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断切  作者: 池田 ヒロ
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二日目

 驚いたようにして、目を開いた。いつもとは違う明るい場所。ここはどこだろう?


「……どこ?」


 ぼんやりと考える。明らかに自分がいた場所とは違う場所。こんな綺麗な場所ではなかったはず。というよりも、着ている服もピカピカだ。なぜにこの場所にいるのかすらも見当がつかない。キリはゆっくりとベッドから下りた。透明な板――ガラスに触れる。ひんやりと冷たい。何だろう、これは。改めて部屋を見渡した。なぜに自分はここにいるのだろう? そんな疑問を抱えていると、茶色い板――ドアが勝手に開かれた。そこからこの部屋に入ってきたのは茶色かかったウエーブの髪の女性――エナだ。彼女はこちらに敵意のない笑みを見せると「よく眠れた?」そう訊いてきた。


「朝ご飯できているから、顔を洗いに行こうか」


「…………」


 思い出した。昨日から、この家に留まることになったんだ。エナが、アシェドが自分を守ってくれるからって。おいで、と言う彼女に黙って頷き、後を着いていくのだった。


 自分の部屋の隣が洗面所。昨日と相変わらず水が落ちているのを薄い黄色の桶が受け止め、更にこぼれるのを白い桶が受け止めて。それに空いた穴へと水は流れていく。エナが銀色のレバーを引いてくれた。薄い黄色の桶の真ん中から穴が空き、水はこぼれる。


「こうして、顔を洗うのよ」


 やり方を教えてくれた。キリは見様見真似で顔を洗う。水をこうして使うことを初めて知った。昨日もそうだ。手を洗うために使った。顔を洗い終わると、エナは昨日と同じような白いタオルを渡してくれた。ふわふわして気持ちがいい。自身の顔についた水気を落とし、それを見る。ただ、濡れているだけだった。昨日と違って、茶色くならなかった。


「拭いたら、行こう」


 タオルを返し、促されるがままダイニングの方へと赴いた。そこには金色の髪を持つ男性――アシェドが「おはよう」と青色の何か――連絡通信端末機を握っていた。


「昨日は眠れたか?」


「…………」


 何も答えてくれない代わり、表情でなんとなくわかるような気がした。一応は眠れたが――と何かを気にしている様子。いや、多分怖い夢でも見たんだろうな。あまり訊かない方がいいかもしれない。そう思ったアシェドは「食べようか」とキリの席を指差した。彼は黙って自席へと座る。今朝のメニューはフルーツスープに野菜炒めだった。そう説明をするエナをよそにキリはさっさと食べようとするが――。


「待ちなさい」とアシェドは苦笑い。


「そんなに急がなくても、ここにある食べ物は逃げたりしないさ」


「…………」


 待ちなさい、と言われてキリは眉根を寄せながら手をテーブルの上に置いた。本当は早く食べたいのに、という不満げな顔。それを見たエナは肩で笑いながら「正しいテーブルマナーを教えてあげるわ」とフォークを差し出した。それをおずおずと受け取り、じっと眺めた。ということは、使ったことがないという証拠。それもそうだ。昨日の野菜スープはスプーンを置いていたのに使わなかったのだから。


「キリ、これはフォークと言って、こう使うんだ」


 持ち方をキリに見せ、野菜炒めを取って口に運んだ。それを見て、慣れない手付きで野菜炒めを食べ始める。当然、扱い慣れないため、ぼろぼろとこぼしてく。これに苛立っているようで、フォークと皿の中身を交互に見ていた。お腹が空いているのに、なかなか食べられない。不満は大きい。もう、いっそのこと手掴みで食べようとするのだが「こらっ」とアシェドは睨む。


「苛立つのはわかるが、これはフォークで食べなさい。誰もがこれを使って、食事をするんだ。そして、スープは昨日みたいな飲み方をしてはいけない。スプーンを使って飲むんだ。ほら、こうして」


 今度はスプーンを手にしてフルーツスープを飲んで見せた。それを見て、キリは怪訝そうにフォークからスプーンへと持ち替えるとやって見せた。先ほどとは別にまた違って、難しいようだ。手が震えて、すくったスープがぼたぼたとこぼれる。


「…………」


 飲めないスープを前にして、キリはスプーンをテーブルに置いた。これを見かねたエナであったが、アシェドは許さないつもりだった。


「こういうとき、甘やかしちゃダメだ。キリのためにならない」


「……でも」


「キリはフォークもスプーンも知らないまま生きてきたんだ。人として、生きていくには必要な技術だし、当たり前のことなんだよ」


 そう言うと、キリの方を見て「あのな」と。


「最初は誰もできないことでもあるんだ。ゆっくりでいいから、フォークとスプーンを使って食べなさい。俺たちはキリが食べ終わるまで待ってあげるから」


「…………」


 その言葉にキリはスプーンとスープを見ると、それを手に握った。ぎこちなさは目に見えているが、なんとかスプーンでフルーツスープを飲もうとしていた。ほとんどこぼしてはいるが、少量の物は口に入ってくる。こんなに美味しいのに、普通に食べられないなんて。アシェドの言葉が心に深く突き刺さっているのかもしれない。これらが扱えないのは普通じゃないことを知らなかったのかもしれない。なかなか食べられないことが非常に腹立たしい、とでも言うようにして彼は眉間にしわを寄せた。キリは必死だった。フォークに野菜を乗せて、手を震わせながら――こぼしながら口へ運ぶ。ぼろぼろぼろぼろとこぼすのは食べ物だけではない。彼自身の涙もだった。


「キリ……」


 エナは不安そうに二人を見た。アシェドは首を横に振って、キリにフォークとスプーンを使わせようとしている。ぼたぼたとテーブルに涙を落とす。少量の食べ物が口に運ばれていく。それらを噛みしめる。そうしていく度に、彼が思うことは何かに対する憎悪か。何かを恨んでいるように見えた。その憎悪は見守っているだけの彼らにも気付いた。この怒りはなんなのか。上手く食器を扱えないから? それだったら、すぐにでも投げて食べないとか言い出すだろう。


「……で……」


 野菜を噛み、飲み込んだキリは何かを言った。それは何を言いたかったのか、と二人が顔を見合わせていると――。


「……なんで……おれに、当たり前が……」


 そう言った。キリはフォークを握りしめながら「どうして」とすすり泣く。これは彼の限界か。だが、「ぜったい」と歯を食い縛りながら野菜を取った。


「あ、たりまえ……手に……入れて……!」


「…………」


「…………」


 キリの宣言に、二人は何も言えなかった。


     ◆


 それから、約一時間三十分をかけてキリはフォークとスプーンを使って食事を終えた。彼の目は泣き腫らした後があって、鼻も赤かった。だが、きちんと食器を使って食べたことにアシェドは力強く頭をなでる。


「偉かったな、キリ。本当は手で食べたかっただろうに」


 キリは首を横に振った。もう彼は手掴みで食べたいとは思わないらしい。なぜって、それは非常識だから。当たり前ではないから。もしかしたら、人として当たり前の人生を送りたいのだろう。


「おれ、がんばる」


 その言葉に「そうか」と頷いた。


「大丈夫だ。キリなら、ちゃんとフォークとスプーンは扱えるようになるよ」


 キッチンで洗い物をしていたエナも安心したのか、表情が柔らかくなっているのだった。


 さて、食事には時間がかかってしまったが――どうせ、まだ外に出られないのだ。それに時間はたっぷりある。食休みということで、テレビについて教えてやろう。どうもキリはそれの存在を知らないらしい。不思議そうに、真っ暗な画面を指で突いているのだから。


 アシェドは「キリ」とリモコンを手に取った。


「テレビを見ようか」


「…………」


 やはり知らないらしい。首を傾げて自分が手にしているリモコンを物珍しそうに見ているのだから。


「その真っ黒いところを見てろよ? 人が出てくるから」


「え」


 そう電源を入れるのだが――。


《わぁ、美味しそうですねぇ》


 テレビ画面には人ではなく、食べ物が映っていた。真っ暗な画面から何か映し出されることにキリはびっくりしていたようだが「人じゃない」とどこか残念そう。いや、こちらとしても残念ですよ。まさか、テレビをつけたら食べ物が映っているとは思わなかったし。エナの方を瞥見すると、彼女は笑っているのが見られないようにしてそっぽ向いていた。肩は震えているから、絶対笑っているだろ。アシェドは真っ赤な顔を隠すようにして、気を取り直すように「テレビとは」と説明する。キリは画面と自分を交互に見てきた。


「テレビは常に情報を発信してくれる物なんだ。ほら、こうして美味しそうな食べ物の情報をこの人たちは俺たちに教えてくれている。な?」


 画面を見ながら頷いてくれるが、少々テレビに近付き過ぎだ。アシェドは「目が悪くなるぞ」と少し画面からキリを離した。彼は膝を抱えて画面にくぎ付けだ。流石はテレビ、と褒め称えたいところだが――ずっと見せるのはよくない。これは昼食まで流しておくことにして、午後からはそうだな。文字の練習でもさせよう。昨日の本で文章を少し興味深そうに見ていたのだから。きっと、本好きになる子なのかもしれないし。


「キリ、ここを押してみな」


 リモコンをキリに持たせて、番組を替えさせてみた。今度は人の姿が映った。ニュースか。どうも王都で事件が遭ったらしいが、番組を替えられる。こちらは動物園の紹介の番組か。ド派手な羽を持つ肉食鳥獣『ライオン』が鳴いている。ライオンがいる檻の傍らにいるリポーターがビビっていた。彼は番組を替える。あら、動物好きだと思っていたが、興味を示さなかったか。今度の番組は同じくニュース。アナウンサーと専門家が討論をしている。番組を替えた。実演販売の番組だ。焦げつかない鍋を紹介していて、エナが反応を見せているが、キリに番組を替えられてしまった。ちょっと残念そうに洗い物を再開する。次は新築の家を紹介している――これはコマーシャルか。どうでもいいらしい、番組を替えた最後――。


《やぁ、ぼくはティビー・ウラビさ!》


 今も昔もやっている子ども向けカートゥーン番組だった。老若男女と人気者キャラクター、ティビー・ウラビ。これにキリは興味を示したようで、リモコンを持ったまま画面を凝視。


《ハハッ。今日はティリー・ウラビの家に遊びに行くんだ。彼女、花が好きでね! ホホゥッ! なんだい、マーズ。ダメだよ、今日はティリーの家に行くんだ。きみはうちでお留守番だよ》


 先ほどまで本物が映っていたのに、今度は絵が動いているのだ。そりゃ、興味も示すか。もし、このカートゥーン番組を気に入ったならば、テーマパークにでも遊びに行ってみるかな? ああいうの、絶対に喜ぶだろうな。そう思ったアシェドはエナに「今度、テーマ―パークに遊びに行くか?」と耳打ちをした。これに彼女は大賛成。


「いいわね、きっとキリも喜ぶわ」


「だな。早いところ、外出許可が下りればいいんだがなぁ」


 なんて嘆く二人をよそに、キリはティリー・ウラビのカートゥーン番組に夢中になっているのだった。


     ◆


「キリ」と肩を叩くまで、キリはテレビの画面に夢中だった。すでにティビー・ウラビのカートゥーン番組は終わっていたが、後続番組をぼんやりと見ていたのである。エナに呼ばれて、彼はそちらの方を見た。


「キリ、お昼ご飯ができたよ。食べよう」


 その誘いにキリは首を捻った。ご飯と聞いて「え?」と声を上げる。


「ご飯……食べた……の、に?」


「食べたって言っても、朝しか食べていないよ。もうお昼よ。お昼ご飯を食べるの。そして、夕方になれば、夕ご飯を食べる。人は一日三回ご飯を食べるのよ」


 そう説明するも、より一層首を捻る。この説明を理解しがたい、ということは――キリの食事は一日に一回。もしくは、一回でも食べられたらいい方か。彼はどれぐらいの極限状態でここまで足を進めてきたのだろうか。


「キリは一日三回のご飯は食べられそうにない?」


 もしそうならば、無理やり食べさせないで、慣れるまでキリの食生活に合わせた方がいいだろうか。なんて愁眉を見せていると、彼はダイニングテーブルの上に並べられた食事を見て首を横に振った。顔の表情からして、食べたそうに「食べる」と言った。これにエナは嬉しかった。


「じゃあ、食べましょう。お昼はキリでも食べやすい物よ」


 そう聞いて、キリは自席に着いた。目の前に並べられた物は米と野菜、果物を炒めた料理である。嗅いだことのない、美味しそうなにおいが彼の鼻を突き抜ける。彼はアシェドの方を一瞥すると、置かれていたスプーンを手に取って食べてみた。なるほど、エナの言った通り食べやすい物だ。まだまだスプーンの扱いには慣れていないからぼろぼろこぼれるのだが、朝のスープよりはこぼしていない。一口頬張ると、少し強張っていた表情は綻んだ。朝よりも普通に人として食べられる。これは実に好ましい状況だった。柔らかい表情を見せるキリに「美味しい?」と訊ねると、彼は「うん」と初めての笑顔を見せた。余程美味しいらしい、食べるペースは少しだけ早い。二人は互いに視線を合わせると、思わず笑みをこぼした。そんな彼らを傍から見てキリは小さく首を傾げるのであった。


 あっという間に昼食を平らげた。満足そうに小さく息を吐くと、この後どうしたらいいのかわからない様子で何も載っていない皿とアシェドを交互に見る。それにエナは「食べ終わったら、片付けをするのよ」と自分が使った分の皿をキッチンの方へ持っていくように促した。


「洗うのは私がするけれども。もしかしたら、いつかはキリに任せるかもね」


「……うん?」


 食器は優しく置いてね、という指示のもと、キリはキッチンに皿を置くと――次に食べ終わったアシェドが「そっちのリビングの方で待っていなさい」と食器を片付けに来た。言われた通りに、リビングの方へと赴き、膝を抱える。体はテレビの画面だ。またテレビでも見せてくれるのか。そう思っていると、アシェドは一冊のノートとペンを持ってきた。それは一体何?


「今から……というか、これからもだけれど、キリに文字を教えるからな」


 キリは小さく頷く。その反応を待っていたアシェドは一ページ目を開いて、何かしらの文字を書いてあげた。その書いた文字を見せながら「なんて書いたかわかるか?」と少しいたずらっぽく訊いてみた。もちろん、文字を知らないはずの彼は眉根を寄せて考え込む。その考える時間、かなりかかりそうだと見込み「ヒント」とペンを差してきた。


「この家にいる誰かのことです」


「…………」


 この言葉にキリはなんとなく、と言わんばかりにこちらを見てきた。それが答えだろうが、答えるというのは無言ではいけない。そう考えているアシェドは「誰なのか言ってごらん?」と言葉を待った。ややあって、彼が言いづらそうに「とーさん?」と答えた。その回答に「残念、違う」と嬉しそうに返す。それならば、と洗い物をしているエナを横目で見て「かーさん」と言う。これにも「残念」と笑みを浮かべているではないか。これでわかったこと。この家にはアシェドとエナ、そして――。


「お、おれ?」


「『おれ』の名前は?」


「き、キリ……」


 キリが自分の名前を言うと、アシェドが「大正解!」とどこか嬉しそうにペンを渡してあげた。


「これがキリの名前だ。せめて、自分の名前だけでも書けるようになろうな」


 真似して書いてみて、と促す。握ったこともないのか。ペンを不慣れながらも、教えてもらいながらも、ゆっくりと自分の名前である『キリ』を書いてみる。やっとの思いで書けた自分の名前はアシェドが書いた文字よりも到底及ばないような字だった。全く似ていない字体にキリは悔しそうな表情を見せた。これもきっと当たり前。それができない。できそうにないから悔しい。彼の気持ちが伝わってきたのだろう。唇を尖らせているキリにアシェドは「何度も書いてみようか」と言った。


「何度も書けば、すらすらと書けるようになるさ」


「こっちもいいの?」


 ぺらり、とキリが次のページを捲りながらそう訊ねた。これに「もちろんさ」と大きく頷く。


「なんだったら、ページずつに見本を書いておこうか。とりあえず、ここまで書いておくから終わったら次の文字を教えよう」


 キリはこくりと頷くと、早速自分の名前を書く練習をした。そうして、彼が二ページぐらい書き終えた頃に家の呼び鈴が鳴った。その音に肩を強張らせて、周りを見渡す。何の音なのか。不安がっているようだ。突然の呼び鈴にアシェドは玄関の方へと行こうとするエナを止めて「俺が行くよ」とキリの傍にいてあげるように言った。もちろん、彼女は「わかった」と返事をすると、不安がっているキリに「大丈夫よ」と言葉をかけた。


「この音はね、お客さんが来たことを教えてくれるの」


「だれか、くるの?」


 キリの目はとても怖がっているようだった。


「怖くないよ。悪い人じゃないと、思うけど……」


 断言はできそうにない。エナは昨日アシェドが言っていた村人を殺した猛獣のことが頭に引っかかっていたからだ。まさか、その猛獣が呼び鈴を鳴らすことはないと思うが――。


 一方で、呼び鈴が鳴り、玄関を開けたアシェド。その扉の向こう側にいたのは白髪交じりにくわえタバコの中高年男性だった。昨日、猛獣狩りに慟哭山の方へと行った村人たちの一人だったはず。彼は喪服を着て「どうも」と不愛想。確か、彼はカワダという村人だったはず。自分たちが一度あいさつをしてきたとき、とても不愛想に返していたことを思い出した。


「こ、こんにちは、カワダさん」


 何しに来たのだろうか。


「デベッガさん、ちょっと大声じゃ言いにくい話なんですけど」


「は、はい」


「村長さんの息子さんが殺されてね。今日、息子さんの葬式があるのよ。デベッガさん、あまり関わりがなかったかもしれないけど……顔だけ出してもらえたらいいんだけど」


「も、もちろんです。けど、外に出てもいいんですか? 昨日、外に出ちゃダメって……」


「葬儀だし、問題ないって。なんだったら、こっちが会場まで送るよ」


 そう言うカワダの後方にはトラックがあった。ああ、なるほど。これならば、多少の安全は確保できるということか。


「それに、村長さん家はあんまり広くないからね。乗り合わせて行った方がいいと思うし」


「ありがとうございます。あの、私、喪服に着替えますので、中の方に――」


「悪いね」


 少しだけ苦笑を浮かべたカワダだったが、タバコは中に入れるべきではないな、と気付いたらしい。携帯灰皿を取り出して火を消した。


「じゃあ、お邪魔します」


「こちらにどうぞ」


 カワダを家の中へと招き入れ、リビングの方へと案内した。アシェドは「すみません、散らかっていますけど」と言い、リビングへと通す。誰かがやって来た、ということに文字の練習をしていたキリは手を止めたようだった。彼はじっとこちらを見ている様子。そんな奇妙な空気が漂う中、エナが「こんにちは」とあいさつをする。


「ちょっと、お待ちくださいね。お茶でも淹れますので」


「お構いなく」


 立ち上がるエナ。彼女の後を追うようにしてキリも立ち、キッチンへ。客人と言っても、人間不信の状況の中、ここにいろというのは可哀想か。アシェドは「それじゃあ、着替えてきます」と寛ぐよう言うと、エナに軽い事情を説明してどこかへと行ってしまった。カワダはその言葉に甘えるようにして、適当に胡坐を掻いた。ちらり、とキッチンの方を見ると、そこにはポットを手にした彼女だけしかいなかった。あの茶色い長髪の子どもはいない。視線をテーブルの上に戻した。おぼつかない字で書かれた文字『キリ』。あの子どもの名前か。


 ぼんやりとノートの字を眺めていると、お茶を淹れてきたエナが「散らかっていて、すみません」と苦笑い。


「どうぞ」


「すんません」


 早速、一口飲む。二口飲んで「さっきの」とエナが手にしているノートをあごで差した。


「おたくら、子どもいましたっけ?」


「え、えっと……」


 黒の皇国から来た孤児なんて言ってもいいのだろうか。いや、言わない方がいい。それならば、なぜに早くに児童保護センターに連れていかないのか、と問い詰められるかもしれなかったから。それだからこそ、エナは気分の悪い顔をしながら「知り合いの子です」と嘘をついた。


「知人が、仕事らしくって。それで、あの子をしばらく預かっているんですよ」


「なるほどね」


 カワダはカップに残っていたお茶をすべて飲み干す。ちょうど、と言っていいタイミングでアシェドが「お待たせしました」と喪服姿で現れた。


「すみません、時間がかかってしまいまして」


「そんな時間はかかっていないですよ。じゃあ、行きましょうか」


「はい。――ごめん、エナ。帰りは遅くなるかもしれないから夕飯はキリと……って、あいつは?」


 いつの間にかキリがいなくなっていることに気付いたアシェド。そんな彼にエナは困ったような表情を見せながら「部屋じゃないかしら?」と言う。できることならば、行ってきますと行ってらっしゃいについて教えてあげたかった。だが、あまりカワダを待たせられないだろう。こればかりは仕方ないとして「そっか」と少しだけ残念そうに「じゃあ、行ってくる」と家を出て行ってしまった。


 二人を見送ったエナはキリの自室へと赴いた。そこで彼はベッドのかけ布団にくるまりながら震えていた。人間不信でだろうか。彼女は「キリ?」と優しく呼びかける。


「あのおじさん、お父さんと行ったよ。家にはもういないよ」


 その言葉にそっと顔を覗かせて「とーさんは?」と不安そう。もしかして、カワダを悪人として見てしまっているのか。それならば、誤解を解かなければならないだろう。エナは「違うよ」とキリのもとへと近付く。


「カワダさん、怖い人に見えるかもしれないけど。そんなことないよ。きっと、キリにも優しいはずだから」


「…………」


「それとね、お父さんは村の人のお葬式があるから、帰りは遅くなるんだって。先にご飯を食べていようね」


「とーさん、かえってこない?」


「ううん、帰ってくるのが遅くなるだけよ。お葬式、って言うのは死んだ人のお別れ会みたいなものだから時間がかかるの」


 それを聞いて納得したのかは定かではないが、もそもそとかけ布団から出てくると、エナをじっと見た。少しは安心したかな?


「おいで、戻って文字の勉強をしよう」


 キリは無言で頷くのだった。


     ◆


 硬い座席で少しだけ気分は悪かったが、文句は言えない。タバコ臭がするトラックに揺られながら、車道へと出た。アシェドの家は村――鬼哭の村の少しはずれたところにある。一方でカワダは村の集落に住まう者。何度か集落の方へと赴いたことがあるが、村人のほとんどが愛想のない人たちばかりだったのが印象深い。なんというか、閉鎖的な村とでも言うべきだろうか。それでも、多少なりとも自分たちは新規入居者として歓迎されていると思いたかった。実質、その通りではあるようだ。好ましい状況ではないのだが、村長の息子の葬式にこうして招かれているだけでもありがたいのだから。


 木々に囲まれた車道を見ていると、カワダが「子どもを怖がらせちゃったみたいだな」と苦笑いをした。その言葉に確かにそうだったのかもしれない、と心の中では思いつつも「すみませんでした」と謝罪をする。


「人見知りでして。そうならないようにしっかり躾をしておきますので」


「そうかい」


 そう反応してくれるが、沈黙が訪れた。ややあって、アシェドは「村長さんの息子さんって」と話題を変えた。


「昨日の猛獣が原因ですか?」


「……そうだ」


「…………」


「…………」


「村長さん、さぞかし悔しいでしょうね」


「かもな。村長さん自体もやられて大怪我だし」


「え」


「…………」


「…………」


 会話が続かない。だが、そちらの不安よりも村長の息子が猛獣にやられて、本人も大怪我を負っているだと? 外出許可は下りていない、ということはまだその危険生物は仕留められていないということになる。家に二人を残してきたが、家の中が安全とは言いがたいだろう。それでも、許可が下りるまで外に出るな、という指示をエナが破ろうとするはずはない。


 カワダとの会話があまり続かない中、村の集落が見えてきた。いつもであるならば、農具やその農業機械を動かしている村人の姿があったのだが――今は有事だ。色んなことが重なりに重なって、農業に勤しんでいる場合ではないだろう。


 がたがたと舗装のされていない道を通りながらも、村長の家へと着いた。家の前には数台の車が縦列駐車されているようだった。トラックから降り、玄関の方へと赴く。そちらの方には村長の奥方が式に参列する村人たちに頭を下げているようだった。当然、式に参列するために来たアシェドにも頭を下げる。


「お悔やみ申し上げます」


「……ありがとうございます」


 身内は彼女だけなのだろうか。化粧っ気が一切ないやつれた顔をしている。喪服もぴしっとは着ていない。少しだけだらしない、という印象が強いが――子どもを失ったショックだからなのだろう。アシェドは頭を下げ、村長宅へと足を踏み入れた。これで二回目だ、と心の中で思う。一度目はこの村に越してきたからというあいさつ。まさか、二回目にして彼の息子の葬式だと思うまい。


 カワダの後を着いていくようにして、村人たちが集まっているところへとやって来た。自分の姿にその場にいた者たちは視線を向ける。痛い視線、これに肩を強張らせた。だが、彼らはすぐに興味を失くしたようで「カワダさん」とカワダだけを手招きする。なんだか、仲間外れな気がして。部屋の隅に座って、俯くことしかできなかった。まさか、こんなところで連絡通信端末機を弄られないし、話しかけに行くなんてできそうにもなかった。なんなのだろうか、あの雰囲気は。居心地が悪い、と思いながらも、村人たちの話に耳を傾ける。


「あれ、まだ見つかっていないんだろ?」


「そうだけどな……なぁ」


「厄介だよな。いつ、何時現れるかわからないって……ガキはうんざりだろうよ」


「俺たちだってうんざりだ。ろくに畑仕事もできなければ、女房を下の町の工場に送っていかなきゃならんなんて」


「そうそう、村の方の工場があればな。まだよかったんだけど」


「本当、あれには困ったもんだよ。早いところ、仕留めなきゃな」


「おうよ」


 ずっと下ばかりを見ているのも首がつらい、と思うアシェドがそっと顔を上げてみると――村人全員がこちらを見ていた。怪訝そうな目付きで。なんだ、その視線は、と感じる。彼らは自分に何かしらを訊きたいようには思えるが、こちらから訊いてもいいものだろうか? そもそもが不愛想な村人たちだぞ? 部外者にはとことんつんけんな態度を取っている彼らだ。訊いたところで「何もない」とはぐらかされるのがオチだ。だとしても、その視線に耐えきれなくて部屋を出た。先ほどまで静かだったのに、こちらが姿を見せなくなると、会話を始めているではないか。なんとも後味の悪い。


 しかしながら、部屋を出たからと行っても、どこへ行けばいいのやら。あまり、家の中をうろうろするのも気が引ける。だからと言って、外で時間を潰すのも――怖い。適当に足を動かしていると、人の声が聞こえてきた。声からして大人のようだ。


「そう言えば、カワダさん、デベッガさんを連れてくるって言っていたってよ」


「そりゃ、なんでまた? 別にデベッガさんがいなくても問題ないのにか?」


「知らないよ、そんなことは」


「まあ、でも奥さんって、美人だよな。あれかね? 王都出身って美人が多いのかね?」


「おいおい、滅多なこと言うなよ。女房に耳を引っ張られるぞ」


「おぉ、怖い」


「……まっ、デベッガさんとこの奥さんも美人だけど、俺的にはキイチの嫁かな? ありゃ、テレビの中でしか見られない美人だろ」


「あぁ、なるほどな。綺麗な人だったな」


 足を止めていたアシェドであったが、後ろから肩を叩かれた。唐突なことにびっくりした彼は振り返る。そこにはカワダが立っていた。タバコの入った箱を出しながら「デベッガさんも吸うのか?」と訊いてくる。


「喫煙所、そこだから」


「あっ、い、いえ。私は、タバコは――」


 タバコも酒も飲めないから、やんわりとお断りするが「どうせヒマだろ」と喫煙しなくていいから、話がしたい、と会話をしている彼らのもとへとやって来た。噂をしていた二人が登場するものだからか、声の持ち主たちはそそくさとその場を退散する。そんな彼らを横目で睨みつけながらタバコに火をつけるカワダ。


「居づらいだろ、デベッガさん」


「は、はあ、まあ……」


「そりゃあな、この村に知り合いが一人もいなけりゃあな。嫌煙されるし。でも、デベッガさんが村長さんの息子さんの葬式に参加する権利ぐらいはあると思うけどな。俺は」


「あ、りがとうございます……」


「に、しても……あの野郎。残念だったな。この村じゃ美人と言われる奥さんは家で子どもの面倒だからな」


「ええ、まあ。一人にしておくのはちょっと、と思いましてね」


「なるほど。あの子って女の子でしょ? ちらっとしか見なかったけど」


「いえ、男の子です」


 そう答えると、タバコの灰を落としていたカワダは無言になった。それもそうだろうな、と驚愕する顔は否定しない。なんせ、こちらも女の子に見えるとは思っていたのだから。


「髪、女みたいにして伸ばしていなかったか?」


「あっ、えっと。ここじゃ、少し言いにくいんですが――」


 キリが黒の皇国からやって来た孤児だということを説明した。この説明にカワダは更に驚く。だが、アシェドにとって、その反応は想定内だ。誰だって、びっくりするはず。突然、家に異国の孤児が現れるだなんて。


「本当は児童保護センターに連れていってあげたいんですけど。ほら、慟哭山に猛獣がいるから外に出られないでしょう? 早いところ、くたばればいいんですがねぇ」


「センター?」


 片眉を上げながら、紫煙を燻らせた。そのおうむ返しにアシェドは大きく頷く。


「あの子、行く宛がないらしくて。それで、もしよかったら私たちの子にならないかって訊いたら、頷いてくれましてね。ただ、あの子を養子として受け入れるにはその児童保護センターってところで養子受入許可証を得ないと、ダメらしくて」


「……なんでまた、その子どもを?」


 アシェドはエナが、子どもができない病気だから、と説明した。その説明をした上で、納得はしてくれてはいるようだ。


「行って、判断してもらわないとわからないんですけれども。多分、大丈夫とは思うんですよね」


「ふうん? それで、子どもを養子として受け入れたら? 王都に帰るのか?」


「いいえ、私たちはここに永住を考えてはいるんですよ。元々、農業に憧れて、こちらの方に越してきたんですし」


「それ、子どもも納得してる?」


「はい。ただ、子どもは十四歳ぐらいになったら就職か学校かって考えているんですけどね」


「……というか、子どもを拾ったなら、外出許可とかうんぬんよりも早くそのセンターとやらに行った方がいいと思うけどな」


 もっともなことを言われた気がした。だが、本当に外に出ていいのかもわからない状態で、勝手にしていいのかわからなかったのだ。それだからこそ、許可が下りるまで家にいるつもりだったのに。


「今日、行っても時間はかかるか。そのセンターとやらは」


「最寄りが労働者の町だそうで」


 だろうな、とカワダは短くなったタバコを灰皿に押し当てた。二本目を取り出して、火をつける。


「今から行っても、かなり時間がかかるしな。いや、どこへ行こうにもか。じゃあ、明日行くといいよ。他の連中とかには俺が上手く言っておきますし」


 その言葉にアシェドは「ありがとうございます!」とやっと穏やかな表情を見せた。よかった、これでキリがうちの子になれるかもしれない。これで健康面に不安な彼の状態もわかるかもしれない。カワダが自分の味方になってくれてよかった。


 安堵した表情を見せる中、一人の女性が「いたいた」と喫煙所にいる二人に声をかけた。


「式が始まるそうなので、裏庭の方に来てくださいって」


 その言葉に二人は裏庭の方へと赴くのだった。


     ◆


 アシェドが家に帰宅したのは夜だった。カワダに担がれて。彼は出迎えてくれたエナに申し訳なさそうに「すんません」と謝罪をする。


「旦那さん、酒に弱かったんですね……」


「あらら……」


 酒に酔って、担がれてアシェドは眠っていた。珍しい、とエナは苦笑い。タバコも酒もダメだからどんなことがあろうとも断りを入れていたこの人が、である。余程、何かあったのか。そう思っていると、寝室まで運んでくれるというカワダが「奥さん」と声をかけた。


「子ども、明日には何ちゃらセンターに連れていってあげてくださいね」


 その言葉に動揺した。もしかして、酒に酔った勢いでキリのことを言ったのか? おずおずとカワダを見ると「すみませんでした」そうばつ悪そうにする。


「私、カワダさんに嘘を言ってしまいました。何していたんだ、って言われるのが怖くて……」


「まあ、色々と重なってしまったからなぁ。仕方ないでしょうね――っと」


 そっとアシェドを寝室のベッドに寝かせ「それじゃあ」と玄関の方へと行くが、何かを思い出したように「そう言えば、子どもは?」と訊ねた。


「もう寝たのかな?」


「ええ、もうこんな時間ですし」


「なるほど。じゃあ、お邪魔しました」


 カワダは片手を上げると、トラックに乗り込み――エンジン音を上げながらデベッガ家を後にした。窓からカワダを見送るエナであったが、酒の席があったならば、アシェドは酔っぱらっていたのに。あの人も多少は席なら飲むだろうし――。


「まさかね、お酒は苦手なのかも」


 そう勝手に解釈するエナではあったが、実はカワダ――飲酒運転で自宅の窓にトラックで突っ込んだことを彼女たちは知らないのであった。

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