第5章ー16
日米満の戦略的態勢としては守勢を取りつつ、航空攻撃による敵国、共産中国政府の屈服を図る。
それが、第二次世界大戦勃発以来の日米満各国政府、軍の大軍事戦略と、これまではなっていた。
だが、第二次世界大戦勃発以来、ほぼ2年以上にわたり、日本空軍と米陸軍航空隊が懸命の戦略爆撃を繰り返したにもかかわらず、共産中国政府は屈服する気配が全く無かった。
この原因については、様々な主張がある。
よく言われるのが、日本空軍が戦術空軍に特化していたために、戦略爆撃の効果が挙がらなかったという説であり、軍事専門家の一部までが21世紀になっても支持し続けている。
だが、1940年になると、日本空軍も99式重爆撃機(米のB-17を、日本の鈴木重工がほぼライセンス生産したもの)を本格装備して戦略爆撃を実行するようになっており、また、英空軍や米陸軍航空隊と積極的に戦訓の交換等を図っていて、1941年以降は日本空軍は付け焼刃ながら、英米とそう引けを取らない戦略空軍化を果たしたと、1942年以降に行われた対ソ戦略爆撃においては評されているのだ。
だから、共産中国政府に対する戦略爆撃の効果が挙がらなかった原因は他に求められるべきだろう。
実際、日本空軍と米陸軍航空隊の戦略爆撃目標を比較検討してみても、どちらが効果的だったかというのは悩ましいと評する軍事専門家も多々いるのだ。
この当時、米陸軍航空隊は、中国の都市に対する戦略爆撃を好んで行っていた。
そのために、米陸軍航空隊の攻撃圏内にある中国の都市のほとんどが、1941年末までにいわゆる瓦礫の山と化す有様だった。
このために、例えば、中国の本来は古都として名を馳せてもおかしくない西安や洛陽は、21世紀現在、世界の文化遺産等には決して選ばれないという有様になった。
西安や洛陽等で第二次世界大戦勃発前に建てられていた建物は、全て米陸軍航空隊の戦略爆撃により、土台以外は全て破壊されたといってもよい惨状に、1941年末までになっていたからだ。
(なお、米政府はその事実を21世紀になっても全面否定している。
これらの破壊は、現地の共産中国政府や現地の住民の破壊工作によるものであり、米陸軍航空隊の戦略爆撃は、中国の文化財等は一切、目標にしておらず、誤爆により一部破壊したことがあるかもしれないが、その程度にとどまり、全面破壊に至るまでの空襲は加えていないというのである。
だが、実際に空襲を行った米陸軍航空隊の隊員の報告書等、一次資料を精査する限り、都市に対する無差別爆撃をこの当時の米陸軍航空隊は行っており、米政府の否定は歴史の否定と言える。)
一方、日本空軍が基本的に行ったのは、いわゆる飢餓作戦だった。
共産中国政府の統治下にある鉄道網や内陸水運網は、日本空軍によって執拗に攻撃された。
長江流域等では、河川の渡河が不能、困難になるように機雷の敷設まで行われた。
2年余りに渡るこの作戦の結果、共産中国の統治下にある領域の内陸水路では、木造の一丁櫓の船が、長江の渡河に際しても主力になるまでに内陸水運の効率は低下した。
また、鉄道は完全に麻痺し、牛馬は人間の食料として食い尽くされたため、人力での輸送が陸路では当然になった。
ゴムの欠乏によりゴムタイヤさえまともに無い状況で、物資の輸送に際して木製の車輪を使って人間が引く荷車が貴重品扱いされる有様となっては、様々な物資が各地で欠乏してしまい、共産中国政府の統治下にある土地において、飢餓による餓死者や治療薬が事欠くことにより蔓延する伝染病による病死者等が続出するようになるのは、ある意味、当然のことだった。
それでも共産中国政府は抗戦を続けた。
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