第5章ー6
もっとも、この当時の日米満韓連合軍が考えていたのは、更に一段先といえることだった。
チタを攻囲したら、それ以上のことは行わずに、イルクーツクへの前進を図ることさえ、戦況に応じて柔軟に行うことをイルクーツク方面への侵攻作戦発動段階から計画していたのである。
これは、いわゆる作戦術の理解が連合国側でも進んでいた証左でもあった。
軍事戦略に基づく一連のいわゆる戦役、作戦において、諸々の戦闘行動が生ずることは、ある意味では自明の事柄だった。
その諸々の戦闘行動における戦術と軍事戦略を密接かつ柔軟にリンクさせて、戦争の勝利を導こうというのが作戦術の基本的な理解と言える。
そして、この時の極東戦線における連合国側の作戦と言うのは。
連合国軍の侵攻作戦において、第一目標がチタであることは、ソ連軍とて看破していた。
だが、そのチタにおいて、ソ連軍が固守する場合の方策まで、連合国側は事前に柔軟な作戦計画を立てていたのに対し、貧すれば鈍するではないが、作戦術の本家であるソ連軍は、その場合は連合国軍はチタを強攻するだろう、それ以外の作戦は無い、と半ば決めつけて作戦を立案しており、チタでの籠城、固守作戦しか、事実上は立案していなかったというのが現実だった。
一方、連合国側は。
「チタに大戦力でソ連軍が籠城するなら、遠巻きに包囲するにとどめ、ウラン・ウデ方面に進撃する」
それが事前に連合国側で建てられていた計画だった。
もし、籠城しないなら、チタを強襲して陥落させるが、籠城するなら、すぐに別方策を講じるまでだ。
連合国側の軍事戦略としては、イルクーツク以東を制圧、外蒙古政府を転覆させる。
その後の対ソ戦における極東戦線においては、ソ連領内のそれ以上の西進は行わずに、占領地の安定、シベリア、中央アジア方面のソ連領の不安定化を図る(なお、言うまでもなく共産中国は打倒対象である)というのが基本方針である。
それに基づいてチタに対する作戦を立案するならば、チタにソ連軍が大戦力で立てこもるとき、強襲する必然性は全く無かった。
むしろ、チタ市民の犠牲を少なくするために、連合国軍は包囲に止めて降伏を促すべきだった。
こうしたことから、チタに足止めも兼ねて6個師団もソ連軍は籠城したにも拘わらず、それらは戦力としては遊兵と化してしまい、ウラン・ウデの防衛が困難になるという事態が生じることになる。
チタに6個師団(実質的には、戦闘による損耗により4個から5個師団相当)が籠城していると判断した日米満韓連合軍は、小畑敏四郎大将の助言の下、マッカーサー将軍の命令により、米軍3個師団が遠巻きにチタを包囲するに止め、残りの部隊は基本的にウラン・ウデからイルクーツクへと進撃する姿勢を示した。
このため、ウラン・ウデ、イルクーツク方面を防衛するソ連軍は5個師団に満たない戦力で、10個師団を超える日米連合軍を迎え撃つという苦しい戦いを強いられることになった。
慌てたソ連軍は、チタ防衛軍を出撃させて、イルクーツク方面に進撃する日米連合軍の後背を脅かそうと図ったが、それは無理筋というものだった。
これまでの戦闘で既に損耗している以上、額面上の戦力では上であっても、実質的な戦力としては、そう大差の無い状況での攻勢を執るのである。
更に物資の欠乏が目に見えており、航空優勢もない状況とあっては。
最終的な結果としては、このチタ防衛軍の攻勢は、チタ陥落を早めるものにしかならなかった。
無理な攻勢を展開したことで、チタ防衛軍の戦力の早期枯渇を招くという事態を招いたからである。
後知恵に過ぎない話だが、ソ連軍はチタ防衛に当たる部隊を減らしておくべきだったのである。
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