第2章ー3
そういった現状の下で起こっているのが、ポーランドやチェコスロヴァキア領内におけるドイツ民族追放の動きだった。
実際問題として、ズデーデン危機から第二次世界大戦への流れ等が、ドイツ民族の運動によって起きたことは、米英仏日等の連合国側の各国政府にとっても否定できない話だった。
そういった背景もあり、ドイツ民族を追放しろ、という叫び声がポーランドやチェコスロヴァキアの国内で巻き起こる事態が起きていたのである。
更に問題があった。
連合国としては、来年の春、具体的には来年5月半ば頃を期してのソ連(欧州)本土への大規模な侵攻作戦を検討していた。
そして、連合国はその準備に取り掛かっており、ソ連打倒への共闘、参戦を中立諸国に呼び掛けると共に、ポーランドやチェコスロヴァキア領内に精鋭部隊を展開させつつあったのだが。
もし、こういった状況下において、ソ連に亡命している民主ドイツ政府の呼びかけに答えて、ドイツ民族の武装蜂起、抵抗運動が起きたら、どのような事態が起きるか。
それこそ既述のように、この当時において、ドイツ国外の東欧にいるドイツ民族の人口は約1000万人余りと推計されていた。
(推計になるのは、民族間の婚姻により生まれる子どももいるし、血統的にはドイツ民族であっても、言語はポーランド語を日常的に使う等していて、自らはポーランド民族といい、周囲も認める人もいるからである。
従って、極論するならばだが、自らはドイツ民族であると自認して、周囲がそれを認めている人が、ドイツ民族であると言えるのが、この当時の現状とも言えた。)
約1000万人余りの内、その1割がそれに参加しただけで約100万人の武装集団が発生する。
米英仏日等の連合国の軍部の一部が、過敏ともいえる警戒感を示すのも否定できない話だった。
そう言った事態を回避するために、連合国側の軍部の一部は、ポーランドやチェコスロヴァキア領内からのドイツ民族の追放を認めるべきでは、という意見を持つようになっていた。
そして、それを見た他の東欧諸国でも、似たような厄介な事態が発生しつつあった。
それこそ他国がやっていて、連合国もそれを認めるなら、我が国もやっていいだろう、という論理から、自国内の異民族を追放しようという動きが起こりつつあった。
その最大の例が、ハンガリーからのユダヤ人追放の動きだった。
これに対しては、既述のような事情から、連合国は動けず、スウェーデン等の中立諸国の動きに基本的に任せて、それを連合国は側面支援するという事態が起こっていた。
(また、他に有名な例として、この頃にルーマニア等でロマ民族に対する国外追放の動きが起きている。
これに対して、ロマ民族への差別は欧州各地でもあったことから、連合国、中立諸国を問わず、欧州を始めとする各国政府の腰は重いものがあり、ほとんど見殺しにするという事態が起きた。)
ともかく1941年11月時点に話を戻すと、この頃の日本の遣欧総軍司令部にとって、最大の懸念事項は、いわゆる「ドイツ民族追放」の動きだった。
英仏等の政府、軍の一部の高官からは、ソ連本土侵攻作戦展開のためには、東プロイセンをポーランド領にすべきという声まで上がる有様だった。
(その後、自らの手を汚さずに、東プロイセンからドイツ民族をポーランド政府によって追放してしまおうという腹積もりだった。
それにより、ソ連本土侵攻作戦の後方の安全を確保しようというのである。)
日本の遣欧総軍司令部幹部にしてみれば、これまでの日本と中国との戦争の経緯からして、このような動きは民族間の憎悪を煽り、更なる被害を将来出すことになるのでは、と思わざるを得なかった。
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