第5章ー1 極東戦線の動向(モンゴル崩壊等)
第5章の始まりになります。
1941年8月末、ルフロウォ以東の極東ソ連領をほぼ制圧した日米満韓連合軍は、今後の作戦方針についてハルピンで会議を開いていた。
主な議題となったのは、今年の内に進撃を行うのか、それとも今年の内は守勢に徹して、来春からの攻勢を行うか、と言った点だった。
「今年の内にイルクーツクまでの進撃を果たすべきだ」
山下奉文中将の主張は明快だった。
日本陸軍きっての機甲戦術の大家、戦車を運用しての攻勢に掛けては世界でも有数の名将と自他共に認める山下中将の主張は、日米満韓連合軍の議論を主導していた。
それに、日米満韓連合軍には、もう一つ考えることがあった。
それはどこまで日米満韓連合軍は進撃して、占領下に置くのか、ということである。
これについては、様々な意見があった。
一番、過激な意見としてはモスクワまで進撃すべきだというのがあった。
だが、それは幾ら何でも遠大過ぎる目標としか、言いようが無かった。
そして、様々な意見が出た末に、現実的な目標として出てきたのが、バイカル湖畔の都市であるイルクーツクだった。
イルクーツクまで占領すれば、日本本土はほぼ安全になるのは間違いなかった。
何しろイルクーツクから日本本土となると片道3000キロ以上の距離がある。
未知の兵器である弾道ミサイルが完成しない限り、帰還を考えない片道攻撃しかソ連軍はできなくなる。
また、イルクーツクまで占領すれば、満州のかなりの地域も重爆撃機以外でのソ連空軍の反復攻撃は困難になってしまう。
そして、イルクーツクと外蒙古政府の首都ウランバートルは、(当時)道路が通じており、この道路が共産中国にとって、ソ連からの武器供給の大事な命綱になっていた。
だから、イルクーツクが日米満韓連合軍の手に入ることは、ソ連から共産中国への武器供給ルートを大きく切断することになる、とも考えられた。
それに外蒙古政府打倒、真のモンゴル民族国家独立を目指す徳王らのモンゴル民族独立運動家も、このイルクーツク占領という目標なら共闘するとも、日米満韓連合軍には考えられた。
(但し、外蒙古政府打倒後については、完全な同床異夢になっていた。
満州国というか、蒋介石政権としては、外蒙古政権打倒後、外蒙古政府が治めていた土地は、蒋介石率いる中華民国の領土になるべきで、精々がモンゴル民族の自治領になるのを認めよう、と考えていた。
一方、日米韓(及び徳王ら)は、モンゴルを完全な独立国とすることを考えていた。
この対立は、第二次世界大戦後に噴出することになる。)
また、次に問題となったのが、今年の内に進撃するのか、それとも来春を期してか、だった。
この辺りは、むしろマッカーサー将軍が主導して、今年中に対ソ戦を事実上終えて、来春以降の中国本土奥地への侵攻作戦を行うことを唱えた。
極東ソ連部を制圧した以上、これ以上の西方への進撃となるとシベリア鉄道沿いの進撃しか基本的にあり得ない。
そうなると大兵力の活用が困難になるし、補給が大変になる。
そういったことから考えると、速やかにイルクーツク以東を制圧し、主戦力を中国本土奥地への侵攻に転用した方が効果的であるとマッカーサー将軍らは考えたのである。
(それに中国本土への空襲が、表面上はろくな戦果を挙げていないのもあった。
確かに中国本土への空襲が、かなりの死傷者を共産中国の国民に与えていると推測されてはいたものの、共産中国政府の抗戦意欲は高まる一方で、講和を断固拒否し続けていた。
こうなっては、陸軍が中国本土奥地へと侵攻することで戦争終結を図るしかなかった。)
そして、山下中将やマッカーサー将軍らの主張が通り、イルクーツクを目指した侵攻作戦発動が決まった。
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