第5章ー13
11月4日、日米満韓連合軍はイルクーツクの完全制圧を宣言した。
その時点で、イルクーツクにあったソ連軍司令部は、司令官以下の全員が戦死するか、自決するか、投降するかの運命を選んでいた。
更にそれを受けて、イルクーツク以東のソ連軍の個々の部隊からも投降が相次ぐようになっていた。
ここに、ネルチンスク条約締結以降にロシアが獲得し、ソ連が引き継いだイルクーツク以東の領土は、ソ連から失われたといって良い状況となった。
勿論、なお、イルクーツク以東の土地において、ソ連に忠誠を誓って外興安嶺等で遊撃戦を展開するソ連軍部隊は存在したし、それを支持する住民も絶無ではなかった。
だが、1941年11月以降、それらが戦局に多大な影響を与える力が遺っていたか、というと。
最早、そのような力はほぼ遺っていなかった、というのが哀しい現実というものだった。
また、相前後して、旧外蒙古政府が治めていた土地においては、(細部においては対立があったが)日米満韓各国政府の思惑、支援もあり、モンゴル民族主義者の徳王を臨時の指導者とする仮政府が樹立されることになり、多くのモンゴル民族主義者の支持を得つつあった。
徳王は、内蒙古、外蒙古を一体とした新モンゴル国建設の野望を抱いており、日米韓は中国を少しでも分裂させて、将来的に中国を弱めようという思惑から、徳王の構想を(暗黙裡に)支持していた。
一方、蒋介石率いる満州国政府は、あくまでも新中国政府の統治下にある自治政府として、徳王政権を認めるという構想だった。
このことは、後で火種を産むことになるのだが、今のところは共産中国打倒が最優先であり、呉越同舟の趣で、この後、当面の間、徳王政権を日米満韓は共同して支持することになるのである。
こうした戦況の変化により、日米満韓連合軍は、各国政府を交えた協議を行い、今後の大戦略を練り直すという事態が発生した。
これ以上の西(モスクワ、欧州方面)への大兵力の進撃は困難であり、いわゆる労多くして功少なし、になると各国政府、軍の上層部は考えざるを得なかった。
既に外蒙古政府が日米満韓連合軍側に寝返っている以上、手近な目標は日米満韓連合軍側には無いといって良かったからである。
これ以上の大兵力の西進を図るよりも、旧外蒙古領やイルクーツク等を拠点として、ウイグルやカザフスタン等方面における反ソ、反共産中国運動を日米満韓等が指嗾する方が、ソ連や共産中国打倒にはより効果的だろうと各国政府、軍の上層部の面々の多くが考えた。
また、そのような大兵力はむしろ、補給等が相対的に容易な、欧州方面やいわゆる中国本土方面に投入した方が、対ソ、対共産中国戦に向ける戦力として役立つとも考えられたのである。
そうしたことから、大規模な兵力の再編制、再配置が展開されることになった。
「喜べ、今度は日本陸軍の軍服で欧州に赴くことになったぞ」
「本当ですか」
日本第1機甲軍の総司令官である山下奉文中将から、この度のイルクーツクの制圧における軍功第一として勲章を授けられた一木清直大佐は、山下中将の言葉に思わず問い返してしまった。
「こんなことで嘘を吐いても仕方ないだろう。日本の戦車、機甲部隊は欧州での対ソ戦に必要だということになってな。我が日本第1機甲軍は欧州に派兵されることになった。部隊改編で6個機甲師団を編制し、我が日本陸軍は欧州に赴く」
山下中将は重々しく言った。
一木大佐は思わず落涙してしまった。
20年余り前、自分達は海兵隊に派遣され、海兵隊の軍服で欧州で戦った。
あの時の陸軍の軍服で戦いたい、という想いが終に果たされる時が来るとは。
ふと見ると、山下中将も涙を浮かべていた。
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