第6章ー10
この頃、徐々に航空機用エンジンの出力が上がったこと等もあり、単発の戦闘機を爆撃機としても用いる、いわゆる戦闘爆撃機が各国で開発されたり、既存機から改造されたりするようになっていた。
既存機からの改造で有名なのが、英のハリケーン戦闘機であり、新開発の例が、日本の雷電や米国のP47だった。
他に99式戦闘機やP40等、本来の戦闘機のままで爆装して、戦闘爆撃機として使われることがあった。
これは、既存の襲撃機等の単発軽爆撃機が、敵戦闘機との空戦では不利であり、生残性の低さが問題になったりしたこと等の要因もある。
こういった経緯で実戦に投入された戦闘爆撃機は地上の装甲部隊の攻撃を得意としており、地上の装甲部隊にしてみれば、戦闘爆撃機の実戦投入は敵制空権下の機動に大幅な制限が掛けられたことに他ならなかった。
ともかくこういった事情から、ロンメル将軍らは水際撃滅案を主張したのだ。
「連合国の地上部隊が上陸作戦に成功し、橋頭堡を確立してしまっては、我々の戦力では海に追い落とすことは不可能な話になってしまう。敵が上陸して、橋頭堡を確立する前に、連合国軍を海に追い落とすのだ。そのために戦力をできる限り、波打ち際に集中すべきだ」
ロンメル将軍は、自らの主張を上記のように要約している。
更に、スターリンがロンメル将軍らの案を、暗に支持していることも事情を複雑にしていた。
ロシア、ソ連の大戦略としては、奥地に敵軍を引き込んで、補給に苦しませることで、敵軍を消耗させて、その上で大攻勢に転ずるのが基本ではないか、という反論がありそうだが、バルト海という場所が問題になっていたのだ。
つまり、バルト海において、連合国軍が上陸作戦に成功して橋頭堡を確立しては、旧バルト三国の民族主義者が独立を求めて武装蜂起する可能性が高いと考えられていたのだ。
また、バルト海沿岸一帯が連合国軍の手に落ちては、レニングラード(旧サンクトペテルブルク)までもが連合国軍の手に落ちる公算が高くなる。
こういった状況に陥ったら、フィンランドどころか、スウェーデンまでもが対ソ戦に参戦するのでは、という懸念も、ソ連政府は覚えていた。
何しろ、スウェーデンは、本来を辿っていけば、ロシア帝国、ロマノフ朝が成立して以降、大北方戦争等で何度も干戈を交わしたロシア、ソ連とは宿敵ともいえる仲である。
こうした歴史的経緯からすれば、連合国軍が展開するバルト海沿岸上陸作戦に、スターリンが過敏ともいえる態度を執るのも無理からぬところがあった。
そして、バルト三国の民族主義者が蜂起することにより、ウクライナ等で民族主義者が蜂起し、中央アジアではイスラム教徒が蜂起するような事態が起こっては、ソ連の対連合国戦略は完全に破たんするのだ。
それを警戒することから、所詮は民主ドイツ軍が主力ということもあり、スターリン等のソ連政府、軍は暗に水際撃滅戦略を支持していたのである。
この甲論乙駁の民主ドイツ軍内の大議論は、結局は1941年5月の本格的な連合国軍の対ソ欧州本土侵攻作戦発動まで尾を引く大問題となった。
このために、バルト海沿岸の防御態勢は中途半端なモノとなり、連合国軍の対ソ欧州本土侵攻作戦を容易にしてしまったという批判が強いのも当然といえる。
だが。
そもそも、バルト海沿岸を防衛するのには、民主ドイツ軍、更にソ連軍が力を併せても、なお戦力が足りなかったというのも事実なのだ。
この時の連合国各国が対ソ侵攻作戦の為に準備した戦力は、文句なしに史上最大であり、ナポレオンのロシア遠征の兵力でさえも小規模に思われる兵力を集めていた。
そして、それを活かした作戦が着々と準備されていた。
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