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断切  作者: 池田 ヒロ
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一日目

 誰も立ち入らない山の中。そこには首から血を流して微動だにしない男性が一人いた。そんな人物から少し離れたところでは、老人が必死になって立ち上がろうとする。老人は思う。危険なやつが村の方へと向かっていっている、と。このままでは十年前の自分たちがそうだったように、村人にも被害が及んでしまう、と。


「た、断ち切ら、ないと……!」


 しかし、老人の意識はここで途絶えてしまうのだった。

 山間に広がるのは田園の村、鬼哭の村。その村はずれの家に一組の若夫婦が住んでいた。若夫婦――アシェドとエナは王都からこちらへ引っ越しをしてきて、半年が経つ。彼らにはこの閉鎖的感じのある村人とは接点がほぼないし、あいさつも無愛想にされた。村の集会なんて以ての外。参加さえさせてくれない。決まったことは教えてもらえても、勝手に決められたりするものだからたまったものじゃない。二人は仲良くしたいと細やかに思いつつも、今日も農業に勤しんでいた。


 憧れで始めた農業。難しいながらも、戸惑いながらも二人は汗水垂らして買い取った土地の田畑を管理していると――。


「ねえ、あれ……」


 別の場所で作業をしていたエナが草刈り機を操作するアシェドのもとへと駆け寄った。


「どうした?」


 不安そうな表情にただ事ではない、と察知する。エナはとある方向を指差した。そこは山の斜面からふらふらとこちらの方へとやって来る何かだった。


「あれ、人?」


 よく目を凝らしてみる。おぼつかない足取りで下りて来ているようだった。ややあって、崩れるかのようにして、そのまま下の方へと転げ落ちてくるではないか!


「人だったら、大変だっ!」


 二人は慌ててこちらに向かって落ちてくる何かのもとへと向かった。


「おい! 大丈夫か!?」


 駆け寄って、声をかけるアシェドは眉根を寄せた。人の子だった。髪の毛は伸びきっており、全身傷だらけ。服も所々破けていてボロボロだった。その子に呼びかけても応じない。転げ落ちた拍子に意識を失ってしまったか。


「病院、って言っても、時間かかるよね?」


 ここから最寄りの病院は二時間半ほどかかるはず。それならば、とアシェドは「一度、家で介抱してあげよう」と子どもを抱きかかえ、家の中へと入った。その後もエナが入ろうとすると――向こうの方から、山の方から村人たちが農具を手にしてやって来ているのが見えた。それが怖いと思い、アシェドに相談する。


「俺が訊いてこよう。その子のことは任せたよ」


 子どもを託し、アシェドはこちらの方に来ていた村人の一人に声をかけた。


「どうされたんですか?」


 誰もが白髪交じりの中年男性に目を向けた。その男性が頷くと、アシェドの傍にいた村人が「実は」と重々しそうに語り出す。


「村人を殺したやつがこちらの方に向かったらしいんですよ。それで他の村人に被害が及ばないように仕留めに来ただけです。やつは危険なので、こっちがいいと言うまで絶対に外へ出ないようにしてください」


 仕留めに? 野生の動物か何か? 村人を殺したやつ? じゃあ、あの子どもはそれに? いや、待てよ。襲われた形跡とは言いがたい? 訊いてみるべきか?


 その村人にこちらの方にやって来た子どものことについて訊ねようとする前に――。


「早く、家の中に入ってください」


 話を聞く気余裕がないとでも言うようにして、追い払われた。この切羽詰まった感じはどう訊いても無駄だろう。アシェドは今度改めて訊くことにして、家の方へと戻った。


 自宅へと戻ると、エナはある程度体の汚れを拭いてあげたのか、手には土で汚れた白いタオルがあった。部屋で眠る子どもはどこか不安気に目を閉じている。


「まつ毛長かったから女の子って思ったけど、男の子だったみたい」


「そうなのか」


「ところで、あの人たちはなんて?」


「ああ、何か村の人を殺したやつって言っていたから。『猛獣』が村付近に現れたらしいんだよ。それで、村の人たちが仕留めるから、いいって言うまで外に出るなって」


「人じゃないのが怖いわね。軍がこっちに来るのかしら?」


「わからない。けど、この子のこともあるからなぁ」


 できるなら、早いところ病院に行かせてあげたい。そう思っていた矢先、子ども――少年は気がついたのか、目を覚ました。その薄くて青い目が二人を捉えると、突然起き上がって、部屋にある物を彼らに向かって投げ始めてきたではないか。


「こ、こら! 止めなさい!」


「嫌だ!」


その目は自分たちを見て怯えていた。手が震えている。この場にあった物を少年が投げつけようとしたとき、力なくその場に座り込んでしまう。力が入らないらしい。必死に気張って、立ち上がろうとするが――やはり、力が入らず、壁の方に向かって頭から倒れようとするも、それはアシェドが支えた。彼は抱きしめてあげる。


「俺たちはきみに何もしない!」


 事実そうだ。何もする気なんてない。ましてや、衰弱している子ども相手に。


 そう言うと、アシェドの言葉に思わず少年は涙をこぼした。なぜにこぼれるのかはわからない。けれども、この言葉が嬉しかったのだろう。ややあって、エナがその涙を拭ってあげた。


「私たちはあなたの敵じゃないわ」


 素直に嬉しかったのだろう。少年はその場に座り込み、泣きじゃくった。アシェドも座り込んで抱きしめてあげ、エナは優しく頭をなでてあげていた。


     ◆


少年は落ち着いたのか、泣き止んだ。それを機に彼の名前を訊ねてみる。それに――。


「キリ」


 そう答えた。


「どこの子? お家、わかる?」


「家、ない」


「……ここの村の子?」


 少年――キリは首を横に振った。


「どこから来たの?」


「あっち」


 キリが指差す方向は現在村人たちが総出して猛獣を探し回っている山だった。この山、慟哭山と呼び、二人がこちらへ越してきたときに村長から「危険なのがいるから特に奥の方には立ち入ってはいけない」そう、注意喚起を受けていた。危険なところならば、人は住んでいないはず。それならば、村の隣にある国――黒の皇国からやって来たのだろう、とアシェドは推測をした。


「あっちから来るとき、猛獣と遭遇しなかったか?」


「もうじゅう?」


 小首を傾げるキリにどうやら遭遇はしていないらしく、ほっと一安心する。


「それじゃあ、お父さんかお母さんとはぐれた?」


 それにまた否定した。それについて訊いてみると、自分が物心ついたときからいないらしい。


「知り合いの大人の人とかは?」


「いない」


 この答えに二人は顔を見合わせた。ずっと、一人で生きてきたであろうキリに同情をする。行く宛てのない子、おそらく行く先々で蔑まれ、疎まれ――。


「きみは、キリはこれからどうするつもりだい?」


「……わからない」


 手を差し伸べてあげなければいけない気がした。あの様子ではあれ以上に人間不信に陥ってしまうだろう。アシェドはエナを見た。彼女は大きく頷く。これにより、二人は決意する。


「なあ、キリ。行く宛てがないなら……うちの子にならないか? なあ」


 エナの方を見て、そう言った。彼女はもう一度大きく頷いている。自分たちには子どもはいない。欲しいと思っても、現実はそう上手くいかないものだったから。もし、行く宛がないのであれば、である。


「……うちの、子?」


「そうだ。今日からキリは俺たちの家の子。俺たちの家族だ」


 その言葉にキリは頬を緩ませた。ここに来て、初めて見せてくれた優しそうな表情に二人も微笑む。


「どうせ、俺たちには子どもがいない。どうだ? 今日から俺がキリの父さんで、こっちが母さんだ」


「とーさん、かーさん?」


「ははっ、実際に言われるとこそばゆいな」


「……いいの?」


 キリは不安そうにこちらを見てきていた。前髪から覗かせる薄青色の目が怯えているようである。そんな彼はどこか首を傾げている様子。そもそも、キリにとっての家族という定義がよくわからないのだろうか。いや、無理もないだろう。ずっと一人でいたならば。


 これに、二人は大きく頷いた。


「いいんだよ。行く宛てがないなら、なおさらここに留まっているといいよ。俺たちがキリを守ってあげるから」


「おれを……守って……?」


 キリが呟くようにそう言うと、アシェドは自身の大きな手で頭をなでた。


「ああ、守るさ。よし、そうとなれば。外出許可が出たら、役所の方に行って住民票を作ってくるか」


「…………」


「キリ、お腹空いてる? 何か作ろうか?」


 エナがそう訊いてくるも、何かを思い出したかのように、少しばかり警戒している様子。疑心は拭えそうにないようだ。そのため、キリはじっと彼女の方ばかりを見つめていた。いや、その傍らにいるアシェドにも同様だった。疑いの目をこちらに向けているのだから。お腹空いているはずだろうに、とこちらの質問に何も答えてくれない。それに少しだけ不安がるエナは、黙っているのはもっともな話なのかもしれない、と憶測した。なぜって、これまで誰にでも蔑まれてきた子どもがそうそう簡単に人を信用するはずがないのだから。どうすればいいのか、とその視線にたじろいでいると――。


「エナ」


 アシェドがそう呼びかけてくる。我に戻ったようにして、彼の方を見た。小さく頷いてくると「キリに何か作ってあげて」そう促してきたのだ。


「何か温かいスープとかでもいいと思う。その間、俺はキリの面倒を見るよ」


「それじゃあ、アシェド。お願いね」


 エナはキッチンの方へと姿を消した。その場からいなくなった彼女が気になるのか、じっと部屋の出入り口を睨みつけるように見ていた。それに「怖くないよ」と苦笑いを見せる。


「エナ……母さんはご飯を作りに行ったんだ。大丈夫、もう少ししたら温かい物を食べられるから」


 そう教えてあげると、今度はこちらに視線を向けてきた。薄い青色の目がこちらを見てくる。そんな目を見て、綺麗な色をしているのにな、と痛ましく思う。何も知らないような子どもが見てきた世間というもの。それは誰かを信用するべきではない、という自己判断なのだろうか。そんなことを想像するだけでも可哀想と思えた。


「キリの好きな物って何?」


 沈黙ばかりは痛い、とアシェドは訊ねた。特にボサボサの茶髪から覗かせてくる視線が少しだけ怖いと思ったからだ。いくら子どもと言いつつ、その荒んだ目はあまり気を緩められそうにない。強張った質問にしばらくの間は黙っていたが、すっと小さな傷だらけの手で窓の外を指差した。指先には可愛らしい小動物の姿があるではないか。動物が好きなのか? そう訊ねようと思っていたが、視線はこちらを向けたまま。ずっと片時も離さないと言いたげにキリの薄い青色の目は見てくる。


「あいつと遊ぶことが好きなのか?」


 首を横に振って否定した。


「食べる」


 ああ、そういうことか。好きな食べ物はあの小動物ってことか。いや、確かに好きなのはわかる。ステーキにしてもいいし、野菜と炒めても美味しい。アシェドだって、肉の中では一番あの小動物が好きだった。あいつが好きならば、今度エナにでも作ってもらおうか。そうすれば、きっとキリは喜ぶぞ。


「俺もな、あいつは好きだ。美味しいもんな」


 先ほどよりも大きめな反応を見せてくれた。自分と同じ共通点を見つけて嬉しいのかもしれない。いや、こちらだって嬉しい。なぜならば、キリの好物と自分の好物が合致しているのだから。


「まあ、今度エナ……母さんに頼んだらいいさ。きっと、そいつを食卓に出してくれるぞ」


「……そ、くたく?」


 今度は首を捻った反応を見せる。食卓を知らない、ということか。ということは、誰かと一緒にご飯を食べたことがない? 試しにそのことも訊いてみると、キリは頷いた。これまで一人の食事だったということになるのか。それならば、誰かと食卓を囲むということを是非とも教えてあげたい。知らない彼に幸福を教えてあげたい。そう思い、「こっち来てごらん」と立ち上がって、手招きする。その誘いに着いていってもいいものだろうか、と訝しげそうにこちらを見ていたが――ややあって、ゆっくり立ち上がるとアシェドを追いかけた。


 アシェドがキリを案内した場所はダイニングである。その近くのキッチンではエナが微笑ましそうにして鍋に火をかけているところだった。


「キリ、これが食卓。ダイニングテーブルだ」


「だい……」


「ここで朝、昼、夜と三回ご飯を食べるんだ」


 その説明をキリは聞いているのだろうか。ダイニングテーブルを突いた。白いテーブル。なんで、こんな形をしているのだろう。不思議だ、とでも言いたげな面持ちをしている。


「ここが、父さんの席。ここは母さんの席。そして、そこがキリの席にしようか。座ってごらん?」


 指差された方を見て、戸惑った顔を見せてきた。席? 何それ状態。首を傾げているから、これに座ることを知らないことに気付いた。だから、キリに見せるために「こうするんだ」と自席に座って見せた。


「これが椅子、席だ。ちゃんと三人分と予備の分もある。さあ、座ってみて」


 言われるがまま、見様見真似。キリは椅子の背もたれを遠慮がちに引きながら座ってみた。席に座る。ああ、こういうことか、と納得したようだ。床に足が着かないため、彼はプラプラさせていると、目の前に瓶に詰まった何かを見つけた。眉をしかめながら、眼前にある何か――調味料が入った瓶を見つめる。そうしていると、エナが「もうちょっとだけ待っていてね」と声をかけてくる。


「あと、数分煮込めばスープができるから」


 そう手にクラッカーが入った箱を見せてきた。エナはその中身を取り出しつつ、赤や黄色、緑色をした何かを挟んでいく。視線をアシェドの方へと移した。彼はにこにこと嬉しそうに「母さんが作ったフルーツサンドは美味しいぞ」と言った。


「絶対、キリも気に入るぞ」


「…………」


 そう言われても、と言いたげなキリの耳にガシャガシャと物音が聞こえてきた。この音に彼は肩を強張らせた。どうやらびっくりしたようで、その様子にエナは「ごめんね」と申し訳なさそうにした。


「手を滑らせちゃって。音、びっくりしたよね? 大丈夫よ、これは食器の音だから」


「……しょ、き……」


「もうそろそろできる頃だし、お父さんもキリも手を洗ってらっしゃい」


「おっ、そうか。キリ、手を洗いに行くぞ」


 手を洗う? 視線をテーブルの一角に落としつつも、頷いた。こちらを手招きするアシェドの後を追う。


 廊下の奥には洗面所があった。薄い黄色をした桶のようなところに水が落ちていく。ぼちゃぼちゃと音を立てながら、その桶の下はそれよりも大きめの桶があって、真ん中に穴が空いていた。この穴に水がこぼれていく。アシェドは洗面台の近くにあった銀色をしたレバーを引いた。すると、薄い黄色の桶の真ん中に穴が空いたのだ。彼は「ほら、こうして手を洗って」と促してくる。不安げにその水に手を触れた。冷たいという反応を見せた。


「よく洗うんだぞ」


 手の平を前後に動かし、洗う。そうしていると、アシェドがレバーをまた引いた。今度は穴から水が出なくなってしまう。これにキリが疑問を抱いていると「終わり」そう彼が言う。


「手を洗ったら、これで水気を拭いて」


 こちらも見様見真似。白いふわふわとした布で水気を落とす。キリが拭き終わって、驚いた。あんなに白かったタオルが茶色く汚れてしまっていたのだから。これを見てアシェドは「もうちょっと、腕まで洗おうか」と苦笑をする。腕まで洗う、と言われてもう一度手や腕に着いた泥などを落とした。タオルで拭き取っても、まだ汚れるようだが――。


「大体は綺麗になったか」


 残りは風呂に入るときでも問題ないか。そう一人納得して「ご飯を食べに行こう」とキリの背中を押してダイニングへと戻るのだった。


 ダイニングへと戻ると、テーブルの上には野菜のスープとフルーツサンドが置かれていた。エナはにこやかに「さ、座って」と椅子を引いてくれた。


「キリの口に合うかわからないけど」


「いや、合うさ。特に母さんのフルーツサンドはな」


「何それ、私のご機嫌取り?」


「別にそうじゃないけどな。ほら、キリ食べようぜ」


 二人のやり取りを見て、アシェドを見た。彼は美味しそうにフルーツサンドを頬張っていた。なるほど、ああして食べるんだな、と小さく何度も頷く。それを手にして口の中へと入れた。クラッカーに挟まれたフルーツは甘酸っぱいはず。初めて食べる味なのか、キリの目は大きく開いた。一口食べ、二口食べる。白い皿に盛りつけられたフルーツサンドを無心に食べる。この光景に彼らは硬直した。食に対する向き方が荒いのだ。余程飢えていたのか。茫然と見るだけ。いつの間にか彼はフルーツサンドを食べ終えていたようで、今度は野菜スープを見つめた。食器ごと持ち、そのまま口をつけて飲む。口の端からはこぼれているようだが、それすら気にしない様子。思わず二人は顔を見合わせるしかない。


 一気に野菜スープを飲み干すと、この後どうしたらいいのかわからない表情でこちらを見てきた。口の周りにスープの水気を残したまま。


「お、美味しかった?」


 頭が真っ白な状態のエナの口は勝手に動いた。その質問にキリは頷いた。心なしか表情が少しだけ穏やかに見えている。


「温かかった」


 この発言に二人は絶句する。キリはこれまでにおいて、温かい食事を採ったことがないと聞き取れた気がしたのだ。どこまで不憫なのか。エナの目からは涙がこぼれそうになる。そして、そっと彼を抱きしめてあげた。これに困惑した表情を見せるキリは「え」と声を漏らす。アシェドに至っては食べることを止めて、一人頷く。彼はどうして彼らがそのようなことをしているのが全くわからない、とでも言いたげだった。


     ◆


 食事を終えて、アシェドはキリに「風呂に入ろうか」と誘った。当然、風呂が何のことだかわからないのか「うん?」と首を傾げながらもこちらの後を追う。彼らは脱衣所で服を脱ぎ、キリの体についていた汚れを落としてあげた。温かい水、優しいにおいのシャンプー。


 体の汚れを落とし、風呂から上がったキリ。着替えはエナの分を借りた。風呂上がりの彼を見て、女の子みたいだ、と思う。彼女の言う通りだったのだ。まつ毛が長いから女の子だと思っていた、と感想を言っていたから。しかし、見た目は女の子に見えようとも実際は男の子だ。それも十歳にならないぐらいの。七、八歳ぐらいか? これまで、大人に頼れることなく、一人で生きていた子ども。二人の目頭が再び熱くなりそうになったとき、あることに気付いた。キリが自身の髪の毛を鬱陶しそうにしていることを。それもそうか、長年も切っていないようだから。理髪店にでも行って、頭をスッキリさせてあげたいな。そう思っていても、鬼哭の村の人たちが言っていた。近くの慟哭山に猛獣がうろついている、と。村人総出で仕留めに行っているらしいが、いつ頃外出許可が下りるだろうか。できることならば、一刻も早くキリを健康的な状態にしてあげたい。そう思う。この場で髪の毛を切るにしても、彼らには腕に自信はない。だからこそ、エナは「キリ」とゴムを手にする。


「こっち、おいで。髪の毛が邪魔でしょう?」


 一瞬だけ首を捻っていたが、頷くと、近寄ってきた。エナは「後ろ向いて」と指示を出す。


「髪の毛を結わえてあげる。もうしばらくしたら、髪の毛切りに行こうね」


 そうして、優しい手付きでキリの髪の毛を一つに結わえてあげた。本当は色々と髪の毛をアレンジしてみたいのだが――彼は男の子だ。流石に可哀想、ということで思い留まるだけにしておいた。


「どう、少しはマシでしょう?」


 首を縦に動かすキリ。それにアシェドが「似合っているぞ」と、どこかからかい気味に「おいで」とまた手招きをした。


「キリの部屋に案内するから」


 言われるがまま、アシェドの後を着いていく。その後ろをエナが着いてきた。


 この家の一番奥にある部屋、ここは元々ゲストルームである。だが、我が家に来客はいないに等しい。この村の者たちは、用事以外はこの家に立ち寄らないのだから。それだからこそ、家の場所を、部屋を持て余していたのである。元ゲストルームはベッドとテーブルに椅子が二脚だけのシンプルな部屋であった。その部屋をキリに見せながら、アシェドは「ここがキリの部屋だ」と言った。


「お前が好きに使いなさい。好きなように模様替えもしてもいい」


「…………」


 部屋をもらったからと言っても、キリはまだ戸惑いを隠せないらしい。好きに使え、と言われても。眉根を寄せて部屋の中を見るだけで精いっぱいの様子。そんな彼にアシェドは「こっちにおいで」と促した。その後を着いていく二人。近くにある部屋から順にどんな部屋なのかを教えてあげた。洗面所に風呂、トイレ。自分の書斎、アシェドとエナの寝室、物置部屋、リビング、ダイニング、キッチン――。


「自分の部屋もそうだが、ここはキリの家でもある。いたい場所にいてもいい。ただ、寝るんだったら、自分の部屋で寝てくれよ? ベッドはこの家で三つしかないんだから」


 わかっているのやら、わかっていないのやら。何度目の頷きだろうか。なかなかキリは言葉を表そうとしないようだ。だが、簡単な質疑応答はできている。人との対話はできなくはなかったはず。今は一気に色々な情報が頭の中に入ってきて、処理しきれていないのだろうか。こればかりは仕方あるまい。


 家の案内を済ませたアシェドは「さて、この後どうしようか」と窓の外を見た。今は夕暮れ。先ほど自分たちは軽食を済ませた。だからと言って、普通に夕食にするのはちょっときつい。そして、眠るにも早い。リビングなどでキリがこれまでどうしてきていたかを訊くにしても、答えてくれるだろうか。どこから来たのか、身寄りはいるのか、それらを訊き出してわったことは黒の皇国の孤児であることぐらい。十歳いかなくても、話せない内容はあるかもしれない。あまり言葉を話したがらない、ということは言いたくないことでもあるか。とにかく、嫌がるような詮索の仕方は止めておいた方がいいだろう。今はデリケートな時期だ。


 何かしらできること――ああ、そうか。異国から来たのであれば、この国のこともわかるまい。青の王国民にとって、知って当たり前のことを教えてあげよう。


「キリ、キリはあっちの方から来たと言っていたね。じゃあ、俺の書斎においで。この国のことについて教えてあげるから」


 キリは頷き、アシェドの後を着いていく。そんな彼らの背中を見て、エナは後片付けに入るのだった。


     ◆


 一度は案内して教えてもらったアシェドの書斎。壁にはたくさんの本が所狭しと並べられている。薄い本から分厚い本まで。適当に背表紙を見ているキリ。そんな彼に「こっちにおいで」と促した。素直に従うキリはデスクに視線を落とす。一冊の本をデスクの上に置き、椅子に手をかけて「こっちに来て座って」と促してあげた。彼はデスクの席に座った。先ほどのダイニングテーブルにあった椅子と違って、この椅子は柔らかいとでも思っているようだ。いいな、これ。ちょっと羨ましい。そう感じ取っているようで、座り心地を確かめていた。


「キリ、これは王都だ」


 キリがきちんと椅子に座ったことを確認すると、アシェドは一冊の本を開いて、それに乗っている写真を見せた。白い壁に青い屋根が特徴的な城がシンボルであるかのようにそびえ立ち、周りには白か青を基調とした建物が立ち並んでいた。石畳の上には人々の行き交いが見える。


「王都、っていうのはこの国の首都だ。中心って言ったらわかるかな? そこで俺も母さんも生まれて、育った。そして、この村に来た。農業に憧れてな」


 キリの薄青色の目にはその写真が写っている。


「ここはたくさんの人がいて、時間はこの村と一緒のように流れるんだ。それと、このお城には王族と貴族が住んでいるんだ。その人たちは、要はこの国を守ってくれる人ってこと」


 写真の隣には文字が書かれているが、文字が読めないようだ。それでも、眺めるだけ眺めている様子。


「ただ、王族や貴族だけがこの国を守ってくれているんじゃないんだ。王国軍も守ってくれている。この国に危険が及びそうになったとき、彼らは助けてくれるんだ。いや、誰かを助けるために軍人というのは存在するんだよ。それが彼らの使命みたいなものだからね」


 早く別のページに行きたいな、とページの端をアシェドの手を見ているようだった。説明をしてくれてはいるが、正直言って、何を言っているのかわからないのだから。


「あと、王都ではパレードも行われるんだ。毎年、建国記念日に豪勢なお祭りがあってな。俺も母さんも何度も見たよ。華やかで、賑やか。とにかく、昼も夜も大騒ぎさ」


 やっと、次のページに行ってくれた。次のページは複雑そうな図だった。いわゆる地図。青の王国の大雑把な地図ではあるが、キリにとっては訳のわけからない絵なのかもしれない。片眉を上げて地図を見る彼をよそに「ここが王都だ」と指で教える。


「うちが大体ここら辺にあるけど、王都と近いようで遠いんだよな。なんせ、車で利用するだけでも片道六時間以上もかかるからなぁ。で、うちの周辺と王都を合わせたこの一帯が北地域になる」


 このページには文字がない。地図には飽きた。ぼんやりと眺めるだけのキリ。


「それで、ここら辺が西地域。確か軍人育成学校があるところだ。そして、ここが東地域。この地域は世界一大きな川が流れているんだぞ。最後にここは南地域だ。南地域は……えっと、魚介類が美味しいと言われているらしいな。ごめん、ちょっと、詳しくは知らなくて――」


 苦笑いの状態でキリの方を見るが、いつの間にか彼は転寝をしていた。長い茶色のまつ毛を伏せるようにして、首をこくこくと動かしているではないか。眠気が限界なのかもしれない。それに、今日はあんなことがあったんだ。慣れないことばかりで疲れていたのだろう。


「キリ、眠い? 自分の部屋まで歩けるかい?」


「…………」


 瞼を重たそうにゆっくりと椅子から立ち上がろうにも、ふらつきが見えるようだ。これでは壁や角に激突してしまうな。そう判断したアシェドは「無理するな」と優しい言葉をかけてから抱えてあげた。ゆさゆさと揺られながら、薄目を開けていたその目は完全に目を閉じてしまう。


 アシェドがキリを抱えて廊下を歩いていると、洗濯機から衣類を取り出していたエナが「寝ちゃった?」と小さく笑った。


「本当、寝顔が女の子みたい」


「可哀想なこと言うなよ。確かに髪の毛伸ばしていりゃ、そうだろうな」


「でも、顔の造形は悪くないよね。ここの村の学校に行ったらモテるかしら?」


 エナはそう言いながら部屋のドアを開けてあげた。それにありがとう、と言うアシェドはベッドに寝かせる。


「そもそも、軽い人間不信に陥っているんじゃないか? だったら、行かずにここで基礎的な勉強ぐらいは教えてあげてもいいだろうな」


「そして、十四歳ぐらいになったら?」


「この子の将来もあるしな。就職か学校かな。俺たちがいなくなって、一人になったとき、キリ一人で浮世を渡れないだろうしな。ある程度の知識や常識を教えてあげないと」


「……私たちって、他人にここまでできるものなのね」


 キリの寝顔を見るエナは自分を思う。自分たち夫婦に子どもがいないのは彼女の病気にあった。子どもができない病気。本来、二人は子どもが欲しかった。それでも、できることは叶わない。何度か養子をもらおうか、なんて話もした。だが、結局は言うだけ。実行ができない状態だった。それでも、親の愛情を知らない子どもが今日、自分たちの目の前に現れた。別に身寄りのいない子どもとして軍に引き渡してもよかったが、彼らの良心が引き留めたのだろう。単純に同情した、ということもあるかもしれない。そうであっても、放っておくことができそうになかったのだ。


「けど、俺はこの子に何かをしてあげたいとは思っている」


「もちろん、私も」


 アシェドはキリの頭を優しくなでると、部屋を出た。残ったエナは「うん」と頬を軽く突く。


「私、この子の母親になってあげたい」


 頬を突かれたキリはくすぐったそうに眉根を寄せ、寝返りを打つのだった。


     ◆


 片付けが終えた頃。エナは大きく息を吐きながら、リビングへとやって来た。そこではアシェドが「お疲れさま」とお茶の入ったカップを差し出してくる。


「準備から片付けまで、色々ありがとうな」


「ううん、構わないわ。嬉しかったから」


 キリがこの家に留まると言ってくれたからだろうか。今日一日が終わって、ほっと一安心。また明日から彼を加えた楽しい一日が始まるはず。エナがお茶を一口飲むと、アシェドは「あのな」と少し重々しそうに青色の連絡通信端末機を手にしていた。


「色々と子どもを拾ったことに関して調べていたんだけど……」


「うん」


「勝手に役所で養子登録はできないらしい」


「えっ、じゃあ、どうするの?」


「なんでも、一度は児童保護センターで事情を説明したり、相談したりした後に向こうが養子を迎え入れることができるかどうかの判断をするらしい。そこから、養子受入許可証をもらって、役所で登録するそうだ」


「ああ……そう、よね。勝手に自分の子にしちゃいけないよね」


「うん、そう。だから、俺たちデベッガ家にキリが入れるかどうかは、児童保護センターの人たちの判断に委ねられるんだよなぁ」


 先ほど、母親になってあげたいと思っていたばかりなのに。エナは表情に影を作る。もしも、もしもだ。養子の受け入れが不可だったら、どうなるのだろうか。つまるところ、孤児院か。それとも、黒の皇国の方へと引き渡されるのか。不安そうな顔を見せる彼女にアシェドは「大丈夫さ」と笑って見せた。


「キリ自身もこの家にいたいって言っていたし、お前には子どもができないっていうハンデもある。向こうの人は許可をくれるって」


「そうだといいんだけど」


 しかし、問題はそれだけではない。まず、彼ら――と言っても、鬼哭の村に住まう者たちにも関わってくる話になるのだが、外出許可が下りなければ児童保護センターには行けないだろう。それに、キリの体にどこか異常がないか病院で検査を受けさせてあげたいし、鬱陶しそうにしている髪の毛も切りに行かせてあげたいのだ。解決しなければならない事案はたくさんある。それを一つ一つ処理していくのはとても時間のかかることだろう。あまり深くは考えない方がいい。そう考えた二人も就寝することにするのだった。

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