第5章ー10
このソ連軍の味方射ちについてだが、意図してソ連軍が行ったのか、それとも誤射だったのか、今一つ不明確なところがある。
この戦いの後に捕虜になったソ連兵の多くが、この味方射ちについては誤射だった、という主張をしているからである。
実際、味方の砲兵が射程を誤って味方の歩兵や戦車を砲撃してしまった、というのは、それこそ日本陸軍や日本海兵隊でさえ、稀に起こっている出来事ではある。
とは言え、そんな事情を知らない西住小次郎大尉や右近徳太郎中尉らにしてみれば衝撃的な光景で、とうとうソ連軍はそこまでやるようになったか、という想いがしてならず、この戦いに際して、記憶に残る出来事になった。
だが、実際問題として、このソ連軍の味方射ちは、ソ連軍の将兵の混乱を招いた。
まさか味方に撃たれるとは、という衝撃の方が大きかったのだ。
それを日本軍の将兵が完全に見逃す訳が無かった。
頭を振って、気を取り直しつつ、西住大尉は命じた。
「全車前へ。ソ連軍を蹂躙する。通信士は、その旨を大隊長に意見具申せよ」
右近中尉も似たような行動を取った。
「味方の戦車の動きに合わせて、我々も攻撃に転ずる」
日本第1機甲師団は、外蒙古方面から進撃してきたソ連軍の攻撃を迎え撃ち、勝利を収めた。
また、ウラン・ウデ防衛軍の攻勢を、別の日本機甲部隊は阻止することに成功し、逆にウラン・ウデ市街への突入を果たした。
そして、チタもこのような戦況の急変を受けて熟柿が落ちるように、米軍の攻囲網の前にソ連の防衛軍は投降を決断することにした。
外蒙古政府は寝返り、ウラン・ウデまで陥落寸前と戦況が悪化しては、チタを固守するのはどうにも無理であるとソ連の防衛軍は決断したのである。
この戦況の急変を受けて、小畑敏四郎大将は、マッカーサー将軍の承認を得た上での、山下奉文中将率いる日本第1機甲軍にイルクーツク急襲を命じた。
ウラン・ウデではまだ市街戦が行われていたが、その完全制圧は後続部隊に任せ、イルクーツクへの前進を早期に果たした後、冬営に入るべきだ、という小畑大将の的確な判断だった。
津波が大地に押し寄せるかのような勢いで、日本第1機甲軍はイルクーツクへ急いだ。
一方、ソ連軍の防御態勢は、このような状況の急変に中々ついていけなかった。
何しろ、チタで日米満韓連合軍の攻勢を食い止める筈が、チタを部隊の一部に攻囲させるだけで、チタを迂回してウラン・ウデに日本軍の機甲部隊は攻撃を仕掛けてきた。
更に、その影響から外蒙古政府の足下は揺らぎ出すことになり、終には首都防衛部隊がクーデターを起こして、外蒙古政府の首班チョイバルサンが暗殺され、臨時政府が樹立されるという事態が起こったのだ。
そのためにイルクーツク以西のシベリア鉄道に対してまでも、寝返った外蒙古政府軍による遊撃戦による破壊を警戒しないといけない状況となったのである。
こうなっては、イルクーツクさえもソ連政府、軍の目から見る限り、固守することは困難だった。
イルクーツク占領後に、日米満韓連合軍が押収したソ連軍の各種文書によると、こういった状況の急変によってイルクーツク方面へのソ連軍の増援は最終的に断念されることになったらしい。
そもそも欧州方面からの米英仏伊日等の連合軍の地上侵攻が、来年春には実行されるとみられている。
こうした状況では、極東方面に部隊を送る余裕はない、ということ、また、外蒙古政府の崩壊によって、中央アジア方面までも日米満韓の政府、軍による反政府運動の使嗾が可能になったということも大きかった。
(もっとも、この後、インド方面で逆の状況が発生するのだが)
そのために現有戦力でのイルクーツク死守が決断された。
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