七日目
それじゃあ、行ってきます。そうアシェドは言った。リビングではティビー・ウラビのカートゥーン番組を見ているキリが「いってらっしゃい」と応えてくれた。キッチンで洗い物をするエナも「行ってらっしゃい」と見送る。自分の手には紙袋があり、その中は酒瓶である。これからカワダの家に行くつもりなのだ。この前のお酒のお礼を兼ねて。自分たちは農業の初心者ということもある。それだからこそ、農業を習いに行くつもりだった。ここ最近、作物の葉っぱに白い斑点が目立つようになってきたからだ。彼ならば、知っているかもしれない、そう思って。
玄関を出て、車道の方へと出ると、村の集落の方へと駆けていく子どもの姿を見た。この村に住んでいる子どもか。何度か見たことはある。何人かはキリと同年代の子たちがいたはずだ。もしも、彼の対人恐怖症がなんとかなれば、遊び相手になってくれるかもしれない。なんて淡い期待を寄せながら集落の方へと足を運ばせた。
空を見上げる。どんよりとした天気。雨は降りそうにないが、いい天気とは言いがたい。それでも、のんびりとした時間が過ぎていく気がして、どことなく頬が綻びるようだった。
車道から少し歩いて行くと、Y字の道へと出た。そこから右方向の道路を真っ直ぐ行けば鬼哭の村の集落があるのだ。ほら、看板がある。どれぐらいの年月が経ったまま、錆びた状態で放置されているのか。『ようこそ鬼哭の村へ』と読めるが、これじゃあまるで廃村のようだ。もしくは閉鎖的な村。後者は本当に正解だけれども。その看板を通り過ぎれば、一日に二便しか来ない公共機関のターミナルの建物が見えてきた。こちらも看板同様に寂れている。王都にあるターミナルとは全く違う。設置されたベンチの下には砂埃や落ち葉がかくれんぼしていた。施設内を除いてみると、係員は誰もいない。これはカワダから聞いたことがあった。ここの係員は、ターミナルの仕事はもちろん、農業や工場でも仕事をしているそうだ。だから、こちらよりも農業や労働者の町の工場を優先としている、とか。いや、ここの便は一日二本のみ。それも町へ行くか、来るか。ならば、別に工場の方を優先しても問題はあるまい。利用者と共に自分も行くだけなのだから。だが、それにしても中の掃除ぐらいはしておいた方がいいとは思える。券売機はよく動いているな、と苦笑いするほどボロボロだから。床は足跡だらけの土埃が被っている。中のベンチも――誰かが座っている形跡はあるが、隅っこの方には灰色の土埃。
掃除かぁ、と建物から村の集落の方へと顔を向き直ると、走る子どもの姿が見えた。どうやら、ここの子たちは元気いっぱいのようだ。確か、村長の息子の葬式のとき、誰かが言っていた気がする。子どもたちは外出禁止なんてつまらないだろう、と。あまり顔も合わせたことないし、話したこともないが――どういった子どもたちがいるんだろうか。後でカワダにでも訊いてみようか。
アシェドは足を進めた。先へと行くにつれて、自分たちの家の向こう側となる慟哭山が見えてくる。こちらへと越してきた初日に村長に言われた。危険なやつがいるから、奥へ行くな、と。要は山に入るな、ということだろうか。危険なやつ、それは一体? 彼があごの手を当てて、考えていたときだった。足が地につかない感覚に陥る。えっ、と声を上げたときは、世界がひっくり返った。痛みが腰へとダイレクトにやって来る。
「いっ!?」
ひっくり返って、悲鳴を上げた。体中に上から降ってくるのは――土!? 何これ!
困惑して、どうしたらいいのかわからないアシェドは立ち上がるに上がれそうになかった。なんで!? と狭い空を見上げれば、幼い笑い声が聞こえてきた。けらけらと彼の耳に入ってくるその笑い声はまさしく悪童とも呼べるような悪い物であった。
「ひっかかった、ひっかかったぁ」
ちらり、と狭い空――丸い空から顔を覗かせるのは一人の少年。年齢的にキリと同い年ぐらいか。くせ毛のある茶髪の彼は「おじさん、足元に気をつけないと」とからかってくる。
「それだから、穴に落ちるんじゃないかな?」
「き、きみがこれをしたのか!?」
「おれじゃなかったら、だれがするのかな?」
にやける男の子はそう言っているが、この子がしなければ誰がするのか。そんなの知ったことではない。こいつ、もしかしたら村で一番の悪ガキなのかもしれない。
「大人をからかうんじゃない!」
なんて怒声を上げても「怖いなぁ」と動じていない様子。だが、それも束の間。少年の頭上に拳骨が落ちてきたのだから。ごんっ、と鈍い音がしたかと思えば「何やっているんだ」と聞き覚えのある声がした。
「村中に穴なんか掘りやがって。お前は動物か、ヴィン」
「いってぇ! なんだよ、カワダのおじさん! こんな仕打ち、ぎゃくたいだ!」
「躾だ、躾。お前みたいな悪ガキはそういうのが必要ってわけで、お母さんにチクってもお前が怒られるだけに尽きる」
「うぅ! この、年中飲んだくれぇ!」
カワダにヴィンと呼ばれた少年は捨て台詞を吐いて、どこかへと行ってしまった。ばたばたと足音が遠くの方から聞こえる。彼が完全にいなくなってから、カワダは落とし穴に落ちて身動きが取れないでいたアシェドを助けた。ああ、泥だらけ。最悪。中身、割れていないよね?
「大丈夫か、デベッガさんよ」
「私はいいんですけど……これ、カワダさんにお礼をって持ってきたんですが――」
自分のお礼と聞いて、眉の端を小さく動かした。それもそうだろう。自分へのお土産を村の悪童におじゃんにされてしまったのかもしれないのだから。どうも、気になるようで「無事だよな?」と不安はアシェドよりもお礼の中身である。一応は「多分大丈夫です」と言おうとするのだが――。
その場に盛大な音が聞こえる。そう、二人ともヴィンが掘った落とし穴に引っかかってしまったのだ。再び土塗れとなるアシェド。今日初めて泥だらけになるカワダはこめかみに青筋を立てて「あのクソガキがっ!」と怒罵を散らしているのだった。
◆
あのクソガキ――失礼、悪童の手にかかっていないカワダの家の敷地内へとやって来た二人。適当に畑のあぜ道に座り込み、大きくため息をついた。泥だらけの服に不服そうな顔を見せて。
カワダはタバコを一本取り出して吹かした。彼は「あの子どもはな」と煙を吐き出す。
「この村で一番いたずらが過ぎるガキだよ。あっちの方にある家、ザイツさんとこの長男坊だな」
「あの子はいつも何かしらのいたずらを?」
お土産に、と持ってきた物の中身が無事で一安心のアシェドは、指が差された方角を見る。田園の向こう側にぽつんと木造建築の家が一軒建っていた。あれがあの悪童ヴィンの家なのか。
その疑問にカワダは「そうだな」と苦笑い。
「何かしらってか、あいつは絶対に落とし穴を作る。そして、その罠に誰かをはめる。特に、あいつには一個上の姉がいる。その姉にだ」
ヴィンは自身の姉に対して、よく落とし穴にはめているらしい。この集落を一日中歩いていれば、一回ぐらいは「ヴィン!」という彼女らしき怒声が聞こえるらしい。なるほど、自分が住んでいる家は村の集落から離れているため、聞こえないはずだ。この村の風物詩を知らなかった。
「その子はお姉さん以外にもするんですよね?」
「んー……多分だけれども、デベッガさんは目をつけられた可能性あるかもなぁ。正直言って、若い男ってこの村には滅多にいないから、相手が欲しいんだろうな」
ほとんどは出稼ぎのため、労働者の町で稼ぐため。実のところ、基本的に村にいた若い男は村長の息子になるらしい。
「村長さんところの息子さんのときは……あいつ、わかっていてしていないな? 後が怖いとでも思っているんだろうな」
「ヴィン君は村長さんの息子さんは苦手だったんですか?」
「だと思うよ? あいつともう一人、もう引越ししたけど、あいつらが四、五歳のときかなぁ? そこ、慟哭山に入ってなぁ。村長たちに二日ぐらい折檻されたことがあるんだよ」
山に入っただけで監禁? 眉根を寄せるアシェドにカワダはタバコの煙を吐き捨てた。
「デベッガさんも村長さんに言われたんじゃないか? 慟哭山には入るな、って」
「入るなっていうか、奥の方には行くなとは言われました」
タバコを口にくわえるカワダ。その視線は畑で順調に育っている野菜たち。彼は片眉を上げて「そういう意味で言ったんじゃないと思うな」とこちらを見てきた。
「いいか、山には絶対入るべきじゃない。奥に行くな、というのは『山に入るな』という意味として捉えた方がいい。山の中、入ったことないよな?」
こちらを見てくる目は背けられそうにない。カワダの黒い目が何かを物語っている。何かを言いたげ。それを口にすることなく、目だけで訴えてくるのだ。そんな視線が怖いと思う反面、実際に山の方には入ったことがなかった。入る理由がないからである。ただ、その慟哭山からキリはやって来た。偶然にも黒の皇国からこちらへとやって来るために。立ち入ったことがない、だからこそ「いいえ」と否定した。
「入ったことはありません。けど、なぜに慟哭山へと入ってはいけないんですか? 危険生物がいるみたいなことは聞きましたが。それは一体、どんなやつなんですか?」
「……別に害獣じゃあないが、デベッガさんって神様とか信じるタイプかね?」
「いえ」
「平たく言えば、あの山は呪われているってこと。山のバケモノが棲みついているんだよ」
山のバケモノが棲みついている。山が呪われている。ちょっとカルト臭くなってきたが、詳しく訊きたいと思った。その山のバケモノって――数日前、村長の息子を殺した猛獣なのか? そのことについて訊ねてみるが――。
「どうだろうな?」
はぐらかされた。カワダは短くなったタバコの火を消し、新たなタバコに火をつける。
「この前の猛獣は見たことがあってもな、山のバケモノはなぁ」
「目に見えない存在なんですか?」
「どうだろうな? それよりも、デベッガさんよ。作物が病気になったんだって?」
本当にはぐらかされた。カワダは「作っているの、それだよな」と目の前の育ち途中の野菜を指差した。それに小さく頷くと、自分の畑で出ている病気の症状を伝えた。葉に白い斑点がついている、と。これに彼は白髪交じりの頭を掻くと「ああ」そう、苦笑いをする。
「肥料のやり過ぎだ、それ」
◆
アシェドは作物の病気の対応と対策を教えてもらい、カワダの家を後にしていた。これから畑仕事なのか、農業機械を引っ張り出している姿が見える。舗装されていない道を見る。前方からは老婆がやってくるのが見えた。そのため、「こんにちは」とあいさつをするが――怪訝そうな顔を見せつけられただけだった。どうやらまだまだ村人たちの警戒心は高いらしい。カワダだけだ。ある程度心を開いてくれているのは。なんとかして、彼みたいに仲良くしたい。そんな心寂しい思いを抱いていると――。
「ヴィン!!」
後方から少女の叫び声が。それに伴って、いたずら大好きとでもいうような悪意に満ちた笑い声と走る音が聞こえてくる。声の方を振り返ってみると――。
「ようっ、落とし穴に落ちたおじさん!」
あの悪童ヴィンがこちらに向かって横腹を強く叩いてきた。ばしんっ、と痛い音がする。子どもって意外に手加減をしないから、本当に痛い。叩くだけ叩いて、どこかへと走り去っていってしまう。なんという逃げ足の速さ。捕まえようにも、捕まえられなかったぞ。なんだよ、あのガキは――と唇を尖らせながら、彼が走ってきた方向を見た。道端の端っこで、必死こいて落とし穴から這い上がろうとする三つ編みの少女がいた。慌てて「大丈夫?」と手を差し伸べる。
「怪我はない?」
「毎日落ちて、毎日けがしてる」
目に涙を溜めている少女の膝や肘には衛生材料が施されていた。彼女の言い分には納得する。彼女は声を震わせて、鼻を啜った。
「やめてって言っているのに、毎日する。ヴィンのばか」
曰く、親に言っても――親が止めろと言い聞かせても「嫌だね」の一言だそう。これに誰もが呆れ返るのは無理ないだろう。
「ヴィンは楽しいからって。わたしは楽しくないもん。嫌だもん」
「その子は人の話を聞かないの?」
「あいつが人の話を聞くなんて。聞かないもん」
止めろと言って、嫌だという時点で人の話を聞くわけがない。同じ家族なのにな。確か、カワダは言っていた。ヴィンには姉がいる、と。この少女はあの悪童と顔立ちが似ている。ともなれば、姉弟か。彼女の胸元には名札があった。ということは学校帰り?
『ナオミ・ザイツ』
「怪我しているところ、消毒でもしようか。一人で帰れる?」
「そこ」
少女――ナオミは自分の家を指差した。すぐそこだった。そう言えば、カワダはザイツという家はこちらだ、と教えてくれたことを思い出す。その家ならば、送っていく必要もないか。なんて思っていると、彼女が「おじさん」と鼻を啜りながら訊いてくる。
「おじさん、泥だらけだけど、ヴィンに落とされたの?」
流石は、と言っては可哀想であるが――流石は毎日ヴィンによって、落とし穴に落とされているだけのことはある。落とされた後がどのような状況になるのかもばっちり把握済み。ナオミに嘘をついても仕方ないだろう、として「うん」と苦笑い。
「さっき、落とされてね。カワダさんと一緒に」
「あいつばかだから。多分、げんこつ落とされてそう」
自分の弟だからよくわかっているのか。引きつった笑いを見せていると、ザイツ家からナオミたちの祖母だろうか。中高年齢の女性が出てきて「大丈夫なの」と心配そうな顔をして、こちらにも気付いた。
「えっと、あなたは……デベッガさん、でしたよね? 山の向こう側のところの……」
「はい。あの、お宅のお孫さんが落とし穴に落とされていたので」
アシェドがそう言うと――「そう」とあごを引き、手で頷いた。しかめっ面で「この子の弟がね、毎日よ」とため息をつく。
「私も嫁も、毎日言っているんだけどもね! 言うこと聞かない子どもなの!」
将来が不安だわ、というナオミたちの祖母だったが、ここで彼女もアシェドが泥だらけであることに気付き「本当にばか孫が申し訳ありません」とお礼と手当てをかねてザイツ家に上がらせてもらうこととなった。
◆
ザイツ家へと上がらせてもらい、出されたお茶を啜った。ほんのりと甘い風味がするのは、中に果物の果汁を入れているからだそうだ。いいことを聞いた。今度、エナに教えて作ってもらおう。アシェドは美味しそうにお茶を啜りながら、隣で目を赤くしているナオミを見た。彼女は自身の祖母に手当てをしてもらっていて、左膝と右肘に真新しい衛生材料が施されていた。
「ごめんなさいねぇ」とお茶菓子も出してもらう。
「あとで、嫁にも言うように言っておきますから」
「いえ、私は構わないんですが……」
もう一度、ナオミの方を見る。彼女はお菓子に手を伸ばしてぼそぼそと食べていた。落とし穴に落とされたとき、半泣きだったことを思い出す。毎日落とされて、毎日怪我しているとも言っていた。相当堪えているに違いない。
「私はまだ少ないですけれども、この子……ナオミちゃんが我慢できないんじゃないですかね?」
自分のことを言われて、顔を上げてきた。じっとこちらを見ていて、ヴィンと似ているのに雰囲気だけは違うな、と思う。それに、思ってもみなかった、という表情がキリにそっくりだ。あの戸惑いのある純粋な表情。彼だけが出す雰囲気ではないようだ。しかし、ナオミは何かをしてもらいたいわけではないようで「いいよ、おじさん」とお菓子の方に視線を戻した。
「あとで仕返しするもん」
「し、仕返し?」
「ヴィンがとっておいているおかしを食べるから」
それって、逆恨みを買いそうだな、とは思う。そうして、また落とし穴に落とされては何かしらの仕返しをし、更に落とし穴にはめられて、仕返しをする。なんともきりのない姉弟けんかであろうか。その終わりのないけんかであることを知ってか、ナオミたちの祖母はあまりいい顔をしていない。
「ナオミ……」
止めなさい、とでもいうような表情を見せている。だが、ナオミは譲れないと言わんばかりに「だってぇ」とまた泣きそうな顔を見せた。
「ヴィンが悪いもん! 嫌だって言っているのに、落とし穴ばっかり作るもん! わたし、学校の先生に何回も言われた! やめさせるように、言ってって!」
自分にはできないことだ、と不貞腐れる。そんなナオミを見て、彼女の祖母は眉を八の字にするだけ。そのやり取りを見て、アシェドはどう言った反応をしていいのかもわからなかった。
「だから、わたしはヴィンがやめるまで、仕返しはするの! 食べるもん!」
ナオミは勢いよく立ち上がると、その場を駆け出した。玄関の方から音が聞こえる。彼女が出ていってしまった、という証拠だろうか。いなくなって、その場は気まずい空気が漂う。ナオミたちの祖母はアシェドにどのようなことを言ったならば、いいのかわからない様子で「お見苦しいところをお見せして、本当にすみませんね」という言葉しか見つからなかったのだろう。これ以上は何も言わなかったのだ。
その場の沈黙が痛い。そう感じて「あの」と席を立ち上がった。
「私はこれで失礼します。なんか、私が来てしまったから――」
「いえ、そのようなことは……」
アシェドは玄関先まで見送ってもらい、ザイツ家から出た。その家から少し歩いたところ、道の端っこに口を尖らせて膝を抱えているナオミがいた。何かしら声をかけてあげるべきだろうが――生憎、今の自分にはかけるべき言葉は見つからない。ただ黙って立ち去るべきだろうか、それとも一言は何かしら言うべきか。悩ましく腕を組んでいると――。
ナオミの背後から近付く悪童一人。ヴィンだ。にやにやとしながら、そろりそろりと近寄る。何をする気なのかは一目瞭然。彼女が座っている場所は少し傾斜になっている草地。その下の方は用水路が流れている。彼女をその用水路に落とそうと目論んでいたのだ。これはいけない。アシェドは眉をしかめると、ナオミに近付こうとしているヴィンのもとへと行き――。
「止めなさい」
ヴィンは肩を強張らせた。それに伴い、ナオミも慌てたようにしてこちらの方を見る。こちらを見る表情はどこか泣きそうな雰囲気。
「さっき、用水路に落とそうとしたでしょ? ダメだよ、いき過ぎたいたずらは」
「お、おれ! おれ、なにもしていないもん!」
「何も? じゃあ、どうしてこっそりとナオミちゃんに近付こうとしたんだ? 落とす気だったんだろ?」
「ちがうし!」
否定するヴィン。だが、ナオミもわかっているのか「言ったよね?」と睨みつける。
「何度も言ったよね? やめて、って」
「ちがうし!」
絶対に自分じゃない、と言い張りながらヴィンがその場から逃走しようとするが――アシェドが捕まえようとする前にナオミが動いた。彼の服を強く引っ張り、地面へと転ばせる。小さな粒の砂利が擦れるようにして、ヴィンの足を滑らせる。背中から地面に着地したときの表情は痛々しそうだった。
「なっ――!」
「やめてよ!」
完全にナオミはキレているようだ。こめかみに青筋こそは立ってはいないものの、顔が怒りに満ちており、真っ赤にしていた。彼女はヴィンの左肩を拳で叩く。彼も必死に抵抗するようにして、ナオミの顔を自身の手で押し退けようとしていた。拳が頭に当たる。ばしばし、と。ヴィンも負けじ、と起き上がるようにして地面に座り込むと、ナオミに向って空いている手で叩く。叩く、叩く、叩く。なんとも醜い争い。これが子どものけんか。見かねたアシェドは「止めなさい!」と声を張り上げた。
「二人とも止めなさい! そんなことしていちゃ、仲直りができないぞ!」
叩き合いをする二人の間に割って入って、止めさせようとする。自分の声を聞きつけて、彼らの祖母も家から現れた。玄関先の方から「何をしているの!」と甲高い声が聞こえてくる。
「止めなさい、見苦しい!」
ヴィンをアシェドが、ナオミを二人の祖母が押さえつけた。それで収まるかと思えば、今度は言い争いの始まりだ。
「なんで、たたくんだよ!」
「ヴィンがやめないからに決まってるもん!」
「だから!? おれ、ねえさんをたたいてないもんね!」
「叩いたりもした! 見たもん! わたし、見たもん!」
ぎゃあぎゃあと収束が尽きそうにない姉弟の口げんか。二人の祖母が高い声を出しながら止めろと何度も言っているのに、彼らは聞く耳を持たない。自分たちが離したら、また叩き合いが始まるだけ。そうならないように、アシェドは手に力を込めながら――。
「いい加減にしろっ!」
本当は村中に響き渡るのではないだろうか、とでも言うような大声を上げた。その直後、ぎゃあぎゃあと騒いでいた二人は静かになる。びっくりした顔をこちらに向けながら、大人くなった。その場に静寂が訪れるが、アシェドはそれを踏み越えてまで「何度言ったらわかるんだ!」と彼らを睨みつけた。
「やっただの、やっていないだの、そういう問題じゃないだろ! こういうことをするぐらいならば、どっちも悪いじゃないか!」
その言葉にヴィンは怪訝そうな顔付きで「おじさんには関係ないだろ!」と吐き捨てられる。
「知らないやつが勝手言うな!」
逃げようとするヴィン。だが、それを許さない。絶対に逃がさないようにして、更に手の力を込めた。放せよ、と言ってくる彼に「あ?」とアシェドは片眉を上げる。
「どの口が言っているんだ、どの口が。大体の原因を理解しているのか? 何度も自分のお姉さんに落とし穴を掘るから、こうなっているんだよ!」
アシェドはヴィンの体をこちらに向けさせて「違うか?」と言う。
「何っ回も、何回もきみの耳と頭には『止めろ』って入ってきているはずだよなあ? それをきみはすべて無視した。他の大人からも何度も注意されて。なあ?」
「だ、だって……」
言い訳をしようとするヴィンは今にも泣きそうな顔を見せている。声を震わせ、眉をしかめて涙目を見せるのだが――。
「泣くぐらいなら、最初からするなっ!」
ぼろぼろとその目からは大粒の涙が。しゃくり上げるヴィンの口からは「だって」以外の言葉が喉に詰まって出てきそうにないようだった。彼の肩に手を置いているアシェドは「だってじゃないだろうが」と低い声を出す。
「見てみろ、お姉さんを。見えないわけじゃないよな? 見えないんじゃないよな? 見ろ、怪我している。毎日、落として、お姉さんは怪我をしている。今日も怪我をした。相手を怪我させたってことを理解しているのか?」
「…………」
しゃくり上げながら、鼻水を啜るヴィンは何も言わずにナオミの方を見ていた。何も答えないから、アシェドは「理解しているのか?」と強めな口調をした。
「お姉さんをきみが怪我させた。そのことをきみは理解しているかって、訊いているの。理解しているよね? もちろん。何回も何回も止めてって聞いても『嫌』の一言で終わらせているんだからさ。なあ?」
「……ご、ごめんなさい」
堪忍したのか、ヴィンは目から鼻から水を垂れ流しながらそう言うが、それで許されると思うな。
「何がごめんなさいなの?」
「ごめ、ん、なさい」
「それ、俺に言うことじゃないよね?」
「ねぇ……ねえさん、ごめ、ん、ごめんなさい」
グシャグシャの顔でヴィンはナオミに謝罪する。彼女はどんな反応をすればいいのかわからない様子で、こちらも今にも泣きそうな顔を見せていた。そんな彼女を見て「きみもだよ」と彼の方に込めていた力を少しだけ緩めた。
「仕返しするって言っていたけど、それで解決するとは思わない。誰も楽しいとか嬉しいだなんて思わない。こういうとき、どうするべきだと思う?」
「でも、わたしは悪くないもん」
「そうだな、今回のこのくだらないけんかの原因では、きみは悪くない。でも、仕返ししようとしていただろ? 俺、何か嘘でもついている?」
ナオミは首を横に振った。それに反応するようにして「そうだよな」と頷く。
「こういうとき、どうするべきだったと思う? 相手を転ばせて、叩けばいいとでも思っていた?」
首を横に振って否定してきた。それならば、どうするの? 俺はそれを訊いている。
こちらも声を震わせて、しゃくり上げていた。
「許してあげる……」
「そうだな。嫌かもしれないけど……そうしてあげれば、仕返しのやり返しとかも来ないけど、もっともはきみがしつこくお姉さんを落とし穴に落とさなければいい話だってことを頭に入れておいた方がいいよ」
「……はい」
姉弟がしおらしくなったところで、アシェドは黙っていた二人の祖母に「申し訳ありませんでした」と腰を低くした。
「す、すみませんでした。つい……」
何か言われるだろうか、と思ったが――二人の祖母はとんでもない、と顔の前で手を振った。
「孫たちの躾をありがとうございます。この子たち父親を知らないから、男の人に叱ってもらうってことがほとんどなかったから……」
二人の父親がいない、と聞いてアシェドは瞠目した。いない? ああ、そう言えばカワダが村にはあまり若い男性はいないと言っていたが――労働者の町にでも働きに行っているから? にしては、知らないという言葉を選ぶのはどこか変だ。彼らの事情を詳しくは知らない。だとしても、訊くに訊きづらい。特に子どもたちの前では。それだからこそ「そうですか」とこれが正しい反応なのかすらもわからず、その場を後にするしかなかった。
◆
アシェドは帰宅後、ティビー・ウラビのカートゥーン番組を見ているキリの傍らで連絡通信端末機を取り出した。それで王国のネットワークにつなぎ、児童保護センターでの担当であったトルーマンの言葉を思い出す。
黒の皇国による青の王国への侵攻戦。被害はこの村を含めた周辺地域。可能性として考えられること。この村の若い男性のほとんどが、侵攻戦時に殺されている可能性が高いということだった。ネットワークで当時の被害状況を調べると、鬼哭の村にも工場はあり、その工場の工員たちのほとんどは黒の皇国の軍によって殺害。そこは武器などを開発している工場であったそうだ。
眉をひそめるアシェドをキリは横目で見ているのだった。