第5章ー4
このPo-2の夜間空襲の迎撃するために高射機関砲や高射砲、更には夜間戦闘機まで投入されることになったが、この対策をあざ笑うかのようにこの空襲は続いた。
と言っても、具体的な人的、物的損害はたかが知れており、むしろ精神的な損害が大きかった。
何しろ夜間いきなり爆弾が降ってくるのである。
しかも、それに対する迎撃が困難と言うのだ。
戦場の兵士にしてみれば、おちおち眠れない気分になるのはやむを得ない話だった。
このPo-2の典型的な夜間空襲だが、単機でできる限り電探に探知されないように低空飛行を行って、目標直前で急上昇、目標に向かって緩降下(その際はエンジンを切って、発見されにくいようにする)、爆弾投下後、爆弾炸裂音で誤魔化しつつ、エンジンを再始動して逃走するというものだった。
余りの低空飛行のために、落下傘が役立たず、搭乗員は落下傘無しで出撃していた程である。
この夜間空襲は、後に欧州戦線でも行われることになり、様々なあだ名が付けられた。
例えば、米軍の多くからは「ウォッシングマシーン(洗濯機)・チャーリー」と、騒音からくる連想からあだ名が付けられた。
日本軍の多くからは、(特に奉天会戦時における)日露戦争において生じた大量のロシア軍捕虜が日本に伝えたロシア民話に出てくる魔女「バーバ・ヤーガ」を連想させるとして、「夜の魔女」というあだ名が付けられた。
これは、あくまでも当初は単なるあだ名、いわゆるスラングだった。
だが、皮肉なことに、後に「夜の魔女」の一部は、本当に女性搭乗員が操っていたことが(連合軍側に)判明する。
第二次世界大戦勃発後、しばらくの間はソ連軍が攻勢を執った時期だった。
そのためにソ連空軍も進攻作戦を数多く展開せざるを得なかった。
ソ連も、日米等の連合国と同様に、戦時には大量の搭乗員を始めとする空軍関連要員を養成するシステムを構築していたが、さすがに開戦から2年余りが経ち、更に初期の進攻作戦では搭乗機と共に搭乗員も喪失する事態が多発した結果、この頃になると搭乗員の質量の不足が目立ちだしたのである。
(特に日本本土空襲を試みたソ連空軍の重爆撃機乗りに至っては、第二次世界大戦前から重爆撃機に搭乗していた者で、第二次世界大戦終結まで生き延びた者はほとんどおらず、そのためにソ連空軍による日本本土空襲の実態については謎めいてしまう程である。)
そのために、ソ連空軍が採用したのが、女性の募集だった。
なお、ソ連では陸海軍でも同様のことが行われ、最前線に投入された。
(一方の日本を始めとする連合国側でも、軍医等に女性の軍人がいたが、基本的には後方部隊での勤務に限られており、最前線で女性が戦った例は極めて少ない。)
そして、1941年秋になると、実際にソ連軍の最前線には女性部隊が現れるようになったのである。
つまり、この夜間空襲は、ソ連空軍女性飛行部隊の実戦投入の皮きりでもあった。
少なからず話がずれたが、この当時の極東戦線において、ソ連空軍の活動は、こういったPo-2の活動が特筆される程、低調になっていたのも反面的な事実だった。
そのために、日米満韓連合軍による満洲里からチタへ、更にイルクーツクへの進撃に対して、ソ連軍が効果的に対処することは極めて困難だった。
制空権(航空優勢)無くして、大規模な敵陸軍の進撃を正面からの防御で防ぐのが困難なのは、この当時の軍人にとって自明と言って良い話と言ってもよい。
こうしたことから、9月末にはチタを日本軍は望む有様となり、10月初めには終にチタは日米満韓連合軍の攻囲下におかれるという惨状になった。
そのために、外蒙古政府の足下が徐々に揺らぐ状況が生じた。
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