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私と母

 

 母は料理上手な人である。私は自宅を出て一人暮らしをするまで、母の料理が美味しいのは舌が慣れているのだと思ってた。もしくは、贔屓の引き倒しだと。

 けれど自炊や外食が増えるにつれ、母の方がいいな、と思うことが多くなった。もちろん、料理屋に行けばプロの方が腕前はいい。器も凝っている。

 金を払うことが嬉しくなる、私は幸いにして、そんな店を何軒か知っている。


 台所にいる母を見ていると特段のことはしていない。これは料理上手な母を持つ人の共通意見であるように思える。

 家庭料理であるから隠し包丁は派手にいれない。面取りや八方剥きなんてしていない。刺身にツマなんぞは、基本はつかぬ。いや待ってほしい、皿に敷く葉物はツマだろうか。食べてしまうがツマも食べる人は食べる。

 結論が行方不明になってしまった。

 作る姿勢がブレないのも美味しさの原因だろうか。切ったサイズは大根人参玉ねぎにしろ、ひとつの材料でバラつきがない。切っている間に出汁を取り、肉が主役のおかずの場合は肉から炒めはじめる。その他は火の通りにくい野菜から。

 灰汁を取って、煮る。調味料は『さしすせそ』の順。

 魚の煮物は合わせ調味料が煮たってから入れる。脂の強い魚は湯をかけて余分を落としておく。火を通しすぎないことが肝要。

 白身がきれいな刺身は濃い色の皿へ盛る。青魚にはネギを添える。生姜もいい。

 赤身には白が映えると言いながら、サーモンもマグロも牛のたたきも、私的には濃い緑の皿に盛りたい。ただ、私には盛りつけのセンスがないので、並べても並べても薔薇のようにはならぬ。

 何度習っても、ならぬ。



 失敗したグルメ描写みたいになったが言いたいことはそこじゃない。母との思い出である。なぜ母の料理がおいしいかの追求でもないので安心してほしい。マザコンの証明でもない。

 時間軸さえも曖昧な、思い出語りだ。



 幼いころ、私は学校へ行きたくない子だった。理由は単純にして明快で、朝に弱かったのだ。20時には布団に追いやられていたことを思えば、必要睡眠時間がごく長いタイプなのだろう。とにかく眠い。

 幾度となく、今朝は熱があると訴えた。

 石油ファンヒーターの温風では水銀体温計は上がらぬものだ。私は一計を案じ、ある日、炊飯器の上にかざしてみた。結果として水銀の位置はぐんぐんと上がり、そうして、下がらなかった。

 40度越えの体温計をドヤ顔で差しだし、ふきだされたことを覚えている。頭をポンポン撫でてもらい、その日は機嫌よく学校に行った。


 たまに、本当に熱を出した。そんなときは寝ているしかない。他の兄弟は学校だ。本は売るほどあったが、頭が痛くなるからと読ませてもらえなかった。

 アイスクリームが食べたいと言うと、母は難しい顔をした。きっと気分が悪くなるよという。そこを押してなんとか、と私は粘り、オレンジ味のラクトアイスを買ってきてもらった。

 母が難しい顔をしたわけは食べ始めてすぐに理解できた。不味い。当時のオレンジ味は小児科で出されるドライシロップを数倍上等にしたような代物で、熱のある時に食べられるようなものではなかったのだ。

 さらに、乳製品は弱った体には重すぎる。ラクトアイスを選んでも、やはり、私の体調は後から悪化した。

 熱が出た日はおじやが出る。私はある日、おじやではなく粥が食べたいとねだった。母は難しい顔をした。

 この時点で気がつけばよかったのだ。

 私は母に粥が食べたいとねだり倒し、昼食を粥にしてもらった。母自身は粥が好きなのだ。小説にもマンガにも風邪のときは粥だと書いてある。

 私は喜び勇んで粥を口にし、そして閉口した。


 とかくに味がない。


 母は、ふふ、と笑った。当時は塩に種類がなく、アジシオと呼ばれる食卓塩が唯一であったが、これを差し出してくれた。

 まだ味がない。

 仕方がないので塩を足すと、今度は塩辛くて食べられない。これは苦すぎる薬に砂糖と塩を間違えて入れた時以来の大失敗だ。私は小さく、お母さん、と呼んだ。

 梅干しも梅紫蘇も嫌う私が、味のないドロドロを食べられる道理がない。

 母は苦笑し、粥に卵を入れてくれた。いったん下げられた真っ白な粥はたちまち卵色になって出てきた。

 黒塗りの椀は中が赤く、黄色が金色に見えるほどに艶々している。冷ます用の青絵付けの小皿と匙とで小さな塗り盆に載って出された。絵本のような鮮やかな取り合わせに私は喜び、そして。


 風邪を引いても、食の面でいい事はそうそうないことを悟った。


 ちなみに、それから私の病人食はニラタマおじやか、鶏ガラで出汁を取った五目粥になった。

 人間は学習することが大事である。以来、私は病人食に注文をつけなくなった。



 中学のときだ。体調不良により早退した私は寝てしまい、昼過ぎぐらいにふと起きた。実家は音の通りにくい家で、とくに上下では飛んだり跳ねたりしないと伝わらない。

 しぃんとした部屋には兄弟の気配もなく、外ではたまたまだろう、虫も鳥も鳴いてない。遠くで学校のチャイムの音が聞こえる。


 もしかして、世界に私だけしかいなくなったのでは、と私は思った。


 常々、そういう展開を望んでいたはずだった。繰り返すが中学生である。誰からも干渉されない日々を、静かな毎日を切望していた。夢の中では私はいつも逃げていた。

 家の中に吸血鬼やゾンビが入ってくるので、いったんは引こうと逃げる。

 そんな夢を週3くらいで見ていた。


 唐突に、恐ろしくなった。


 どれだけ馬鹿げた考えかと自分を叱咤しつつ、『もし』は脳裏から消えなかった。私はヨロヨロとした足で階下に行き、誰もいないことを目視した。台所にはメモも残ってない。炊飯器は沈黙していた。時計は秒針の音が聞こえる。食器はすべて水屋の中。

 静寂が耳をつく、という文章の意味を、私はこのとき理解した。

 別にわかりたくもなかったが、この家には私しかいない。実家は学校が集まっている道路の傍なので普段は交通量が多いのだが、エアポケット的な偶然で、このときは誰の声も聞こえなかった。珍しく電話も鳴らない。

 世界から消えたのは私か、あちらか。

 私はガンガンと痛む頭を抱え階上へ戻った。自分のベッドへ転がり、うつらうつらと考えていた。


 ただいま、という声が聞こえたのはその時である。母は、お使いに行っていたようだ。


 玄関ドアを開けたその足で母は私の様子を見に来た。買い物袋を下げたその姿に、私は我慢できずにしゃくり上げて泣いた。まるっきり子供みたいだと恥ずかしく思いながら、お母さん、とだけ言った。

 母は、「おーおー、泣き方は3歳の子から全く変わらんねぇ」と笑いながら私の頭を撫でた。

 私が母の身長を越したのは小学4年生の頃だ。私はなんの気なしに少しだけ頭を下げ、撫でやすくした。


 ああ、私はこの人に育てられたのか、と初めて思った。


 側頭部をぶん殴られるとはこのことだった。目から鱗よりも乱暴だ。息が止まるようだった。

 私は、この小さな人に『育てられた』。おむつも替えられた。この人はずっと、私を見ている。私の赤ん坊の時の記憶は、この人が持っているのだ。

 私のご飯を作り続けている。

 ああそう。


 ああ、そうか。


 なにかを悟るときには感慨のように静かに湧く。ひたひたと何かで心が満ちていく。

 なんということはない思い出だが、あの時のことは強烈に覚えている。

 もちろん、それ以降でなにかが劇的に変わったということはない。いきなり感謝するようになったとか、手伝うようになったとか、そんな感心な心変わりはしていない。その後も私の態度は変わらなかった。

 母とは空気のようなものだ。いなくては息ができない。太陽なのだ。照れば家庭は明るくなるし、隠れれば雰囲気が暗くなる。


 家族の誰もがそういう存在としている女の人は、けれど、私とは別人である。


 私の心理的親離れが明確になったのはきっと、ここらあたりだろうと思っている。

 母が独立したひとりの人間であることを、私は肝に銘じさせられた。

 まぁ、だからこそなおさら、反抗期の私は尊敬を拗らせていったのだけれども。



 時がたち、私も結婚をして子供を産んだ。子育てについてはまた別に書く。長くなるから。

 時折、私は母になれてるかを自問する。子供を産めば保護者にはなれる。けれどそれは、お母さんになれたのと同義ではない。

 年を取れば大人になるか、子供を産めばお母さんになれるか。

 それらのことは、また違うように私には思える。

 きっと、子供たちが全員巣立ち、手を離れて生活しているなかでひょっこり、アポを取らずに手ぶらで私のところに顔を出すようであるならば。

 私は自分の事を、彼らのお母さんなのだと思えるようになるだろう。

 何の気兼ねもなく、ただひたすらに味方であると無条件に子供たちから信じられている。

 どうやらそれが、私の母親像のようだ。ちなみにうちの母はアポを取らずに行くと高確率で留守である。

 比喩でなく忙しい人なのだ。習い事でもすればいいのに、あちこちに飛び回っている。



 母との思い出は、私の生きてきた年月分ある。それが幸か不幸かなのかは、私には判断がつかない。良くも悪くも愛憎が深いタイプの両親と私だ。もう少し薄くても、十分だった気がする。

 一緒に旅行に行ける日がいつか来るのか、それは神さまだけが知っていればいい。ご飯は向い合せて食べられるようになった。同じ家で眠れるようにもなった。ジョークはもとより飛ばせる。

 というか、どうやら私と母の感性は独特のようで、『陽気なイギリス人』か『陰気なイタリア人』のノリらしい。余人はあまりついてこられない。残念だ。

 恐らくだが、母の葬儀の時に私は泣く暇がないだろう。うっかりするとエーミールと探偵たちに出てくるエーミールのお母さんのように、『忙しすぎて、泣くことを忘れちゃった』となりかねない。

 音に聞こえるうっかりさんの私としては、泣くことをメモに書いて忘れないようにせねばならない。

 私と母の関係は、のらりくらりで済ませたい。墓に向かって涙ながらに『お母さん』と呼ぶのは勘弁したい。人は死ねば肉塊になる。私は、できるだけそう思いたい。

 この世から消滅する。

 私にとっては、そちらの方が救いに思える。

 極楽浄土へ参られるか、そんなことまで心配していたくはない。

 

 だからたぶん、本当に母が死んだときには、私は中学生時分のときのように手放しで泣くのだろう。


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