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断切  作者: 池田 ヒロ
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十一日目

 右手に枝、左手に小動物。その瞬間を見逃さなかったアシェドは「止めなさい」とキリがしようとしていたことを止めた。止められて、肩を強張らせ、こちらの方を恐ろしいものでも見たかのようにして見てくる。


「……ごめ、なさい……」


 びくびくとしている。手にあったのが落ちる。小動物は慌てたようにして山の方へと逃げて行った。キリはまたしても、小動物を殺し、その死肉を貪ろうとしていた。今回は未然に防げてよかった、と思う。大抵の場合、血塗れになったところで気付いていたようなものだから。


 何度も思ってはいるらしい。頭の中ではわかっているつもりだと。これは当たり前のことではないから、そんな非常識をするべきではない、と。だが、どれほどの長い年月で積み上げてきてしまったその悪癖はなかなか治りそうになかった。もしかしたらば、動物たちが可哀想だという教え――キリ自身が『可哀想』という言葉を知らないのかもしれない。どういう意味なのか、ということすらも。負の感情は知っていても、だ。


「キリ、今日のお手伝いはもういいよ。家の中で文字の練習でもしていなさい。ほら、もうすぐ雨が降りそうだよ」


 空を見上げてそう促した。つられてキリも見上げる。どんよりとした曇り空はそろそろバケツをひっくり返したようにして雨を降らせるだろう。濡れていては風邪を引く。元よりも、一度家の中に入れて冷静にさせた方がいい。アシェドの言葉に「うん」と頷くと、申し訳なさそうに家の中へと入っていった。


 これでも、と地面にある木の枝を拾い上げた。これでもキリは当たり前を手に入れつつある。普通に生活する上で、ご飯の食べ方に難癖は見なくなったし。文字もある程度覚えてきている。今では買ってきてあげた絵本を一人で読めるようにもなっていた。こちらが質問をすると、首で返事することもほとんどなくなり、口で受け答えができるようになっていた。十歳ぐらいの子どもとして、おかしいところはどこもないのだが――一番の問題は動物を殺して、その肉を食べようとすることか。


「どう、教えてあげればいいかな……」


 悩ましい。このことを思っていると、「もしも」ということばかりを考えてしまう。もしも、キリがあの悪癖がなかったら? 気にはなる。そうではない状態の彼という人物を。だとしても、そのもしもが本当になれば、ここにきていないはずだ。今頃、黒の皇国で本当の家族と過ごしていることだろう。彼の両親はどんな人だったのだろうか。


 そんなことを思いながら木の枝を投げ捨てていると、ふと目に病気の作物。対策を施してからは白い斑点が薄れてきている気がした。気のせいかもしれないが、カワダにお礼でも言わないと。お礼用のお菓子を買ってきて、まだ渡せていない。


 アシェドはエナにカワダの家へと行くことを告げた。リビングの方ではキリが先ほどのことを気にしているのだろうか。憂いある面持ちでノートに向かって文字の練習をしていたからだ。そんな彼の頭をなでながら「ちょっと、カワダさんところに行ってくるからな」と言うと「いってらっしゃい」そう、目を伏せながら応えてくれた。その言葉に満足すると、家を出るのだった。


     ◆


 家の敷地内から車道を出て、村の集落の方へと向かう。その道中、傍らに生えた木の枝の剪定をする髪の薄い村人を見つけた。あいさつをしてくれるだろうか、というちょっとした不安を抱きながら「こんにちは」と剪定ばさみを動かす村人にそう言った。すると、その人は「ああ、こんにちは」とあいさつを返してくれた。返してくれたことが嬉しかったから、アシェドは「今日、当番なんですか?」と訊いてみた。それにその人は「そうですよ」と脚立から下りてくる。


「年に一度しなきゃならないですからね。えっと、デベッガさん? も当番表をもらっているでしょ? これ、毎年ありますからね」


「そうなんですね。毎年、この時期に?」


 毎年あるというならば、そうなのだろうか。そう思ったが、髪の薄い村人は「違いますよ」と教えてもらった。


「いつもはもっと早い時期にやる話だったんですけどね。ちょっとたて込んでいた、ってこともあったものだから」


 事情はよく知らないけれども、と苦笑いをする村人に「へぇ」と何か気になる様子。だが、これ以上何も情報が出てきそうにないと知ると、アシェドは「それじゃあ、呼び止めてすみませんでした」と頭を下げると、カワダの家へと向かうことにした。先ほどの村人の話を聞いて、毎年のことなのか、と理解した。ならば、来年も再来年もその話は来る。であるならば、剪定道具を毎年の当番までに揃えておかなければならないはずだ。誰かに道具を借りることばかりはあまり好ましくないのかもしれない。ならば、購入するか。いや、そっちもだがキリの悪癖のことも何とかしないと。ああ、作物の病気のことも――いや、これはなんとかなっているからお礼をしに行っているだけか。剪定道具一式揃えるのってどれぐらいのお金が掛かるのだろうか。腕を組みながら万感に苛まされていると、後ろの方から「デベッガさん」と声が聞こえてきた。


「どうしたんです? そんなに悩ましそうな顔をして」


 偶然にもトラックに乗ったカワダと遭遇した。


「ああ、こんにちは。ちょうど、カワダさんの家に行こうとしていたんですよ。この前の農業講義のお礼を」


 手土産を見せながら笑みを見せると、タバコをくわえた状態のカワダは「講義と言うほどではないんだけどな」と苦笑い。


「まあ、どうせ俺も家に戻るんだ。乗っていくでしょ? また落とし穴にはまっちゃ可哀想だし」


 それもそうだな、とアシェドはお願いします、とカワダが運転するトラックに乗り込むのだった。


     ◆


 家に上がっていきなよ、と言われ、カワダの言葉に甘えるようにしてアシェドはお邪魔した。そう言えば、家の外見を見たことはあっても、家の中には上がったことがなかったな、と玄関を見て思う。自分の家よりも、ザイツ家よりも玄関は広い。村長の家と同じぐらいか。


 中へと通してもらい、中庭の方へと出た。そこには村にある錆びたターミナルに置かれていたベンチと似たものが置かれており、曰く「要らないらしいからもらってきた」そうだ。ここって実は以外にも自由なところなのだろうか。


「中庭にベンチっていいですね」


「そりゃあな。ある意味で俺の憩いの場所よ。嫁がここでならタバコは吸っていいっていうからな。喫煙者にはつらい世の中よ」


 タバコが吸えないアシェドは何も言えなくて、何かしら別の話題を、と早速この前のお礼として手土産を渡した。


「本当に教えてくださってありがとうございました。効果はあるみたいです」


「そうか。それはよかった。けど、何かいつももらってばかりだなぁ。悪いですよ」


「いえいえ、そんなことは。私にとっては教えてもらって本当に感謝しているんですよ」


 もしも、である。カワダとある程度会話をする仲でなかったならば? 自分は参考書片手に戸惑っていただろう。アシェドにとって、彼という人物は大きな存在なのである。


「それで、他にも教えていただきたいことがあるんですけれども……」


「うん? 俺のわかる範囲であるならば」


 紙袋の中身をチラ見しつつ、それを自分たちが座っているベンチの上に置いた。それを見て、タイミングを見計らい「車道にある木の枝の剪定に使う道具なんですけれども」とこめかみ付近を爪で軽く掻いた。


「それらの道具って、どこのが一番いいやつですかね?」


「道具? それ、村長さんちから借りれるよ。別に買わなくても、俺だって借りているし」


「えっ、そうなんですか?」


「というか、この村って果樹とか作っているやついないし。今日の当番であるサカキさんところも借りているんじゃないの。俺、見覚えあるもん。あの人が使っていた道具」


 そうだったのか。この前、当番表を持ってきた村長の奥さんは何も言わなかった。ただ、よろしくね、と一方的にお願いされただけだ。だから、道具を持っているかなんて訊かなかったのだろうか。そこら辺の都合はよくわからないが、いいことを聞いた。次の当番は三日後だから。


「そうなんですね、わかりました。ありがとうございます」


「いえいえ。そう言えばで思い出したけど、子どもは元気にしている? ほら、黒の方から来た子」


 キリのことを気にかけてくれて嬉しいと思うアシェドは「はい」と答える。だが、すぐに悪癖のことを思い出して、笑顔は見せなかった。それにすぐさま気付いたカワダは「何か厄介なことでも?」とこちらを見透かしているような物言い。


「デベッガさんとこって、急に十歳ぐらいの子どもが来たから混乱しているんでしょ? 困ったこととかあったりする?」


「え、ええ。ちょっとしたくせなんですけど、手癖が悪いと言うか、なんと言うか……」


 キリの悪癖について詳しくは言おうとしなかった。いや、言いたくはない。彼のことを隠したいわけではないにしても、『動物を殺して、その死肉を食らう』という誰もが聞いても驚愕するような事実は言いたくなかったからだ。それでカワダがキリに対する考えも変わってしまっては、心配してもらえる人が少なくなってしまうから。彼のことを気にしている人間なんて、自分たちとカワダぐらいだ。もしも、自分たちに何かあったら、と考えると――キリが頼っていける人はいるだろうか。全くと言っていいほどいないだろう。


「手癖が悪い、かぁ」


 失礼、とカワダはタバコを一本取り出して吹かし始めた。ここは風が入り込んでこないからなのか、その場ににおいが充満する。しばし、彼は考え込んだ後「これはどう?」と案を出してきた。


「昔、親父から聞いた話なんだけど、俺の親父は小さい頃、指をしゃぶるくせがあったらしいんだよ。それで、俺の爺さんがしゃぶってしまう方の手をしない方の手で抑え込め、って教えたらしいんだよ。こういう感じにな」


 昔の微かな記憶を頼りに、自身の右手を左手で抑え込むようにして握った。


「コツは強く握ることだって。そうすれば、痛みが自分に来るから、頭は嫌がるだろ? 子どもは頭でやっちゃダメって理解はしているんだよな?」


「はい」


「体がやろうとするけど、強く握って痛みが来るから、やめた方がいいかもしれないって、体が覚えてくれるんだそうだ」


「強く握る、ですか。カワダさんのお父さんは、そのくせって治ったんですか?」


「らしいね。俺自身、親父が指をしゃぶっているところ見たことがないからなぁ」


 この案はいいものなのかもしれない。そうアシェドは思う。なんだか、お礼をしに来ているのに、またしても何かを教えてもらった。こちらは何でも教えてもらってばかりだ。


「まあ、それがあの子どもにとって効果があるかはわからないかもしれないが、やってみる価値はあるんじゃないのかな?」


「それもそうですね。カワダさん、今日も色々教えていただいてありがとうございます。あの、本当に何でも教えてもらってばっかりで、申し訳ない」


 しかしながら、カワダは特に気にしていない様子で「いいよ、別に」とはにかんだ。


「俺だって、お礼してもらってばっかりでさ。これ、下の町じゃ有名な店のお菓子だよね?」


「はい、元々王都の店がこっちの方に進出してきたらしくて。私も家内も好きなんですよ。そのお菓子。というか、誰もが好きな味だと思いますよ」


「へぇ。ちょっと、食べてみていい?」


 そのお菓子の味が気になる様子。まだ長いタバコをベンチの隣に設置してある灰皿に置き、包装紙を取り、中身を二つ取り出した。一つはこちらに「はい」と手渡す。


「好きなら、なおさらだ」


「ありがとうございます」


 男二人はどんよりとした空の下でお菓子を頬張った。素直に美味しいと思うアシェドに対してカワダはびっくりしたようにして「美味しい」と初めて柔らかい表情を見せてくれた。


「ふわふわして、さっぱりとした甘みがあるなぁ。これが王都の味ってやつ? 俺、知らないけれども」


「ですかね? 私自身、この前にザイツさんの家でお茶をいただいたんですけれども、ここってお茶に果汁でも入れるんですか? とても美味しかったんですよ」


「果汁? ああ、入れるよ。女の人だったら大体入れるし、なんだったらお酒にも入れるよ」

 そうか、王都ではそのようなことをしないのか、とまたしても驚いた表情を見せてきた。この村周辺と王都では味に様々な違いがあるようだ。同じ北地域であるのに。


 アシェドは様々な情報の収穫により、満足してカワダ家を後にするのだった。


     ◆


 カワダから教えてもらった悪癖の治し方。やってしまおうとする体に対して、痛みを覚えさせるやり方。これはどちらかというならば、我慢させることに近いだろう。いや、もうキリには我慢というものを覚えさせた方がいい。倫理や道徳も大事だが、こちらの方が手っ取り早い、というよりも効果的なのかもしれない。してはダメだ、ということはわかっているのだから。


 一人納得したようにして、村の中を歩くアシェド。そこに、土砂が崩れるような音が近くでした。いきなりなんだ、とそちらの方を見れば――。


「ヴィン! しつこい!」


 ぽっかりと空いた穴。そのふちの方で悪意ある笑い方をするヴィン。ナオミの声が聞こえたが、彼女はまた落とされたのか。何度やっても治らない。言い聞かせても変わらない。これは彼にも言えることだ。この前、キレて注意したばかりなのに。だが、以前と違うのは穴に落とそうが、相手が這い上がってくるのを助けるということか。


「ごめん、ごめん。しつこいけど、ねえさんが落ちるのを見るのは面白いんだよね。はい、これ」


 ナオミを助けた後、ヴィンは衛生材料を手渡した。それまで準備万端とは。彼女自身も怒るに怒りたいが、した後の対応に何も言えないようだ。あの子は考えたな、と思う。それでも、人を落とし穴にはめるのはいけないことだが。だが、こちらとしても注意がしがたい。後始末すらする悪童なのだから。こればかりは彼女を同情するしかないだろう。


 それじゃあね、と何事もなかったかのようにして立ち去るヴィン。ナオミは衛生材料と走る彼の背中を交互に見ることしかできず、こちらに気付いた。


「おじさん」


「ああ、こんにちは。さっき、見ていたけど――」


「わたしも、なにも言えない」


 どうやらこちらの心情を理解してくれているみたいだ。苦笑いするしかない。ナオミはため息をつくしかない。前のようにして、泣きそうになることはない。どちらかと言うならば、諦め。呆れているのだろう。


「でも、前よりかはマシだと思う」


「そうみたいだね。怪我したところ、大丈夫かな?」


「帰って、おばあちゃんに手当てしてもらうよ」


 ナオミが持っている衛生材料を目にやるが、彼女の怪我に対して多い気がした。これもヴィンなりの考慮なのか、とアシェドが「それじゃあね」と別れを告げて、帰路へ着こうとしたときだった。


 またしても世界がひっくり返ったような気分になる。そう、ヴィンが掘った落とし穴にはまってしまったのだ。


「お、おじさん!?」


 突然、自分がいなくなったことにびっくりしただろう。慌てたナオミは穴から顔を覗かせた。服も髪の毛も泥だらけ。またか、と眉間を揉んだ。いや、それもそうだが、ヴィンが彼女に手渡した衛生材料の量は――。


「あの子、計算高いな」


 今にも雨が降りそうな空を見上げてアシェドはそう呟くのだった。


     ◆


 ザイツ家で二人の祖母から手当てをしてもらい、自宅へと戻ったアシェド。ふと、ポストのところを見てみると、そこには児童保護センターからの通知が来ていた。そうだった。ちょうど一週間前、トルーマンという女性担当から養子受入許可が届くと言っていた。自分たちは果たして、養子を――キリを受け入れるに相応しいのか。封筒は分厚い。可である可能性も高いが、不可である可能性もあるのだ。もしも、受け入れが不可だった場合、彼をどうするべきなのか。


 不安に思いつつも、ここで開封する手を止めた。これはエナと一緒に見るべきだろう。そう思って、家の中へと入っていく。開けて、中へと入れば、洗濯籠を手にした彼女がいた。


「お帰りなさい……って、怪我しているけど、どうしたの?」


 自分の傷にいち早く気付いたようだ。いや、顔に衛生材料を当てていれば、誰だって気になるだろう。気にしないで、とそちらよりも「来たよ」と封筒を見せた。エナは洗濯籠をその場に置いてアシェドの方へと駆け寄った。


「結果は?」


「一緒に見よう。まだ開けていないんだ」


 エナが緊張しているのがわかった。彼女もだが、自身だってそうだ。受け入れ許可が下りるかどうかの不安が大きいのだから。エナは慌てたようにリビングからペーパーナイフを持ってきてくれた。その騒々しさだからか、二人のただならぬ様子に気付いたキリは部屋の入口からそっと覗くようにしてこちらを見ていた。緊張して手が震えながらも、封筒を開けていく。書類は三枚入っていた。三枚とも一緒になって折り重なっている。恐る恐る開いてく。二人の目に最初に飛び込んできたのは『養子受入許可に伴う手続きについて』だった。





<養子受入許可に伴う手続きについて>


 先日の養子受入許可登録の審査の結果ですが、デベッガ様の家周囲の環境の様子、キリ君の表情や健康面に関しての様子、どちらとも養子受入に適応しているとの判断をしました。つきましては、デベッガ様の養子受入れを許可するべく、手続き内容をご確認していただき、最寄りの役所にて登録をしてください。キリ君の健康、成長を児童相談センター職員一同心から願っております。


青の王国軍北地域労働者の町児童相談センター

児童保護相談課 担当 セレナ・ミツバ・トルーマン





 書類の一枚目を見て、二人は顔を見合わせた。双方とも、強張った顔付きからとても穏やかな顔へと変化していく姿が捉えられる。


「おとう、さん……!」


「やったあ!」


 アシェドはその場で大喜び、エナはその場に崩れて胸をなでおろしていた。そんな自分たちを見て、キリは戸惑いを隠せないようだ。なぜにあの二人は紙を見てそんなに喜んでいるのだろうか。これは声をかけてもいいのだろうか、と。


 じっと薄くて青色の視線に気付いたアシェドは「キリ、やったぞ!」と力強く頭をなでてきた。髪の毛がぐしゃぐしゃになるほど、力強くなでる。痛い、けれどもどこか心地よいなで方だと言わんばかりの表情だ。


「と、とーさん?」


 なでられて、ぼさぼさの頭のキリは茫然とこちらを見ている。そんな自分に続けてエナが「よかったよぉ!」と抱き着いてきた。彼女は涙を流している。その涙に彼はより一層困惑するだけ。何がよかったのか。何がやったのか。訳がわからない顔をしていた。


「かーさん? なにがよかったの?」


 二人だけ嬉しそうに。何だかずるいな、と思うキリは彼らの顔を見てそう訊ねた。一枚目の書類から二枚目、三枚目と別の用紙に目を通していたアシェドは「俺たちだよ」と彼の頬を軽く引っ張るようにして触る。


「俺たちが家族であることを、誰もが認めてくれたんだ!」


「え?」


 片眉と共に声を上げるキリ。アシェドの言い分にエナは「ちょっと」と苦笑い。


「その言い方はどこか語弊があるわ。あのね、キリ。この前、労働者の町に行ったとき、軍人の女先生と会ったときのこと覚えている?」


 ほら、と言うエナの言葉にキリは「うん」と思い出したようだ。彼自身も覚えている。変な感じがしたあの場所。二度と行きたくないとは思っているかもしれないあの場所。


「あのね、あの人から私たちは家族であるという証拠をもらったんだよ!」


 そちらの教え方がわかりやすかったらしい。エナがそう言うと、キリは頬を上げて「本当?」と嬉しそうにした。


「おれ、とーさんとかーさんの本当の家族?」


「ああ、本当の家族になれたんだ! 毎日が楽しく過ごせるぞ!」


 この通知を受けて、アシェドはこれまでの悩みが吹き飛んだ気がした。キリがここにいることができるとわかった途端、何でもできそうな気がした。これからは完璧な父親や母親になれなくとも、キリにとって最高の親として色々教えてやりたい。外の世界を見せてやりたい。


「よしっ。そうとなれば、役所に登録しに行こう! 早い方が、俺としては気持ちが落ち着けそうだ」


「いいわね! お父さん、登録に必要な物は? 私、取ってくるから」


 養子登録における必要な物が記載されている書類と自身の書斎にある金庫の鍵をエナに手渡した。それを受け取ったエナは早速、書斎の方へと赴くのだった。


 自分は何をしたらばいいのだろうか、とキリは書斎の方へと行ってしまったエナとまだ結果通知を見て喜んでいるアシェドを見た。その視線に気付き「出かける準備をするぞ!」と彼を小脇に抱えて、リビングの方へと行くのだった。


     ◆


 キリにとって、労働者の町へと来るのは二回目だろう。一度目は児童保護センターへと養子受入許可を得るためとして。二度目の今回はその許可証を得て、役所へと登録しに行き、住民票を作るためである。なんとなく見覚えのある通りを抜けて、役所にある駐車場に足を踏み入れる。どこか不安そうにしてエナの傍から離れようとしなかった。だが、そんな彼の様子に気付かないアシェドたちは許可がもらえて、浮かれているようだ。


 三人は結果通知にあった書類に記載されていた手続きの通りに、養子登録とキリの住民票を作った。もっと時間がかかるかと思えば、すんなりとスムーズに手続きを終えてしまった。いや、今日は人の出入りが少ないという理由があるかもしれない? 今の時間帯はお昼頃。そりゃ、人も少ないか。


 すべての手続きを終えて、二人は車の中へと乗り込むと「よかった」と盛大にため息をついた。これで厄介なことは終わったはず。今日は助手席に座るエナがふと窓の外を見れば、少し離れたところにある病院の看板が見えた。それで思い出したこと。厄介事はほとんど終わっているが、一つ問題がある。


「お父さん、ちょっと病院に行かない? ほら、キリ……」


 そう、キリの悪癖について。あのくせについては病院ではどうしようもないが、彼が動物の死肉を口にしている時点で健康面が気になってしょうがないのだ。それは自分だって同じだった。


「ああ、そうだよな。行って、検査でも――」


 しに行こうか、と言う前に後部座席に座っていたキリの腹から大きな音が聞こえてきた。どうも彼のお腹は限界を迎えているらしい。これに二人は苦笑いをする。


「検査の前に腹ごしらえでもしようか」


「そうね」


「どこで食べようか? キリ、何を食べたい?」


 キリのお腹の音を聞いて、自分自身もお腹が空いてきたな、とは思う。それはエナ自身もだった。安心したせいか、そうでもなかったのにお腹が空いて仕方がない。もしかしたら、彼はこの町に着く前からお腹が空いていたという可能性だってある。少し悪いことでもしたかな、とちょっとした罪悪感を抱きつつ、アシェドはそう訊いた。それに対するキリの答えは「この前食べたのがいい」ともう一度大きな腹の虫の音を鳴らすのだった。


     ◆


 どうやら、キリはフルーツサンドとアイスサンドをいたく気に入っているらしい。家でエナが作る分も、労働者の町の屋台で購入する分も彼は美味しそうに平らげるのだ。おそらく、好きな食べ物はこれらが入るだろう。もっとも、これまでにおいて過酷な環境で過ごしてきた彼にとって嫌いな食べ物はないと思うが。


 前回同様と同じ広場の同じベンチで遅めの昼食を終えた三人は以前にトルーマンから紹介してもらった病院へと赴いた。その病院の建物を見たとき、キリは怪訝そうな顔をする。それもそうだろう。この前は訳のわからない機械に入ったり、変な光を体に当てられたりと不安な要素が盛りだくさんだったのだから。


「…………」


 中へと入りたくないと言わんばかりに足取りは重たそう。足を止めて行きたくはない、と言いたそうにしていた。それでも、アシェドやエナの傍にいたいからか、前へと進むしかないようだ。


 待合室にある絵本を読む。不安が拭えなくて、絵を眺めるだけしかできていない様子。テレビはニュースをやっているようだ。ここ最近起きている連続殺人事件。子どもにとって、ニュースはあまり興味がないらしい。キリもそうだが、他の子どもたちは絵本やおもちゃで遊ぶだけ。赤ん坊が大泣きする。それを聞けば、もっと不安が煽られていた。なぜにあの子は泣くのか、と気にしている。


 ややあって、自分たちの順番が来た。この待ち時間が恐ろしく感じ、今の診察の時間が最も恐ろしいと思っているだろう。やはりキリの足取りは重たい。そのことをアシェドたちは重々に理解していた。診察室へと入ると、前回の担当医が待っていた。これに三人はほんの少しだけ安心する。見知った顔がいるから。


「こんにちは、キリ君。今日はどうしたのかな?」


 しわくちゃの顔をにっこりとさせ、キリが抱いている不安を掻き消そうとしてくれる。医者の質問に対して、アシェドは悪癖のこと、動物の肉の生食について話した。以前は軽い栄養失調だと言っていたが、本当に体の悪いところはないのか、と。その悪癖について担当医はひどく驚いていた。


「本当に、お腹とか壊したりは?」


「ないんです。どこか痛い? って訊いても……な、キリ。あんなことしても、お腹痛くなかったんだよな?」


「うん」


 キリは素直に答える。それでも、怒られるのが怖いのか、怯えたようにしてアシェドと担当医を見ていた。


「うーん、もう一度検査でもしてみますか?」


「お願いします」


     ◆


 検査の結果を見て、担当医は事情を聴いていたときよりも、更に驚愕を隠しきれない顔をしていた。小さな目をめいっぱい見開いて、カルテとキリを交互に見る。


「先生……キリの体は問題ありませんか?」


 なんとなく、その表情でわかる検査結果。それでも、とエナが訊ねると――。


「異常はありませんね」


 自分たちが知らないときからやってきていることだからだろうか。キリの体はそういう物に免疫がついているのだろう。だとしても、尋常ではない強さの内臓ではある。野生の動物を生で食しているのだから、寄生虫や危険なウィルスだっているはず。それなのに、何も病気にはかかっていなかった。これに担当医は難しそうな表情をするも「ですが」とこちらを見てきた。


「異常はなくても、生食はあまり好ましいとは思いません。止めさせてくださいね」


「はい」


 それはもちろんのことだ。検査を終えて、安心しているキリを見た。悪癖を抑え込む方法をカワダから聞いた。それを用いて徹底的に止めさせないと、彼が外の世界へと出るには厳しいかもしれないのだから。アシェドはキリの頭を優しくなでるのだった。


     ◆


 診察を終えて、三人が待合室の方へと戻っているとき、ロビー内は騒々しかった。医者や看護師が慌ただしそうに奔走しているではないか。その騒ぎや会話を聞いている限りだと、緊急患者がいるらしい。緊急患者? アシェドとエナは顔を見合わせた。そうしていると、待合室でニュース番組を流していたテレビは《緊急速報です》と切り替わる。


《先ほど、北地域の北西部に位置する町、労働者の町で白昼堂々と障害事件が起こりました。被害状況は重傷者が三名です。王都周辺で起きている連続殺人事件の可能性が高いとのことです。犯人の行方、目撃者の情報は現在、わかっておりませんが、現在労働者の町にいる地域住民の方は厳戒態勢をお願いします。危険ですので、緊急以外は屋外に出ないでください》


 何度もテレビのニュース番組でやっていた連続殺人事件がこの町でも起こった。今回は一気に三人も被害者を出しているのだ。それを知ってか、ニュースの情報を信じるべきだと思っているのだろうか。ロビー内で職員たちは「今、外には出ないでください!」と声を張り上げていた。外を歩く人たちを屋内へと誘導し始める。いや、これは妥当な判断。外に出て、殺されるだなんてあんまりだから。しかし、こういうときでも人の話を聞こうとしない者というのはいるようで、一人の中年男性は「だからなんだよ!」と眉間にしわを寄せて、看護師に八つ当たりをする。


「外には出るなって、もしも犯人がここに来たらどうするんだよ! おい、外にいるやつを中に入れるな!」


 言い分はわからなくもない。この事件でよく聞く犯人の特徴はカートゥーン番組のキャラクターのお面を被った誰かであるということ。その犯人がお面を取って、こちらへと逃げ込んだならば? 信じられるのは自分か家族のみ。アシェドは何が起きているのか理解できていないキリと不安そうにしているエナをこちらの方へと引き寄せた。


「外に出られないって……」


「下手すれば、明日までここに滞在しなきゃならないかもな」


「どういうこと?」


 殺人事件、傷害事件などに関して理解不足らしい。キリにとっては、どうして明日まで病院になくてはならないのか、わかったものではないだろう。アシェドの言葉に眉根を寄せていたのだから。今の彼は早く家に帰りたい。そんな気持ちが積もりに積もっているはず。不満そうな顔を見せていたのだから。


     ◆


 その場に立ち尽くすのもなんだ、ということで三人は病院の三階で空いているベンチに腰をかけた。左右にアシェドとエナ。真ん中にキリが座る。キリは暇潰しに待合室から絵本を持ってきて読んでいた。二人は不安と恐怖で時間の感覚が狂っているようだった。いや、他の人たちも同様だろう。誰もが不安を隠せない。この町に狂気の殺人事件の犯人がいるのだから。騒がしいロビー。慌ただしそうに働く職員たち。


 幸い、この病院内にいる者たちには軽食が与えられた。何も味付けされていないクラッカーが数枚。それを受け取ったキリは不服かもしれない。彼はフルーツサンドとアイスサンドが好みだから。普段、見ているクラッカーは何かが挟んでいるはず。もしくはそれに付け合わせとして、スープがあるのだ。今は挟まっていない、生憎付け合わせのスープすらもない。ぼそぼそとした物を食べるだけ。それでも、彼は何も言わずに食べていた。こういうときだけ、わがままではないことに感謝する。好き嫌いをしない子どもであることに安心するのだ。なぜならば、近くにいた親子――子どもは味っ気のないクラッカーに不評していたから。これにその親は黙って食べなさい、と注意をする。それで子どもは不貞腐れたようにして、パサパサするクラッカーを食べるだけ。


「外は大丈夫かしら?」


 ベンチから見える窓の外を見てエナは憂いある表情をした。その不安はこちらも同じだ。何度も見たことか。青色の連絡通信端末機の画面に映し出されている時間を見る。事件を知ってから三時間が経とうとしていた。外は赤く染まりつつある。もうすぐ、夜がやってくる。昼間よりも夜の方が不安は大きい。この病院内に殺人犯が入ってきませんように。そう願っていると、絵本に視線を落としていたキリは急に立ち上がった。


「キリ?」


 どうしたのか。トイレだろうか。それならば、一緒に着いていってあげようかな、とアシェドも立ち上がろうとしたときだった。急にキリは駆け出したのだ。えっ、と我が目を疑ったときには、彼は病院内の廊下の角を曲がっていた。


「お、おいっ、キリ!?」


 エナにその場にいるように指示を出し、どこかへと行ってしまおうとするキリを追いかけた。本来ならば、こういう公共施設で走ってはいけない、と言っておくべきだった。忘れていたわけではないが、そもそも彼自身はヴィンのようにして走ったりするようにして忙しくはない。むしろ、落ち着いた子どもである。というよりも、走るのを初めて見た気がする。


「キリ、待ちなさい!」


 小さな背中はなかなか足を止めようとしない。もしかしたら、あの殺人犯がこの病院内にいる可能性だって捨てきれないのに。


 走って、走って追いかけた挙句、アシェドは非常口階段の扉を開けようとするところを止めた。


「キリ!」


 肩を掴まれて、びっくりしたようにこちらの方を見た。そのときの表情はどうしたの、である。実際にキリは「どうしたの?」と訊いてくる。どうしたの、ではないのに。


「勝手に行ったらダメだ。キリは何しに行こうとしていた?」


「ティビーがいたから」


 その答えに片眉を上げた。ティビー・ウラビがいただと? あのカートゥーン番組のキャラクターが? 着ぐるみはテーマパークにいたとしても、こんなところに着ぐるみがいるのだろうか? ぬいぐるみ? いやいや、ぬいぐるみが一人でに動くものか。だったら? 色々と考えに耽るアシェド。そんな彼が導き出した答えは――。


「こっちに来いっ!」


 嫌な予感しかしない。キリの手を引きながら「そいつは上に行ったか? 下に行ったか?」と訊いた。「下」と返ってきた。


「下に行った」


 まずはエナの安全も気になるところ。彼女一人にしていたのだから。病院内を走らず、速足でそちらへと向かう。背後からは誰も来ていない、はず。キリは唐突に腕を掴まされているものだから、困惑している。頭を抱えたいのはこちらでもあるが、それを口には出そうとは思わない。


「エナ!」


 二人がエナのもとへと戻ると、彼女は慌てたように「お父さん、大変!」と駆け寄ってきた。


「さっき、一階のロビーに殺人犯が現れたって! キャラクターのお面を被った犯人が!」


 嫌な予感は的中だった。


「それで、何人かの人たちがナイフみたいなもので刺されたって! 犯人、外に逃げたって!」


「……それ、キリが追いかけていたやつだ」


「ええっ!?」


 衝撃的事実を聞いて、エナはキリの方を見た。追いかけていた、という彼を改めてみる。服に先ほど食べたクラッカーのカスがついているぐらいで、怪我をしているようではなかった。彼女は「どこも問題ないみたい?」とそのカスを取ってあげた。


「それよりも、キリたちが無事でよかったわ。無傷なのよね?」


「多分な。それでもキリ」


 アシェドはキリの目線に合わせて屈んだ。それにこちらを見てくれた。


「ティビーを見つけたからと言って、走っちゃダメだ。元より、あれは危険なやつなんだよ。テレビの中のティビーと違ってな」


「きけん、なの?」


「ああ。キリが追いかけていたティビーは下のロビーの方で人を傷付けた危ないやつだ。本物はそんなことしないだろ? ちょっと、やり過ぎていることもあるけど、ナイフとか持って人を傷付けたりしないだろ?」


 キリは「うん」と頷くと、病院の廊下を歩く人に「あの人、きけん」と愁眉を見せる。その視線の先にいたのは一人の青年だった。目付きは悪そうに見えるが、何を言っているのか。


「あの人が危険って……どういうことだ?」


 まさか、殺人事件の犯人にしては変だ。キリは階段を使って、下の方へと逃げたと言っていた。エナはロビーで犯人が現れて、何人かがナイフの餌食になったと言っていた。外に逃げていった、と言っていた。それなのに、その犯人がここ――三階にいることはおかしな話だ。彼の話を聞いていて、あの青年へと目をやるまでの時間に外に出た犯人がもう一度ここへと戻ってこられるのだろうか。


 キリは言う。


「あの人、ティビーだった」


「いやいや、キリ。それはおかしな話だよ。母さん言っていただろ? 犯人は一階のロビーから外へと逃げた。ここは三階だ。戻ってくるのはおかしいんだ」


「でも――」


「もしかしたら、キリが見た人は似た雰囲気の人かもしれないな」


 いや、そうであって欲しい。向こう側へと行く青年の後ろ姿を見る。ここの患者なのか、両手には衛生材料が巻かれていた。犯人は自分たちの近くにいたわけではない。もし、近くにいたとあれば、自分もエナも気付くだろう。だからこそ、憶測でわかること。キリは遠目で犯人の姿を捉えていた、ということだ。そう考えれば合点はいく。彼には、あの青年は犯人ではないよ、と教えてあげた。そうすると、納得したのか、していないのかわからないが「うん」と返事はしてくれるのだった。

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