第5章ー18
それに日本と中国との19世紀後半以降の様々な因縁、中国人の恨みが絡んでくる。
共に西洋との接触(中国はアヘン戦争、日本はペリー来航等)により、いわゆる西洋化、近代化をほぼ同時期に日中は目指した。
その結果として、半ば必然的に起きたのが、日清戦争であり、義和団事件等だった。
日清戦争の敗北で、当時「眠れる獅子」と謳われていた清は「老いた豚」と見下されるようになり、欧米列強から領土を蚕食されるようになった。
また、唯一の属国として遺っていた韓国(朝鮮)でさえ、日清戦争の結果、独立国となったことから、中国(当時は清、現在は中華民国)との対等外交を主張する有様となった。
こうした事態から起こった排外主義が暴発したといえるのが、義和団事件だったが、この結果として、中国(清朝)は欧米列強どころか、日本や韓国に賠償金を支払うという屈辱を舐めたのである。
(正確に言うと、当時の韓国には、日本に借款という名の借金があり、義和団事件で得た賠償金は全てその支払いに回ったので、実際には韓国の懐には入らずに素通りしたのだが、中国の人民にしてみれば、つい、最近まで属国であった韓国にまでも名目上は賠償金を支払うという屈辱を味わったのは間違いなかった。)
その後、日露戦争において、自国の領域内で主な日露間の戦闘が行われたにも関わらず、清朝は局外中立を事実上保つしかない、という事態にまで陥ったことで、中国の民衆の間の排外主義、民族主義は遂に沸点にまで至ったといっても過言ではなかった。
こうした中で生まれたのが孫文等が唱えた中華民族主義だった。
中国の領内にいるのは中華民族であり、漢民族を中心とした一つの民族国家であるというのである。
とは言えこれをそのまま唱えては、モンゴル族やウイグル族、チベット族、満州族等の少数民族からの反発が強いので、清朝を倒して新たな中国の正統政府となった中華民国の国是としては、孫文といえど建国当初の間、表向きは五族共和主義を唱えざるを得なかった。
そして、その流れの中で中華民族主義の最大の標的となったのが、日本だった。
何しろ明治維新以降、清朝と日本の両属だった琉球(沖縄)を日本領に完全にした後、日清戦争で台湾を清朝から獲得、韓国を盛大に後押しして、韓国と清朝が対等な関係であると認めさせたのである。
そして、義和団事件、日露戦争を経て、英米と手を組んで南満州までも自国の勢力圏に収めた。
更に第一次世界大戦の勝利で山東省の独利権までも、事実上は手に収める等、中国民衆の目からすれば、19世紀後半以降の中国から最大限に収奪したのは英米等ではなく、日本に他ならなかった。
また、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約において、国際連盟総会決議の拒否権を認められる等、世界の五大国の一角を占める存在と、世界的にも日本は認められ、アジアにおいて最大の大国、強国と日本はアジア諸国にまでも認識されるようになった。
それに対し、中国はかつて中華主義を唱え、アジアにおいて自国を頂点とする朝貢体制を敷いていたが、今や長年にわたって属国だった韓国にさえ対等国扱いされる零落ぶりである。
こうした状況は、かつての栄光があるだけに、尚更、中国本土の民衆にとって屈辱極まりない話であり、反日というだけで、どんなことも正しい、という雰囲気を生み出した。
だが、ヴェルサイユ条約締結後の歴史の流れは、中国本土の民衆にとってみれば残酷極まりない話で、ワシントン条約や山東出兵、満州事変等の日中間の様々な事件(日中以外の諸国も関与したが)によって憤懣は高まる一方だった。
そうしたため、日中戦争は泥沼化して抜けられない状況に陥っていたのだ。
ご意見、ご感想をお待ちしています。




