第2章ー7
土方千恵子の怒りが激しくなって周囲の注意を引く前に、と土方勇中尉と岸総司大尉は目で慌てて会話しながら、千恵子を物陰に誘導した。
「全く家族が分からないの」
千恵子は更に言い募ったが、義兄弟にしてみれば、無茶を言うな、と口に出したいところだ。
何で日本にいる筈の千恵子が、ここに(しかも軍医大尉の軍服を着て)いるのだ。
「そもそも何で姉さんがここにいるの」
総司が腹を括って口火を切った。
夫の勇が先に聞くべきかもしれないが、総司の方が兄弟だけあって、千恵子の扱いに慣れている。
「さっきも言ったように、お祖父様のお供よ」
千恵子は胸を張って答えた。
「ちょっとどころか、かなり状況が分からないので教えて欲しいのだが。何で千恵子が祖父の供をしてるの」
「土方勇志貴族院議員の公設秘書として当然の務めよ」
勇の問いに、千恵子は平然と答えた。
義兄弟は唖然として顔を見合わせた。
「何よ、文句があるの」
千恵子は居丈高な雰囲気をまとった。
「千恵子、一体、何をやらかした。何で祖父の公設秘書を務めている」
「何もしていないわよ」
「嘘だ」
「妻を信用できないの」
「信用できないとは言わないけど、何かやったのは間違いない」
犬も食わない夫婦の口喧嘩を、勇と千恵子は始めた。
それを横で見ながら総司は考えた。
公設秘書に姉がなるとは、絶対に何か姉はやらかしたのだ。
そうでないと、姉が私設秘書ならともかく、公設秘書になる筈がない。
総司がそんなことを考えている内にも、夫婦喧嘩は激しくなっていく。
総司は腹を括って夫婦喧嘩を止めに入ったが、それには暫くかかり、再会から30分程が無駄になった。
3人はようやく頭を冷やした会話を始めた。
「ともかく欧州に行くのに身の回りの世話をするのは身内が良いだろう。お祖父様も高齢だから。それにきちんとした立場もいるだろう。ということで、私が公設秘書として供をすることになったの」
千恵子は平然と嘘の(混じった)説明をしていた。
二人は嘘だ、とツッコミたかったが我慢することを(目で会話して)了承した。
それよりも色々と聞きたいことがある。
「本当に祖父が来ているのか」
「ええ。欧州、特にドイツの現状を確認して、その上で仏のペタン首相と会談する予定よ」
勇の問いかけに千恵子は答えた。
「それで、何で姉さんが軍医大尉の軍服を着ている訳?」
「駐屯地内を歩くのに、民間人の女性だと人目を引くからよ。軍医大尉の軍服を着ていたら、日本から新しい軍医が到着したのかな、と流されるでしょう」
「確かにそうだけど、民間人なのに軍服着用の許可は得ているの?」
「日本にいる時に堀悌吉海相の許可は得たし、欧州に来て早々に遣欧総軍司令官の北白川宮成久王大将の許可も得ているわ」
総司の問いに、千恵子は平然と言う有様だった。
「それにもう一つ、理由があるわ。少し裏からドイツの現状を把握したいのよ。お祖父様の指示でね」
千恵子はようやく本音を話す気になったのか、少し声を潜めて二人に言った。
「統計の数字ではなく、ドイツの現状についての肌感覚よ。軍医大尉の服を着た人間が、カルテを見ても誰も疑問を覚えないでしょう。患者の話の載ったカルテから肌感覚を掴みたいの」
千恵子の話は、二人にも何となくわかるものだった。
様々な悩みを抱えた将兵はそれを軍医に相談し、それを軍医はカルテに記載する。
それをざっとでも読めば、どんな悩みを抱えている将兵が多いかが分かる。
今、ドイツの現状に心を痛めている将兵は多い。
彼らから話を聞くのが最上だが、少しでも時間を惜しむ関係からカルテを読むことで肌感覚を掴もうというのだ。
「それにしても厄介なことになっているようね」
千恵子は二人に問いかけた。
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