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断切  作者: 池田 ヒロ
3066
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三十五日目

 今が何時なのかはわからなかった。


連絡通信端末機で時刻を確認する気にはならないようで、二人はキリが目を覚ますのを緊急治療室前のベンチで待ち詫びていた。時たまこちらの様子を見に来る看護師からは「これをどうぞ」と温かいお茶をもらう。ほのかにフルーツの風味がする美味しいお茶だ。ああ、そうだ。あの子が目を覚まして、退院したら――たくさんのフルーツサンドとアイスサンドを作ってあげよう。その二つは好きだから、きっと大喜びだろうな。あの綺麗な薄くて青色の目をキラキラさせて、美味しそうに頬張って「おいしい」と飛びっきりの笑顔を見せてくれて――。


 叶うだろうか? その笑顔を見ることができるだろうか。まだキリは意識を取り戻していない。生死の狭間にいる。おそらくは、呼んでいるかもしれない。自分たちを。助けて、って。小さな手を伸ばして、どこにいるのって。ここだよって、言ってあげたい。ここにいるよ。待っているよ、って。


 どうしてこうなったんだろうか。エナはお茶の入ったカップの中に涙をこぼした。なぜにあの山で犯人と遭遇したとき、最良の結果を出しきれなかったのか。何がいけなかったんだろう? 何が原因でキリを傷付けたのだろう?


 ぼろぼろと涙を流すエナにアシェドは自身の方に彼女を抱き寄せた。


「エナは悪くない。自分を責めるな」


「だって、私……!」


「大丈夫だ。キリは生きるために俺たちを頼ってきた。また生きたいって、俺たちを頼るために、強引に目を覚ますさ」


 それは約束された確かな話ではない。エナを、自分を慰めるだけの言葉。そう言わないと、精神的に不安定になりそうだった。一日経ってもキリは意識を取り戻さないのだから。


「キリが退院したら、テーマパークにでも行こう。あいつ、ティビーが好きだから、きっと喜ぶぞ」


 エナも行きたいだろ? その言葉に小さく頷いた。思い出すは幼い頃、両親にテーマパークへと連れていってもらった記憶。ティビー・ウラビたちが出迎えてくれて、楽しいアトラクションに乗って、美味しいご飯を食べて、ショーを見て。綺麗なドレスを着た人から魔法のガラス玉をもらって――まるで夢のような世界。それをキリにも味わってもらいたい。きっと、出迎えてくれたティビー・ウラビたちに駆け寄るだろう。アトラクションに乗って、にこにこするだろう。美味しいご飯を嬉しそうに食べるだろう。ショーをあの目にしっかりと焼きつけるだろう。綺麗なドレスを着た人から魔法のガラス玉をもらって笑顔を見せるだろう。そして、帰り際に「とっても楽しかった」と感想を言うに違いない。一生の思い出として残るだろう。それは大人になっても忘れない記憶。


 キリはどんな大人になるだろうか。どんな人と結婚するだろうか。そう考えるだけでも、自分は余程彼のことを思う母親なんだな、と思う。それでも、守ってあげることができなかった母親。アシェドは悪くない、と言っているが、キリが目を覚まさない限りはずっと自分を責めるだろう。何をすればよかったのか、どのような行動を取ればよかったのか。後悔しても遅いとはわかっている。それでも、後悔させて欲しい。あの子のことを思うならば。キリにとって最高の母親でありたいと思っているから。


「キリ……」


 エナもアシェドも信仰している宗教はない。だが、もしも――この世界に神様がいるならば、と願う。虫がいい話だ、と思われるかもしれないが、祈る。


 どうか、キリをお救いください、と。


     ◆


 看護師からもらったフルーツの風味がするお茶を一口しか飲んでいない。それでも、エナは両手にカップを持ってひたすらに待った。とっくにこのお茶は冷めている頃だろう。それでも、ずっとカップを握っていたからか、人肌の温度を保ってはいる。そうしていると、看護師が「温かいのに入れ替えましょうか?」と訊いてきた。小さく頷き、カップを渡した。新しいのに入れ替えに行くと同時に――ようやくと言っていいほどだった。やっと待ちわびていたことが起こる。


 緊急治療室の扉が開かれたのだ。そこから出てきたのは担当医。彼はこちらに気付くと、頭を下げる。それに二人は立ち上がった。


「先生、キリは……?」


「一応、意識は取り戻しました。受け答えは曖昧ですが、しばらくすれば、はっきりとした受け答えもできるでしょう」


「じゃあ――」


 険しい顔付きを二人は緩めていく。その表情を見て、担当医は大きく頷いた。


「キリ君は頑張りましたよ。後は傷の治りを待つだけです」


 エナはその場に崩れ落ちた。腰が抜けたのだろう。床にぼたぼたと涙を落とす。アシェドが「エナ」と優しく呼びかける。


「これで、テーマパークに行けるな」


「うん、本当によかっ……」


 安心したせいか、目の前が真っ暗になり始めた。なんで、と思えばアシェドが呼びかけてくる。こうして座っているのもできそうにない。


「エナっ!?」


 その呼びかけを最後に、エナは意識が遠退いてしまった。


     ◆


 エナが再び目を覚ましたとき、そこは一人部屋の病室だった。窓が開けられて、爽やかな風が部屋中を巡る。どうして自分がここにいるのだろうか、と思っていると、この病室の入口が開けられ――アシェドが入ってきた。手には買い物袋が握られているようだ。


「気がついたか?」


「私、どうしてここに?」


 最後にある記憶は緊急治療室前で担当医が安心したような顔をして出てきたところだ。ああ、そうか。


「安心したからだろうね」


 疲れていたんだ。昨日の朝から山の斜面を登って、下りて――緊迫とした状況にずっといて、あまり寝ていないし、食事も採っていない。あのとき、緊張が解れてその疲れが押し寄せてきたんだ。


「先生、キリもだけど、エナのことも気にされていたぞ」


「ご迷惑をかけてしまったみたいね」


 こちらがキリの安否を気にする側なのに。彼と同じようになってしまっては面目ない。エナは乾いた笑いをしながら「そっちは?」と訊ねる。


「アシェドは平気なの?」


「うん、まあな」


 なんてアシェドは言っているが、目に隈ができている。お互い様だろう。


「先生が言うには、今日は面談謝絶にした方がいいってさ。意識を取り戻してはいるけれども、受け答えが曖昧だからって。それと、お前も俺もここでゆっくりしろってさ」


「本当に、病院に申し訳ないことをしてしまったみたい」


「まあ、まあ。お腹、空いているだろ? 下の売店で買ってきたけど、食べる?」


 買い物袋の中身を見せてきた。軽食とパックに入ったお茶がある。アシェドは適当に買ってきた物を手に取りながら「一回家に戻るから」そう言った。


「どうせ、色々そのままにしていただろ? それにキリの着替えとかもいるしな。あと、村長さんたちにも警告喚起はしただけで、詳しい事情も話していないし」


「そうよね」


 エナもパックに入ったお茶を手に取って飲んだ。正直言うと、看護師が入れてくれたあのお茶の方が美味しかった。しかし、アシェドが村の方に戻ると言って、あまりいい顔をしなかった。行方がわからない犯人の存在である。村のどこかに潜んでいるかもしれない。ましてや、まだ家の裏側の慟哭山にいるかもしれない。もしかしたら、と考えると――。


「気をつけてよね」


「大丈夫さ。移動は車を使う。車内は鍵をかける。村長さんと話すときも長居はしないさ。すぐにこっちの方に戻ってくるし」


 そうは言っても、移動時間にあれこれとしていると、病院の方に戻ってくるのは夕方頃だろう。下手すれば、夜になるかもしれない。


「わかったわ」


 不安はあるが、そうしなければならないという事実にエナは承諾するしかなかった。アシェドは軽く食事を採ると、すぐに部屋から出てしまった。その場でお茶を飲む彼女は窓の外を見る。キリと同じ目の色をしたような空が広がっていた。雲一つないその空を見て、今日はいい天気だ、と思う。病人のベッドから下り、窓に近寄った。遠くに山が見える。町が小さく見える。人々が忙しく足を動かしている。そうしてぼんやりと外を眺めていると、駐車場を歩くアシェドの姿が見えた。外に出ている彼を見て、ほんの少しだけ羨ましいと思ってしまった。


     ◆


 エナは気分を紛らわそうと、病室を出た。ちょっとだけ、病院の敷地内を散歩したくて。


 外に出てみて正解だと思った。風は穏やかだし、日差しは眩しくもない。こんなとき、家族で散歩したいな、とは思う。入院患者同士がベンチで会話をしている。子どものお見舞いに来ている家族が微笑ましそうにしている。医者と患者が話している。そんな彼らの姿を見て、先日あった事件なんて誰もが忘れているように感じた。


 そんな中、一人ベンチに座ってその光景を眺めている青年がいた。どこかで見たことのある誰か。手には衛生材料が施された後。ああ、思い出した。昨日ぶつかった人だ。あのときは慌てていたから、きちんとした謝罪ができていなかったな。


 青年に声をかけようか迷っていると、彼はベンチから立ち上がった。そして、病院内に戻ろうと出入口があるこちらへとやって来る。こちらの視線に気付いたのだろう。近付いてくると「俺に何か?」そう言ってきた。言うべきだろう、きちんとした謝罪を。エナはまごつかせながら「あの」と青年の目を見た。


「昨日、ぶつかって……その、きちんとした謝罪をしていなくて。すみませんでした」


 昨日は焦っていたせいもあってか、雑な謝りだった。それが今のエナの心の中で引っかかっていることでもある。彼女が頭を下げると、青年は少しだけ戸惑った様子で「えっと?」と何かを思い出そうとしていた。


「昨日? 昨日……あったっけ? えっと、すみません。俺、何も覚えていなくて」


 どうやら気にしていないようだった。それは何よりのこと。よかった、とエナは改めて青年を見た。鋭い双眸。黒い頭を怪我しているであろう手で掻いている。入院患者だろうか。それとも通院でもしているのか。両手以外は至って健康的な人物ではありそうだ。


 しかしながら、と小さく首を傾げる。昨日以外でこの青年と会っているような気がしてたまらないのだ。だが、どこで会ったのかは覚えていない。どこだろうか。町中? それにしてはなぜに見覚えがあるのか。そこまで人をじろじろと見る方ではないのに。なんて考え込みながら「ここの患者さんですか?」とせっかくだから質問をしてみた。それに「ええ、まあ」と訊ねられるとは思っていなかったのだろう。視線を逸らした。


「患者っていうか。まあ、どちらかって言うと……通院? になるのかな?」


「手はどうされたんですか?」


「……あぁ、えっと怪我しました」


 本人は困惑した様子で答えてくれている。それでも、嫌々ではないようだ。「仕事上でちょっと」と話している時点である。目付きは悪そうだが、悪い人ではないようだった。まさかの話しかけられたことに少しだけ緊張をしていた青年は対話をして少しは解れたのか、エナに対しても「そっちは」と訊いてきた。


「入院されているんですか?」


「私じゃなくて、息子がね。昨日ね、怪我してここに搬送されたの」


「怪我?」


「うん、あの王都とかここでも連続殺人事件の犯人が現れたでしょ? それが向こうの鬼哭の村っていうところに住んでいるんだけれども、そこにも現れてね」


 昨日のことを話していると、青年は驚いたようにして「え?」と目を丸くしてきた。


「また現れたんですか?」


「そう。だから、思いっきり油断していて――」


 青年は怪我をしている手にあごへと持ってきて、視線を別の場所に動かす。何かを考えているようで、彼が何かを言おうとしたときだった。「キンバー君」そう自分の後ろから誰かを呼びかける声が聞こえてきた。それに反応する。どうやら青年はキンバーと言うらしい。エナはつられるようにして後ろを振り向けば、一人の医者が立っていた。キンバーは少しだけ申し訳なさそうに「じゃあ」と小さく頭を下げる。


「呼ばれたんで」


「うん、お大事にね」


「ええ」


 そうキンバーは医者の方へと向かう。彼らは何やら話しながら病院の建物の中へと入ってしまった。その場で一人残されたエナは敷地内を適当に散歩するのだった。

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