七百八十一日目
そうそう、そうして。手を怪我しないようにね。エナはキリにそう言っていた。現在の彼らは夕食作り。その過程で野菜の皮のむき方を指導していた。彼自身が料理を作ってみたい、と言ってきたからだ。その言葉が嬉しくて、教えているのである。
「かたい……」
思った以上に刃が巧く通らない。隣で皮むきをしているエナはあんなにすいすいと、簡単そうにしているのに。彼女は難しそうな顔を見せるキリに「ゆっくりでいいからね」と言った。それに対する返事はない。いや、している場合ではない。皮むきナイフ片手に、根菜を手にする自身の手。下手すれば、親指を切り落としてしまいそう。そうならないためにも慎重に、慎重に。
「わっ」
ナイフを握る手が滑る。間一髪で指を切り落としそうになった。なんというか、皮むきだけは難しい。適当な大きさに切るときはそうでもないのに。キリはどぎまぎしながら、指を失くさないようにしながらむいていく。
ちなみにであるが、今日の夕ご飯のメニューは魚のステーキと野菜炒めだ。危なっかしいキリを見て、エナは思う。彼は学習意欲が高い子どもだ、と。何事においても、知ろうとする姿勢があるようだ。最初は文字を覚えることから始まり、その文字の意味――簡単な計算、地理、歴史、生物など。とにかく、アシェドの書斎にある本のほとんどに目を通していた。今となっては、たまにアシェドが最寄りの町――労働者の町にある本屋に行くときも着いていっては、何かしらの本を買ってもらっているようだ。去年作った本棚はそろそろ入りきれないのか、部屋のテーブルの上に置き始めているように思う。また新たに作ってあげた方がいいだろうか。
ただ単に本を読むことが好き。そんな子どもだ。今回は料理に興味を示した様子。なんとか皮むきを終えて、適当な大きさに切り刻むキリは「ねえ」と視線を野菜に向けたまま言う。
「母さんは、料理をどこで覚えたの?」
「えっとねぇ……」
思い出すは軍人育成学校にある寮の調理場。たまたま学校の図書館で見つけた料理本に記載されている物を見様見真似で作っていた。親にどのようにして作るのか、だなんて訊いたことはほとんどない。
「学校の図書館の本で覚えたの」
どうして、そこで覚えたのかなんて――アシェドの存在だ。彼に美味しいと言ってもらえるような料理を提供したかったから。初めて作ってあげたお弁当を食べて、美味しいと言ってもらえたことが嬉しかったから。それだからこそ、もっと料理のレパートリーを増やしたいと思って。独学で覚えたということもあるけれども、今となっては家庭的な料理、国の伝統的な料理は一通り作れるのである。
学校で覚えた、と言ったが、キリは学校というところに馴染みは全くと言っていいほどない。そのため、彼はあまり興味がなさそうに「ふぅん?」と薄い反応を見せる。
「切ったよ。これをフライパンの中に入れたらいいの?」
「そう。火はあんまり強くしないでね」
熱したフライパンに、切った野菜たちを放り込んでいく。最初から出してもらっていた調味料を適量入れていく。食材を炒めているキリを見て、エナは思う。彼が十四歳になるまで二年の猶予はあるが――学校に興味はあるのだろうか、と。だからこそ、気になるから訊いてみた。
「ねえ、キリ。お母さんもお父さんも行ったことのある軍人育成学校っていう学校があるんだけど、キリが十四歳ぐらいになったら、行ってみたりしない?」
「うん、行く気ない」
美味しそうな音と香りがしてきた。
「じゃあ、働くつもり?」
「ううん」
家を出ないらしい。ずっと、ここにいるつもりか。いや、いたいというのであれば、いてもらっても構わない。むしろ、いて欲しい。だが、キリの将来というものは必然と迫ってくる。だからこそ、ここで一生を過ごすより、広い世界を見てもらいたい。彼の人生の道にある選択肢を増やしてもらいたい。生きることに必死だったこの子に本当は、この世界で生きることがすばらしいものであると知ってもらいたい。そんな思いがあった。
「でもね、キリ。その軍人育成学校って、軍人さんになるための学校じゃないのよ? 色んな資格を採れるし、それで色んなところに就職できるのよ」
「……うーん、考えておくね」
自身の未来のヴィジョンが見えていないのだろうか。それとも、見る気がないのだろうか。エナがぼんやりと料理をするキリの姿を見ていると、彼は「母さん」とちょっと焦ったような声音で呼びかけてきた。
「なんか、黒くなってきた!」
「えっ、ああ! 火、火を止めて。焦げちゃう」
慌てたようにして、キリはフライパンにかけた火を消した。エナはそれを大皿に移すように指示を出し、冷蔵庫から魚の切り身を取り出した。すでに下拵えはしているから、あとは味をつけて焼くだけだ。こちらも比較的簡単。やり方を説明して、彼にやらせていると――。
「満足なんだ」と言ってきた。
「今の生活。父さんと母さんがいて、二人のすることの手伝いをして、おれが知りたいことは本や二人で知る。それでいいんだ」
「……でも、キリが知りたいことは本や私たちでは限界が来ると思うの。それにね、それらで知識を得るより、知るよりも、実際に自分で体験して得て欲しいと、私は思うわ」
「それでも、おれは見知った世界で居続けたいんだ」
これが十二歳の言う言葉か、と思ってしまった。いや、一人で居続けたからこそ、達観した物言いをするのかもしれない。誰にも頼ることなく生き続けていたからこそ、安寧のある生活を維持し続けたいのかもしれない。キリにとって、この家と労働者の町以外は未知の世界だ。我が家まで辿り着くまでの道のりですらも知らないはず。だからなのだと思う。
おそらく――おそらくだ。キリが連続殺人事件で関わりを一切持たなかったら? 今でもティビー・ウラビを好きでいたならば? 結果は変わっていたかもしれない。軍人育成学校のことを勧めていたら、行きたいと思ったかもしれない。それこそ、キンバーのようにして。キンバーはもう、学校に入れただろうか。同学年の子と仲良くできているだろうか。大丈夫だ。彼ならば、優しいから――友達はすぐにできるだろう。それに、キリだって入学したとしても、優しいから、友達もすぐにできる。きっと。
キリにはまだ考える時間が必要なのかもしれない。
エナは香辛料を手渡しした。それを手にしたキリは適量入れていく。魚の上へと落ちていく香辛料の粉を見て、彼女は二年後だ、と思う。まだ二年もある。その間で、彼はどのような子どもに成長するだろうか。いつの間にか身長も高くなった。考えることもできるようになった。キリは成長していっている。今はその成長を邪魔する時期ではなかったかもしれない。
香辛料のいいにおいがキッチンに充満する。そろそろ、出来上がる頃だ。お皿を出さないと。外にいるアシェドを呼んであげないと。外はもう暗くなろうとしていた。
そうしていると、呼び鈴が鳴った。客人だろうか。エナはキリに魚を皿へと移すように促すと、玄関の方へと行き、出た。そこには見覚えのある軍人が二人いるではないか。
「夕食時に突然の訪問で申し訳ありません」
声もどこかで聞いた。誰だったか。エナが思い出そうとしていると、一人の軍人が「北地域連続殺人事件を覚えていらっしゃいますか?」と訊いてきたものだから、思い出した。彼らはその事件の捜査担当軍人だ、と。これに「ご無沙汰しております」と深々に頭を下げた。
「その節はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。捜査のご協力ありがとうございます」
なぜにこのタイミングで家へとやって来たのだろうか。気になるし、こちらの方を怪訝そうに物陰から覗うキリも気になる。軍人たちは彼に気付いたのか「大きくなりましたね」と微笑ましそうに言ってくる。
「あれから二年以上、です」
「ええ。未だとして、犯人は捕まっていないんですよね?」
「もちろんです」
重々しそうな口調で語る一人の軍人は「お宅へ来たのもそれ関連です」と言った。
「実は、またティビー・ウラビのお面を被ったあやしい男の目撃情報をいただきましてね」
その事実にエナの背筋が凍った気がした。またあの男が出没した。ということは、今度こそ――? 覗き見するキリを見た。
「ど、どこにですか?」
「労働者の町です。先日の真夜中に、と。そこで、我々はもしかしたらば、ということを考えて、こちらの方へと警告喚起を促しに来たのですが……旦那さんは外ですか?」
「はい。多分、そろそろ畑仕事から戻ってくるかと――」
エナは不安そうに玄関から見える外を見ていると、偶然にもアシェドは戻ってきた。カワダが支えてきて。ということは、だ。村の方へと立ち寄った際、彼と酒を飲み、酔い潰れてしまったらしい。なぜに今日に限って酒を飲んで潰れてくるのか。彼女は眉根を寄せながら「夫が申し訳ありません」と頭を下げる。これにカワダは「別にいいですよ」と答えつつも、軍人がここにいることに不信を抱いているようだった。
「えっと、お邪魔ですかね?」
「いえ、ちょうどいいです。先ほど、村長さんのお家を伺ったのですが、門前払いを食らいましてね。村長さんの次にこの村を執り仕切っている方を教えていただけませんか?」
「えっ、一体何が……?」
アシェドを支えながら、カワダは困惑しているようだ。頭に疑問符を浮かべながら、何を思ったのか「私が村長さんにお話でもしておきましょうか?」と言う。
「ここで大体取り仕切っている人って言ったら、村長さん以外はいないようなものですし」
「ああ、そうなんですね」
それならば、お願いします。
「明日より、この村が北地域連続殺人事件の被害とならないように、警備を配置する、とお伝えください」
とても喜ばしい、とエナは思う。これで、自分たちも村の人たちにも被害が及ばないのであれば。大賛成だった。だが、カワダは「警備ですか?」とどこか不服そうである。それでも軍人たちは首を縦に振る。
「犯人の目撃情報が寄せられましたし。何より、この村にはその事件の被害者が二人もいる。その二人は犯人を見ているからこそ、やつの狙いは村長さんとキリ君なんです」
「いや、それって――」
カワダが何かを言おうとしたときだった。酔い潰れていて、寝ていたはずのアシェドが「ダメって言うだろ」と言い出した。誰もが口に出した彼へと注目する。アシェドの目は据わっていたが、意思があるように見えた。
「あのクソジジイは、警備なんて要らんって言うに決まっているってば。俺だって、何回も事件のこと詳しく教えろって言ってんのに、教えてくれなかった堅物ジジイだからな!」
その発言にカワダは目を丸くする。いや、彼だけではない、軍人たちも玄関の様子を窺っているキリですらもびっくりしていた。アシェドは「ちくしょう」とカワダから離れる。
「そんなに俺が無神経かってんだ! そんなに俺のことが嫌いかってんだ! なんだよ、あの目で俺を見やがってよぉ!」
「で、デベッガさん……」
相当酔っぱらっているようだ。その場にいる誰もが何も言えそうにない状況なのだから。そうしていると、ややあって――アシェドは壁の方へと倒れそうになる。それをカワダが、軍人たちが支える。彼らは顔を見合わせると、エナの方を見た。彼女は「夫が申し訳ありません」と頭を再度下げるしかない。
「すみませんが、リビングの方まで運んでいただけたならば、幸いなんですが……」
男三人がかりでアシェドをリビングへと運ぶ。その際、キリはエナの後ろへと隠れるようにしてその光景を眺めていた。彼をリビングの方へと運び、カワダは鼻で息をすると――軍人二人に向き直って「軍人さん」と言った。
「これから、村長さん家に行きましょうか。この件、村長さんが知っておかないと、癇癪でも起こしますよ」
「門前払いをされた我々は話を聞いてもらえるんですか?」
「いや、私が先に話をします。その後で、軍からの直接という形で村長さんに言ってもらってもいいですか? 多分、断りますでしょうけど」
とにかく、行きましょうか、とカワダは軍人二人を誘う。その間、エナはアシェドとキリを見ていた。ここであるならば、アシェドが自分も行くというだろう。村長が断りを見せるというならば、である。そんな彼を説得させるためには? 彼らだけでも十分にできるかもしれないが、自分たちも話を知っておきたい。
決意を固めたエナは「あの」とリビングから出ようとするカワダたちを呼び止めた。
「わ、私も一緒にお話を聞いていてもよろしいですか?」
キリのため、この村の人たちの安心のため。ここで自分が前へと出ないでどうする。知っておかなくてはならないことを知らないでいるのは嫌だった。だからだ。
これに軍人二人は快く承諾をするが、カワダは渋々と言った形のようだ。あまりいい顔をしていない様子。それでも断る理由がないから「わかりましたよ」と返事するしかない。エナは自身の後ろで隠れているキリに「お母さん、ちょっと行ってくるね」と肩に手を置いた。
「家でお父さんと待っていてくれる? 先にご飯も食べていいからね」
「う、ん……」
心なしか、キリは不安そう。それでも、頷いた。ちらり、と男三人の方を見ようとするが、すぐに視線を逸らす。それでも、問題あるまいとエナは彼らと家を出るのだった。
◆
先にカワダが話をしてくる、と単身で村長の家へと行ってしまう。大丈夫だ。アシェドからも聞いている。彼はキリのことを心配かけてくれている人だ、と。だからこそ、彼も村長に説得をしてくれるかもしれない、と。
エナは一緒に待つ軍人たちを見た。彼らは不安げのようだ。先ほどの門前払いが相当堪えている様子。だからこそではないだろうか。強行突破という形でこの村に警備を置くつもりだったのかもしれない。そのようなことを彼女が考えていると――。
家のドアが勢いよく開かれ、そこから現れたのは形相の睨みを利かせた村長。その奥からはカワダさんが引きつった表情をしている。ということは――。
「この村で勝手なことをしないでいただきたい!」
村の警備を拒否してきた。村長は「警備なんて要らない」と言い出す。
「俺たちにとって、あの事件はもう解決したことにしている! 今更、二年前の事件なんぞ!」
「解決していませんよっ」
そう反論をするのは軍人たちではない。エナだった。村長の視線は彼女へと向けられる。鋭い睨みに委縮してしまいそうだったが、ここで引いてしまってはいけない、と両手に握り拳を作る。
「犯人はまた現れたんですよ? 村長さんも、私の息子も狙われる可能性は高いんですよ? それでも、いいんですか?」
もっともなことを言ってやった。誰もが自身の安否を気にするはずだ。それなのに、村長は鼻で一蹴する。
「こちらがやられる前に、仕留めればいいだけの話だ」
思い出した。村長の息子が殺されたときは――村人総出で『仕留め』にかかっていたことを。彼らの言葉で『仕留める』は『捕まえる』イコール『殺す』という意味合いを持っているはず。それはいいものだろうか。犯人を殺すだなんて――。
「そんなに自分たちが怖いならば、この村から出ていってもらっても構わないが?」
何も言い返せそうにないエナに村長は余裕でもあるのかそう言ってくる。極めつけは「狙ってくるだろうけどな」と不安を煽ってきた。
「あんたたちがどこへと逃げようと、そいつはしつこく追いかけてくるんじゃないかね? まあ、警備のない、人気のないこの村に留まるよりかはマシだろうがよ」
とにかく、この村――鬼哭の村に警備は要らない。村長はそう言うと、体が悪いのか、体を少しだけ引きずらせるようにしてドアを閉めようとする。
「明日、警備に来てみろ。俺一人だろうと、どうなろうとお前らを仕留めてやる」
「それは、村長さんが捕まってしまいますよ!」
「だからなんだ。この村にはこの村なりのやり方がある! よそ者が勝手なことをしてもらっては困るんだよっ! 大体――」
まだ立てつく気か、と村長が歯を立てていると、カワダが「落ち着いてくださいよ」と止めに入る。暴れる彼にこの場にいる誰もがどうしようもないという顔を見せていたが――ここで黙っていた軍人の一人が「それならば」と一つの妥協案を提示してきた。
「この村の警備が嫌であると仰るならば、村の入口付近の車道沿いを……そこだけを警備してもよろしいですか? それ以外の場所に立ち入りませんので」
「…………」
この提案に村長は唾を飛ばすことがなくなった。だんまりとした状態で、軍人たちを見てくる。エナを見てくる。カワダを見た。
「我々はこの村の集落付近は立ち入らないことを約束します。ですが、デベッガさん家の前の車道から労働者の町へとつながるその道だけの警備をさせてください」
「……それならば、構わない」
認めた。あの堅物老人はさせないつもりでいた軍の警備を許したのだ。これにエナは大きく胸をなでおろす。そうしていると、村長はカワダを家から出すと、勢いよくドアを閉めてしまった。
◆
カワダと別れ、エナは軍人たちに家まで送ってもらっていた。彼女は彼らに頭を下げる。
「ありがとうございました。これで、明日からは少しだけ安心できそうです」
「いえいえ。我々も助かりました。どうにか、この村の平和をほんの少しだけ守れそうなので」
それでは、明日からよろしくお願いします。そう軍人たちは言うと、去って行ってしまった。そんな彼らを見送りながら、家の中へと入る。リビングの方へと赴くと、膝を抱えてエナの帰りを待っていたキリが「おかえり」と不安げにこちらを見てきた。
「何もなかった?」
「うん、明日からね。軍人さんたちが家の前を警備してくれるって」
どうやらキリは警備の意味をよくわかっていないようで「何それ」と訊いてきた。その疑問に「守ってくれるのよ」とわかりやすく教えた。
「あの軍人さんたちと、多分は……別の軍人さんも来るのかな? その人たちが私たちを守ってくれるんだって。犯人がまだ捕まっていないのは怖いけど、少しだけ安心だね」
「うーん、うん」
そう頷いたとき、キリのお腹の方から限界だというお知らせが鳴り響く。その音を聞いて申し訳なさそうに「ごめんね」と頭をなでた。
「夕ご飯、食べようか。今日はせっかくキリが作ってくれたんだもの」
エナはダイニングテーブルの席に着くように促すが、キリはリビングで寝転がっているアシェドを指差した。
「父さんは起こさなくていいの?」
「あー……いいの、いいの。放っておきましょう」
また酔い潰れてきているし。自分がお酒弱いことを理解しているくせにして、どうして飲もうとするかな。これで何度目だ。まったくもう。なんてエナはため息をつきながら、キリと共に彼が作った夕食にありつくのだった。




