第5章ー11
1941年11月初め、ウラン・ウデにおける攻防戦の後、イルクーツクへの事実上の退却を続けるソ連軍を追撃し続け、日本第1機甲軍はイルクーツクへの突入を目指そうとしていた。
本来の地形等を勘案した上で、ウラン・ウデからイルクーツクへの陸路においてバイカル湖の南岸と山麓が接近している地形を縫って建設された隘路における徹底抗戦を、この時のソ連軍は図りたかったらしい。
だが、小畑敏四郎大将は、ソ連軍からすれば半ば奇策でその思惑を打ち砕いてしまった。
「バイカル湖を海と見立てて考えればよい」
小畑大将はそう言って、日本から上陸用舟艇を予め運ばせておき、バイカル湖畔に日本軍がたどり着いた時点で、バイカル湖を渡ってのイルクーツクへの機甲部隊の進撃を断行したのだ。
「海兵隊にできて、陸軍にできないようでは、日本陸軍に取って名折れもいいところだからな」
小畑大将は、そう半ばうそぶいたともいう。
海を渡っての渡洋侵攻作戦は、日本陸軍、海兵隊にとっては宿命ともいえる作戦である。
それこそ明治の建軍以来、日清日露戦争等、渡洋侵攻作戦を日本陸軍、海兵隊は展開してきた。
この世界大戦になってからでも、ノルウェー救援作戦で海兵隊の戦車部隊は渡洋作戦を実施している。
小畑大将は、バイカル湖を巡る攻防戦において、それを応用して見せたのだった。
一方のソ連陸軍にしてみれば、驚愕するしかない作戦だった。
バイカル湖南岸の地形を活用しての防衛作戦を展開する筈が、そのために展開した主力部隊が一転して後方との連絡線を切断され、袋のネズミとなる事態が生じてしまいかねない話になったのだ。
本来から言えば、バイカル湖の制水権はソ連軍が掌握している筈だった。
そのための砲艦や哨戒艇をソ連軍はそれなりに保有していた。
だが、日米連合の航空攻撃により、ソ連軍の砲艦や哨戒艇は、事前にほぼ沈没、大破状態となり、活動不能になっていた。
ソ連軍は、この航空攻撃をバイカル湖南岸の日米連合軍の攻撃に際し、バイカル湖上からの妨害を排除するためと判断していたが、それは誤断であり、実際にはバイカル湖を渡るための攻撃だったのである。
第1機甲師団から、この半ば奇襲の渡湖作戦のために編制された臨時の支隊長に指名されたのは一木清直大佐だった。
一木清直大佐にしてみれば、先の世界大戦以来、経験を積んできたことの集大成のような想いがする話しだった。
あの時に自分が搭乗していたホイペット戦車が、おもちゃ、子どものように想える一式中戦車や百式重戦車改を用いた舟艇機動による上陸作戦を展開するのである。
「バイカル湖を渡り、イルクーツクを急襲せよか。ブリュッセルを目指した時のように気分が高揚するな」
あの時と同様の勝利を収めよう、今度は海兵隊ではなく、陸軍の軍服で。
一木大佐は、自らの指揮下において主力となる戦車大隊1個と自動車化歩兵大隊2個を見回しながら、固く誓った。
「あれが一木大佐か」
西住小次郎大尉は、20年以上前に行われて半伝説となったベルギーでの戦いに、戦車に搭乗して参加していた一木大佐を、半ば憧憬するような目で眺めた。
目の前のバイカル湖を渡り、イルクーツクへの急襲任務を果たす。
これが極東におけるソ連軍との戦いにおける最後の攻勢任務になる、という噂が部隊内で流れており、自分もそれに同意せざるを得ない。
何しろ、極東から欧州は余りにも遠いのだ。
「一木大佐と共にイルクーツクへの進撃を果たして、極東方面における対ソ戦を事実上終わらせよう」
西住大尉は内心で誓った。
それは、この急襲作戦に参加する多くの将兵の想いでもあった。
この急襲作戦で、ソ連に対する攻勢は、極東では終わるだろう。
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