虫腐し
短いのでさくっと読んでいただけると思います。
自分は誰なのか、今どうなっているのか、夢をたどっていくような散文です。
淡い薄紅の色を帯びた透明な液体がとろとろと躯をつたい流れていく。
何処から湧き出たものか、依然として由来の判らぬまま得体の知れぬ恐怖感が体内をほとばしりゆるりゆるりと浸食を始める。生温かいその触感はそこはかとなく昔の記憶を呼び起こす。
だがそれがいつの記憶なのかははっきりとしない。ただ懐かしいような儚いような、幼い頃母親に抱かれていた心地とよく似ている気もするが果たしてそんな経験があるのかどうかも思い出せない。
肩をつたい腕から手の甲へ流れゆき、指から滴る溶液はとろりと腿に触れ、膝へ脛へ伝わり 微かに桃のような甘い香りが鼻孔を刺激する。その液体が何なのか、確かめようにも瞼はどっしりと重く うっすら目を開くことすら出来ない。
何故それが薄紅色と知っているのかも判らない。それより何より、今自分の躯がどのような状態にあるのかすら把握することもままならない。横たわっているのか立っているのか、それとも海底に沈んでいるのか宙に浮いているのか、重力というものを全く感じられない。いや待てよ、そもそも私に躯などという物質的要素は存在したのだろうか。そんな疑念さえ生じてくる。この意識だけが存在するのみで、肉体を所有していた記憶は一切思い当たらない。 だが、皮膚はその液体の感触を読みとり脳に恍惚というシグナルを送り込む。ねっとり少しずつ、―「躯」なのか「意識」なのか定かではないが―私を包みこむそれは徐々に香りを増し、激しい異臭となって鼻を突く。肩から首へ、首から顎にかけてとろりとろりと皮膚をなぞり唇に触れつんざく匂いと柔らかいゼリーのような触感を得た途端 、パンッと音を立てて何かが弾いた。
そうだ、自分はウツボカズラの甘い蜜に誘われてついうっかりと足を滑らせたのだ。気がついたときには既に躯はとろけだし溶液と同化していく。残っている躯はどの程度なのだろうか。最早、この意識のみかもしれない。
朽ち果てていく感触に酔いしれる自分を食虫植物は消化していく。 私は悦に浸りそっと意識を失う。