第4章ー9
ちなみに先に触れたイラン、イラク云々だが。
まず、イラクについて述べる。
イラクは第一次世界大戦の結果、一応は独立国となっていたが、英空軍の基地が引き続き置かれる等、英の半属国扱いが続いていた。
そのために、イラク国内では反英感情が高まっており、第二次世界大戦勃発に伴い、独ソ側に立って参戦しようという動きが起きた。
特に1939年の怒涛のような独ソの快進撃は、イラク国民の多くを幻惑させた。
こうした状況に鑑み、英を始めとする連合国側は、独ソの石油生産に大打撃を与えることが分かっているカフカス地方の油田地帯爆撃を実際に行っては、却ってイラク国内の反英感情に火をつけるのではないか、と危惧してカフカス地方の油田地帯爆撃を断念する程だった。
それでも、イラク国内の熱狂は収まっておらず、1940年春の独軍の仏侵攻に合わせて、イラク政府は英軍の撤退等を求める事実上の最後通牒を突き付ける有様になった。
これに対し、英仏軍は直ちに対応した。
シリアにいる仏軍は、インドから駆け付けた増援の英軍と共にイラクにいる英軍救援という大義名分を掲げて、イラクに侵攻した。
そして、これに対して独ソはイラクに何とか軍事支援を行おうとしたが、トルコとイランがそれに非協力的態度を執ったために効果的な支援はできず、1940年夏、英によってイラクには傀儡政権が樹立されることで、表面上は1942年1月現在までイラクは安定しているという現状があった。
(もっとも、こういった状況から腫れ物に触らないように、と連合国側は中近東からのソ連領進撃を断念せざるを得なかった。
なお、トルコが独ソ側に立たなかったのは、従前からの親日英側の外交姿勢によるもので、1942年春には連合国側に立って参戦することにもなっていた。)
次にイランだが、この国は19世紀以降は英露対立の舞台となり、ロシア帝国崩壊後はソ連と微妙な関係になり、という外交的経緯があった。
そのためにイラン政府の基本的な姿勢としては、いわゆる孤高の態度を執ろうとしたが、様々な双方からの外交攻勢により、結果的には、という形だが、この第二次世界大戦勃発当初からしばらくの間は、米英日仏等に非好意的な中立国と言った立場に落ち着いていた。
だが、それが破られる事態が起きた。
隣国イラクが上述の事情から混乱した際、イランは独ソからの軍隊等の通過要請を拒否した。
イランとしては、中立維持のためにそう行動した。
だが、その一方で、旧イラク政府の要人が亡命してきたのを保護し、英政府からの引き渡し要請を拒否するという態度をもイランは執った。
これはイランとしては、いわゆる人道的立場からそうしただけだったが、これまでの外交的経緯から、英政府は疑心暗鬼になった。
実は、イラン政府は旧イラク政府を支援し、更に独ソからの物資提供を黙認したのではないか。
戦局の好転もあり、1941年秋、イラン政府に旧イラク政府の要人を引き渡す最後通牒を、英は仏と共同して突き付け、それが拒否されたことから、英仏はイランに侵攻した。
こうした事態を受け、イランでは親英派がクーデターを起こし、皇帝レザー・シャーを国外追放し、皇太子を即位させた。
そして、イランは英仏の保障占領に入った。
これにソ連は介入を策したが、西部国境の緊張が高まりつつあること、極東戦線の戦局悪化から介入できなかった。
こういった経緯を受けて、中東情勢は安定しつつあったところに、インドとパレスチナという超特大の爆弾が飛び込んできたという次第だった。
米内光政首相と吉田茂外相は苦悩し、英仏米等と協力して、この混乱を少しでも小さくしようと動かねばならない状況に陥っていた。
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