第5章ー5
1941年秋から冬にかけての当時、外蒙古政府を牛耳っていたのは、チョイバルサンだった。
だが、この当時、チョイバルサンの足下は徐々に揺らぎつつあった。
まず、第一に、外蒙古政府の最大の支援国たるソ連が、徐々に極東戦線において劣勢になりつつあったことである。
このために、外蒙古政府に対してソ連政府が行ってきた武器等の支援は、自国ソ連を優先する関係から徐々に削減されるようになっており、逆に食糧支援等をソ連が外蒙古政府に対して求めるようになっていた。
だが、このことは外蒙古政府内においても、ソ連に対する支持を続けて良いのか、という疑問が徐々に広がるきっかけになった。
何しろ、ソ連政府はこれまでの外蒙古政府に対する様々な支援の見返りとして、外蒙古政府に対して飢餓輸出を命じてくる有様なのである。
チョイバルサンは、これまでのソ連政府からの恩義に報いるため、と称して、飢餓輸出を積極的に是認したが、それによって外蒙古の国民には餓死者が出る有様となった。
こうなっては、さすがに外蒙古政府の上層部からもソ連に対する反感が広まることになる。
(もっとも、ソ連の弁護をするならば、そうしないとシベリアにおいて自国民に餓死者が出る以上、自国民の支持をつなぎとめるために、外蒙古政府の支援を求めるしかなかった、というのもあった。)
第二に、この頃から行われ出した外蒙古領に対する日米の戦略爆撃である。
皮肉なことにチョイバルサンは、国民の教育制度整備に努めていたのだが、これも戦略爆撃の前に逆風になってしまった。
例えば、モンゴル語教育を進めるに際して、(ソ連政府からの暗黙の指示もあったことから)モンゴル文字からキリル文字への切り替えを行っていたのだが、これは民族主義者の静かな怒りを招いていた。
そして、民族主義者によるモンゴル文字教育が逆に密かに進む事態さえ起きていたのだが。
日米両軍は、戦略爆撃に際して、モンゴル文字による警告ビラを撒いた上での爆撃を多用した。
このため、キリル文字しか読めない者は警告の意味が分からないが、モンゴル文字を学んだ者は警告の意味を察知して、爆撃を回避する事態が発生した。
また、このような事態が起きたことから、チョイバルサンは、日米両軍の警告ビラを放置していては、自らに対する国民からの信任が失われて行くと考え、日米両軍の警告ビラを政府、当局に提出しない者を処罰することにしたのだが、このことは却って日米両軍の警告ビラの信用を高め、更にチョイバルサンに対する国民からの信任を失わせる、という逆効果を招いた。
それ以前から、駐留ソ連軍を背景にして、チョイバルサンは自らの反対者をスターリンと同様に大量に粛清することで、自らの権力維持を図っていたのだが。
こういった事態が連鎖することは、チョイバルサンをトップとする外蒙古政府の国民の支持を徐々に失わせていく一方になった。
こうした状況を見て、徳王率いるモンゴル民族主義者は、今や半聖地と化した満州国政府が抑えている内蒙古一帯を主な根拠地として、外蒙古政府に対する遊撃戦を積極的に展開するようになり、これに外蒙古政府の国民も有形無形の支持、支援を徐々に与えるようになっていっていた。
こうした状況から、ソ連、外蒙古両国政府が考えていたことがあった。
チタを日米満韓連合軍が制圧し、イルクーツクを望むようになっては、外蒙古政府も持たなくなりかねないということである。
そう言った状況になっては、外蒙古に駐留しているソ連軍もソ連に移動せざるを得なくなる。
更に駐留ソ連軍という背景を失った外蒙古政府がどうなるか、というと。
徳王が外蒙古政府の新指導者になりかねなかった。
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