三十四日目
今日は山へ山菜を採りに行くよ、と言う言葉にキリはテレビ画面から視線をこちらに向けた。彼はやはり山菜というものを知らなくて、首を傾げて「なにそれ」と訊いてくる。横目では画面を見ていた。今はティビー・ウラビのカートゥーン番組の真っ最中。逆に邪魔をしてしまっただろうか、とは思うが、問題ない。目の前のテレビ画面で繰り広げられている物語の展開はまさしく山菜採りなのだから。ティビー・ウラビが友人のマーズと共に山菜を採りに行って、大きな獣に追いかけられているようである。エナはテレビ画面を指差しながら「あれよ」と教えた。
「ティビーの手に緑色と茶色いものを持っているでしょ? あれが山菜よ。それを、あっちの山の方に採りに行くの」
今度は慟哭山を差した。行くなと指示があったのだが、アシェドが行っても問題ない。村長自身も山の方に入っていった、と言うのだ。それならば、とは思っていても不安が拭えない。本当に立ち入ってもいいものなのか、と。それでも、この時期の山菜を食べたいという気持ちはある。その気持ちに押し負けるようにして「それを見たら、採りに行こう」とキリに促すのだった。
「お父さんは畑の様子を見てから来るって言っていたから」
「うん。ねえ――」
キリは気になることがあるようで、テレビ画面内で大きな獣から逃げ惑うティビー・ウラビを指差して「おれたち」とどこか不安げ。
「おれたち、あいつに追いかけられない?」
「……それはないわ」
思わず、失笑してしまう。あれはカートゥーン番組の中の話だ。確かに山の中には人を襲う害獣がいるかもしれないが、問題はない。村長の息子を殺した猛獣の噂はここ最近めっきりと聞かない。もしかしたならば、黒の皇国の方に逃げていったか。村の集落では村人たちが呑気に畑作業をしている。元々、ここに引っ越してきたのも害獣の噂をあまり聞かないというところからきているのだ。
「いたとしても、小さな動物ぐらいよ。キリ、そのときは我慢よ、我慢」
「うん」
害獣はいない、とわかると、キリは安心したように顔をテレビ画面へと戻した。大きな獣に追いかけられていたティビー・ウラビとマーズは崖のところにあった木の枝に掴まった。その獣はさほど高くない崖下の川へと落ちる。彼らはほっとした表情を見せていたのも束の間。それにつられるようにして、木の枝が折れ、ティビー・ウラビたちも川の中へと落ち――再び、今度は川の中で追いかけられてしまう。そこで話は終わってしまった。なんともカートゥーン番組らしいエンディングだ、と思いつつも「用意しようか」とエナは促した。これにキリは「わかった」と返事をするのだった。
◆
デベッガ家の裏手にある山の斜面を登る。エナは山菜を採って入れるための籠を手にし、キリは手ぶらだった。まだ山菜を採っていない上、空の状態の籠を持ったとしても、彼の後を追うようにして行くのだった。キリ自身が山の斜面を軽やかに登っていくせいもあってか、簡単に見えて仕方ない。だが、実際はそうでもない。足腰を踏ん張っていないと、危険。うっかり足を滑らせてしまいそうだ。
「ちょっ……待って、キリ」
キリは体力がある方だ、と感心を見せながら一足先を行く彼の後を追いかけるエナに体力の限界が垣間見えた。年齢でもなく、ただ単に斜面を登るということ自体あまり慣れていないせいもあるからだろうか。山登りなんてほとんどしたことがなかったし。
「かーさん、大丈夫?」
心配してきて、戻ってくると、荷物を持つよと籠を手にしてまた先を急いだ。キリはどんどん先に登っていく。その姿を見失うことはない。時折、こちらの方を見ては待ってくれているからだ。それでも、ここ最近はずっと傍にいてあげなくてはならないことはなくなってきたようだ。畑仕事の手伝いも文字の練習でも一人でやることが多くなった。この家に慣れてきているのだろう。どこか余裕が見える。そう考えると、嬉しさはあった。エナは上へと登るキリを見た。あの小さな背中で背負ってきた思いはどれほどなのだろうか、と。その思いはここに来て軽減されただろうか、と。
自分たちが山菜を収集する場所が見えてきた。すでにキリはそこに辿り着いて、座って自分が到着するのを待っている。暇なのか、適当に草を引き抜いていた。エナは木の幹に手を着いて、大きく息を吐くように地面を見た。再び、彼の方を見たときだった。キリの隣に誰かが立っていた。何やら二人して話をしているように見える。口が動いているように見えていた。とりあえず、そちらの方へと行こう。もう一度、息を吐くと、彼らのもとへと向かった。
「キリ、ごめんね。……村の方ですか?」
村人にしては怪し過ぎる、というのが第一印象だった。なぜにティビー・ウラビのお面を被っているのか。その人物は男の声で「いえいえ」と穏やかそうに言う。
「通りすがりの旅人ですよ」
「は、はあ……」
旅人? ということは黒の皇国から来た人か? 旅人にしては奇妙な格好だ。いや、それよりも――こいつ、王都や労働者の町での連続殺人事件の犯人ではないのか? キリが病院内で見た、という犯人像。ティビー・ウラビのお面を被った黒ずくめの誰か。まさしく目の前にいる誰かと特徴が一致している。だが、雰囲気は違うかもしれない。キリはあのとき、目付きの悪い青年を指差して「あの人、きけん」と言っていた。「あの人、ティビー」と言っていた。
実際のこの男はあの青年よりもがっしりとした体格ではある。完全な成人男性、とでも言うべきか。病院内にいた青年は見た目からして未成年であった。まだ体が完全に作られた大人とは言いがたい。それでもニュース番組や軍、他の目撃情報によれば、犯人は成人らしい。キリの目撃情報とは違うが――どう考えてもこの人物が連続殺人事件の犯人だと断定してもおかしくはないのかもしれない。たとえ、違うと否定したとしても、このようなところでティビー・ウラビのお面を被った人がいる時点であやしいと思う。ここで山菜採りなんて危険だ。いや、というよりも、自分たちは逃げられるか? 応援を呼ぶ?
「……ここ、あんまりないわね」
エナはアシェドに山菜採りの場所を変更するという嘘メールを送ろうと、連絡通信端末機を取り出した。もうすぐ、彼がこちらへとやって来るかもしれないからだ。アシェドにも危険は及んでしまう。そして、その後に軍にでも通報して助けを呼ぼうと考えた。
「あっちの方が多く採れそう」
なんて嘯いてみる。本当はもっと別の場所。幸い、犯人は得物を持っていない。どこに武器を隠しているかはわからないが、ここで下手に騒ぐと危険だ。自分にもキリにも被害は及ぶ。冷静になって、行動をしなければ。機器を操作しながら二人の行動に注目する。一方でキリは、こちらの不穏な空気に気付いたのか。立ち上がろうとするが、なぜか硬直していた。男の声が聞こえてくるが、何と言っているのかがわからない。肝心なときに、風が邪魔して聞こえない。男は笑っているようだった。
その笑い方が気に食わないのか、それとも何かしらの言葉に反応したのかキリが動こうとする気配を感じ取ったそのときだった。エナはこの耳ではっきりと聞いた。
「死なねばならないんですよ」
嫌な予感がした。連絡通信端末機から顔を上げる。キリとしての母親の目に映ったその光景は――。
「がっ……!?」
斜面を転げるようにして落ちていくキリ。地面には赤色の水が。男の手には血のついた短剣――あれは血!? 何があった!? いや、キリは刺された!?
「キリっ!?」
エナは手にしていた連絡通信端末機をその場で放り投げ出した。そして、下の方へと転げ落ちていくキリのもとへと向かう。足場なんて関係ない。自身もどこかに引っかかって、転げ落ちてしまうかもしれない。それでも、厭わなかった。あの子が心配だから。怖いから。何があった、何があった? 予想はつくのに、わかっているのに。自分の頭の中は余計に混乱するばかり。後ろにいるであろうティビー・ウラビのお面を被った男の存在は大きい。
不意にアシェドの言葉を思い出す。
【なんか村の人を殺したやつって言っていたから】
村人――村長の息子は猛獣に殺されたはず。だが、その猛獣は仕留められていなければ、捕まってもいない。もしかしたら、捕えられたかもしれないが、最終的な結果を自分たちは知らない。それでも、外出許可は得ている。
やつって? 確かに獣に対しても使う代名詞かもしれないが、人に対してももちろん、使う。まさかとは思いたい。本当は、村長の息子を殺したのは猛獣ではなく、人である? だとするならば、どうして村長はそのことを報告しない? いや、していた? 軍だけに? 村の人たちをパニックに陥れないようにして猛獣に襲われた、と嘘ついた!? そんなこと言っている場合ではないのに。実際に恐ろしいのは獰猛な獣でも、バケモノでもない。何を考えているかわからない人間だ。そう、あの男は何のためらいもなく、キリに攻撃をしてきたのだから。
キリは斜面の途中で止まって、背中を丸めるようにしていた。エナがそちらへと駆けつけると、見えた。つけられた傷が。腹にはばっくりと痛々しい傷が。そこからは止めどなく血があふれ出てきているではないか。
「キリ! キリ!? 死なないで!? 死んだら嫌!!」
息はしている? 脈はある? とっても苦しそう。助けてあげたい。幸い、男はまだ追いかけてきていないはず。いや、そうだとしても急がないと。キリを抱えようとするのだが――。
「逃げたらダメですよ」
ティビー・ウラビのお面を被った男がすぐそばにいた。手にはあの短剣。逃げるに逃げられないこの絶体絶命。殺されてしまう。エナはキリを守るようにした。だが、そうしたとしても、自分も殺される、という感覚はあった。怖くて恐ろしい。目の前に人を楽しく殺している愉快犯がいる。連絡通信端末機なんて上の方に放り出してきてしまった。アシェドに助けを求めるなんて不可能。いや、取り出そうとしている時点で、その血塗られた刃をこちらに向けるのが早い。殺されるのは怖い。それでも――。
「キリは殺させない」
どんなに恐ろしく思っても、エナは相手を見据えた。キリを抱いたまま、彼を傷付けさせないようにして。あの日、我が家にやって来た一人の少年は泥と血だらけだった。きっと毎日、毎日『死』の恐怖に怯えていたのかもしれない。
「…………」
「…………」
沈黙の睨み合い。向こうは動こうとせず、こちらの方にお面を向けているだけ。ややあって、ティビー・ウラビのお面を被った男は何も言わず、山の奥の方へと――どこかへと逃げるようにして行ってしまった。その姿が完全に見えなくなるまで、エナは目を離さなかった。なるべく、瞬きをせずして――そうして、彼女は安堵したのか、今日一番の大きな息をついた。いや、そうしている場合ではない。キリを見た。彼は眉をしかめ、嫌な汗を掻いている。急いで病院に――!
また抱えて行こうとするところでアシェドと遭遇した。彼はキリの腹から出ている血を見て慌てふためく。
「キリ!?」
「お願い! 車出して!! すぐに町の病院に!!」
「わかった! 車と手配をしてくる!」
アシェドは急いでくれた。その間、エナはキリを抱えて、後を追う。ここから最寄りの病院まで約二時間半はかかる。それまでの応急処置が重要になってくるだろう。彼女は家から清潔なタオルを大量に持って、車に詰め込む。我が家にある衛生材料だけでなんとかなるとは思わなかったが、それも詰め込んだ。とにかく、応急処置を施さないと、死んでしまうと思ったから。死なないで。お願いだから――。
運転はアシェド、後部座席にキリを寝かせ、エナはタオルで止血を試みる。なかなか血は止まらない。白いタオルがあっという間に赤く染まっていく。
「キリ……!」
キリの目は虚ろだ。長いまつ毛を伏せるようにして、いつもの綺麗な薄い青色の目が見えない。顔は血の気がないようにして、青ざめていた。家に来たあの日よりも顔色は悪い。
「キリ! キリ!? わかる? お母さんの声!」
必死に呼びかけた。何度も、何度も。生きていることを確認したくて。死んで欲しくなくて。頬を軽く叩く。そうしていると、その小さな口が動いた。何かを言っているようで――それが聞き取れなくて。それでも、生きているとは実感した。自分の声が聞こえているんだな、って。
「時間かかるけど、死なせないからね!」
エナもアシェドもそういう風にして呼びかけをしていると、キリの声が僅かながら聞き取れた。
「……い」
「キリ?」
「……い、きたい……。し、に……たく……な」
生きたい、死にたくない。それを繰り返すようにして口を動かしている。キリとティビー・ウラビのお面を被った男は何かしらの会話をしていた。生憎、エナはその会話の内容を聞き取れていない。ただ、あの男の言葉の一部だけは聞こえた。
【死なねばならないんですよ】
キリが死ななければならない? そんな理由はどこにあるというのだ。独りぼっちで生きてきた子どもに対しての突き放すような一言。下唇を噛みしめた。この子が死ななければならないなんておかしな話だ。生きてもいいんだ。いや、生きて欲しい。この世で独りになろうとも、自分たちが死のうとも――彼が死ぬ理由はどこにもない。味方はここにいる。ここにキリにとっての父親と母親がいる。血はつながっていなくとも、家族がここに――。
◆
前回のときより、騒々しいわけではなかったが、病院内は慌ただしかった。緊急患者であるキリが搬送され、緊急治療室へと運ばれたのである。二度の精密検査の担当である医者はアシェドたちから事情を聴いて小さな目を丸くしていた。
「あの犯人がですか? デベッガさんが住んでいるところに?」
「はい。私ではなく、家内とキリが遭遇したみたいで」
「その人、ティビーのお面を被った人だったんです。前に、ここに現れた殺人犯もそのお面を被っていたって言うから……そうとしかもう考えられなくて」
エナは自身の目で起こったことを担当医に説明しているが、キリのことが気にかかっていて、ほとんど治療室の方ばかり目が行っていた。ここからはどうなっているのかわからない。傷はひどいあり様だった。ここに着くまでに血は止まらず――今頃、車の中は血塗れのタオルだらけだろう。そんな彼女を見かねてなのか、担当医は「奥さん」と声をかけてくる。
「我々は全力を尽くしますので、休んでいてください。部屋をお貸ししますよ」
しかし、エナは首を横に振って「いいです」と言った。
「キリが気になるんです。ここで待っています」
これには何も言えず、二人に対して頭を下げると、緊急治療室へと入ってしまった。この場に二人だけとなった。アシェドは「エナ」と肩に手を置く。
「ここに立っているのもあれだ。そこで座って、待とう」
「……うん」
治療室の前に設置されているベンチに座り込むが、エナは顔をドアの前から動かさない。アシェドは両手を顔で覆って、憂う。
「エナ、お前が気を落とすことはない。俺が大丈夫だろうって、軽率だったから……」
「ううん、私の対応が悪かったかもしれない。遭遇したとき、どうすれば、最良の結果になっていたか上手く考えられなかった。すぐにキリをこちらに引き寄せればよかったかもしれない」
「いや、お前の対応は悪くなかったと思う。あの場で、大声で助けを呼べば? わかるよな? どちらにせよ、軍に連絡を入れようが、村に到着するまで時間はかかり過ぎるんだ。どうすることもできないのはお互い様さ」
もっともな話、ここで後悔しても遅いに尽きる。どの時点でキリは怪我したか、しなかったか。逃げられたか、逃げきれなかったか。事はもう過ぎているのだ。彼もであるが、村人たちが気になる。あのティビー・ウラビのお面を被った男はどこへ行ったのか。行き先は黒の皇国でも鬼哭の村でも捉えられるような方向だった。今頃、村が阿鼻叫喚とかしていなければいいのだが――。
伝えに行きたくても、行けそうにない。ここから村まで時間はかかる。それまでに誰か被害が及んでしまえば――。それに、村の誰かの連絡先なんて皆無だった。ある程度交流のあるカワダの連絡先でさえも。不安だ。
「カワダさんたち、大丈夫かな」
この時間帯、集落にいる人たちは野良仕事をしていることが多い。もちろん、学校に行って勉強をしている子ども、サボって村の中をぶらぶらとしているヴィンだって。不安が募るアシェドは「ちょっと受付のところに行ってくる」と立ち上がった。
「受付で、村の人たちの連絡先とか聞けたら訊いてくる。戻って、事件が発生しただなんて後味が悪過ぎるし」
「うん」
その場には自分が残り、行ってしまった。治療室の扉を見た。重たく閉ざされたその扉の奥には生きたい、死にたくないという思いを持ったキリが懸命に生きようとしているのだ。心から願おう。無事に、三人であの家に帰れますように、と。
◆
村の方に連絡を終えたのか、アシェドが戻ってきた。見覚えのある軍人二人を連れて。おそらくは病院で通報を受けた担当軍人がこちらへとやって来たのだろう。以前にもキリに事情聴取をしていた二人だ。ということは、今度は自分が詳しい聴取を受ける番か。これにエナはベンチから立ち上がり、頭を下げた。とことん、自分が持っている情報を差し出したい。一刻も早くに犯人が捕まるように、情報を提供したい。そんな思いが彼女にはあった。
「こんにちは。連続殺人事件の担当をしている者です。旦那さんとは受付で会いまして。詳しい話を別室でよろしいですか?」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
この場にはアシェドが残ってくれるらしい。彼とここで別れると、病院が用意してくれた部屋へと案内された。看護師さんが三人にお茶を持ってきてくれた。この場にお茶のにおいが立ち込める。そのおかげもあってか、多少は気分が和らいだ気がした。
「すみませんね、息子さんのことが不安でしょうに……」
一人の軍人が頭を下げた。それにつられるようにして、もう一人の軍人も頭を下げる。
「王都で起きた事件がこの病院で。しかも、あなた方が住まう村にまで及ぶとは思いもよりませんでした」
「ええ。私も村の方にまで来るとは思ってもいなかったので」
「息子さん、以前はこの病院で犯人を見た、と。それの事実隠しだかわかりませんけど――」
「可能性としては、そうかもしれませんね。ティビーのお面に、全身黒ずくめ。成人男性に短剣を手にしていました。犯人の特徴はそれです」
エナの言葉に、一人の軍人がメモを取る。そうしていると、小さな声で同一犯の可能性が高いですね、と呟いた。
「奥さん、現場状況を詳しく教えていただけますか?」
「はい、まさに今日の午前中の話なんですが――」
事細かに、事件の状況を二人の軍人に伝えた。すぐに逃げられず、どうにかして距離を取ろうとしたときに、キリが襲われた。こちらに対して殺意を向けられた。なぜかはよくわからないが、逃げられてしまった、と。そして、彼に対する発言で――【死なねばならないんですよ】という言葉も添えて。
一人の軍人がメモを取りながら、もう一人が「私怨かもしれませんね」と憶測を立てた。
「元々、息子さんを殺そうとしていた犯人は逃してしまった。多少の接点があったから、息子さんに狙いを定めて村の方に。そうとしか考えられませんね」
ただ、どうしてその場の逃走を図ったのかはわからない。単純に殺せたとでも思ったのだろうか。謎はそれだけではない。他にも――なぜにティビー・ウラビのお面なのか。誰構わず殺していっているが、目的は何か。
エナはキリと犯人が何かしらの会話をしていた、ということを話すと「本当ですか?」と会話の内容を知りたそうにしていた。だが、実際に知っているのはあの子だけ。実際に何の話をしていたのか訊かないとわからないのである。そのことを伝えると、二人はそうですか、とどこか残念そうにする。
「奥さんはその会話自体は聞いていないんですか?」
「私が斜面を登っている最中でしたので。息子もその犯人も上の方にいたから……」
「声は聞こえてきたんですね?」
「はい。それに、子どもの口が動いているのは目に見えていたので」
「それならば、息子さんの意識が戻ったときにお話を伺ってもいいですか?」
「はい。私も息子も犯人が早く捕まるのを願っていますので」
◆
事情聴取は相当な時間がかかった、とエナの体感時間ではそう思っていても、実際はそこまで長くかかっていなかったようだ。病院内にある時計を見てみれば、そこまで時間は経っていない。もしかしたら、まだキリは緊急治療室で生死を彷徨っているかもしれない。気になって仕方ない彼女はそこへと急いで赴こうとするのだが――。
誰かとぶつかってしまった。エナは「すみませんでした」と相手に頭を下げる。相手も「こっちこそ」とは言うが、こちらは頭を下げている状態だから顔が見えない。ただ、手には治療後か何か衛生材料が施されている。患者か。とても申し訳ないと思う。
もう一度、謝罪をした。そのとき、一瞬だけ顔が見えた。どこかで見覚えがある誰かのような気がしたが、キリのことが気になっているせいもあってか――そのことを追求せずして治療室へと向かうのだった。
◆
緊急治療室前でずっと待っていると、時間の感覚が狂ってきていると思っていた。ここに窓は見当たらないが、廊下全体が薄暗く感じる。アシェドが連絡通信端末機で時間の確認をしている。すでに夜の時間だ。お腹は空いていない。あの部屋にいるキリが気になるという思いだけ。彼はこちらに「疲れていないか?」と訊ねてきた。
「一度、広場の売店とかで腹ごしらえでもしてきたらいい。俺はここで待っているから」
「ううん。ここにいる。行っている間に、もしもって考えると……」
それはアシェドも同感だったようだ。今の自分たちに何か食べ物を喉に通す気なんてない。何度も見かねた看護師たちが休憩なされては、と言ってくるが――この時間までキリは一つも休憩できていないのだ。呼吸を、鼓動を止めないようにして足掻いている。呑気にお茶とか飲めない。安易に食事できない。それならば、と毛布を持ってきてくれた。おそらくは一夜をこの場所で過ごす二人のために。とてもありがたいことだった。
ぼんやりと時間が経つのを待つだけ。担当医がこちらの方に戻ってくるのを待つだけ――。
◆
エナは管理されていない山にいた。日当たりの悪い場所。ここが慟哭山だとわかっていた。だから、目の前で連続殺人事件の犯人に追いかけられているキリを見て助けなきゃと思った。走って逃げている彼は苦しそう。体を傷付けられているのに、全力で走っている。犯人はティビー・ウラビのお面を被って、手にはあの血のついた短剣が握られていた。男は薄気味悪い笑い声で言う。
「死なねばならないんですよ」と。
ずっと言っている。追いかけながらずっと、ずっと――。
「死なねばならないんですよ」
「死なねばならないんですよ」
「死なねばならないんですよ」
男は血塗られた短剣を振りかざし、あの子の背中に突き立てた。痛々しい現状が広がっているのに、血は一切出ていなかった。キリは崩れるようにして倒れるが、犯人が彼の腕を掴んで無理やり起こさせた。そして、死んだキリを操り人形のようにして動かしながら、こちらへとやって来る。ティビー・ウラビのお面を被った男は「死なねばならないんですよ」と言ってくる。自分の意思で体を動かせない我が子の目は虚ろだった。その目がこちらを見てくる。彼の口が動く。ぱくぱくと。こちらへと近付くにつれて、キリと口と男の言葉がシンクロしていく。
「死なねばならないんですよ」と。
◆
目が覚めた。その先にある重たそうな扉は閉ざされたまま。隣に座っているアシェドはぼんやりと廊下の一角を眺めていた。どうやら、エナは眠っていたようだ。とても嫌な夢を見た。あまりにも怖い夢は――目を覚まして忘れた。だが、どうしてもあの犯人の言葉ばかりが頭にこびりついて仕方がない。
【死なねばならないんですよ】
いや、キリが死ななければならない理由なんてない。そうエナは強く思うのだった。




