三十六日目
今日も天気はいい。気分は昨日よりいい、とエナは思っていた。
アシェドはまだ眠っているから、起こさないようにして病室を出た。昨夜、彼から聞いた話。村に連続殺人犯が現れたことについて村長に話をしに行ったとき、あまりいい顔をしなかったそうだ。それもそうだろう。自分が住んでいるところに危険な人物が潜んでいるかもしれないのだから。そのときに犯人に気をつけてくださいね、と警告すると――。
自分の息子を殺したのはそいつだ。
村長はそう言ったらしい。エナの予想は当たった。本当は猛獣ではなかった。なのに、どうして嘘をついたのだろうか。これはアシェドから聞いた話であり、直接聞いていないからよくわからなかった。彼自身も何かを疑っているようだった。それだからこそ、二人とも鬼哭の村に疑問を持ち始めていた。彼らは何かを隠しているようだ、と。ただ、それを問い詰めたところで答えが返ってくるとは思えない。
自身の息子と一緒にいた村長は何を見たのか。それを通して、村人たちにどう伝えたのか。『仕留める』? 『やつ』? やつという言葉はまだわかるが、仕留めるという言葉を人に対して使うものなのか。村人たちは殺人犯を殺そうとしていた? そういうのは普通、軍に任せるものではないだろうか。そもそも、仕留めるという言葉より『捕獲』と言うが正しいだろう。だが、アシェドは村では捕らえるという意味を込めて仕留めると言ったのだろう、と憶測を立てていた。その理由はカワダの言動にあるという。
自分たちが初めて村へと来たとき、村長に言われた言葉――山の奥に行ってはならない。これをカワダは「山に入るな」という意味があると言っていた、とアシェドは言う。
【ほら、村の人たちって、肉は自分たちで調達するって言っていただろ? あの村ではそういうんじゃないのか?】
エナもアシェドも王都出身で、あの村に身内はいない。ましてや、顔見知りすらも。だからこそ、確認のしようがないが――その言い分ならば、なんとなく説得力があった。だからこそ、その疑心を掻き消すには強引に納得するしかないのだった。
もやもやとする気分を変えるために、アシェドに書置きを残して外へと出た。目的は自分たちの朝ご飯を調達するため。この時間に病院内の売店は開いていないからだ。
◆
朝の時間帯の町並みは初めてだった。いつもは昼前に来ているから、この時間に町中を歩くのは新鮮である。労働者の町――その名に違わぬようにして、たくさんの労働者がこの町にある工場へと赴く。もちろん、エナたちが住んでいる鬼哭の村の幾人かたちもこちらへと片道二時間半以上かけて来ているのだ。昔は村の方にも工場はあったらしいが、十年ほど前に黒の皇国が侵攻してきて――現在は廃墟となっている。その工場自体を見たことはないが、今でも焼け跡として残されているとか、残されていないとか。
十年ほど前――キリの年齢と同じぐらいだ。彼自身が何歳なのかを知らない。だが、児童保護センターや病院で検査をしてもらって、十歳であると発覚した。だとしても、彼は年齢の割には体が小さい。それもそうだ。エナたちのところに来るまでは、毎日が死活問題だったのだから。食べ物を見つけるのも一苦労。だからこそ、あんな悪癖が出ていたのだろう。
エナは広場で展開していた屋台でベジタブルサンドを四つほど購入した。自分とアシェドの分。今日は面会できるだろうか。今日の意識ははっきりとしているだろうか。昨日は曖昧な受け答えしかできていないと言っていたから。
キリのことを考えながら、店主から品物を受け取ろうとしたときだった。商品が入った袋を受け取りそこない、地面へと落下――する前に、衛生材料で施された誰かの手がそれをキャッチする。
「――っぶねぇ」
その手の持ち主の方を見れば、昨日病院で少しの会話をした青年――キンバーがいた。彼が上手くキャッチしてくれたのである。これを見ていた店主はキンバーに向かって小さく拍手を送った。
「大丈夫ですか?」
拍手されたことが恥ずかしいのか、ほんのり顔を赤らめながらエナにその袋を渡す。これに「ありがとう」とお礼を言った。キンバーは「どうってことないですよ」とはにかむと、どこか調子に乗っているのだろうか。
「おじさん、さっきのすごいって思うなら、一個ちょうだいよ。タダで」
図々しい子のようだ。これにエナは苦笑い。店主は「勘弁してくれ」と肩を竦めた。
「それはこっちに言う言葉じゃないだろ。まあ、半額にはしてやるけど」
「じゃあ、二個とも半額で」
「二個で二十パーセント割引だ」
「ケチだな。じゃあ、それでいいよ」
キンバーは諦めも早い方であるようだ。適当にフルーツサンドを二つ、二十パーセント割引で購入した。袋片手に「今から朝ごはんですか?」と訊いてくる。
「よかったら、一緒に食べません?」
一緒に食べないか、と言われてエナは迷った。今頃アシェドはまだかな、と首を長くしている頃だろう。だが、その気持ちを無下にはできそうにない。先ほど、落としそうになった品物を拾い上げてくれたのだから。彼女はキンバーの誘いに承諾するのだった。
二人はベンチが空いていなかったため、広場の中央へとつながる階段に座った。キンバーはそこに胡坐を掻くようにして座り込むと、早速フルーツサンドを袋から取り出して口の中へと入れた。エナも続くようにして、ベジタブルサンドを頬張る。
キンバーは「そう言えば」と食べようとしていた物を口の中へと入れるのを止めて、こちらを見た。
「昨日、連続殺人犯が現れたとか言ってましたけど」
なんか、ネットワークのニュースでもそう言っていますよね、とキンバー自身の連絡通信端末機を取り出す。それに頷いた。
「私の子どもがね、襲われてね。今は意識を取り戻しているみたいだけれども……」
「おお、そいつはよかったですね。えっと、鬼哭の村……? ってところに住んでいるんですね」
「うん。そこで三人暮らし。きみは……えっと、キンバー君でいいのかな? キンバー君はここに住んでいるのかな?」
キンバーはそうですね、と返すと、手に持っていた連絡通信端末機をポケットへと仕舞い込む。食べかけのフルーツサンドを食べた。つられてエナも食べる。
「出稼ぎでこっちに」
「そうなんだ。じゃあ、故郷には家族が待っているのね」
「いや、俺……家族はいないですよ」
そういうもどこか悲愴に満ちているようだった。なんとなく、ではあるが、エナはキンバーが嘘をついているように見えた。そうであっても、彼女自身、深くは追及できそうにない。何かしらの事情があるのかもしれない。それはキリと同じ。あの子が黒の皇国にいたときにどのようにしていたかをまだ訊けていない。訊ねるのが怖いから。想像はついても、聞きたくはない。そういう意味合いも込めて、エナとアシェドは何も訊いていないのだ。
人には訊かれたくないことがある。それはキンバーも同じだろう。そのため、エナは「そっか」と軽い相槌を打つしかなかった。彼女のその反応に彼は変なことを言ってしまったな、と頬を軽く掻く。
「でも、俺は俺で寂しくはないんですけどね」
「そうかな? 私はキンバー君がどういう人生を歩んできたかを詳しく訊き出しはしないけど、人って誰かが隣にいてくれるだけで嬉しいものよ」
「誰かが、ですか……」
「私には両親がいる、生涯のパートナーがいる、子どもがいる。家族は同時に味方でもあるの」
「…………」
あまり想像がつかないのか、キンバーは最後の一口を口の中へと放り込み、動かす。それを見たエナは小さく肩で笑うと「いつかわかるときが来るよ」そう言う。
「きっとね。キンバー君自身が、キンバー君を思う人が現れると思う。その誰かを好きになるかもしれない。そのとき、その人が隣にいてくれたならばって考えるようになるかもしれないの」
「そう、なんですか? そうなのか?」
袋の開け口を指で弄りながら、首を傾げた。それにエナは「そうよ」とキンバーの肩に軽く手を置く。
「キンバー君、カッコいいもの。実は女の子にモテるでしょ? ほらほら、笑顔を見せて。近寄りがたいイケメンになっているから」
「…………」
どう反応していいのかわからないのか、たじろいでいた。だが、何かしらの言葉を――えっと、どう言えばいいんだろうか。別に自分がイケメンだなんて自覚はしていなかったから。やっとの思いで頭の中で思いついた返事が「そうなんですかね?」である。カッコいいとか、イケメンだとか言われたことがなかったらしい。キンバーは照れながら「へへっ」と笑う。恥ずかしそうにしている彼を見てエナは「もちろん」と返してあげた。
「絶対にカッコいいもの。早く、手の怪我が治ったらいいね」
そうしたら、仕事にも戻れるでしょ? そう言うと表情を一変して「実は」と眉をひそめた。
「仕事は辞めたんです。怪我しちゃったし。でも、通院のためのお金は要るんですよね」
盛大なため息をつく。そんなキンバーにエナは「学校とかは?」と一つの提案を出して見た。この提案、キリが十四歳になったときに一つの選択肢として与えてみようかと思っていたものだ。
「学校ってあの、軍人になるための学校? 軍人育成学校ですよね?」
「それもだけど、何も軍人になるためだけの学校じゃないわ。在籍中は色んな資格を採れるし、軍以外の就職先もたくさんあるの。一応、私も旦那もその学校の卒業生よ」
「そうなんですね」
学校か、とどこか興味ありげのキンバー。何も絶対にその学校に入学させようとは思っていないが、彼自身の可能性があるならば、と思う。
「そこ、学徒隊で任務を遂行すれば、報酬がもらえるよ。つまり、学校に行きながら、アルバイトをしているみたいな感じかな。どう? 下級生の間は任務がないから近くの町でアルバイトをしながらでも単位が採れるし」
「へえ、いいですね」
「まあ、何も無理することはないからね。人にはたくさんの選択肢がある。それをきみが正しいと思うものを選べばいいだけの話だし」
そうとは言いつつも、これは自分が言うべきセリフではなかったか、とエナは苦笑を浮かべる。自分は正しいと思った選択肢を選んで、最良の結果を得ることができなかった。そんな己が道に迷っている青年に説教紛い物をしているのだ。滑稽以外、なんとも言えないだろう。
と、ここでどこかの工場の方から始業のベルが聞こえてきた。その音と共にエナは立ち上がる。その姿をキンバーはじっと見ていた。
「そろそろ、病院に戻るね。旦那、今頃お腹空かせていると思うから」
「そうスか。それじゃあ、また」
キンバーは軽く手を挙げる。そのとき、衛生材料の隙間から彼の素肌が見えてしまった。火傷痕? どちらにせよ、エナは彼の怪我が早く治りますように、と心から思う。彼女自身も、小さく手を振ると「それじゃあね」そう病院の方へと戻っていくのだった。
◆
エナは病院の方へと戻ってきた。自分たちに与えられた病室へと向かうと、アシェドが「お帰り」とお茶を飲んで待っていてくれた。
「結構時間かかったな。混雑していたのか?」
「ううん、ここの通院患者さんとお話をしていたの。お腹空いたでしょう? 遅くなってごめんなさいね」
買ってきたベジタブルサンド二つをアシェドに渡した。残りの一つを取り出して、二人一緒に食べる。この部屋に設置されていたポットからお茶を淹れて、ほっとする。ここでエナは気付いた。この病院のお茶はほんのりとフルーツの風味がする、と。彼女は「お茶が美味しいね」と昨日と一昨日に見せなかった穏やかな表情をする。
「初めてこういうの飲んだわ」
「ああ、そうそう。村のザイツさんの家もそうだったけど、どうもあっちの方というか、ここら一帯はお茶にフルーツの果汁を入れるらしいよ」
「そうなの?」
「うん。本当は教えようと思っていたけど、色々あったからなぁ。忘れていたよ」
ベジタブルサンドの最後の一口をアシェドが頬張る。それに「いいわよ」と特に気にしない。だって、今日知れたのだから。
「家に帰って、早速試してみるわ。きっと、キリも美味しいって飲んでくれるだろうし」
「ああ、あいつはこういうの好きだろうね」
なんて二人が談笑していると、この病室にキリの担当医が入室してきた。彼らは軽くあいさつを交わし、今の状況を教えてくれた。彼は普通に朝、目が覚めるようにして起き、朝ごはんも残さず食べていた。こちらの質疑の受け答えははっきりとしていた。だが、やはり二人がいないと不安そうにはしていた、と言う。
「実は昨日も言っていたんですよ。ずっと、旦那さんと奥さんを呼んでいたようで」
本当はあのときに二人と会わせたかったのだが、キリの状態とこちらの質問には一切の答えがなかったから無理があった、と。
「それでキリ君には後で来てくれるからね、とは伝えましたけど……やっぱり寂しそうにはしていますね」
「ということは、私たちはキリに会いに行ってもいいんですか?」
「構いませんが今、軍人さんが来ていて、事情聴取しているみたいです。奥さんの話と簡単に照らし合わせるだけのお話でしょうから、そろそろ終わっている頃だと思いますよ」
キリがいる病室はこちらだ、と担当医は二人を案内する。場所は自分たちがいた部屋とそう遠くない一人部屋のようだった。入口の前では一人の軍人がいて、こちらに「申し訳ありません」と頭を下げてきた。
「本当は、ご家族の方が先に面会するべきなんでしょうけれども……」
「いえ、そんなことは。もうすぐ終わりますよね?」
「ええ。息子さんは病み上がりということもありますし、また詳しいお話を伺いに来ようかと。そのときはまたよろしくお願い致します」
事件担当の軍人がもう一度頭を下げたとき、部屋の中からもう一人の軍人が出てきた。彼はこちらに気付くと、どこか怪訝そうにしながらも頭を下げた。彼は「またお話をお伺いに来ます」と言う。
「今度は奥さんもご一緒にお願いしますね」
そう軍人は、廊下で待っていたもう一人の軍人に「行くぞ」と促すと、去っていった。エナたちは二人の背中を見送ることなく、キリがいる病室へとなだれ込むようにして入った。部屋にいた彼は少し驚いたようにしてこちらを見ている。
「キリ……」
「かーさん、とーさん……」
どの言葉をかけてあげようか。エナは迷った挙句、キリのもとへと近付くと――彼を強く抱きしめた。生きてくれてよかった、と思う。この体はとても温かい。キリは生きたいという思いと、死にたくないという思いで再び自分たちの目の前に現れてくれた。それが素直に嬉しいと思うし、同時に自分が腑がないと思った。守ってあげることができなかったという思いがあるからこそ――。
「ごめんね……ごめんね……」
本当に申し訳ない。守れなかったから。最良の結果を得ることができなかったから。どうか、キリもキンバーも後悔するような選択を選ばないで生きて欲しいと切実に願う。
エナの目から涙がこぼれる。その場に鼻水を啜る音が聞こえてきた。彼女ではない、アシェドだ。彼自身もキリが生きていて嬉しいと思っているのだろう。一方で本人はきょとんとした顔でこちらを見ている。
――キリは何も悪くない。
「……私が、腑がないから……」
茶色の髪の毛を優しくなでた。キリはこちらを見て、首を傾げる。
「なんで、泣いているの?」
泣いているのではない。これは――懺悔だ。キリにとって、アシェドにとって、自分にとって。彼の切望は叶った。それでも、それは今だけではない。
【死なねばならないんですよ】
ティビー・ウラビのお面を被った男の声が聞こえてくるが、それはありえないと断言できる。その証拠はどこにもないのだから。
「あなたは生きていいの」
これからもだ。キリが死ぬ理由なんてない。キリが生きてはいけない理由なんてどこにもないのだから。
◆
エナとアシェドの気持ちが落ち着いた頃、担当医は今のキリの状態を軽く説明した。二日前までは生死の狭間を彷徨っていたが、昨日は徐々に意識を取り戻し、今日は意識もはっきりとはしている、と。傷は塞いだが、痕が残るかもしれないらしい。あと、二週間は絶対安静。もしも、病室の外に出るときは保護者同伴か、看護師を呼ぶように、とのこと。そう言い終わると、キリの方を見た。
「キリ君、本当にお腹痛くないの?」
その質問の意味はどういうことだ、と二人は担当医とキリを交互に見た。彼は小さく頷いて「うん」と自身の腹に手を当てた。
「あんまりいたくない」
「……我慢はしちゃダメだからね。どうしても我慢ならないときは誰かを呼ぶんだよ」
「うん」
それじゃあ、後は――と担当医は病室から出ていった。二人はあの質問の意味に疑問を抱く。あの言い様は、明らかに今のキリにとって腹の痛みは尋常ではないということだ、と。それなのに、彼は痛くない、と答えている。エナは顔の表情を見た。至って普通だ。自分たちに会えて、嬉しいのか少しだけ頬が上がっている程度。痛みを我慢しているようには見えなかった。
キリは二人を見て「ねえ」と言う。
「早く家に帰ろう。おれ、草むしり手伝うよ」
どうやら早く家に帰りたいらしい。その表れもあってか、ベッドから下りようとしている。それをアシェドは待ちなさい、と止めた。
「……いや、キリ。先生の話がわからなかったか?」
「え? どういうこと?」
「キリはお腹を怪我しているんだ。それが治るまでここで寝泊まりしなくちゃならない。俺が言っている意味、わかるか?」
「うん。でも、おれはお腹いたくないよ。いたくてもがまんできるよ」
違う。本当は痛みを堪えていたんだ。これにエナは眉間にしわを寄せる。彼女はキリに「痛いの我慢しているの?」と訊くが、その質問を押し退けるようにしてアシェドが「ダメだ」と肩に手を置いた。
「お前は完璧に怪我を治してから、家に帰るんだ。それまで、俺たちも先生たちも帰せない」
その言葉にキリは「なんで?」と今にも泣きそうな顔を見せた。その表情、珍しいな、とは思う。
「なんでなの? おれ、いたくないよ? とーさんたちの手伝い、できるよ?」
「そうだとしてもダメだ。その状態で帰って、草むしりだなんてすれば、絶対に傷は開く。お前、死にかけていたじゃないか」
「じ、じゃあ、とーさんもかーさんも。おれが帰っていいってまで、いっしょにいる?」
こちらにすがるような目をこちらに向ける。エナはどう言えばいいのかわからなくて、アシェドを見た。彼は首を横に振る。彼は「悪いけど」とキリの頭に手を置いた。
「ここは病気や怪我をした人たちが寝泊まりする場所なんだ。そうではない俺たちがいても、そうなってしまった人たちの居場所がなくなってしまうから、俺たちは――」
アシェドがそう言いきる前に、キリが「嫌だ!」と珍しくもわがままになった。近くにいたエナの手を取って、放そうとしない。
「独りでここにいるなんて、嫌だよ! こわいし、さみしい……! 昨日だって、とーさんとかーさんがいなかったもん!」
驚いた。担当医はキリは受け答えが曖昧だから、面会謝絶をした、と言っていたが――本当は意識がはっきりとしていたとでも言うのか。
「せんせぇだって、昨日は明日は会えるよだなんて言っていたけど……先に軍人さんに会ったもん! ねえ、かーさんだけでも……おれといてよ!」
「……キリ……」
困惑した表情をすることしかできない。目の前にいるキリを突き放すような言葉をかけられないのがつらい。ずっと一緒にいてあげるよ、と言えないのがつらい。エナはアシェドの方を見た。彼は自分の口でキリに告げるように、とでも言わんばかりに首を横に振った。別にこれはキリを見放すわけではない。子どものためである、とその目は言っていた。
しかしながら、キリは先ほどの軍人二人のことを口走っていたのは――彼らが怖かった、ということもあるのだろうか。それとも、独りで対応するのがとてつもない恐怖だったのだろうか。
「…………」
「お願い、かーさん」
エナの手にキリの涙がこぼれる。彼はしゃくり上げながら、顔をぐしゃぐしゃにしながら、ずっと傍にいて、と言っているようだった。だが、彼女は黙って涙を拭きとってあげる。初めて経験する苦渋の決断。こういう風にして、成長させるために決めなければならない。母親というものはそうして葛藤していくものなのだろうか。
「キリ」とキリの両手を自身の手で包み込んであげた。
「ごめんね。私たちはキリを元気にしてあげたいから、ここに連れてきたの。私たちはね、キリを思っているのよ。どうすれば、笑顔にしてあげられるかなって。どうしたら、キリが欲しがっていた当たり前をあげられるかなって」
「……おれのこと、嫌いなの?」
キリはしゃくり上げながら、こちらを見る。その質問に「ううん、違うよ」と否定した。誰がこの子を嫌いになるもんか。子どもを嫌う親がどこにいるものか。
「私とお父さんは絶対にキリを嫌いになんかならない。ずっとずっと、あなたが大人になっても私たちはキリの味方よ」
その証拠に、とアシェドの方を見て再びキリの方を見た。
「約束しよう。お父さんは畑仕事とかあるから無理かもしれないけど、お母さんは毎日キリのお見舞いに来るよ。そうすれば、ほら。毎日会えるから寂しくなんかないよ」
「…………」
納得した、というわけではないが、キリは小さく頷いた。そんな彼にエナは「大丈夫よ」と頬に触れる。
「私たちが嘘をついたことなんてあったかな?」
「……ううん」
「大丈夫、怖くない。昼間はずっといるから」
「……わかった」
キリが完全に納得したところでアシェドは「偉いな」と彼の頭を力強くなでてあげた。
「キリは我慢できるもんな。やっちゃダメなことも、きちんと理解できているいい子だ」
そんないい子に、とポケットから一枚のビラを見せた。その瞬間、泣いたせいで少し赤いキリの目は大きく開いた。
「キリが無事に退院したら、王都にあるテーマパークに遊びに行こう。ほら、大好きなティビーたちが出迎えてくれるし」
「キリ、やったね。テレビの中でしか会えない本物のティビーに会えるんだよ」
きっと、キリならば行きたい、と言うだろう。二人はそう思って、何かしらの反応を待つのだが――首を大きく横に振ってビラから視線を逸らした。心なしか、顔が青ざめているようである。
「いい、行きたくない」
「え?」
予想外の反応に、エナとアシェドは顔を見合わせた。どうして?
「キリ? ティビーたちがいるんだよ? あのティビー・ウラビだよ? 楽しいところだよ? 行こうよ」
ほら、とビラに写っているティビー・ウラビを指差すが、キリは絶対に見ようとしない。ずっと顔を窓の方に向けて「嫌だ」と拒否反応を見せていた。体を震わせている。窓に映る薄くて青色の目が訴えるのは――このキャラクターに対する恐怖。そうか、と彼女はそのビラを隠した。そして、提案者であるアシェドに首を振ると、お腹を指差した。これに彼はすぐ理解してくれる。
そう、キリは大好きなティビー・ウラビに殺されかけた。本物のティビー・ウラビはそうではないかもしれないが、彼にとって裏切られた気分なのだ。見たくもない、あのときの恐怖が思い出す。これは逆効果だったか、とアシェドは深く反省した。
「……すまない、キリ。もう、ティビーはいないよ」
アシェドの言葉にキリは恐る恐るとこちらの方を見てくれた。確かに、あのビラはもうない。そうわかると、大きく息を吐いて安堵の表情をするのだった。
この日を境にキリのティビー・ウラビ嫌いは加速するのである。




