六十三日目
自分の家を見て、キリは安心したような面持ちでいた。やっと、退院できたのだ。長かった、と愚痴っていた。その横で入院中に出た荷物をエナは家の中へと運び込む。家の中へと入り、キリはリビング、キッチン、アシェドの書斎、自分の部屋、洗面所とぐるぐる回っていた。余程、この家が恋しかったのか。そうだとしても、ちょっとはお手伝いしようね。
「キリ、本とかノートは自分の部屋に運びなさい」
「うん、わかった」
そう促されて、玄関に置かれた図鑑や文字の練習に使っていたノートを取って、自分の部屋へと運んでいく。そこでエナは思い出した。そう言えば、と。キリの部屋――すなわち、元ゲストルームに本棚はなかったはずだ、と。彼女は洗濯物を洗面所へと置くと、彼の部屋を覗いた。
一目見て思う。早めに本棚を買ってあげなければ、と。部屋のテーブルへと乱雑に置かれた絵本と図鑑、そしてノート。文字の練習をするたびに増えていくから、今では八冊目だ。というか、アシェドの書斎から借りてきた本も借りっぱなしみたいだ。ああ、これはキリが入院したからなのかもしれない。あの日から昼間はほとんど病院にいたから。帰ってきて、夕ご飯を作って、洗濯をすれば――掃除をする気なんて起きやしない。おそらく、アシェドだって、畑仕事があるから掃除していないはず。廊下の床を見た。泥だらけの足跡。砂埃が溜まっている。
これは自分の怠慢だ、と言い聞かせる。運んだことに少しだけ誇らしげなキリに「お父さんの手伝いに行っておいで」と言った。これに彼は「わかった」と大きく頷くと、アシェドのもとへと行ってしまう。
家の中で一人だけとなり、家中に響くほどの盛大なため息をつくと――。
「午前中に終わらせてやるんだから!」
ほうき、モップなどを手にして、鬼のように掃除をし始めるのだった。
◆
エナが必死になって床の泥や砂埃を落としている頃、キリは草むしりをしていた。ぶちぶちと雑草を抜いていく。アシェドは言っていた。雑草は抜いても、抜いても生えてくる厄介者だ、と。草むしりをしている場所は入院する前と同じ場所である。
「ぬいても、ぬいても」
アシェドは別の場所で作業をしている。独りでいるからこそ、その寂しさを紛らわすために独り言を呟く。
「ぬいても、ぬいても」
手が泥だらけになっても構いやしない。どうせ、あとで手を洗えばいいから。
「ぬいても、ぬいても」
雑草は食べたらダメだよ、とアシェドとエナに教わった。当り前じゃないから。それと、図鑑にもこの雑草のことは載っていた。人が食べるものじゃないってさ。
「ぬいても、ぬいても」
ぶちぶちと抜いては邪魔にならないような場所へと放り投げる。ぽいぽいと後ろの茂みの方に投げ込む。がさがさと音を立てる。
「ぬいても、ぬいても――」
そうしていると、別の茂みの方から物音が聞こえてきた。その物音がする方を見ると、こちらへと首を傾げるようにして見てくる一匹の小動物。思わず、生唾を飲み込むが――。
【そういうことしたらダメよ】
当たり前ではないことをしてはいけない。当たり前が欲しいから。その思いに右手を抑え込み、視線を逸らした。まだ小動物の気配はする。見てはダメだ。見ないで、見ないようにして――そうだ、草むしり。視線を逸らしたまま、草むしりを再開した。
「ぬいても、ぬいても」
見てよ、こんなに草はあるよ。ちゃんと抜かないとね。
「ぬいても、ぬいても」
草もだけれども、あっちの方には何があると思う?
「ぬいても、ぬいても……!」
小動物がこちらへと近付いてきているのがわかる。気配がする。
「ぬいても、ぬいても!」
涎が地面に垂れる。それを袖口で拭いながら、草むしりをする。
「ぬいても、ぬいても!」
足元に伝わる生温かい感触。草をむしろうとする手が止まる。
「ぬ、ぬい……て、も――」
見たらダメ、見たらダメ。
ねえ、こんなに美味しそうでしょ?
目の前に姿を現す小動物。足が、手が、お腹が――すべてが美味しそう。
違う! 右手を強く握れ! 目を向けるな! 見るな! 見るな!
視線を家の方へと逸らしたとき、家の中から出てくるエナは洗濯物を干すために中身が詰まった洗濯籠を手にしていた。そうだ、かーさんに助けてもらおう! 足が家の方へと向けられようとしたとき、普段は人に懐かないはずの小動物がすり寄ってきた。
我慢の限界。
◆
掃除は一時中断。洗濯を干さなければ。そうエナは外に出ていた。午前中に掃除を終わらせる気はある。できないことはない。ただ、本格的に掃除をするならば、一日かかってしまうのだが。
「今日は何を作ろうかな」
掃除や洗濯も大切だが、昼ご飯と夜ご飯も大事だ。せっかく、キリが退院したのだから。ああ、そうだった。フルーツサンドとアイスサンドを作るって言ったな。じゃあ、お昼はそれにして、夜は――何にしようかな? サカキさんからたくさん川魚をお裾分けしてもらったのがまだ余っているし。ああ、カワダさんからもらった野菜も。それに、冷凍庫の中にはお肉も余っている。お肉と魚――両方がいいかな? キリ、何でも食べるから。
ふと、草むしりをしているキリの方を見た。そうだな、あのとき――殺人犯と遭遇したとき、あの距離ぐらいだったな。離れていたの。
「私って、目が悪い方じゃないと思うんだけどなぁ」
なんて今更愚痴ったところで、どうしようもないだろう。向こうもこちらも勘違いで納得してしまっているのだから。
試しにじっとキリの姿を凝らして見た。彼は下を向いて、何かしら口を動かしている? え? あれ? ほら、やっぱりこの距離からでも口の動きが見えているじゃないか。これで嘘ではないという――。
「え?」
なぜに草むしりをしているだけで、口を動かす必要がある? キリは独り言を言わないだろう? えっ、いや待って。動かしている、というか――。
「えっ」
悪癖だった。エナの首筋に鳥肌が立つ。地面には小動物の死肉。それを貪る我が息子。違う! 固まっている場合ではない。止めさせないと!
「キリ!」
エナはキリのもとへと駆け出した。彼女の大声に気付いたのだろう、アシェドも駆け寄る。そちらの方へと二人して来てみれば――もう遅かった。彼自身も我に戻ったようで、茫然と小動物の死体を見つめているのだから。自分は何をしたのだろうか、何をしでかしたのか。事の重大さは理解できているようには見えている。顔を青ざめさせて「どうしよう」と嘆いているのだから。
「ダメなのに……ダメなのに……どうして……?」
草むしりをしていた、ということを二人はきちんとわかっていた。それはキリの草のむしり方である。彼は草をむしるとき、一つ取ればその周りにあるものをすべて取り除くやり方でしているからだ。一部分が雑草のない禿げた地面を露にしているから。そして、何より右手が赤く腫れている。ということは、キリは我慢していたことを彼らはわかっていたのだ。
「キリ……」
久しぶりに見た自分の子どもが自身でつけた血の手。それでも、とキリの最高の母親でありたいエナはぬるぬるするその手を取ってあげた。怯えている小さな肩に手を置く。
「我慢していたんだよね、本当は」
「……うん」
嫌になる、とでも今にも泣きそうだった。
「見たらダメって思って……でも、見えてくるから、かーさんのところに行こうとしたけど……」
今日に限って、小動物が近寄ってきたらしい。珍しいことではあるし、キリにとっては苦悩であろう。何分、久しぶりの出来事だったのだから。してはいけない、とわかっていても――我慢していたから、体が反応してしまったのかもしれない。
とにかく、今は草むしりをしている場合ではない。アシェドは「キリ」と立ち上がると、手招きした。
「その子、連れてこっちおいで。母さん、納屋からシャベルを取ってきてくれ」
エナとキリはアシェドの言う通りにして動いた。彼が案内した場所はたくさんの数の土が山盛りになった場所だった。シャベルを持ってきたエナもびっくりしていた。これは?
「これはこれまでキリが殺してきた小動物たちの墓だ」
「は、か……」
「人、動物もそうだけれど、死ねば土の中へと埋めるんだ。それは昔からやっていることでな」
このことを初めて知った。これまで、キリの悪癖が出る度にアシェドはその処理をしていたのだ、と。それもわかるようにして埋めているとは知らなかった。
「キリ、今日からお前がこの子らを殺したら、こうしてあげなさい」
「おれ、が……」
キリは真っ赤に濡れている小動物の死体とたくさんの墓を見た。
「何のために、こうするのか。それは死んだ誰かを慰めるためなんだ。特に人間がそう。人が死ねば、その人のために慰めなければならないんだ。キリ、お前もそろそろ知るべきだ。ずっと前から言ってきた『可哀想』の本当の意味をな」
アシェドはおいで、とキリを手招きする。キリはそちらへと赴き、彼から墓の作り方を教えてもらう。穴を掘って、その子を入れて、土を被せてあげて――。
「確かにこれまでのキリは生きるために殺してきたかもしれないが、今はそういう死活問題に直面はしていないだろう? けれども、この死んで逝った子たちも前のキリみたいにして精いっぱい生きてきたんだ」
「うん」
「その精いっぱい生きていく中で、この子らは死んで逝った。そんな子たちに慰めをするんだよ」
「…………」
どのようにすれば、とキリは戸惑った表情でたくさんの墓と二人を見た。これにエナは彼の横に屈み込む。
「キリはこの子たちにどんなことをしてしまったかな? それを思い出そう。そしたら、慰めの言葉は思いつくはずだよ」
「どんなこと……」
忘れたわけではない。覚えている、嫌というほど。キリは右手を左手で包み込みながら――。
「おれはみんなを殺して、全部じゃないけど……みんなを食べました」
静かに目を閉じ、これまでのことを思い返す。
「ごめんなさい」
◆
お昼ご飯はキリと約束していたフルーツサンドとアイスサンドの盛り合わせだった。色とりどりのフルーツをクラッカーに、ひんやり冷たいアイスクリームをクラッカーに挟んだ物。これらはキリの好物ではある。彼ならば、喜んで頬張るかと思えば――。
「…………」
先ほどの悪癖のことで悔やんでいるのだろう。口の動きが小さい。口へと運ぶ量も少ない。その様子にエナをアシェドは顔を見合わせる。こちらもどのようにして声をかけたらば、いいのかわからなかったからだ。キリは自身の悪癖に嫌悪感を抱いている。眉根を寄せ、もそもそとアイスサンドを食べる。その沈んだ表情に自然と彼らはだんまりとしていた。この沈黙が痛い、と思う。
何かしらの話題は? エナがお茶を飲もうとしたとき、思い出した。本棚。キリの部屋には乱雑に置かれた本とノートがある。一応は、自分は掃除が終わった。アシェドも畑仕事はある程度終わっているはず。彼女はフルーツサンドに手を伸ばしているアシェドに「ねえ、お父さん」と声をかけた。
「キリの部屋に本が増えたみたいだから、本棚でもどう? 確か、納屋にたくさんの廃材があったよね? お昼はそれを作ろうよ」
「ああ、あの廃材で……って、えっ、本棚?」
「うん、ほらトルーマン先生に図鑑いただいたでしょ? そして、お父さんがキリにお土産って言って、あげた絵本もまだあるし、ノートも増えたしね」
これでもアシェドは器用な方だ。実はこのダイニングセット――これは彼が作ったものである。ただ、器用な割には家事に関しては一切ダメらしいが。
「本棚かぁ。いいね」
いい提案だ、と頷くと、黙ってこちらの会話を聞いていたキリに顔を向けた。
「ご飯を食べ終わったら、一緒にキリの本棚を作ろう。いい気分転換になると思うよ」
「本だな? 本のたなのこと?」
「そうそう」
アシェドはちらり、とエナの方を見た。これに彼女は微苦笑を浮かべながら「うん」と頷く。
「キリのお部屋にあるテーブルには物をいっぱい置いているでしょ? それをすっきりさせるの」
やるでしょ? と言われ、特に断る理由がないキリは「うん」と頷いた。心なしか、先ほどまでの表情が和らいだ気がする。いつの間にか、大口開けてアイスサンドを頬張っていた。口を動かしながら、次のフルーツサンドに手を出すほど。気持ちが吹っきれた、ということもあるのだろう。そんな彼を微笑ましく、二人は見ていた。
あっという間にフルーツサンドとアイスサンドの盛り合わせはなくなり、キリは大皿をキッチンのシンクへと運んでいた。皿洗いはまだできなくとも、食べ終わった食器を片付けることは覚えてくれていたようだ。エナは食器洗剤の泡がついたスポンジ片手に「ありがとう」と彼から大皿を受け取る。続けて小皿、カップ、ポット――。運び終えて、キリはじっと蛇口から出てくる水を眺めていた。このようなこと、今までなかったが――どうしたのだろうか?
「どうしたの?」
何か気になることでも? それとも、まだ食べたりなかった? そうだとするならば、珍しく食欲旺盛だ、とは思うが、そうではないらしい。それならば、何?
「別にお父さんとテレビでも見ていていいのよ?」
「いい」
ここから見えるリビングのテレビ。コマーシャルがあっているようで――ああ、そういうことか、とエナは納得。今のテレビ画面にはティビー・ウラビのコマーシャルがあっている。テーマパークのやつだ。そう、キリはティビー・ウラビのお面を被った男に殺されかけた。その恐怖がよみがえってくるのだろう。病院内でも苦手意識は強かった。カートゥーン番組だろうが、コマーシャルだろうが、ぬいぐるみだろうが――あまつさえ、絵本に乗っている絵やビラの絵や着ぐるみに至るまで。どんな形だろうとも、ティビー・ウラビがトラウマになってしまったのだ。こればかりは仕方あるまい。別のコマーシャルに切り替わったのを確認してから「いなくなったよ」と教えてあげた。彼は不安そうにテレビ画面を見て、ティビー・ウラビが写っていないことを確認すると、アシェドの隣に座った。これにアシェドは少しだけ眉をしかめながら、こちらを見るのだった。
◆
後片付けを終えて、三人は納屋に仕舞われていた廃材を外に出していた。出てくる、出てくる謎の廃材。これらの廃材――実はこのデベッガ家の敷地内に最初から放置されていた物なのである。長い物から短い物まで。いつか、使い道があるだろうと思って――約半年後。まさか、本棚を作るために使用するとは思わなかった。
「これだけあれば、大きな本棚が作れるけど……どうだろうか?」
アシェドは定規を肩で叩きながら、エナと相談する。彼女は短い木の板を手にして「そうねぇ」と考える。元はゲストルームのキリの部屋。ゲストルームだからこそ、誰かの個人部屋としてあるわけではない。誰かが家に泊まるときに、と作っただけの部屋。そこまで広くはない部屋。ベッドにテーブルに椅子が二脚。壁にはどこで購入したか忘れてしまった絵画が二つほど。入って一番奥には窓が一つ。
「低い棚がいいんじゃない? あんまり高い棚だとキリが届かないと思う」
キリは実年齢に対して、身長は低い方である。アシェドの腰ぐらいの高さだ。エナの考えにアシェドは「そうだなぁ」と納得する。
「別にテーブルは壁にくっつけていないし、右の壁側に長めの本棚を二段ぐらい作るか」
そうと決まれば、まずは部屋の大きさを計ってくる、と言い残して家の中へと入っていった。その場に残ったエナは地面へとしゃがみ込んで、木の板を立てようと試みているキリを見た。立つかな、立つかな、とワクワクしながら木の板から手を離してみる。だが、立てない、と木の板は疲れきったようにしてぱたんと倒れてしまう。もう一度、立ててみる。それでも、やはり倒れてしまう。こういうくだらなくも、小さな光景を見ていると、やっぱり彼も人の子なんだな、と思う。今の行動を見ていれば、先ほどの悪癖なんて存在はなかったかのようになるほどだ。
エナは小さく微笑むと、ゆっくり屈み込んで「立たないね」と自分もチャレンジしてみる。地面がデコボコ、と平ではないからなのか。すぐにぱたん、と音を立てて倒れてしまうのだ。キリは言った「立たないね」と。
「おれたち、ふつうに立てているのに」
「人とか、動物はね。木の板は人でも動物でもないからね」
「そっか。でも、立ったらどうなるのかな?」
その答えはただ単に、そこに立つ木の板だとしか自分もアシェドも認識はしないだろう。地面に突き刺していれば、どうってことはないが。
キリが頑張って木の板を立てていたときだった。ちょうど部屋の長さを計り終えてきたアシェドがこちらへとやって来るのが見えた。それと同時に、木の板は立つ。まっすぐ、空へと伸びるようにして。やった、と小さな喜びを見せるも束の間。木の板は倒れてしまう。なぜならば、アシェドがこちらへとやって来るにつれて、その足の振動が不安定ながらも立っている木の板にも伝わり――。
「…………」
何とも言えない表情を見せていた。何も事情を知らないアシェドは「どうしたんだ?」と少しだけ面白い顔をしているキリを覗き込む。
「お前、ちょっと見ない内に面白い表情をするようになったな」
「…………」
別にアシェドは悪気があったわけではない。それはキリ自身も十分に理解している。それだからなのか、彼は「別に」と何でもないよ、と言うのだった。すべてを知っているエナはどちらも可哀想だな、と思いつつも半笑いであった。
本棚を作る、ということで――アシェドは廃材に印をつけていく。それをただじっと眺めるだけのキリ。そういうのが珍しいとでも思っているのか、その行動以外に視線を向けようとしていなかった。ややあって、印をつけ終わった彼はのこぎりを取り出して、キリにこっちにおいでと手招きをする。
「のこぎりの扱い方を教えてやるよ」
「へんな形。ギザギザなってる」
「のこぎりはな、食べ物と違って硬い物を切る役割があるんだ。これを男が扱えたらカッコいい、と俺は思う。女の人にモテると思う」
アシェドに握り方を教えてもらい、一緒に廃材を切ってみることに。
「俺がつけたこの線あるだろ? ここをこうして切るんだ」
初めての経験にキリは戸惑いを隠しきれないようだ。線の通りに切る、ということはなかなか難しい。なんだか、斜めになっていっているような――。
「大丈夫なの、これ?」
「いい、大丈夫だ。これは練習用の木の板だから、失敗したところで何も問題ない」
たくさん廃材は余っているから、と言う。そうして、なんとか二人が切った木の板は曲がっていた。線の通りに切れなかったからか、キリは残念そうな顔をして「あーあ」と言う。
「きれいにできなかった」
「最初はそういうものさ」
綺麗に切る練習をしたいならば、失敗したそれで線を引っ張って、やればいい。そうアシェドは言った。のこぎりは二つあることだし。
「母さんと一緒にな。母さん、線引きは適当でいいから引いてあげて」
「わかったわ」
アシェドは本棚を。キリはのこぎりの練習をエナとすることに。要領はある程度掴めている。キリは定規で線引きをする彼女を見つめていた。少し離れたところではアシェドが手際よく廃材を切っている。面白い音だ。
線引きをしていると、何を思ったのか、キリは「ねえ」と質問を投げかけてきた。
「女の人にモテるってなに? なんか持つの? 持たれるの?」
その質問にエナは手が止まった。そう言えば、完全にスルーしていたが、アシェドは言っていた。きちんと扱えたら異性にモテるみたいなことを。そういうことは自分より彼に訊いてもらいたいものだな、と苦笑いをしながら「そうねぇ」と考える。
「モテるっていうのは、好かれるってことかな。ほら、お母さんもお父さんもキリのことは好きだよね? でも、家族から好きって言われることじゃなくて、家族以外の人たちから好かれることよ」
わかる? と訊いたところで、余計にキリは頭を抱え出す。言い方が難しかったのか? いや、別にわかりづらい言い方をしたわけではない。それをエナが知るのは彼が「おれ、いい」と首を振ったときだった。
「別におれ、モテなくていい」
「え? なんで?」
「誰かに好かれるの、かーさんととーさんだけでいい」
この話は、キリにとってまだ早い話だったのかもしれない。もう少し、世間を知って――ある程度すれば、彼だって誰かにモテたいとは思うだろう。まだ十歳だ。その内、好きな人も好きなってくれる人も現れるはず。
「そっかぁ」
あまりこういう話はどうでもいいと思っているのか、キリはのこぎりを手にして「切ってもいい?」と訊いてきた。エナは線引きを終えているため「いいよ」と廃材を渡した。早速、アシェドとやったときのようにして、慣れない手付きで木の板を切っていく。引っかかるような音を耳に入れながら、彼女はそう言えば、とここ数週間も会わないキンバーのことを思い出した。本人は自覚していなかったようだが、彼自身モテるのはモテるかもしれない。キンバーの性格はよく知らないが、見た感じはキリとは似ているようで似ていない――違った系統の整った顔立ちだったから。外見だけだと惚れる女の子は多いだろう。でも、告白までされるような子ではないと思う。憧れ程度で終わられそうだ。
ぎこぎことなんとかアシェドが出すのこぎりの音に近い形になってきたキリ。いや、アシェドの場合はシャカシャカと音がしている。その音を聞いてちょっと楽しそう。そんな彼を見てエナは、キリの場合は目が綺麗だからなぁ、と思う。子どもらしい純粋な目に加えて、色が綺麗な目なのだ。おそらくではあるが、村の学校とかだとそれでモテたり? いや、そもそも――学校とやらに行きたくないと言うだろうな。まだ人見知りが激しいことだろうし。
「切れた!」
まだまだ曲がってはいるが、先ほどよりは綺麗に切れたことに喜びを感じているキリは断面をエナに見せてきた。これに彼女は「すごいね、キリ」と小さく拍手を送った。褒められたことが嬉しく思うのか、彼はにっこにことしながら「もう一回」と廃材を足で固定し始める。
「次はきれいに切る」
アシェドよりぎこちない音が聞こえてくる。その傍らで、本気で廃材を切っていたのか、彼がのこぎり作業を終わらせていた。
「……あー……調子に乗るんじゃなかった」
地味に聞こえてきた呟き。キリにいいところでも見せたかったのか。だが、残念なことに肝心の本人はそちらの方を見向きもしていない。自分のことで精いっぱいだからだろう。腰を軽く叩き、両手をプラプラとさせる。余程、自分自身の体に堪えたのか。
エナはアシェドが少しだけ可哀想だな、と思うのだった。
◆
本棚ができたのは夕方頃だった。空は赤らんでいる。地面にはのこぎりにはまったキリが細切れにされた木の板の残骸がある。アシェドは作ることで手いっぱいだったからこそ、本棚を完成させてから驚いていた。目を丸くして「うわっ」と軽い悲鳴を上げる。
「ここまでよくやったなぁ……」
アシェドが手を取るのは細切れとなった廃材の残骸。キリは自分が褒められている、と勘違いでもしているのか、どこか誇らしげだった。
「まだ切れるよ。それ、切ろうか?」
そう言うキリが指差しているのは、アシェドが必死こいて作った本棚。その発言に「勘弁してくれ」と苦笑い。
「これ、キリの部屋に置く本棚だぞ。これ、俺が作ったんだぞ。それをお前……細切れにするって失礼だな」
「えっ、おれの部屋に置くの?」
ということは、自分の物? 少しだけ嬉しそうに目をキラキラとさせるキリであるが、アシェドは「切るなよ」とされる前にのこぎりを没収。
「なんか、キリにのこぎり渡していたら、家まで切られそうだ」
「がんばって切ろうか?」
「下手な冗談よせよ」
遠目で二人のやり取りを見ていたエナは肩で笑った。まさか、こうしてキリが冗談を言うとは思わなかったから。彼らは冗談のやり取りをして楽しそうだ。ああ、これが家族というものか。だが、それは一旦ここでおしまい。後片付けをしないと、夕ご飯は没収されたままであることを二人に気付かせてあげないと。
「ほらほら、できたなら片付けて運びましょ。そうしないと、夕ご飯も没収よ」
「それは困る」
夕ご飯没収に堪えたのか、二人は焦ったようにして地面に散らばった廃材を掻き集める。透明のごみ袋の中へと詰め込む。そうして地面がお見えになったわけではない。おがくずだ。アシェドもそうだが、これらのほとんどはキリが出してしまっているものである。いや、どちらにせよ、彼らにその責任はあるとして、エナは「はい」とほうきを手渡した。
「私は夕ご飯の支度をしているから、その間に掃除と本棚をよろしくね。本棚はどうしてものときに私を呼んでね」
しかしながら、これにアシェドはブーイング。特に掃除の件についてだ。
「これ、土に還るから問題なくないか?」
「そうじゃないでしょ。誰か来たとき、だらしないと思われるでしょ」
それに、とほうきを持って散らばったおがくずを見ているキリの方を見た。
「キリの教育上、よくないっ」
「そうか?」
「そうよ、元々本棚作ろうって提案も、キリの部屋のテーブルの上を見ればわかることなのに」
というか、ベッドも実はそう。シーツもかけ布団もぐちゃぐちゃになっている。いつも、キリが外に出ているときにエナはベッドメイクをしているのである。というよりも、自分たちの寝室だってそう。彼女が整えているのだ。アシェドは絶対にそういうことはしないから。
「ていうか、お父さんの書斎の本棚だって適当に本を突っ込んでいるじゃないの。あれ、本当はキリによくないの」
「……わ、わかったよ」
エナに口論は勝てないと判断したのか、アシェドは「掃除しような」と促す。これにキリは「うん」と頷きながら、適当に掃いてく。それを見逃さなかった彼女は「ほうきの扱い方もね」と念押ししておくことに。この言い分に彼は小さく「はい」と返事をするしかなかったという。




