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少年と少女のお話

満州の少年

作者: 丸山円子

むかしむかし

といってもそんなに昔ではなく

おじいさんがまだ若かった頃のお話です。


日本はとても貧しい国でした。

おじいさん達はお腹を空かせてとても貧乏でした。

働いても働いてもお腹いっぱい食べるができません。

農業をしている日本人が今より沢山いる時代でした。働き手を増やすため兄弟が沢山いる家庭が多いのですが、土地は限られているので貧しくなるばかりです。


そんなこんで、日本は外国の土地で農業を発展させようぜ的な政策を考え出します。


田舎に住んでいたおじいさんの家にも

そんな政策が聞こえてきました。

「中国に満州という国を作るらしい。満州は土地が沢山あって、ごはんが腹一杯食べれるようなるんだと!」

当時の人たちにとっては夢のある話で

多くの日本人が満州へと希望を胸に渡ったそうです。


おじいさんの家庭は複雑で

おじいさんのお父さんとお母さんが離婚して

お母さんに引き取られたおじいさんでしたが

お母さんが新しい男の人と結婚したりいろいろあって3人目のお父さんについて多くの人と同じように満州へ渡ったそうです。


実際に行くと満州は

そんなにお腹いっぱいごはんが食べれるところではありませんでした。

しかし、おじいさん達はプロ農家でしたから一生懸命働いて、路上で饅頭を売ったり苦労しながらも満州で生きてゆくために頑張りました。

おじいさんは連れ子でしたから、気まずさもあったでしょうに文句も言わずに働いたそうです。


そんなときにさらに苦労が襲うのです。

戦争が始まってしまったのです。

これからどうなるんだろう、日本にいる家族は大丈夫なんだろうかという不安を抱えながらも

おじいさんは学校で

『日本は神の国だ。天皇陛下がいらっしゃる。戦争に負けることは絶対ない。』

と教えられていたのでそれを信じてはやく戦争が終わることを願っていたそうです。


しかし、日本は戦争に負けてしまいました。

8月15日を終戦記念日といいます。

戦争は終わりましたがおじいさんの戦争はここから始まります。


戦争が終ったときおじいさんは満州にいたそうです。満州は中国にあります。戦争が終ったとき中国人の間にもプチパニックというか結構パニックが広まって日本人が暴行をうけたり拐われたり、おじいさん達は息を潜めるように生活しなければならなくなりました。

噂によると日本人を悪くしないと罪になるとか

当時、日本の移民を悪く思ってた人もいたとか

アメリカの人が日本と中国の関係を悪くて力を落とすために日本人は悪い奴らだと噂を流したりしたとかしないとか

真偽は分かりませんがとにかくやばくなって

このまま満州に住むことが出来ないと思い

それで日本に帰国することになったそうです。


しかし、そう簡単に帰国することは出来ません。

なんせ戦争が終ったばかりで混乱しているのです。

混乱の中、義父は中国人に連れられてどこかに行ってしまいそれ以来生き別れてしまったそうです。

お母さんと2人の弟とおじいさんは、日本に帰る人達の団に入れてもらうのですが、中国はとても寒く、また食糧も十分ではありませんでした。

帰路の中多くの人が衰弱し病気にかかって死んでしまいました。

おじいさんの家族も

始めに下の弟が10日後にお母さんが1週間後に上の弟が…とおじいさん1人になってしまったそうです。おじいさんは家族の亡骸を土を掘って埋葬し、髪の毛や爪を切りとってこれだけは日本に連れて帰ると亡くなった日付を書き込んだ紙に包み、靴下の中や腹巻きの中に隠し持ったそうです。


おじいさんは孤児になってしまいましたが

孤児になった子は他にもいて

大人も自分のことで精一杯でなかなか助けて貰えるよう状況ではありません。

孤児同士で集まって生きてゆくために頑張ったそうです。


しかし、それでもどうしてもお腹が空いて

あるときおじいさんたちは民家に忍び込み食べ物を漁ることに、つまり泥棒に入ったそうです。(たぶんもう時効です。)


ですが、すぐにバレて家の人に見つかってしまいます。何語か分からない言葉を叫ばれ、銃を突きつけられたそうです。そとのき、おじいさんは

「ああ、もう死ぬんだ」と諦め欠けたそうですが、おじいさんをみた家の人たちが何か察したのでしょう家にあげてシチューのようなものをごちそうして頂いたそうです。彼は言います。とても美味しかったと。


日本への帰路はとても厳しいものだったのです。

孤児の仲間も倒れて行きましたが

おじいさんは運よく日本行きの船までたどり着くことができました。

家族の遺品を隠し持っておじいさんは船に乗り

あと少しで日本というところで、今度は船の中で流行っていた病にかかってしまい死にかけたそうです。「俺は、日本に帰ってあの田舎の谷の美味しい水を飲むまで絶対死なん。」と何度も心に誓ったそうですが、これはもう一番やばいとなったときに、子供1人でいるおじいさんを心配してくれた親切な船員さんがこっそり林檎と薬のようかなものをくれたそうです。おじいさんは林檎を食べてなんとか元気を取り戻しました。後にこの名もなき船員さんは命の恩人だったと語り継がれます。そして我が家では風邪をひいたら林檎というのがお決まりになります。


おじいさんは無事に田舎に帰り

お母さんの実家に遺品をもって行きました。

もう死んだと思われていたおじいさんが帰ってきて

皆はたいそう驚いたそうです。

「よく帰ってきた」と言われ、小さな遺品でお葬式をあげ、谷の水を飲んだときほんとに美味しくて日本に帰ってこれてよかったと涙が出たそうです。


日本に帰ってからも

孤児だったりと沢山の苦労をしましたが、

最初のお父さんが、戦争で息子達を失い跡取り困っていたところで引き取られ、おばあさんをお嫁に貰い、家族皆がお腹いっぱいごはんを食べられるようにお家を立派にしました。


おじいさんは終戦記念日が嫌いです。

戦争で沢山我慢をしてきたのに、負けてしまい

なんのために家族が死に辛い思いをしなければならなかったのかとかいう思いがあるのでしょうか。

一生懸命、おじいさんは戦いました。日本人は戦いました。それが過去の悪いことのようになっているからでしょうか。


私は戦争での一番の被害者はおじいさんのような子供達だったのではないかと思います。

戦闘を誇らしげに語ることもなく、お金儲けをしたわけでもなく、一番弱い立場でなにひとついいことなんてありませんでした。


おじいさんは戦争の話をすると辛そうであまり話したがらないのですがよく

「戦争だけはしちゃいかん。もし、日本が戦争をしそうになったときは皆で止めんといかん。」

と言っています。

最近の外交問題のニュースを見ては

「中国人を馬鹿にしたらいかん。戦争中は中国人は猿のような奴らだと教えられていたが、中国人だってちゃんと頭を使って考えて優秀な奴だっているんだ。それに、中国は日本よりも大きくて人が比べ物にならないくらい多い。戦争は殺し合いだ。戦争したら日本は絶対負ける。」

おじいさんは外交に詳しいわけでも軍事力に詳しいわけでもないのですが、普段温厚なおじいさんが声を荒らげて言い聞かせる話は、頭のいい人が言うどんな意見よりも大事なことだと思うのです。


むかしむかし

満州といところに移住していた少年は

沢山の苦労をしましたが

平和な日本の谷の水が美味しい田舎で孫と縁側で昔話をしながら穏やかに暮らしています。


つたない文章を読んでいただきありがとうございました。歴史や政治の捉え方は、沢山あると思います。私の主観が入りすぎるとお話が説教臭くなるのではないかとか迷走しながから書きました。いつも思うことは、誰が悪かった、政府が悪かった、どこの国が悪かったとかじゃなく、戦争が悪かった。戦争をしてはいけないということがいつまでも忘れられないといいなということです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 考えさせられる文章であり、非常に感極まりました。 [気になる点] 途中、最初のお父さんが・・とかのところがよくわからなかったかな。 でも気にならないです。 [一言] 本題ですが、僕はまだ若…
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