第5章ー21
そういった日本陸軍最上層部の決断もあり、1941年の冬から翌年の春に掛けては、極東戦線に展開している日米両陸軍の兵士は大規模な移動を強いられた。
このために中国、シベリア方面で日米満韓各国が押さえている鉄道網においては、民需を満たすための鉄道輸送ができる限り削られて、全ての余力が軍事関連の輸送に転用される程だった。
そして、鉄道がない場合は、自動車輸送が用いられた。
これは鉄道輸送に比して非効率ではあったが、鉄道を敷設する時間が惜しい以上は仕方のない話だった。
そうしたことから。
「ここ北京の月も今宵限りか」
「国定忠治の科白のもじりですな」
「まあな」
1月上旬のある日、簗瀬真琴少将は副官とそんな会話を交わしつつ、北京近郊に置かれている駐屯地で夜空の月を眺めていた。
「月見酒の準備でもしましょうか」
「いい。既に夜も更けたし、そんな気分になれないからな」
簗瀬少将の表情は、微妙に翳っていた。
簗瀬少将は、月を眺めながら、想いを巡らせた。
(簗瀬少将が師団長を務める)第56師団は、ウランバートルへの移動を命ぜられ、1月中に移動を完了することになっている。
行程は全て自動車輸送を頼りにすることになっており、その準備の為に先月下旬から取り掛かり、ようやく明日からの出発が可能になった状態だった。
勿論、軍人として移動命令を受けた以上、移動するのは当然である。
だが、赴く先の事情と、今いる場所の事情が簗瀬少将を物思いに耽らせていた。
簗瀬少将が、直接、岡村寧次大将等に確認した訳ではないが、第56師団がウランバートル駐在を命ぜられたのは、第56師団の兵団文字符「龍」が、現在の外蒙古臨時政府首班である徳王の琴線に触れたからだという噂が流れている。
「龍兵団を、ウランバートル駐在部隊とされたい。龍は皇帝の象徴とされることもある。かつてのモンゴル帝国に想いを馳せるのにも、龍という言葉は相応しい」
そう徳王が発言したことが、第56師団がウランバートル駐在任務部隊に選ばれた最大の原因だ、等の噂が流れているのである。
誰がそんな噂を流したのか。
簗瀬少将は想いを巡らせた。
徳王が本当に言った可能性もある。
何しろ、徳王はチンギス・カンの男系子孫であり、その気になれば、モンゴル帝国を復活させて自ら皇帝に即位することができる帝位継承権の持ち主だ。
その一方で、蒋介石(またはその側近)が、徳王を牽制するために、わざとそのような噂を流した可能性も否定できない。
モンゴル帝国と言わないまでも、徳王が内蒙古と外蒙古を統一した新モンゴル国の建国を望んでいることは公知の事実と言って良い。
徳王が野望の持ち主である、と周囲に喧伝することで、徳王を警戒させて、外蒙古の回復は諦めざるを得ないとしても、内蒙古までも中華民国から分離独立することをさせまい、と蒋介石は画策しており、その謀略の一環として噂が流れた可能性がある。
モンゴルだけでこの有様だ。
簗瀬少将は、ウランバートルに赴任した後、永田鉄山参謀総長や小畑敏四郎シベリア派遣総軍司令官の指示を受けて、前田利為日本軍情報部が展開しているウイグル、チベット、カザフスタン等の独立運動に対する側面支援を行うことになっている。
チョイバルサンが率いる外蒙古政府が倒れ、徳王政権が樹立されたことで、日本からウイグル等の独立運動に対して、効果的な武器提供等の様々な支援が可能になっている。
この支援活動について、蒋介石政権の本音としては、中国を分裂させるものであるとして、日本に止めてほしいらしいが、共産中国政府打倒の方が優先される以上は、半ば黙認せざるを得ず、それも蒋介石政権の面従腹背を招いているらしかった。
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