夢が成功するのを祈ることしかないと自らに言い聞かせ、そして疲れて眠ってしまった。

 別れの日が来た。小菊のお腹には3人目の子が宿っていた。セシルには言っていなかったが心配をかけまいと黙っていることにしていた。小菊はお腹を触ったセシルの手の温もりをいつまでも感じていた。何も言わなかったがお腹に子がいるのを分かっていたようだった。

別れ際に小菊は毅然としてセシルに誓った。

「この子たちを立派に育てあげますけん。」

セシルは二人の子供たちを抱き上げて言った。

「YOU ARE MY SONS.CARE YOUR MOTHER.」

「WHEN WILL YOU BE BACK?」

「GOD KNOWS.」

セシルは寂しく答えて船上の人となった。

明治32年(1899年)4月セシルは神戸港から出港した。西回りで故郷のイギリスに立ち寄り上海に向かうルートだった。

セシルの旅立ちから半年後の10月4日、三男が誕生した。小菊は佐太郎と命名した。自分を「佐て」と言う意を込めた名前だった。

 翌年日清戦争で日本に編入された台湾に三井の台湾製糖が設立された。これが香港車糖の致命傷となった。欧州甜菜糖は政策が変われば価格上昇し香港車糖が日本で挽回できる可能性はまだ残っていたのだ。しかし台湾製糖は今や日本の企業であった。香港車糖が挽回する可能性は潰えたのである。

 セシルは失望のどん底だった。望みを繋いだ海産物貿易も手付かずだった…、と言うよりも中国語を喋れないセシルが力を付けた華商に上海で太刀打ちできる筈はなかった。  

翌年明治34年(1901年)11月7日セシルは失意のうちに上海で永眠した。38歳だった。そしてイギリスの法令に沿って財産は父のフレデリック・C・エドに届けられた。

セシルの訃報は神戸のジャーディン・マセソン商会から男依そして小菊に伝えられた。

「セシルが亡くなったそうじゃ。」

男依は家に帰りつくと一言発し、台所で酒を飲み始めた。そして毎日のように酒を煽る日が続いた。男依は57歳になっていた。

年が明け1月1日は壽の10歳の誕生日だった。男依は酒を飲みながら弱音を吐いた。

「重雄もおらんようになった。壽が成長するまでと思とったけど、気合が入らんのじゃ。」

そしてその夜、脳梗塞が男依を襲った。症状が一段落した正月中旬、男依は喋れない半身不随の体となっていた。

 照53歳、小菊29歳、壽10歳、千賀雄7歳、佐太郎4歳、一家の主が働けなくなったのである。働けるのは小菊しかいなかった。 

岡山の砂糖中間への後処理と生活再建は待ったなしだった。おまけに壽は3月から高等小学校に進学させる積りだった。しかし高等小学校は有償だったのである。

意を決し小菊は役所に向かった。

そして家督継承の手続きを行った。岡山の砂糖中間への報告、後処理などが終わると、小菊は少々高く売れる着物を持って行商に歩いた。刀は今更買う人はいなかった。しかし着物とて無限にある訳などなかった。

砂糖商売でお世話になったところに行く訳にはいかなかった。そして小菊は重雄が道筋を付けていた海産物廻船問屋の高井屋を訪れたのだ。

以前高井屋は岡山藩御用達の旅籠だった。一家が岡山から神戸に出た時に宿泊し、セシルが旅立つ時には休息した旅籠だった。

 旅籠の主人は高井繁蔵だった。事情を聞いてくれた繁蔵は今日からでも仲居にと雇ってくれたのである。その日から小菊は無心に働いた。ただ子育てのためとの思いだった。

その姿を見て妻を亡くして独り身を囲っていた繁蔵は小菊に惹かれるようになっていく。

 小菊はセシルとの子育ての約束を守るため、佐太郎を里子として身内の河田長に預けた。しかし千賀雄が高等小学校に進学する歳が来ると授業料の工面を思案し始めた。

 明治38年(1905年)小菊は新たな決断をする。13歳となった壽に家督を譲り高井繁蔵に嫁ぐ決断をしたのだ。高井繁蔵は妻を亡くして寂しい思いをしていたので小菊が借金を頼むと、誰に遠慮することもなく小菊に旅籠の女将さんになって欲しいと申し出たのである。小菊は照と共に壽を呼んで家督を継がせる旨の決断を伝えた。そして長屋小菊から高井小菊に変わった。

しかし高井繁蔵とはたった1年で離婚した。さらに4年後、壽が就職すると明治43年(1910年)再び高井繁蔵と結婚している。前妻の娘が小菊に傾くのを嫌って詰るようになったため、結納金や手切れ金という名目で学資の支援を続けるためであった。

翌明治44年には照が亡くなり、後を追うように半年後の翌年、男依も亡くなった。  

小菊は大正3年千賀雄の中学卒業で子育ての誓いを果たし終えた。セシルに子育てを誓ってから15年の歳月が流れていた。

高井繁蔵は昭和の初めに亡くなっている。兄の重雄が願った家名存続のために必死に生きた小菊の人生の最後は高井小菊であった。長屋小菊ではなかったのだ。繁蔵の死後も再婚することなく高井小菊となって32年の生涯を選んだのだ。長屋家の家名存続に与った高井繁蔵への感謝の念がその選択をさせたのだろう。しかし一方で一時的にせよ確かに長屋を継承した証に、祖母きくから伝承された文書を孫娘に渡してもいたのである。

小菊の女性としての願いは叶わなかった。

昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が始まった。マレー侵攻が始まりイギリスは敵性国家となった。そして敵性国家への警戒心が猜疑心を呼び起こし京都に居を構えた壽の近辺に特高の目が光るようになった。壽の妻は近所の眼差しの手前もあり、小菊の因果の所為だと詰るようになった。

小菊は叫びたかった。父・男依は岡山藩の藩士だった。26代当主だった。外敵から守った救国の烈士・瀧善三郎の従兄弟だった。28代当主の壽が何故こんな目に遭うのか?

27代当主を繋いだ私の所為だったのか?

セシルを諦めた私の人生は何だったのか?小菊の心は憔悴した。そして自ら旅立ちを選んだ。高井小菊、享年69歳…。

戦争が始まって3か月後、小菊は祝言に臨むように正装し指輪を手に自ら命を絶った。3月6日の夕暮れだった。

着ていた衣装は祖母の「きく」の形見の衣装、セシルとの祝言の日の衣装だった。手にはセシルが贈った指輪が握られていた。3月6日はセシルと新婚旅行に船出した日だった。セシルと神戸港で別れて42年が経っていた。

小菊は人生の最後に本当に選びたかった道を踏み出したのだ。セシルとの7年、女性として生きたかった願いを現世に標したのだ。

重雄の遺した道標は、小菊の女性としての本心とは違った残影を生み出した。

重雄の蹉跌さえなかったならば残像は違っていただろうし、重雄が生きてさえいれば、残影はもう少し明るかったに違いない。

重雄は和糖から洋糖に切り替わる明治の砂糖業黎明期に一瞬だけ煌めき消え去った流れ星だったのだ。           

【完】


(あとがき)

青春のちょっとした蹉跌が未来ある若き命を奪った。青年の瞼に残った残像、遺した道標がもたらした残影を鎮魂する稗史である。

何が蹉跌であったのかは読者の判断にお任せしたい。

令和2年(2020年)2月13日

自然海遠


(参考文献)

1.風史伝「小菊物語」  自然海遠著

2.「妾の半生涯」  福田英子著

3.Wikipediaなど 大阪事件、自由党、福田英子など多数


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