六十六日目
食器を洗うエナのもとにキリがやって来た。おそらくはまたティビー・ウラビのコマーシャルがあっているからだろう。すぐにそのことに気付くと、彼女は恐怖心を煽らないようにして「今日は、何をする?」と訊いてみた。昨日みたいにしてアシェドのお手伝いでもする、と言うか。それとも、文字の練習か。はたまた、本でも読むつもりだろうか。彼の回答を待ってみれば「うーん」と首を捻る。
「今日はなにをしようかな?」
じっと、その薄くて青色の目は蛇口から流れる水を見つめている。この返答の仕方は珍しいと思った。いや、正直言って、驚いた。そういう風にして悩むことはなかっただろう。たとえ、悩んだとしても――その素振りを見せるようにして、少しの沈黙を見せていたのに。
「何したい?」
そう言った返し方が、逆に嬉しくて「どうする?」と訊いてみる。そう言えば、今日の自分の予定は何か。ああ、そうそう。労働者の町の方に買い物へ行こうとしていたんだった。足りないものは? エナは食器を洗い終えると、冷蔵庫の中身を確認した。
「えっと……ああ」
サカキから分けてもらった魚がもうない。野菜はまだあるからいいとして――冷凍保存していた精肉もなくなっている。今日、買い出しに行く予定を立てて、よかった。
「お父さん。今日、下の町で買い物してくるけど、要る物ある?」
リビングでテレビを見ているアシェドに声をかけた。彼は「ああ」と必要な物を思い出そうとするが、特にないため――「ないよ」と答えた。
「買い物って?」
「食料の買い出し。あと、キリに服でも買ってあげようかなって思っているの」
そう聞いたキリは自身の服を見つめた。何度かやってしまう自分の悪癖。それのせいで、新しく服を購入しても、血塗られては――捨てられていたからだ。
「お金足りる?」
「うーん、微妙。いいかな?」
「ああ」
二人は書斎の方へと赴き、アシェドは金庫の鍵を開けて、その中に入っている紙幣を数枚エナに手渡しした。その様子を窺っていたキリに気付いた彼女は「キリ」と呼びかけた。
「今日、やりたいことがないならお母さんと一緒に下の町に行こうか」
「へ?」
「ああ、いいかもなぁ。あんまりキリって店とか入ったことないだろうし」
確かそうだ、と思い返す。二人が知る限りだと、キリはあまり建物の店を利用したことがなかったはず。あったとしても、それは売店だったり、屋台だったり。あるいは理髪店か。それぐらいだろう。
「ついでに、町中の案内もしてあげた方がいいかな?」
というよりも、キリが町中で知っているのは広場や病院ぐらいだろうか。それならば、と顔を見合わせて彼の方を見た。キリの返答は、若干の迷いがあったものの「行く」と答えるのだった。
◆
知らない場所に足を踏みしめる。キリが――エナたちが車から降りた場所は知らない駐車場である。これに彼は首を捻る。役所でも病院でもないこの駐車場は一体? というか、ここは本当に労働者の町なのか。彼女は「こっちに来て」と手招きをした。それにつられるようにして、二人が赴いた場所は――町の商店街。たくさんの店、たくさんの人が行き交う中、キリは不安そうにしていた。
「……ここは?」
騒がしい声がする。広場もそうだったが、こちらの方が騒々しいと思った。思わず、隣にいるエナを見た。この様子のキリを見て、当然か、と思いつつも「怖がらなくてもいいのよ」と安心させるためにそう言った。
「商店街よ。ここでお買い物をするの」
家で散々言っていた『お買い物』。それは車の中での会話でもそうだった。キリは自身の薄くて青色の目を前方へと向けた。
「おかい、もの……?」
「お金は見たことがあるでしょ? 人が生きていく上で必要な物」
キリは頷く。家を出る前に、アシェドが渡していた紙の何か。以前、これがお金だ、と見せてもらったことがある。建物の絵が描かれた紙。それが、人が生きていく上で必要な物だなんて。不思議だ。ただの紙としか思えないのに。
「それと自分が欲しい物を交換するのよ。まあ、私がしているところを見たらわかると思うわ」
彼女は「おいで」とキリを連れて、最初に服屋の方へと入った。店の中へと彼が入るや否や、目を丸くしていた。それもそうだろう。たくさんの服が所狭しと置かれているのだから。エナは「ここは服屋さんよ」と教えてあげた。
「この前に服を汚しちゃったでしょ? ここで新しいのを買ってあげるから、好きなのを選びなさい」
「おれの?」
「そう」
こういうことも必要だ、と思っていた。これまで、自分が適当に子ども服を選んでいたのだから。いくら子どもといえども、キリにはキリなりに好みの服があるはず。そういう服が家にあったってなにもおかしなことではない。その内、身だしなみを気にするようになると思うから。
自由に選びなさい、と言われ、キリは多少戸惑っていた。この中から選べと言われても。正直言って、どれでもいいからだ。適当に服を取ってみる。その横でエナが「お金と交換していないから汚しちゃダメよ」と言ってくるものだから、ちょっとだけ手に取るのが怖くなった。そっと、元にあった場所へと戻す。
悩ましいものだ、と腕を組んで考え出した。これにエナはほんの少しだけ驚いたようにして「キリ」と青色の服を手に取ってみた。
「キリはこれまで着てきた服の中で、一番好きな服はどれだったかな?」
「すきな、服……」
しばし、考えてエナに「今日の服」と答えた。今日、着ている服は紺色のパーカーだ。それを見て、もしかしたらパーカー系統が好きなのかもしれない、と憶測を立てる。
「こういうのとかは?」
近くにあった白色のパーカーを手に取ってみる。その服を見て、キリは「あぁ」と頷くが、別段それが欲しいという訳ではない様子。首を捻って、それはいいかな、とお断りを入れるのだ。だが、欲しい服としてはいい線をいっているようだ。それならば、とエナがパーカーを探していると、店員が「こちらはいかがですか」と勧めてきた。
「この店で人気のある服ですよ」
その言葉に店員が持ってきた服に目をやるのだが、キリはすぐにエナの後ろへと隠れた。そう、店員が持ってきた服はティビー・ウラビがプリントされた服だったから。
「ほら、ティビー・ウラビ。人気ですよねぇ」
「ええ、そうですけど……」
キリの方を見た。彼は絶対に、そちらの方を見るもんか、と顔を背けている。これにエナは「あの」とせっかく勧めてきた店員に申し訳なさそうにする。
「この子、ティビーが苦手なんです。なので、別のキャラクターの物ってあったりしますか? もしくは無地のやつがいいかもしれないです」
エナの発言、キリの不安そうな表情に気付いた店員は「申し訳ありません」と察した様子。すぐに別の商品を勧めてきた。
「でしたら、こちらの無地の青色はどうですか? ファスナーのアクセサリーがお洒落ですよ」
「いいですね」
ほら、もうティビー・ウラビはいないよ、と怯えているキリにエナは促した。ちらり、と青色の服を見る。
「お子さん、青色がお似合いだと思いますし」
「…………」
何の反応を見せないが、店員が勧めてきた服には興味がある様子。じっと服と店員を交互に見て「すきかも」と呟いた。エナはキリが気に入ったならば、とそれを購入するべく「それください」と言う。
「あと、他にありますかね?」
「ええ、もちろんですとも」
その青色の服の他、数点お買い上げ。二人はどこか満足げに店を出るのだった。それから、商店街の色んな店を見て回り――最後にエナはキリをとある店へと案内するのだった。
◆
最後に二人がやって来た場所はセルフサービス型の食料雑貨店であった。キリにとっては家で見たことのある食べ物やそうでない物が大量にあった。今度はこれらとお金を交換するのか。彼はどの店よりも、一番に興味津々で眺めていた。
「勝手に食べちゃダメよ」
もしかしたらば、服屋や靴屋とは違った感覚でやってしまいかねない。信じてはいるが、やられる前に念押しでそう言う。もちろん、その言葉に忠実なキリは「わかった」と頷いた。そうして、エナは近場にあった野菜を選んで見始める。彼はただ隣にいて、陳列された野菜やフルーツたちを見つめているだけ。勝手に食べてはいけない。そう頭の中で繰り返す。そうしていって、彼女は次に欲しい物を選ぶために移動する。その後をキリはただ着いていくだけ。
エナは適当に野菜を取りながら「キリ」と呼びかけた。
「今日は何を食べたい?」
「かーさんが作るなら、なんでも」
そう言われて、逆に悩む。ついに言い出した、アシェドと同様の言葉。よく彼も「何でもいいよ」とか言ってくる。それをキリまでも言い出したというのだ。子どもというのはよく観察しているようなものだ。大人の影響を受けて、それを真似する――恐るべし。
「何でも、ねぇ」
まだ買おうとする食材が決まらない。そうこうしていく内に、二人は精肉コーナーへとやって来た。お肉の歌がどこからか、流れている。なんとも軽快な歌だな、と思いつつも、ずらりと並べられた生肉までもがお出迎え。しかしながら、この歌は覚えやすいのかは定かではないが、常時脳内でリピートされていく。頭の中がお肉の歌で支配され、思わず口ずさみそうになるほど。
やぁねぇ。エナは精肉の値段と財布の中身と彼女自身で相談する。昨日は魚を食べたことだし、自分もアシェドもキリも肉は好きだ。最近作っていない肉料理って何かあったか?
「野菜があるし、肉野菜炒め……あー、野菜って何が残っていたっけ?」
どうしようかな。ミートサンドも捨てがたい。だからと言って、ステーキは、昨日魚と一緒に作って食べた。うーむ――ああ、そうだ。肉巻き! それ用のお肉も二割引きだ!
「そうねぇ、肉巻きも悪くないわよねぇ。お肉安いし……キリ、夕飯――」
キリの方を見ると、彼は己の右手を強く握りしめていた。手が震えている。そこで気付いた。ここは精肉コーナー。小動物の姿がなくとも、それに近い物がここにはたくさんある。
【勝手に食べちゃダメよ】
自分の言葉を思い出す。慌ててキリを精肉コーナーが見えないような場所へと連れ出した。とても申し訳ない。こういうのを彼が知っておくべきだ、と悪癖のことを考えなかった自分がばかだ。エナは未だとして、強く右手を握るキリに「もう大丈夫よ」と言った。
「ごめんね、気付かずに」
あのとき、自分たちが精肉コーナーに来た時点でずっと我慢していたのだ。キリの右手を見ればわかる話。赤く腫れているから。だが、彼は首を横に振った。
「おれは大丈夫だから」
やせ我慢だとわかる。それでも、その気遣いがエナの心に突き刺さる。ああ、なんて愚かな自分だろうか。この子はあんなに我慢しているのに。可哀想な子どもなのに。気が利かない自分はキリの母親としていられるだろうか。嫌な大人だ、と思われていないだろうか。
アシェドは言っていた。完璧な母親にならなくてもいい、と。その言葉に救われてはいるが、不安は大きい。キリはお腹を痛めて産んだ子どもではない。たまたま、行く宛のない子どもを保護して、その子を養子として受け入れただけの里親。
エナが赤く腫れたキリの右手を優しくなでていると――。
「おかあさん、おれ肉食べたい」
そう聞こえてきた。キリの方を見るが、彼は別の方向を見ていた。その視線の先は楽しそうに買い物をする母と子の三人。子ども――姉だろうか。女の子は「えぇ」と反応する。
「お肉は昨日食べたじゃん。わたし、お魚がいいなぁ」
「ねえさん、魚より肉がおいしいよ」
弟らしき子ども――男の子は絶対に肉がいい、と言う。肉と魚、そこで生まれそうな姉弟げんかだったが、彼らの母親は呆れ気味に「はいはい」とわかったから、とその論争を止めた。
「それじゃあ、今日はどっちもしましょうね」
おそらくはこのけんか、こう言った形で止めないと埒が明かないのだろう。母親の判断に子どもたちは「やったあ!」と嬉しそう。そんな彼らのやり取り。キリは羨ましそうにその三人を見つめている。それはエナも同様だった。素直に羨ましいと思う。彼は多少の冗談を言い始めているにしろ、ああいう形での当たり前の買い物はできない。精肉コーナーへ赴くだけで、悪癖の予兆が出始めているのだから。彼女は思う。いつか、あの家族のようにして一緒に買い物ができるといいな、と。
三人は笑いながら会話をしている。途切れることのない、お話。それすらも羨ましい。
呆然と彼らを見ていたが、エナは我に戻った。そうだった、お肉を取ろうとしていたんだった。取りに戻りるのはいい。だが、今のキリだと、生肉を見た時点で――。
エナは「ごめんね、キリ」と声をかける。彼はこちらの方へと向き直った。
「ここでちょっと待っていてくれる?」
「わかった」
キリもどことなくわかっているようで、頷く。エナはその場で彼を待たせ、目当ての肉を選びに行った。元々、今日は肉巻きにしようとしていたから、それ用の肉を。ここからでも見える彼の姿。こちらの方を見て、待ち詫びているようだった。ふと、買い物籠の中を見た。もしも、この籠の中をキリが覗けば? またあの小さな右手が赤く腫れてしまうだろう。それを見せさせないためには――。別に買う予定はなかった箱に入ったお菓子を手に取った。これならば、軽いし、肉のパッケージの上に置いても何ら問題はないだろう。これでよし、とエナはキリのもとへと戻った。
「そろそろ行こうか」
「うん」
エナに促され、キリは小走りで彼女の後を追うと、買い物籠を持っていない左手をそっと、右手で握ってきた。
アシェドは何も完璧な母親にならなくてもいいと言っていたが、それ以外にも――キリにとって最高の母親になればいい、と言っていた。そう、自分はそれを目指しているため、色々と試行錯誤している段階だ。誰にだって、ミスというものはある。
キリを見る。自分を母親として慕ってくれるならば、嬉しいに越したことはない。エナの頬は少しだけ緩む。こちらの手を握ってくれたことに感謝し、彼女は強く握り直すのだった。
◆
食料雑貨店で買い物を終えて、エナとキリは車を止めていた駐車場まで歩いていた。もうお昼だ。それもあってか、工場からお昼ご飯を食べに行こうとする工員たちの姿が見えていた。流石にここから家までは遠い。どこかで食べてから帰ろうか。そう考えていた彼女は荷物を半分持ってくれているキリに「どこかで食べようか」と言う。
「お父さんにもお土産を買ってね」
「どこかで? 食べたい」
と言いつつも、キリは大体この町に来れば広場にあるフルーツサンドとアイスサンドを選択するだろう。それじゃあね、と彼が広場の方を見るのだが――。
「ちょっと待って。トイレ行きたい」
「荷物持って、ここで待っているから行っておいで。そこにあるよ」
「うん」
我慢をしていたのかもしれない。急ぐようにして、公衆トイレの方へと走っていったのだから。
さて、キリはまたフルーツサンドかアイスサンドだろう。自分は何を頼もうか、とエナが考え込んでいると、後ろの方から「こんにちは」というあいさつが聞こえてきた。そちらの方を見れば、もう会えないと思っていたキンバーがそこにいた。
「どうも、お久しぶりっス」
心なしか、ちょっとはお洒落に気を使っているのかもしれない。以前は手に衛生材料を巻きつけていたのに対して、今日は真っ黒な手袋をしていたのだから。
「キンバー君、久しぶりね。元気にしていた?」
「まあ、お陰様で。あっ、荷物重たくないですか?」
キンバーは気が利く子のようだ。優しいとは思う。
「うん、平気よ。今、息子がトイレに行っているから、それを待っているの」
「へえ……あっ、もう退院されたんですか?」
「そうよ。入院中はずっと家に帰りたがっていたみたいでね」
そう言えば、とエナも思う。衛生材料をしていない時点で、怪我は治ったのか、と。それだからこそ、仕事に復帰したのか。あるいは再就職したのか。気になる彼女が訊ねてみると――。
「いや、仕事は……まあ、公には言えないですけど、医療研究っていうやつですかね? 俺、そういうのを先生に頼まれましてね。それでちょこっとの稼ぎをしているんですよ」
どうやら、まだまだ通院しなくてはならないらしい。時間は相当な物らしく、一年以上はかかっているとか。
「それ、大丈夫?」
キンバーは言っていた。家族はいない、と。キリと同じだ。だが、彼の場合は頼れる大人がいないという現実がある。しかも、年齢的に働けるからこそ――保護もされないはず。なんとか支援してやりたいな、と思う反面、キリもいるからそういうことを軽々しく口にできないでいた。
「別に大丈夫っスよ。保険もあるし」
一応は問題ないらしい。「それに」と言葉をつなげた。
「前に教えてもらった学校ですけど、来年あたり入学してみようかなって思っていましてね」
せっかくだから、と担当医にも相談はしたらしい。すでに学校の入学受付、入学式は終えている時期だ。入るならば、来年しかない。エナは「そうなのね」と少しだけ一安心した。
「学校に行くなら、あまり不安はないわね」
「だと、いいんですけどね。でも、色んな資格を採れるっていうなら、もう行くしかないだろって思って」
「それでキンバー君にとって、最良の道になることを願っているわ」
そう、エナは願っている。どうか事故で気を落としているであろうキンバーが幸せになることを。彼のその選択肢が最良であることを。そう言うと、彼は「そうだといいんですけどね」と苦笑を浮かべると――。
「あっ!」
キンバーは病院の方を見て、何かを思い出したようだ。
「忘れてた。今日は昼から定期健診だった!」
急がないと、とキンバーは走り去ってしまった。その場に取り残されたエナであったが、ちょうどトイレからキリが戻ってくる。彼を見て、一目でわかった。
「……キリ、ハンカチ忘れてきたでしょ」
キリの服は水で濡れた跡があった。これに彼は照れた様子で、後ろ頭を掻くのだった。全く、そういうのだけは上手くなってから。
「ないと困るからね。次からは準備万全でね」
「うん」
二人は駐車場へと向かわず、そのまま広場の方へと赴くのだった。
◆
二人が家へと戻ると、アシェドはリビングで手帳に予定を記入していっているようだった。テレビはつけっぱなしの状態で、コマーシャルがあっている。彼らに気付くと、手帳に目を落としたまま「お帰り」と反応する。
「何かいいのあった?」
「うん、色々買っちゃった」
それはエナとキリの姿を見ればわかることだった。二人の両手には抱えきれないほどの荷物があったのだから。どうやら、彼らは買い物を楽しんできたらしい。楽しんできたならば、それはそれで何よりだ。
エナは食料の入った買い物袋をキッチンへと持って行きながら「お父さん」と呼びかけながら冷蔵庫を開ける。
「お昼食べた? 一応、フルーツサンド買ってきたけど」
「うん、朝のスープとクラッカーをな。でも、ちょうだい」
どうも、アシェドはそれだけでは物足りなかったらしい。手帳を閉じ、立ち上がると、キッチンの方へと赴く。そこでお土産のフルーツサンドの入った袋を受け取った。それと入れ違うようにして、キリが「はい」とエナにもう一つの食料が入った買い物袋を渡す。これに彼女は「ありがとう」と受け取る。
それで思い出したこと。ああ、そうだった。本当は買う必要もなかったが、買った物。エナはキリにお菓子が入った箱を渡した。
「一度に全部食べたらダメだからね」
初めて見たらしい。キリはパッケージの箱を見つめながら、首を傾げていた。それには『スタースナック』と表記されている。文字も案外読めるようになってきたようで、彼はその商品名を口に出して読んでいた。ただそれだけ。箱を開けようともせずして、何をしたらいいのかわからないようだった。ここでテレビを見ながらフルーツサンドを頬張っていたアシェドが「これはこう開けるんだ」とパッケージを開けるために、それを受け取る。
視界の端にはティビー・ウラビの再放送だろうか。それのカートゥーン番組が始まった。軽快な音楽と共に、テレビ画面を見ないようにしてキリは箱のみを注視していると、そこから漂ってくるは甘いにおい。フルーツの甘さとはまた違った物だ。箱の中を除けば、パステルカラーで色とりどりの星形の固形物だった。その固形物――お菓子を一口食べた。ふわっと口の中に広がる甘さに頬を緩めた。それが気に入ったようで、手に取って食べる。手に取って食べる。
「どうやら、キリは甘い物が好きみたいだね」
フルーツの甘味でも、お菓子の甘味でもどちらとも大好きらしい。子どもだからか。そうかも? 大体の子どもは甘い物が好き。三度のご飯よりもお菓子こそ至高。それが子どもなのかもしれない。
エナは甘い物が好きならば、とあごに手を当てた。
「だったら、今度久しぶりに焼き菓子でも作ってみようかしら」
「おっ、作る? それなら楽しみだ」
キリの表情が和らげば、二人の頬も思わず緩くなる。彼らは「美味しい?」と訊ねると、嬉しそうに頷いた。すると、彼はエナとアシェドに一つずつ、自分が食べているお菓子を手渡ししてきた。
「おいしいよ」
この行動にエナだけではなく、アシェドの心にも響いた。キリの優しさが素直に嬉しいのだ。なんて優しい子なんだろうか、と。これは、別に二人が教えたことではない。彼が最初から持っていた性格らしい。
お菓子をもらったアシェドはキリの頭をわしわしと力強くなでた。それに満更でもない様子の彼は「どうしたの?」と声音だけは不安げ。
「な、なんか、やっちゃダメなこと、した?」
「いいや、そうじゃないさ。お前がいい子だな、と思ってな」
「……おれが?」
アシェドの言う意味がわからないのか、キリはどこか恥ずかしげにお菓子の箱を見つめる。遠くからはティビー・ウラビの声が聞こえてくる。多分、テレビが気になるからだろう。テレビ画面を気にしながら背を向けていた。見かねたエナはテレビの電源を消すと、彼はほっとした様子で「そっかぁ」と呟いた。これに「そうだぞ」と大きく頷く。
「みんなのことを思っているお前はいい子だってこと。そして、そのいい子には必ず、いいことや幸せなことがやってくるんだ」
必ず、という言葉にキリは「そうなの?」と反応を見せた。彼の目は本当にやって来るの、とちょっとだけ疑り深い視線を向けている。アシェドはもう一度「ああ」と首を縦に振った。
「その幸せって言っても、大きく一度には来ないけれどもね」
キリは唇を尖らせてエナの方を見た。彼女も頷いてあげる。
「小さな幸せって言った方が正しいかな? その心掛けをしているならば、その小さな幸せは積みに積み重なって大きな幸せになるんだ」
「小さな、幸せ……」
「キリはさっき、俺や母さんに優しいことをしてあげただろう? そうすると、ほら。心の中で小さな幸せが入っていった、って思わないか?」
その言葉にキリは自身の胸に手を当ててみた。わかっているのか、わかっていないのかは定かではないが「うーん、うん」と言うだけ。それでも、彼にとっては何かを感じることがあるようで――。
「ふーん、じゃあ……おれ、幸せだ」
柔らかい表情をエナとアシェドに向けてくれた。二人はキリのその顔を見て、だいぶ変わったな、と思う。初めて会ったときから時間は経つが、雰囲気が全然違うのである。
「とーさんとかーさんがいるから」
「キリ……」
「今がおれ、とっても幸せ」
すでにキリはどこにでもいる子どもと変わらない穏やかな面持ちでこの家にいてくれている。それは、見知らぬ大人たちであった自分たちのことを信頼してくれている、という証拠にもなるのだから。思わず、エナは泣きそうになった。
ああ、本当にキリの母親になれてよかった、と。




