第6章ー7
似たような会話が、英米海軍内部でも交わされた末に、1942年3月半ば、このバルト海突入作戦は実施された。
この作戦の本来の目的は、3つあった。
まず第一が、ソ連バルト海艦隊に壊滅的打撃を与え、バルト海を連合国側の海に完全にすることである。
第二が、バルト海沿岸に対して、上陸侵攻作戦が実際に行われるという脅威をソ連に対して与えることで、ソ連の西方国境に展開している守備隊の転用を、ソ連軍に余儀なくさせ、西方からの侵攻作戦を容易にするという目的である。
第三が、バルト海沿岸のかつてのバルト三国の住民に対して、蜂起を間接的に促すという目的である。
3月15日早朝、空母「エセックス」の艦橋において、ハルゼー提督は満足げな顔をしながら呟いた。
「最新の米空母、エセックス四姉妹の初陣として、最高の晴れ舞台になるな」
他にもフレッチャー提督が3隻の米空母を、スプルーアンス提督が3隻の空母を率いており、全部で10隻の米空母が、この作戦に投入されているのだ。
しかも、艦載機数は約900機余りに達する。
「爆撃機と攻撃機は全機、出撃せよ。戦闘機は上空警戒用に半分を遺し、残りは攻撃隊を支援せよ」
猪突猛進の猛将というイメージの強いハルゼー提督だが、決して無謀な提督ではない。
約200機の上空直掩用の戦闘機を遺し、約700機の攻撃隊を2波に分けて、タリン、リバウへの空襲に投入した。
この鉄の嵐を主に迎え撃つことになったのは、皮肉なことに民主ドイツ空軍となった、かつてのドイツ空軍の生き残り達だった。
これには歴史的経緯も絡んでいる。
バルト三国は、ドイツ民族の東方植民の経緯から、ドイツ系の住民がそれなりに住んでいる土地だった。
そのために、民主ドイツの新たな指導者となったハイドリヒは、スターリンと協議の上で、民主ドイツ軍の主力をバルト三国に展開させて、そこの住民から兵の志願を募ったのである。
それに、民主ドイツ側についたドイツ海軍の生き残り(ほぼ潜水艦のみと言っても過言では無かったが)も、タリンやリバウに逃げのびてソ連海軍と共闘しているという現実もあった。
「後、何度、こいつで戦場に行けるかな」
ヴォルフ・ヴィルケ大尉は、そう呟きながら、愛機のBf109Fを操縦していた。
自分の後には、同型のBf109Fが15機、追従している。
他にも同様の立場の面々が、全部で100機程で出撃している筈だ。
だが、その内の半数近くが、ソ連から提供されたYak-1やLaGG-3に乗っているというのが哀しい現実というものだった。
勿論、ソ連機に乗っている面々にしても、本音としてはドイツ機に乗りたいのだ。
だが、ドイツ本土が連合国軍の手に落ちた以上、ドイツ機の生産、入手は民主ドイツ空軍にとって事実上は不可能な話となっており、予め出来るかぎりの手段を駆使して、機材や予備の部品をソ連に持ち込んだとはいえ、それらには限りがある。
更にソ連本土に対する連合国の重爆撃機を装備した航空隊による戦略爆撃の開始もあり、これらを民主ドイツ空軍が迎撃せねばならないということもあった。
こういった迎撃任務を行えば、どうしても機材や予備の部品は払底していく。
こういった事情から、ヴィルケ大尉の愛機はともかく、この迎撃戦闘に飛び立った民主ドイツ空軍機の半数近くがソ連機であるという事態が生じていたのである。
また、独ソの軍用機の混成部隊は、米軍機の集団の2割以下という圧倒的劣勢にも関わらず、ソ連との今後の関係を忖度して、勇敢に戦うしかないというのが現実と言うものだったのだ。
そして、ヴィルケ大尉はこの日の戦闘で生き残ったが、多くの部下が、この日の戦闘の結果、戦死したのだ。
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