ゴブリン
彼には過去の記憶がない。しかしこれだけは何故か断言できた。
――おれはゴブリンじゃない!
手鏡を見ながら尖った耳やワシ鼻をつんつん触る。
それを周りの緑の小鬼たちが気味悪そうに見ている。
自分がゴブリンだと気づいたのは数日前。
――あの日に何かあったに違いない。
その日、村は絶賛戦争中でパニックから始まった。
幸い村で一番地位が高く、守ってもらえたので助かった。
そして戦争が終わったかと思うと、魔王様に招集された。今は魔王国の聖地と呼ばれる場所に寄り道しているところだ。
『そろそろ魔王城に向かうゴブ』
従者を急かす。
――ただでさえ遅刻しているのに、観光とかこいつらの時間感覚を疑う。
聞けば魔王様は恐ろしいお方だというのに。
どうしまひょ。
手の平にある紐のついた小さな板を見る、今の彼の心のオアシスは道中に発見したこの異世界のアーティファクトだ。
心がなんとなく安らぐ。
『キング、迷宮から誰か出てきたゴブッ』
従者の警戒の声、指さす方を見ると聖域のある丘の上から人間らしき男が一人降りてきた。
あちらも既に気づいているようだ。
警戒している。
周りをきょろきょろ見た。逃げるか迷っているようだ。
――お?
逃げずに堂々と歩いてきた。
『ガァッ!』
村で一番強いゴブリン〈ガガ〉が威嚇した。
痩せて目は窪み、一見弱そうに見えるが細い身体は鋼が詰まったように強靭だ。
『待てガガ!』
『ガァッ!』
威嚇をやめない。
ガガは全く命令を聞かず、何かにつけて反抗的だ。
――戦争中びびってお漏らししちゃったのが不味かったか。
しかし【ゴブリンジェノサイダー】の異名を持つ、ガガの戦闘力はゴブリン界最強と目され、村で逆らう者はいない。
男は少しの間、ガガを凝視しダガーを抜いた。やる気だ。
――やめろ兄さん、あんたの敵う相手じゃない!
人間のスクラップは見たくないんだ!
ガガの腕を掴んで必死に止めようとするが、乱暴に振りほどかれた。
ガガが跳ぶ。ものすごいダッシュ力。
もう相手の懐にいた。そしてすでに金属製の棍棒をスイングしている。
――これだ。こいつの戦闘力はゴブリンの規格を越えているのだ。
予想外だったのか、男はバックステップで避けようとするが遅い。
鎧の上から棍棒が叩き込まれた。
耳をつんざくような金属がぶつかる音が響く。
男は20メートルは吹き飛び、転がった。
――あちゃ〜。
エグい光景を想像する。
しかし男はすっくと立ち上がった。
――えええっ!?
男は何やらぶつぶつと言っている。
小躍りして力を鼓舞していたガガは、ぬか喜びに怒り再度飛びこんだ。
男は今度は初撃を避けた。
そのまま激しい攻防が始まる。
瞬く間にガガが押され始めた。信じられないことに速さも力も男が上。
――あんな普通っぽい人間がこんなに強いのか。やっぱりゴブリンはゴミなんじゃ。
これやばくね?
あいつが死んだら、おれも殺されるじゃん!
『《グローリー・オブ・ファミリア/親しき者への栄光》』
焦って気づいたらスキルをぶっ放していた。
範囲内にいる同種族を強化するスキル。
このスキルこそが従者たちが従う理由でもある。
ぐんっとガガがパワーアップした。
男がスキルの発動者を睨んだ。
――げ、バレてる。何でだ。
パワーアップしたものの時すでに遅し、ガガの腹にダガーが突き刺さりぶっ飛ばされた。
――ヤバいよヤバいよ〜。
死んだように見えたガガが僅かに動いた。
――まだ生きてる!?
かくなる上は!
これだけは使いたくなかったが、もうあれをやるしかない。
奥の手中の奥の手、最終奥義。
猛然と男に向かって走り出す。
男が構えた。
『すいませんでしたゴブッ』
ジャンピング土下座。
――あ〜終わった。
これじゃ例え見逃されても、村中で根性なしだと馬鹿にされてしまうだろう。
おれのゴブリン人生さっそく終わった。
男はそれを不思議そうに眺めた後、
「ダメだな、お前らみたいな危険生物を見逃せるか」
『もう絶対に人は襲いませんゴブッ』
男は無言で近づいてきた。信じちゃいないようだ。
そらそうだ。自分だって信じていない。
『おれの責任ゴブ、それならばおれから殺してくれゴブッ』
顔をあげてないので分からないが男がピタリと止まった。何か考えているようだ。
ふと男が何かに気づいた。
「そのお前の手に持っているものはなんだ?」
『これは異世界のアーティファクトゴブ』
「それと食料を差し出せば許してやろう」
『ほ、ほんとゴブか。渡すゴブッ』
男にアーティファクトと干し肉を差し出した。
「そう言えばお前何かスキル使っていたよな? 強化系か?」
『はいゴブ、範囲内の種族を強化するスキルゴブ』
「かなり強いスキルだな」
『はいゴブ! 魔王様も持っているらしいゴブッ』
「魔王、様も? ふむ」
男は顎に手をやって何かを考えている。
「次人を襲ったら見かけ次第殺す」
『は、はい、分かりましたゴブッ』
男はそう言うと受け取った異世界のアーティファクトを耳につけ、立ち去った。
――あああっ! あれは!
音……楽?
――分からないけど、おれはあれを知っている。
気付けば涙がとめどなく溢れていた。
小さくなっていく男の後ろ姿をずっと眺めていた。
その後、一つだけいいことがあった。
なぜかガガが子分のように従うようになったのだ。