三日目
ほんの少しぐらいはフォークの扱いに慣れてきたか。少しだけ頭痛を我慢しているアシェドはキリのテーブルマナーに目をやる。未だとして、取った物をこぼしてはしまうが、昨日よりはマシに見えた。スープの飲み方もあまり問題はあるまい。
「キリ、美味しい?」
エナの設問に頷く。そこは相変わらずの態度。だが、キリは外を気にしているのか玄関やら窓の方を見ていた。どうしたのだろうか。
「どうしたんだ? 外が気になるのか?」
「…………」
どう答えたらいいのか、わからないらしい。スプーンを手にしたまま固まってしまう。ややあって、何でもないと言わんばかりに、首を横に振った。すぐに食事にありつく。そんな態度を取るキリに二人は顔を見合わせた。なんとなくエナにはわかった。またカワダが家を訪れないかだろう。それを気にしているのだ。彼女はそっとアシェドにそのことを教えてあげた。このことを聞いて「そういうことか」と小さく苦笑いをする。
「あの人、いい人なのにな」
「そうね、お父さんをベッドまで運んでくれたんだもの」
「え」
昨夜のことは全く覚えていないらしい。表情を引きつらせながら肉スープとスプーンを交互に見る。気恥ずかしいのか、あごに少しだけ生えたひげに触った。
「お父さん、お酒飲めないのに飲んだらしいじゃない」
「記憶にない……」
「もぉ。ねえ、キリ。お父さんって、記憶を失くすほどお酒を飲んじゃったんだって」
「おいおい、変なこと言わないでくれよ」
「えぇ、お酒は絶対に飲まないって結婚する前は言ってたのに? ねえ、キリ」
話を振られるキリはどう反応すればいいのかわからない様子で首を傾げてアシェドを見た。話を理解していないとわかるはずなのに、彼にとってその視線がエナと同様の物に見えて仕方なかった。それだから「ああ、悪かったよ」と少し自棄になっていた。
「でも、付き合いなら飲まなきゃダメだろ。本当は飲みたくなかったんだけど。本当はね!」
意地になるアシェド。キリはエナを見る。意味がわからないからだ。だからこそ、彼女は「いい? キリ」と耳打ちをする仕草をする。実際は声が聞こえる音量だ。
「お酒はね、記憶を失くしてしまう飲み物なのよ。特にお父さんとかね。キリはまだ飲んだらダメよ? 大人になってからね」
「……うん?」
理解していないらしい。返事をするものの、首を捻るだけ。というよりも、アシェドの悪酔いの話をどうでもいいと思っているのか、野菜を落としそうになりつつも、口に頬張るのだった。
◆
今日は何をするんだろうか、と真っ暗な画面のテレビを見つめる。キリは膝を抱えてぼんやりと座っていた。エナは洗い物、アシェドは何か忙しそうにする。自分は何をすれば? 少しだけ体を揺らしながら、そこから見える窓を見ていた。木が見えた。その木の枝には鳥が止まっている。薄青色の目をそちらに向ける。じっと、じっと見つめる。やがて、彼の視線に気付いた鳥は慌てたようにして飛び去ってしまう。いなくなってしまったものを追いかけるようにして、鳥が飛んでいった方向へと目を移す。あいつはどこへ飛んでいったかな? 追いかければ、間に合うかな? 窓から壁へ、壁から天井へと顔すらも動かしていると、アシェドが「何を見ているんだ?」と困惑した顔を見せた。
「家に変なのがいるとか言わないでくれよ?」
「あっちなら」
「えっ」
「飛んでった」
キリは窓を指差して、天井の方へと動かす。どういう意味なのか、とアシェドが悩ましそうな顔をしていると、エナが「鳥じゃない?」と小さく笑う。
「さっき、そこの木に鳥が止まっていたもんね」
「と、り……」
「そう、さっきキリが見ていた生き物のことよ」
頷いた。キリの目に映っていたのが鳥だと判明すると、てっきり幽霊だとばかり思っていたアシェドは大きく息を吐いた。よかった、と安心する。なんでって、せっかく建てて半年しか経たない家に幽霊がいたら嫌だと思っていたのである。そんな彼を気にすることもなく、ハンドバッグを手にしていることに気付いたのか。「なにするの?」と聞いてきた。それで今日は何かをするのだろうか。なんて考えていると「キリが正式にうちにいられるようにしに行くんだ」そう教えてあげた。これにもっと首を捻った。何を言っているんだ、と言いたげ。理解させるためにも「あのな」と目線を合わせた。
「キリはこの家の一員だ。それはお前も認めていて、俺や母さんも認めているんだ」
キリは頷く。
「だがな、そうやって俺たちの意思も大事だけど、王国が決めたことには従わなくちゃならない。この国に住んでいるならば。俺たちがキリを家族として迎え入れるために」
説明を理解できないのかはわからないが、段々と不安そうな顔をこちらに見せてくる。これは余計に混乱させてしまったか、と少しだけ痛む頭を抱えるアシェドに変わってエナが「怖くないよ」と笑って見せた。
「キリがこの家の一員ですよ、って証明をするため。えっと、証拠を作るためにお出かけするの。みんなで」
「……わかった」
結局、わかってくれているのかは定かではないが、エナの言葉には納得してくれたキリ。
「じゃあ、労働者の町に行こうか」
「……うん?」
三人は最寄りの児童保護センターがある労働者の町へと向かうことに。運転は頭痛がするアシェドに変わってエナである。キリに後部座席に座るように指示を出す。車というものを知らないのかもしれないが、戸惑いつつも乗ってくれた。
「大丈夫よ、これは車。これで荷物や人を運ぶのよ」
「…………」
と、説明はしても緊張しているのがわかる。肩を強張らせているからだ。きょろきょろと落ち着きがないのか、その薄い青色の目を忙しく動かす。
「それじゃあ、出発するけど、暴れたりはしないでね」
「ははっ、事故ったら元も子もないからな」
なるべく、大人しくするように。そう言われキリは本当に大人しくすることを決めた。ここで下手に動いて嫌な目に合いたくないからだ。気になる物はいっぱいある。自身の左側にあるスイッチ。左斜め後ろには平ぺったい紐のような物。右隣には椅子――シートから出っ張った物。触りたくても、それが何かを理解できないから怖くて触れない。アシェドが「二、三時間で着くからな」と教えてくれるが、時間の感覚を知らない。変な音が唸っている。体が揺れる。がたがたとうるさい。二人が話しているが、何の話なのかわからない。別段楽しそうではなさそうだ。
キリは肩を強張らせた状態で約二時間半を車の中で過ごすのだった。
◆
労働者で溢れかえる町、労働者の町。後部座席から見える景色に映る人々はどこかやつれ気味に見えていた。そんな彼らを横目で見つつ「もうすぐ着くぞ」とキリに教えてあげる。かたかたと揺られ、フロントガラスの向こう側には一際大きな建物があった。アシェドが「あれは役所だ」と言う。
「そこに併設されている児童保護センターというところでキリが俺たちの家族だっていう証拠を作るために行くんだよ」
「……うん?」
エナは行き交う人々と車に気をつけながら、施設内へと入場する。そこへ駐車し、三人揃って児童保護センターの方へと入っていった。キリは施設に入ってすぐに顔を少しだけしかめた。手で鼻を擦る。あまり、彼にとっていいにおいとは言いがたいのかもしれない。だが、ここで手続きをしなければ、自分たちの家族になれないのだ。そんなキリにアシェドは「キリを見ていてくれ」と任せた。
「受付、俺が説明しに行くから」
「わかったわ。私たちはこっちの方にいるから」
キリを連れて、テレビもおもちゃもある待合室の方へと行ってしまった。二人の背中を見送ったアシェドはこちらの方を見ている受付嬢に「すみません」とこれまでの事情を話すのだった。彼女は熱心な態度で相槌を打ってくれている。時折、言葉をメモしていた。
「あの、それで私たち、初めてなもので、何をしたらいいのかわからなくて……」
「それでしたら、担当をお呼び致しますので、あちらの方におかけになってお待ちください」
これでも緊張していた方だ。受付の段階で嫌に汗を掻いているようだった。ハンドバッグからハンカチを取り出し、にじむ汗を拭く。そして、受付嬢に言われた通り、待合室からほど近いベンチに座り込んだ。斜め後ろの待合室ではキリがぼんやりと設置されたテレビを見ているようである。今やっている番組はティビー・ウラビのカートゥーン番組。その隣に座っているエナがこちらに気付いたようだ。大丈夫、何も心配はない、と頷いて見せた。
顔を真正面へと向き直り、この児童保護センターのロビーを見渡した。薄い水色を基調とした壁、受付の向こう側では仕事をしている人たち。この施設の利用者は自分たちだけ。他の利用者は全くと言っていいほどいなかった。ということは、それだけこの国は平和だという証拠。いや、この地域一帯が、なのかもしれない。こういった施設はまだ国中ある。ここはその一部に過ぎない。
年間どれぐらいの利用者がいるのだろうか、と受付のところに貼られているポスターを眺めていると「デベッガさん?」そう声をかけられた。声の持ち主の方を見ると、そこには青色の軍服を着た女軍人がいた。その女軍人の胸元には『トルーマン』と名札があった。彼女が担当なのだろうか。アシェドは「はい」と慌てた様子で立ち上がる。トルーマンは確認すると、待合室でテレビを見ているキリを一瞥して「あの子ですか?」と言ってくる。
「お話はこちらの部屋でしましょう。お二人をこちらの方にお願いします」
「わかりました」
トルーマンに促され、キリとエナを呼ぶのだった。
◆
ただ広い部屋に四人だけ。その内の三人は落ち着きがない様子で、そわそわとしている。だが、キリの件についての担当であるトルーマンという女性軍人は毅然とした態度でいた。彼女は受付嬢から粗方話を聞いていたのだろう。「それで」と手元にある書類から目を離してこちらを見てきた。
「あなた方が、この子を保護されたんですね」
「はい。私たちが彼と会ったとき、身なりはひどくボロボロで……少し、頭の方に傷を負っていますけど、今は治りかけみたいですね」
そわそわするキリをトルーマンが見た。それにもっと落ち着きをなくし、怯えた目付きでエナを見る。彼女の服の裾を握る。視線を逸らしてあげてみた。
「名前は、キリ君。本人がそう言ったんですね? そして、キリ君がやって来たのが……黒の皇国ですか?」
「はい。家は黒の皇国と旧灰の帝国の国境に位置する村にありますので」
「なるほど」
新しい情報を得た、とでも言うのだろうか。書類に何かを書き足していく。トルーマンの視線がキリの方へと向けられた。彼は逃げ出したいとでも言うように、エナの服の裾を強く握っていた。見かねて「大丈夫よ」と手を握ってあげる。彼女の視線はこちらに戻った。
「なんで、キリ君がこちらに来たのかは訊かれました?」
「……いえ、あまり訊くのは……」
「わかりました。それでは、私がキリ君にいくつか質問をしてみます」
そうは言っているものの、この現状に怯えきっているキリに質疑応答はできるだろうか。不安になるアシェドをよそにトルーマンは「キリ君」と声をかけた。
「訊きたいことがあるんだけど、訊いてもいいかな?」
「…………」
キリは絶対にトルーマンと目を合わせようとしなかった。これでは、と思ったエナが「キリ」と優しい声で呼びかけてあげた。
「先生、質問をしたいんだって。答えてあげて」
それでも、その視線は部屋の隅だ。
「怖くないよ。キリが覚えていることを話してくれたら、ね? 言える範囲でいいから」
「……うん」
目線をトルーマンに向けようとはしないものの、頷いてはくれた。納得はしてくれた。エナの声を聞いているから安心をしているのだろうか。一方で彼女は質問の許可が下りて「ありがとう」と見てくれないのに、微笑んでくれていた。
「それじゃあ、キリ君のお父さんとお母さんはどうしたかな?」
「ここ、にいる」
「え?」
その答えに目を丸くする。アシェドとエナは慌てたように、この事情を説明した。自分たちを両親だと思いなさい、キリの家族だから、と先走ってしまった、と。すぐに理解をしてくれたトルーマンは「えっとね」と質問を変える。
「ここにいるお父さんとお母さんじゃなくて、キリ君の本当のお父さんとお母さんのことね。どこかにいる?」
質問の意味を理解したのか、キリは無言で首を横に振った。
「いつ頃からいなくなったのかな?」
「最初、から」
「そっかぁ。それじゃあ、お父さんとお母さんはなんでいなくなったのかな?」
「…………」
今度は首を捻った。よくわからないらしい。ただ、質問の意味は理解できているようだが、答えようがないとのこと。
「今のお父さんとお母さんのところに来る前はどうしていたの?」
「……ひとり」
なるほど、と少し悩ましそうに書類へと書き足してく。しばし、質問を止めてペンを握っている手を止め「受け答えの方はある程度きっちりできているみたいですね」とアシェドの方を見た。
「年齢は……声と見た目からして十歳手前ですかね? キリ君、自分の年齢わかる? 今、いくつ? 自分の年よ」
その質問にキリは首を横に振った。知らない、ということらしい。となると、憶測でいくなら十歳手前か。「ちょっと歯を見せて」と口を開けさせてみると、乳歯が一本だけ残っているようであった。ならば、十歳前後と基準に考えるべきだろう。トルーマンは書類へとペンを走らせる。
「文字の読み書きはどんな感じですか?」
キリに対する質問かと思ったが、口調からして自分の方か、とアシェドが少しだけ焦りながら「えっと」と答えた。
「文字は全く読めないみたいですね。昨日、自分の名前を教えたぐらいで……それぐらい?」
「一応は自分の名前は見本を見ないで書けるようにはなっていたけど、今はどうかな?」
「あっ、大丈夫ですよ。わかりました。えっと、食事とかはどうですか? 偏食とか食べ方とか」
「今のところ、苦手なものはないと思いますけど。今まで手掴みで食べてきた分、フォークとスプーンは不慣れみたいですね。使おうとはしてくれています」
「なるほど、なるほど。他、キリ君の悪癖ってあります?」
「……特には。家の中で大人しくしていることが多いです」
「わかりました。他に気になることはあります?」
ようやくトルーマンがこちらの方に顔を見せた。この質問にアシェドは「あの」とキリの方を見る。
「キリの健康とか気になるんですが、病院とかは……?」
「ああ、それならば紹介状でも書いておきましょうかね。この後にでも行かれます?」
「はい、行きます。そ、それと――」
今度はエナの方に視線を向ける。彼女もアシェドが何を言いたいのかをわっているようで、頷いた。トルーマンの方へと向き直る。
「私たちって……キリを家族として迎え入れられますかね?」
「現在、お二人は子どもがいないんですよね? あれな質問ですが、理由は?」
「私が、子どもができない病気がありまして。あの、これがその診断書です」
エナはおずおずと以前検査した診断書をトルーマンに見せた。それを受け取った彼女はありがとうございます、と言うと再びキリの方を見た。
「そして、キリ君が黒の皇国からやって来た可能性が高い……十歳前後、ということは十年ほど前に……?」
「は、はい?」
「もしかしたら、キリ君は本当に黒の皇国から来たかもしれませんね」
十年ぐらい前に起こった黒の皇国が青の王国に攻めた侵攻戦をご存知ですか、とトルーマンは訊いてきた。二人は戸惑いながらも小さく頷く。多少は知っていた。確か、その侵攻戦時に黒の皇国は国境沿いにある自分たちが住んでいる村――鬼哭の村へと攻めてきたのだから。とにかくひどい有様だった、とニュースで知った程度ではある。
トルーマンは言う。
「その時期の黒の皇国、特に旧灰の帝国付近の地域では大飢饉に見舞われていたらしくて、孤児の前例はいくつかあります。その孤児をこの国で受け入れたこともあります」
そういうことがあったから、当時としては児童保護センターというシステムが皆無だったこの国はあまりきっちりとした対応ができなかった、と眉根を寄せた。
「キリ君の場合は偶然こちらに来た、ということですかね。行く宛が本当にないから。そうなのかな?」
キリにそう訊ねるトルーマン。彼は頷いた。本当らしい。
「そうなんですね……」
「そうであるならば、養子受入の結果は一週間後です。一週間後に、デベッガさん宅に通知を送りますので。正式に養子受入許可を受けたならば、役所の方で養子登録の手続きを行ってください」
「わかりました」
結果がすぐにはわからない、と知ったアシェドはどこか落胆した様子で「ありがとうございました」と席を立った。つられてエナもキリも立つ。二人はトルーマンに頭を下げて部屋を出ようとする。そこで彼女に呼び止められた。
「紹介状、受付の方でもらってください」
「ああ、はい」
◆
トルーマンが紹介する病院は労働者の町中にあるところらしい。アシェドたちが児童保護センターの施設から出て、駐車場へと向かっていると――。
「デベッガさん」
「ああ、こんにちは」
偶然にもカワダと会った。キリはすぐさまエナの後ろへと隠れる。それを見たアシェドは仕方あるまい、と彼女に「車に乗っていてくれ」と促した。それにエナは人見知りの彼を連れて車の方へ。二人が少し離れると「すみません」そう、申し訳ない顔をした。
「本当に申し訳ないです」
「いやいや、構わないよ」
カワダは特に気にしていない様子で、そちらよりも児童保護センターの建物を瞥見する。
「で、どうだった? あの子、養子にできるって?」
「いえ、それが――」
言える範囲で事情を説明した。そして、これから病院に行って検査を受けるのだ、と。それを聞いたカワダは「大変ですね」と腕を組んでいた。
「でも、悪い対応じゃなかったんでしょ?」
「はい、そうみたいで」
どうもこのカワダという人物、キリのこと、自分たちのことを気にかけてくれているのか。なんとも優しい人だ。あれかな、これまで交流がなかったのはやっぱり自分たちが余所者であるからということが大きいのだろうか。それとも、もしかしたら、キリの存在が大きいのかもしれない。これから彼を通じて村の人たちと仲良くなれたならばいいのだが。
そう思う反面、一つだけ気になることがあった。それはなぜにカワダがここにいるのか、だ。彼は確か村の方に畑を持っているからこちらの方に来てまで仕事をすることはないはずなのに。あれだろうか、ここは役所の駐車場。児童保護センターはそこに併設されている。役所に用事があったのか。なんて思って「カワダさんって」と――。
「役所に用事か何かですか?」
社交辞令のつもりで訊いてみた。その質問に「うん」と視線を自身のトラックへと向ける。
「こっちもだけど、あれだ。家内の送り。うちは俺が農業やって、嫁がこっちで稼いでいるからな。こっちにきたのはそのついで」
ほら、慟哭山の件があるから、と言う。そうだった。まだ村は外出許可が下りていない。こちらの方へ行くならば、公共機関よりも自分たちで安全を確認していく方がまだいいのだろう。
そうだったのか、と納得すると「それじゃあ」そう片手を上げる。
「キリを病院に連れていってあげなくちゃいけないので」
「おうっ、帰り気をつけて」
ここでカワダと別れた。急がないと、二人が待っているだろうな、と小走りで車へと向かう。エナたちのもとへと向かい、「ごめん、ごめん」と言いながら車に乗り込む。すると、キリが――。
「だいじょうぶ?」
不安そうに自身の薄い青色の目を向けてきた。なぜに心配してくれているのかはわからないが「ああ」と笑みを浮かべると、後部座席にいるキリの頭をわしわしとなでてあげた。きっと、自分が本当にデベッガ家の一員となれるか怖いのだろう。アシェドは「心配ないさ」と笑って見せる。
「大丈夫、俺たちはきっと家族の証拠をもらえるさ」
「……うん」
それでも、と気になるのだろう。窓から見える児童保護センターの建物を見つめていた。だが、行くべき場所がある、とエナが運転する車は動き出すのだった。
◆
「軽い栄養失調ぐらいですね」と医者は言った。カルテを手にして、検査結果の用紙を見つめながら「問題ありませんよ」と言う。
三人は気を重くしたまま、トルーマンに紹介された病院へと赴き、キリの検査を依頼した。検査中、怖くなって暴れたりしないだろうか、という心配もあったが――特に問題はなかった。知らない大人がいっぱいいる、という恐怖はあったにしてもエナが「大丈夫よ」と慰めるだけで彼は医者の指示に従っていたのだから。大分、自分たちの存在にも慣れてきたんだな、と嬉しく思う。
「あくまで今は、という判断です。気になるのであれば、こちらに月一で定期検診を受けに来てください」
「はい」
「それと、怖いのによく頑張ったね」
医者はわかってくれていたらしい。不安ながらも自分たちの指示に従ってくれたキリの頭をなでてあげた。それにほんの少しだけ嬉しそうにする。誰かに頭をなでてもらうのは嫌ではないらしい。
キリは受付の看護師の人に「またね」と手を振ってもらい、アシェドたちと病院を出た。一気にほとんどの緊張が抜けたのか、二人は大きなため息をついた。唐突なことにびっくりしたようだ。どうしたのか、と訊きたげ。これに「心配しなくてもいいのよ」と苦笑い。
「今日は午前中だけでもどっと疲れちゃったからね。ねえ、お父さん。お昼はどうしよう?」
気がつけば、昼ご飯を食べる時間はとっくに過ぎていた。緊張がほぐれたせいで、三人のお腹の虫は鳴る。アシェドは「そうだなぁ」と車のドアを開ける。
「確か、広場の方に屋台とかあったよな? 店に入るよりかそっちで買った方がいいだろ。それに、キリも頭切りたいもんな」
鬱陶しそうに前髪を弄るキリにそう言った。そんな彼を見てエンジンをかけるエナは「そうね」と言う。
「髪もだし、服もね。あと、靴も必要よね。流石にずっとサンダルでいるのもね」
「だったら、午後からは二手に分かれよう。母さんはキリの服を。俺たちは髪を切りに」
ちょうど、自分も散髪しに行こうと思っていたところだ、とアシェドは自身の金色の髪を弄るのだった。
遅めのお昼ご飯は広場の屋台で、ということで三人は町中にある駐車場に車を停めると、人ごみ中へと入っていく。人、というものにキリは慣れていない。それだからこそ、絶対にエナの傍から離れようとはしなかった。もちろん、アシェドもどこかへと行かないで欲しいのだろう。時折、そこにいるよね、という面持ちでこちらを見るのだ。そんな不安要素を取り除いてあげるべく、その視線に気付いたら微笑んであげるのだった。
「何食べよう? キリは何が食べたい?」
「…………」
エナにそう訊ねられて、キリは広場に展開している屋台を目配せた。色々あって、どれがいいのかがよくわからないのか、首を捻りながら悩む。あごに人差し指を当てて、考える。彼が二人に初めて見せた行為だった。ややあって、悩みに悩んだ挙句、選んだのはフルーツサンドを売っている店。そこでフルーツサンドとアイスサンドを購入し、近くのベンチに座り込んだ。キリを真ん中に座らせて。
「はい、フルーツサンドも美味しいけれども、アイスサンドも美味しいよ」
手渡されたのは氷菓子が挟まれたクラッカー。キリは「え」というような表情を見せながら「フォークとスプーンは?」と訊いてきた。これにアシェドは「これの場合はいいんだよ」と教えてくれる。
「なぜって、誰もが言うよ。手で食べたほうが、食べやすいってな」
そういうアシェドはフルーツサンドを美味しそうに頬張る。見ているだけで涎が口の中に溜まってくるのか、キリは早速アイスサンドを頬張った。冷たい! けど、美味しい! 好感触のようである。指についてしまった氷菓子を舐めながら、四口ほどで平らげた。次にフルーツサンドを手に取り、嬉しそうに食べていく。余程気に入ったようである。エナは「キリ、それ好き?」と訊くと「うん」そう、年相応の表情を見せてくれるのだった。
「すき」
◆
あらあら、とエナは小一時間後のキリを見て微笑ましいと思った。あれだけ鬱陶しそうにしていた髪の毛をばっさりと短く切ったのだ。背中までかかっていた茶色い髪は首に少し当たる程度まで。髪の毛に隠れていた耳も出てきて、前髪も眉辺りまでになっている。これで彼の表情はよくわかることだろう。これまで髪の毛が顔にかかっていて、少し不気味だったから。切って表情が明るくなったと思う。それに、女性物の服を着ていても、もう女の子には見えない。きちんと男の子に見える。
「似合っているわ」
「よかったな、キリ」
切った髪の毛を弄る。そんなキリの頭をアシェドは自身の手をポンポンと置く。そう言っている彼もきちんと髪は切っていた。それを見たエナは「お父さんも似合っているよ」とお世辞を言う。
「とりあえず、服は家で見るとして。靴だけ履き替えようか」
そう買ったばかりの靴をキリに差し出した。現在の彼は靴ではなく、二人が兼用して使っているサンダルを履いていたのだ。受け取った靴は青色のスニーカー。
「キリって、青色が似合いそうよね」
その薄青色の目を見て、思っていた。ガラス玉のように綺麗な目だ、と。本来の父親と母親――どちら譲りの物だろうか。ちょっとだけ羨ましいと感じる。
履いてみて、と促されるまま、エナから買ってもらった青色のスニーカーを履いてみた。履き心地は微妙のようだ。それもそうだろう。裸足で自分たちの家までやって来たのだから。キリにとって、靴という存在はなかったのだろう。それでも、当たり前が欲しいと思うこの少年は靴を手放すまい。
「どうかな?」
「へんな感じ」
眉根を寄せて、地面へと靴を蹴る。それでも、嫌とは思っていないようだ。口元が緩んでいるから。嬉しいことには変わりないだろう。
「さて、今日はもう帰ろうか。夕飯作らないと」
「うん」
三人は帰路へと着くのだった。
◆
その日の夜、デベッガ家にカワダがやって来た。外出許可のことと昨日酔わせてしまったお礼としてお酒を持ってきたのである。まだまだ人見知りが激しいキリはいたくないという理由で自室へと、ノートとペンを持ってこもってしまう。これに呆れてしまうが「いいさ」と笑われた。
「なんだこれって、飲まれても困るからな」
そういうカワダはグラスに自身が持ってきた酒(ただし、アルコール度数が低いもの)を注ぐ。エナはそんな二人をキッチンで見つめながら酒の肴を作り、リビングにいる彼らに出した。
「なんか、すんませんね」
「いえいえ、いいんですよ」
本当にアシェドとエナは迷惑とは思わなかった。こうして、来客があることは嬉しいことであるし、一人でもこちらに対する警戒心を解いてもらえるだけましなのだ。できることならば、村のほとんどの人たちと交流はしてみたい、二人の願望は強い。
「それに、危険生物を仕留められたんですね」
「いや、そこは俺もわからんが、下の町で働いているやつが抗議したんじゃないか? いつまで経っても仕事にいけないってなぁ」
少しだけ酔っているのか、身振り手振りで己が聞いたことをアシェドたちに伝えていた。まだまだ危険な猛獣を仕留められなくても、彼はグラスに入った酒を舐めるようにして「それで」とその猛獣に興味津々。
「どういうやつなんですかね?」
「どうも、黒の皇国に生息するやつらしいな。そいつが、こっちに迷い込んだのかはわからないけど。話を聞く限り、仕留めても食えないやつみたいらしい」
どこか残念そうにそう言う。食べられる肉ならば、食べたかったのだろう。カワダに話を聞けば、この村の者たちの大半は、肉を店で購入することはないらしい。山で見つけた動物たちを仕留めているという。
「子どもは親から仕留め方、捌き方を習うんだ。俺も、昔は親父に習ったよ。ここが一番美味い、この部分は酒のつまみにするが一番とかね」
「すごいですね……」
正直な話、アシェドはもちろんエナもドン引きだ。そういう話は聞いたことがあるかもしれないが、実際にそうして、動物を屠殺していると聞くと痛まれない気持ちになる。自分たちも肉を普通に食べる。だが、この手で捌いてまで食べたいとは思わないのだ。
「もし、デベッガさんがあれなら教えようか?」
「い、いや、私はいいです」
「じゃあ、奥さんは?」
「わ、私も結構です」
「だろうね」
なんてこちらをからかうつもりでそう言っていたようだ。カワダは「まあ」と酒のつまみを口に入れる。
「ここじゃ、捌くのは家庭の中で男の役目だっていう暗黙のルールがあるだけだし。無理してやろうとしない方がいいかもな」
「やりませんよ、怖いですし」
「はっはっはっ。それにまつわる怖い話があるんだ。何でも、嫁に任せきり捌かせていた男は嫁に喉元を包丁で刺されるって、な」
それは実話か何か、か。怖いけれども、気になって仕方がないのか「実話ですか」と訊ねた。すると、カワダは「どっちだと思う?」と満面の笑みを見せてくるではないか。
「この村じゃ、女性の方が気は強いんだ。だから、夫は妻に尻を敷かれる。頭が上がらないさ」
「えっ、それじゃ、その話って――」
「嘘だよ」
「えっ!?」
嘘だとわかって、アシェドもエナも胸をなでおろした。怖かった。妙に信憑性の高い話をし始めるんだもの。それでも、と二人は思う。カワダという人物は、実は気さくな人なのかもしれない、と。キリのことを気にしていたのだし、いつかは誤解も解いてあげたいものだ。
「脅かして悪かったね。まさか、デベッガさんがそういう類の話を信じるタイプとは思わなかったから」
「だって、カワダさんの言い方からして、本当だと思ったんですよ。もう、脅かさないでくださいよ」
「ごめん、ごめん」
まさか、本当に信じるとは思わなかったらしい。悪びれた様子で謝ると、時計を見た。流石に遅くまで長居するのは気が引けるのだろう。「じゃあ」とグラスの中に入っている酒を飲み干した。
「そろそろ、おいとましようかな。ごちそうさまでした」
カワダは立ち上がり、デベッガ家を後にした。どうやら、今日は歩いてきたらしい。車のエンジンの音は聞こえず、靴と地面が擦れ合う音が遠くなっていくだけだったから。
家を出て、一度デベッガ家を見た。明かりはリビングと奥にある部屋についている。その明かりを後目に帰宅するのだった。