嘘つきなあなたはもういらない~愛の重い令嬢は、不誠実な婚約者を絶対に許さない~
第一章 好きな人のためなら
エレノア・クリフォードには、少し変わった癖があった。
好きな人の言葉を、忘れられないのだ。
「このお菓子、好きだな」
そう言われれば、次に会うときには必ず用意した。
「最近、朝起きるのがつらくて」
そう聞けば、睡眠に効く薬草を調べ、寝具職人を呼び、枕の高さについて三日ほど考え込んだ。
「いつか海の見える家に住みたい」
その言葉を聞いた翌週には、海岸沿いの土地を七つほど調べていた。
ただし、これらはすべて秘密である。
エレノアは、自分の愛情が少しばかり重いことを自覚していた。
だから、婚約者のルーク・ハイドの前では、なるべく普通の女の子でいるようにしていた。
「エレノア、今日の髪型は可愛いね」
「ありがとう。昨日、美容師にお願いしたの」
本当は、ルークが以前褒めてくれた髪型を再現するため、侍女と二時間かけて研究した。
けれど、そんなことは言わない。
「君はいつも綺麗だね」
「……そういうこと、あんまり簡単に言わないで」
「どうして?」
「嬉しくなっちゃうから」
エレノアが俯くと、ルークは楽しそうに笑った。
その笑顔が好きだった。
少し垂れた目尻も、笑うと片方だけ深くなるえくぼも、紅茶を飲むときに小指が浮いてしまうところも。
全部好きだった。
好きで、好きで、仕方がなかった。
婚約したのは三年前。
エレノアが十七歳、ルークが十九歳のときだった。
政略結婚ではある。
クリフォード侯爵家は王国でも有数の資産家であり、ハイド子爵家は歴史こそ古いものの、近年は財政が悪化していた。
家格も財力も釣り合わない縁談。
けれど、エレノアはルークに一目惚れした。
初めて会った日のことを、今でも覚えている。
春の庭園だった。
緊張して茶器を倒してしまったエレノアに、ルークは自分のハンカチを差し出してくれた。
『大丈夫? 火傷してない?』
たったそれだけ。
でも、エレノアには十分だった。
この人と結婚したい。
この人を幸せにしたい。
この人が困ったとき、世界中の誰よりも先に手を差し伸べたい。
そう思った。
だから、彼のためにたくさんのことをした。
ハイド家の経営が苦しいと知れば、父に相談して融資を手配した。
ルークが王宮の文官職を望んでいると聞けば、必要な資格や試験制度を調べ、家庭教師を紹介した。
彼が商会経営に興味を持ち始めたときには、侯爵家の取引先に頼んで実務を学ぶ機会を作った。
どれも、エレノアが勝手にしたことだ。
見返りなど求めていなかった。
ただ、ひとつだけ。
「ルーク」
「なんだい?」
「私に嘘はつかないでね」
ある日、彼女はそう言った。
ルークは少し驚いたようだった。
「急にどうしたんだい?」
「ううん。なんとなく」
エレノアは微笑んだ。
「私、あなたのことなら、大抵のことは許せると思うの。失敗しても、借金を作っても、仕事を辞めても。困ったら一緒に考えるし、できることは何でもする」
「頼もしい婚約者だね」
「でも、嘘だけは嫌なの」
「どうして?」
「だって、嘘をつかれたら、何を信じればいいかわからなくなるでしょう?」
ルークは笑った。
「もちろん。君には絶対に嘘をつかないよ」
「本当?」
「誓うよ」
エレノアは、その言葉を信じた。
それから三年間。
一度も疑わなかった。
彼女にとって、愛するとはそういうことだった。
相手が差し出してくれた言葉を、大切に抱えて生きること。
その言葉が、たとえ自分を殺す毒だったとしても。
少なくとも、その日までは。
第二章 知らない香水
違和感は、本当に些細なものだった。
「ルーク、香水を変えた?」
秋の午後。
侯爵邸の応接室で、エレノアは婚約者の袖口に顔を近づけた。
甘い花の香りがした。
白百合と、熟した果実。
女性用の香水だった。
「いや、変えてないよ」
「そう?」
「ああ。たぶん、今日会った取引先の女性の香水が移ったんじゃないかな」
「そっか」
エレノアは笑った。
それで終わるはずだった。
けれど、その夜。
眠る前に、ふと考えた。
香水が移るほど近くにいたのだろうか。
いや、社交界では珍しいことではない。
女性と挨拶を交わしたのかもしれない。
馬車の中で隣り合わせたのかもしれない。
何でもないことだ。
エレノアは自分にそう言い聞かせた。
翌週、ルークは約束を取り消した。
『急な仕事が入ったんだ。ごめんね』
手紙にはそう書かれていた。
エレノアはすぐに返事を書いた。
『お仕事、頑張ってね。無理しないで。来週会えるのを楽しみにしています』
そして、彼の好きな焼き菓子を届けさせた。
その翌週も、ルークは忙しかった。
さらに翌週も。
以前は週に二度会っていたのに、月に一度になった。
手紙も短くなった。
それでも、エレノアは疑わなかった。
正確には、疑いたくなかった。
「お嬢様」
侍女のマーサが声をかけたのは、そんなある日のことだった。
「少し、お話がございます」
「なあに?」
「ルーク様のことで」
マーサの表情は硬かった。
「……最近、王都の劇場に頻繁に通っていらっしゃるようです」
「劇場?」
「はい。若いご令嬢と、ご一緒に」
エレノアは手にしていた刺繍を止めた。
「お仕事じゃないの?」
「調べましたが、その方は取引先の関係者ではありません」
「お友達かもしれないわ」
「……はい」
「親戚とか」
「その可能性も考えました」
マーサは答えた。
「ですが、ルーク様はその方を抱き寄せ、口づけをなさっていました」
針が指に刺さった。
小さな赤い血の玉が、白い布に落ちた。
エレノアはしばらくそれを見つめていた。
「……そう」
それだけ言った。
「お嬢様」
「マーサ。ごめんなさい。少し、一人にしてくれる?」
侍女が退室する。
扉が閉まる。
エレノアは刺繍枠を机に置いた。
そして、もう一度持ち上げた。
続きを縫おうとした。
針を刺す。
糸を引く。
針を刺す。
糸を引く。
けれど、どうしても上手くいかなかった。
指先が震えていた。
「……おかしいな」
呟く。
「どうして?」
ルークは、嘘をつかないと言った。
絶対に嘘をつかないと。
そう約束した。
だから、きっと何か事情がある。
あの女性が無理やり迫ったのかもしれない。
口づけだって、見間違いかもしれない。
マーサは優秀だが、間違えることもある。
そうだ。
自分の目で確かめよう。
それから、ちゃんと話を聞こう。
ルークが説明してくれれば、きっと納得できる。
エレノアは深呼吸した。
そのとき、机の上に置かれた刺繍が目に入った。
ルークのために作っていた、冬用の手袋だった。
彼は指先が冷えやすい。
だから、内側に薄い毛皮を縫いつけていた。
完成まで、あと少しだった。
「……まだ、できてないのに」
声が震えた。
「もうすぐ、できるのに」
ぽたり。
白い手袋に、涙が落ちた。
それを見た瞬間、エレノアは泣き出した。
声を殺すこともできなかった。
胸の奥が痛かった。
呼吸をするたびに、何かが引き裂かれるようだった。
自分が何を間違えたのかわからなかった。
もっと可愛くしていればよかったのだろうか。
もっと会いに行けばよかったのだろうか。
彼の仕事を手伝いすぎたのだろうか。
愛していると伝えすぎたのだろうか。
わからない。
何も、わからない。
ただ、ひとつだけ。
ルークが別の女性に口づけをした。
その事実だけが、何度も何度も頭の中を巡っていた。
第三章 最後のお願い
エレノアは、三日間泣いた。
食事が喉を通らず、夜もほとんど眠れなかった。
四日目の朝。
鏡に映った自分の顔を見て、少し驚いた。
目が腫れている。
頬がこけている。
ひどい顔だった。
「こんな顔じゃ、ルークに会えない」
そう思った。
そして、自分でも驚いた。
まだ、会いたいと思っている。
まだ、好きなのだ。
あんなに傷ついたのに。
それでも、彼の顔が見たい。
声が聞きたい。
抱きしめてほしい。
嘘だったと言ってほしい。
あの女性はただの友達で、口づけなんてしていないと。
たとえ、それが嘘でも。
「……駄目ね」
エレノアは鏡の前で笑った。
「嘘は嫌だって、自分で言ったのに」
その日の午後、彼女はルークを呼び出した。
場所は、初めて二人でお茶を飲んだ庭園だった。
ルークは少し遅れてやってきた。
「ごめん、エレノア。仕事が長引いてね」
「ううん。大丈夫」
「顔色が悪いよ。体調でも崩した?」
「少し眠れなくて」
「無理しないでくれよ。君は僕の大切な婚約者なんだから」
その言葉に、胸が痛んだ。
大切な婚約者。
まだ、そう呼んでくれる。
エレノアは膝の上で手を握りしめた。
「ねえ、ルーク」
「なんだい?」
「最近、仲のいい女の人がいる?」
ルークの表情が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
けれど、エレノアにはわかった。
「……どうしてそんなことを聞くんだい?」
「ちょっと、気になって」
「いないよ」
即答だった。
「君以外の女性なんて、考えられない」
エレノアは俯いた。
「本当に?」
「もちろん」
「劇場には?」
「劇場?」
「最近、行った?」
ルークは少し考える素振りをした。
「ああ、一度だけ。仕事の付き合いでね」
「誰と?」
「商会の人たちだよ」
「女の人もいた?」
「いたかもしれないけど、覚えてないな」
エレノアは膝の上の手を強く握った。
爪が掌に食い込んだ。
「……ルーク」
「うん?」
「お願いがあるの」
「何でも言って」
「もし、私以外に好きな人ができたなら、教えてほしい」
ルークは困ったように笑った。
「そんな人、いないって」
「怒らないから」
「エレノア」
「婚約を解消したいなら、そう言って。あなたが幸せになれるなら、私、ちゃんと考えるから」
嘘だった。
本当は嫌だった。
誰にも渡したくなかった。
ルークが別の女性と結婚するなんて、考えるだけで吐きそうだった。
それでも。
彼が自分を愛していないなら、無理に縛りつけるべきではない。
そう思おうとした。
「私、あなたに嫌われたくないの」
涙がこぼれた。
「だから、お願い。嘘だけはつかないで」
ルークはしばらく黙っていた。
そして、椅子から立ち上がると、エレノアを抱きしめた。
「馬鹿だなあ」
優しい声だった。
「そんなに不安だったの?」
「……うん」
「大丈夫。僕が愛しているのは君だけだよ」
背中を撫でる手。
耳元に落ちる声。
何度も聞いた、愛の言葉。
「結婚したら、毎日一緒にいられる。君を一人にしないよ」
「……本当?」
「本当だよ」
エレノアは彼の胸に顔を埋めた。
涙が止まらなかった。
信じたい。
信じたい。
どうしても、信じたい。
「……ありがとう」
ようやく、それだけ言った。
ルークは優しく微笑んだ。
その日の夜。
ルークは男爵令嬢マリアに手紙を書いた。
『あの女、何か勘づいたらしい。でも大丈夫だ。少し泣いていたから、抱きしめて愛していると言ってやったら、すっかり安心していたよ』
『本当に馬鹿な女だ。あれだけ簡単に騙せると、かえって退屈になるね』
その手紙を、エレノアが読むことになるのは、五日後のことだった。
第四章 壊れたもの
手紙を届けたのは、マリアの侍女だった。
彼女は震えながら、侯爵邸の裏門を訪ねてきた。
「どうしても、お嬢様にお伝えしたいことがあるんです」
マーサが応対し、エレノアのもとへ連れてきた。
侍女の名はアンナといった。
まだ十七歳の、痩せた少女だった。
「マリア様は、ルーク様と結婚するおつもりです」
アンナはそう言った。
「ルーク様も、そのつもりだと」
エレノアは静かに聞いていた。
「……でも、婚約者は私よ」
「はい。ですから……」
アンナは言いにくそうに唇を噛んだ。
「結婚するまでは、エレノア様に知られないようにすると」
「結婚するまで?」
「侯爵家の援助が必要だから、と」
アンナは封筒を差し出した。
「これを、読んでください」
中には、ルークがマリアに送った手紙が三通入っていた。
一通目。
『エレノアの父親が融資を認めた。これで当面の資金繰りは問題ない。あの女には感謝しないとな』
二通目。
『結婚してしまえば、侯爵家の財産も使いやすくなる。君には好きな宝石を買ってあげるよ』
三通目。
『本当に馬鹿な女だ。あれだけ簡単に騙せると、かえって退屈になるね』
エレノアは最後まで読んだ。
もう一度、最初から読んだ。
それから、三通目を裏返した。
裏には何も書かれていなかった。
「……これ、本当にルークの字?」
「はい」
「あなたが書いたんじゃなくて?」
「違います」
「誰かに頼まれたの?」
「いいえ」
エレノアは、しばらく黙っていた。
「……そう」
手紙を封筒に戻した。
「教えてくれて、ありがとう」
アンナは泣きそうな顔をした。
「お嬢様……」
「あなたは、どうしてこれを?」
「マリア様が、エレノア様のことを笑っていらしたからです」
アンナは俯いた。
「こんなに騙されやすい女なら、結婚しても気づかないだろうって。子供ができたら、侯爵家の跡継ぎにしてしまえばいいって……」
エレノアの指が止まった。
「……子供?」
「はい」
「誰の?」
「マリア様と、ルーク様の……」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
やがてエレノアは、小さく笑った。
「そうなんだ」
それだけだった。
アンナが帰ったあと、エレノアは部屋に戻った。
机の引き出しを開ける。
中には、三年間でルークからもらった手紙が入っていた。
全部で百二十七通。
日付順に並べてある。
最初の一通を取り出した。
『エレノアへ。今日は楽しかった。また会える日を楽しみにしているよ』
懐かしい文字だった。
何度も読み返した手紙だった。
二通目。
『君といると、不思議と心が落ち着くんだ』
三通目。
『早く君に会いたい』
四通目。
『愛しているよ』
エレノアは、一通ずつ読んだ。
途中で涙が落ちた。
紙が濡れた。
文字が滲んだ。
「……嘘だったの?」
誰も答えなかった。
「全部?」
胸が苦しかった。
息ができなかった。
それでも、読み続けた。
百二十七通。
最後まで。
夜が明けるころ、エレノアは床に座り込んでいた。
周囲には手紙が散らばっていた。
泣きすぎて、もう涙が出なかった。
不思議なことに、怒りはなかった。
悲しいだけだった。
どうして、こんなことになったのだろう。
何がいけなかったのだろう。
自分がもっと美人だったら。
もっと賢かったら。
もっと魅力的だったら。
ルークは、嘘をつかなかったのだろうか。
そこまで考えて。
ふと、気づいた。
違う。
違うでしょう。
私が悪いわけじゃない。
ルークが嘘をついたのだ。
私が信じたから。
私が好きだったから。
私が、彼を幸せにしたかったから。
だから、騙していいと思った。
利用していいと思った。
笑っていいと思った。
「……ああ」
エレノアは呟いた。
「そういうことだったんだ」
頭の中で、何かがすとんと落ちた。
不思議なくらい、静かな気持ちだった。
彼女は立ち上がった。
顔を洗った。
髪を梳かした。
いつもどおりの服を着た。
そして、机の上の呼び鈴を鳴らした。
「マーサ」
「はい、お嬢様」
「お父様にお願いして、ハイド家との取引に関する資料を全部集めてほしいの」
「……婚約を解消なさるのですか?」
「うん」
エレノアは微笑んだ。
「もう、いらないから」
マーサは、そこで初めて恐怖を覚えた。
三日間泣き続けた主人の顔には、もう悲しみがなかった。
怒りもなかった。
ただ、ひどく穏やかだった。
「それから、ひとつお願いがあるの」
「何でしょう」
「ルークが私にしてくれたことを、全部調べて」
「……すべて、ですか?」
「そう。誰と会ったか、何を買ったか、どんな仕事をしたか。私のお金をどう使ったかも」
「承知しました」
「急がなくていいわ。間違いがあると困るから」
エレノアは窓の外を見た。
秋の庭園は、美しかった。
あの日と同じように。
「私ね、マーサ」
「はい」
「好きな人のことなら、何でも知りたいの」
エレノアは、いつもの優しい声で言った。
「だから、最後までちゃんと知っておこうと思って」
第五章 優しい婚約者
ルークは、エレノアの変化に気づかなかった。
むしろ、最近は機嫌がいいと思っていた。
以前のように頻繁に会いたがらない。
手紙も少なくなった。
仕事が忙しいと言えば、素直に引き下がる。
結婚式の準備も、彼の意見を優先してくれる。
都合のいい婚約者だった。
「エレノア、例の融資の件なんだけど」
「うん。どうしたの?」
「父が、もう少し資金を増やせないかって」
「いくら?」
「五万エルほど」
エレノアは少し考えた。
「わかった。お父様に相談してみるね」
「ありがとう。本当に助かるよ」
「いいの。ルークのためだもの」
そう言って、彼女は微笑んだ。
その笑顔に、ルークは安心した。
何も変わっていない。
エレノアは相変わらず、自分に夢中なのだ。
彼は知らなかった。
その融資が、従来の侯爵家からの直接貸付ではなく、王都商業銀行を通した正式な事業融資に変更されていたことを。
そして、追加融資の条件として、ハイド家の事業帳簿の開示と、ルーク個人の支出の監査が必要になっていたことを。
「手続きが少し面倒になるみたい」
エレノアは申し訳なさそうに言った。
「最近、王都で商会の不正が増えているでしょう? 銀行も慎重なんだって」
「仕方ないね」
「ごめんね」
「君が謝ることじゃないよ」
ルークは笑った。
エレノアも笑った。
その日の夜、彼女は監査人から報告を受けた。
ルークがマリアに贈った首飾り。
高級レストランでの食事。
劇場の特別席。
旅行の費用。
すべて、ハイド家の事業資金から支払われていた。
さらに、一部は侯爵家の融資金だった。
「……そう」
エレノアは帳簿を閉じた。
「これ、私のお金なのね」
「厳密には、侯爵家から貸し付けた資金の一部でございます」
「同じことよ」
彼女はしばらく考えた。
「マーサ。マリア様の首飾り、いくらだった?」
「八百エルです」
「私の誕生日に、ルークがくれた耳飾りは?」
「三十エルほどかと」
「そう」
エレノアは笑った。
「私の誕生日のプレゼントより、ずっと高いのね」
マーサは何も言わなかった。
「でも、いいの」
エレノアは静かに続けた。
「お金の問題じゃないから」
そして、帳簿のあるページを指さした。
「ここ。日付を見て」
それは、エレノアの二十歳の誕生日だった。
ルークは、その日、仕事があると言って会いに来なかった。
けれど、帳簿には高級ホテルの宿泊費が記されていた。
二名分。
エレノアは、その数字を長いこと見つめていた。
「……私、あの日、ずっと待ってたの」
ぽつりと言った。
「ケーキも作ったのよ。自分で」
マーサが目を伏せる。
「夜になっても来なくて。忙しいなら仕方ないって思って。翌朝、余ったケーキをみんなで食べたの」
「覚えております」
「そう」
エレノアは帳簿を閉じた。
「八百エルの首飾りなんて、どうでもいいわ」
少し間を置いた。
「でも、あの日のことは、許せない」
その声には、初めて明確な怒りがあった。
マーサは静かに頭を下げた。
「お嬢様。いかがなさいますか」
「まだ、何もしない」
「……はい」
「ルークには、ちゃんと幸せになってほしいから」
エレノアは微笑んだ。
「自分が選んだ人生でね」
第六章 愛しているなら
それから一か月。
エレノアは、何事もなかったように振る舞った。
ルークと食事をした。
結婚式の話をした。
彼の好きな紅茶を淹れた。
笑顔で見送った。
その一方で、彼女は淡々と準備を進めていた。
侯爵家の融資契約を整理した。
ハイド家が事業資金を私的に流用した証拠を揃えた。
ルークが複数の女性に結婚を匂わせ、金品を受け取っていた事実も確認した。
そして、婚約に関する契約書を読み直した。
そこには、双方の不貞や重大な背信行為が認められた場合、婚約を解消できるという条項があった。
さらに、婚約を利用した財産上の詐欺が認められれば、損害賠償を請求できる。
エレノアは、それらを一つずつ確認した。
何度も。
間違いがないように。
ルークが言い逃れできないように。
ある日の午後。
彼女はルークを侯爵邸に招いた。
「今日は、少し大事な話があるの」
「何だい?」
「結婚のこと」
ルークは嬉しそうに笑った。
「いよいよ式の日取りを決めるのかな?」
「ううん。その前に、確認したいことがあるの」
エレノアは机の上に一枚の紙を置いた。
「これ、読んでくれる?」
ルークは紙を手に取った。
そこには、簡単な誓約文が書かれていた。
『私は、婚約期間中、エレノア・クリフォード以外の女性と恋愛関係を持たず、婚約を利用した不正な財産取得を行っていないことを誓います』
ルークの笑顔が固まった。
「……これは?」
「結婚前の確認書類。最近、貴族の間で増えているんだって」
「こんなもの、必要ないだろう」
「そう?」
「僕たちは愛し合っているじゃないか」
「うん」
エレノアは頷いた。
「だから、書けるでしょう?」
ルークは黙った。
「私も同じものに署名するよ」
「エレノア、君は僕を疑っているのか?」
「……疑いたくないの」
彼女は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「だから、お願い」
ルークは紙を見つめた。
署名しても、すぐに何かが起きるわけではない。
どうせエレノアは、自分を信じている。
そう考えた。
「わかったよ」
羽根ペンを取り、署名した。
エレノアはそれを受け取った。
「ありがとう」
微笑んだ。
それから、もう一枚の紙を取り出した。
「じゃあ、これは?」
ルークは目を落とした。
そこには、彼がマリアに送った手紙が複写されていた。
『本当に馬鹿な女だ。あれだけ簡単に騙せると、かえって退屈になるね』
ルークの顔から血の気が引いた。
「……エレノア」
「これ、あなたの字よね?」
「違う。これは……」
「違うの?」
「いや、その……」
「じゃあ、筆跡鑑定をお願いしようか」
エレノアは穏やかに言った。
「原本もあるの。封蝋も、使われた紙も調べてもらったから」
「待ってくれ」
「うん」
「説明させてほしい」
「もちろん」
エレノアは頷いた。
「聞きたいことが、たくさんあるの」
ルークは必死に言葉を探した。
マリアに誘惑された。
酒に酔っていた。
本気ではなかった。
結婚するつもりはなかった。
エレノアを愛しているのは本当だ。
だから許してほしい。
何度も、何度も。
エレノアは黙って聞いていた。
最後まで。
そして、尋ねた。
「……ねえ、ルーク」
「何だい?」
「私の誕生日、覚えてる?」
ルークは瞬きをした。
「もちろん。春の……」
「秋よ」
沈黙。
「去年の誕生日、何をしてた?」
「……仕事を」
「マリア様と、ホテルにいたんでしょう?」
ルークは答えなかった。
「私ね、ケーキを作ったの」
エレノアは静かに言った。
「あなたが好きな、林檎のケーキ。料理長に教えてもらって、三回失敗して、四回目でやっと上手に焼けたの」
「エレノア……」
「夜まで待ってた」
声が震えた。
「来ないってわかってたけど、もしかしたら少しだけでも顔を出してくれるかもしれないって」
涙が頬を伝った。
「あなたが忙しいのは知ってたから。仕方ないって思ってた。でも、本当は違ったのね」
ルークは手を伸ばした。
「ごめん。本当に悪かった」
エレノアは、その手を避けた。
初めてだった。
三年間、一度も避けたことのなかった手だった。
「……触らないで」
ルークが固まった。
エレノアは自分の手を見つめていた。
震えていた。
まだ、好きだった。
目の前の男が好きだった。
謝ってくれたら、抱きしめてほしいと思ってしまう。
もう一度信じたいと思ってしまう。
だからこそ、許せなかった。
「どうして?」
エレノアは顔を上げた。
「どうして、そんなことができたの?」
「……」
「私、何かした?」
「違うんだ」
「嫌なことがあったなら、言ってほしかった。私が重いなら、そう言ってほしかった。別れたいなら、別れたいって……」
言葉が詰まった。
「……どうして、笑ったの?」
ルークは答えられなかった。
「私があなたを好きなこと、そんなに面白かった?」
「エレノア、違う」
「じゃあ、何が違うの?」
その問いに、ルークは何も言えなかった。
エレノアはしばらく泣いていた。
やがて、袖で涙を拭った。
「……もういい」
静かな声だった。
「婚約は、解消します」
「待ってくれ!」
「待たない」
ルークは椅子から立ち上がった。
「君は僕を愛しているんだろう!?」
「うん」
エレノアは頷いた。
「愛してるよ」
その答えに、ルークは一瞬安堵した。
けれど、次の言葉で凍りついた。
「だから、あなたが私を騙していたことを、一生忘れられないと思う」
エレノアは微笑んだ。
「きっと、死ぬまで」
第七章 返してもらうだけ
婚約解消の通知がハイド子爵家に届いたのは、その三日後だった。
同時に、王都商業銀行から融資の停止通知が届いた。
追加融資の審査は不承認。
既存の融資についても、契約違反の疑いから調査が始まった。
ハイド家は大騒ぎになった。
「どういうことだ、ルーク!」
父親の子爵は息子を怒鳴りつけた。
「侯爵家との婚約がなくなれば、我が家はどうなる!」
「エレノアが勝手に……!」
「お前が何をした!」
ルークは答えられなかった。
侯爵家の支援がなくなれば、ハイド家の事業は立ち行かない。
鉱山の設備更新も、港湾倉庫の修繕も、すべて侯爵家の資金を当てにしていた。
だが、エレノアは違法な手段を使ったわけではなかった。
新しい融資を断った。
それだけだった。
既存の貸付については、契約どおりの返済を求めた。
そして、資金の私的流用について、正式な調査を依頼した。
その結果、ルークが事業費を装って女性たちへの贈り物や遊興費を支出していたことが明らかになった。
さらに、侯爵家に提出された事業報告書には、架空の取引まで記載されていた。
それらの書類には、ルーク自身の署名があった。
調査は、やがて王都の商業裁判所に持ち込まれた。
ルークは、エレノアに会おうとした。
何度も。
手紙を送った。
花を送った。
謝罪文を書いた。
侯爵邸の門前で待った。
けれど、エレノアは会わなかった。
ある日、ようやくマーサが現れた。
「お嬢様から、お預かりしたものがございます」
差し出されたのは、小さな箱だった。
中には、ルークがエレノアに贈った品々が入っていた。
耳飾り。
髪飾り。
古いハンカチ。
押し花。
そして、百二十七通の手紙。
「……これは」
「すべて、お返しするようにと」
ルークは箱を見つめた。
「エレノアは……何と言っていた?」
「特には」
「会いたいんだ。話をさせてくれ」
「申し訳ございません」
マーサは頭を下げた。
「お嬢様は、もうお会いになりません」
ルークは箱を抱えた。
その底に、小さな紙が入っていた。
『三年間、ありがとう。楽しかったことも、たくさんありました』
エレノアの字だった。
『でも、もういりません』
それだけだった。
ルークは、そこで初めて恐ろしくなった。
怒鳴られたほうがよかった。
泣いて縋られたほうがよかった。
どんな罵倒でも、受け止められた。
けれど、エレノアは何も求めなかった。
謝罪も。
愛情も。
復縁も。
何も。
まるで、自分が最初から存在しなかったかのようだった。
第八章 彼女が愛したもの
それから半年が過ぎた。
ハイド家の状況は、少しずつ悪化していった。
銀行は新たな融資を認めなかった。
鉱山は老朽化した設備の修繕ができず、生産量を落とした。
港湾倉庫は雨漏りがひどく、取引先が離れていった。
これまで侯爵家の信用によって成立していた契約が、次々と見直された。
ルークは初めて、父親とともに事業の立て直しに奔走した。
朝から晩まで働いた。
商人に頭を下げた。
帳簿を調べた。
領地へ足を運んだ。
それでも、足りなかった。
ある夜。
疲れ果てたルークは、机の上に積まれた書類を見つめていた。
そこには、かつてエレノアが作ってくれた事業改善計画書があった。
彼女は、ハイド家の鉱山の採掘量を調べ、輸送費を計算し、新しい販路まで提案していた。
細かな字で、びっしりと書き込まれていた。
『この契約は、冬季の輸送費が高くなるので注意』
『倉庫の屋根は早めに修繕したほうがいいと思う』
『鉱山労働者の住居を改善すると、離職率が下がるかもしれない』
ルークは、その紙を見つめた。
エレノアは、こんなことまでしてくれていたのか。
知らなかった。
いや、知ろうとしなかった。
彼女が何かをしてくれるたび、当然だと思っていた。
金持ちの令嬢だから。
自分を愛しているから。
何でもしてくれる女だから。
けれど、今になってわかった。
エレノアは、ただ金を出していたのではない。
考えていたのだ。
自分のために。
何日も、何週間も。
ルークが困らないように。
ルークが失敗しないように。
ルークが、笑っていられるように。
「……馬鹿だった」
ルークは呟いた。
自分が。
何も知らなかったのは、自分のほうだった。
そのころ、マリアとの関係も終わっていた。
彼女は、ルークが侯爵家との婚約を失ったと知ると、急に冷たくなった。
『だって、あなた、もうお金がないんでしょう?』
そう言われた。
ルークは怒った。
自分は金だけの男ではない。
そう言い返した。
けれど、マリアは笑った。
『エレノア様には、あなたも同じことをしていたじゃない』
何も言い返せなかった。
その夜、ルークはエレノアの手紙を読み返した。
百二十七通。
どれも、他愛のない内容だった。
今日は庭に薔薇が咲いた。
新しいお菓子を作った。
あなたの好きそうな本を見つけた。
早く会いたい。
体に気をつけて。
無理しないで。
愛している。
どの手紙にも、同じ気持ちが書かれていた。
ルークは泣いた。
初めて、心から泣いた。
もう一度、会いたかった。
謝りたかった。
今度こそ、嘘をつかずに。
今度こそ、彼女を大切にすると誓いたかった。
けれど、その願いが叶うことはなかった。
第九章 最後の贈り物
商業裁判所の判断が下ったのは、婚約解消から九か月後だった。
ハイド家の事業資金の私的流用と、虚偽の事業報告が認定された。
ルークは事業経営から外され、個人資産の一部を賠償に充てることになった。
子爵家は爵位こそ維持したものの、主要な事業を売却せざるを得なかった。
領地も縮小された。
ルークは、王都の小さな借家へ移った。
かつての友人たちは、ほとんど訪ねてこなくなった。
そんなある日。
彼のもとに、一通の手紙が届いた。
差出人は、エレノアだった。
ルークは震える手で封を切った。
『ルークへ』
懐かしい文字だった。
『お元気ですか』
それだけで、涙が出そうになった。
『ハイド家の事業について、裁判所の判断が出たと聞きました』
『私からも、最後にお伝えしておきたいことがあります』
『あなたが私に贈ってくれたものは、すべてお返ししました』
『けれど、私があなたに贈ったものは、返してもらうつもりはありません』
『手袋も、マフラーも、時計も、あなたのものです』
『私が好きで贈ったものだから』
ルークは目を閉じた。
エレノアは、まだ自分を想ってくれているのだろうか。
そう思った。
けれど、次の一文で、その希望は消えた。
『ただし、あなたのために用意していたもののうち、まだ渡していないものは、すべて取りやめました』
『海の見える家も』
『新しい商会も』
『あなたが欲しがっていた書斎も』
『結婚後に住む予定だった屋敷も』
『全部、なくしました』
ルークは息を呑んだ。
海の見える家。
覚えていた。
昔、何気なく口にした夢だった。
エレノアは、そんなことまで覚えていたのか。
『あなたが喜ぶと思って、準備していました』
『でも、もう必要ないですね』
『私は、あなたに幸せになってほしかった』
『本当に、それだけでした』
『さようなら』
手紙は、そこで終わっていた。
ルークはしばらく動けなかった。
やがて、机に突っ伏して泣いた。
もう、何も戻らなかった。
エレノアの愛も。
彼女と過ごした時間も。
自分が踏みにじった、たくさんの優しさも。
すべて。
失ってから、ようやく理解した。
自分が捨てたものの大きさを。
そのころ。
クリフォード侯爵邸では、エレノアが紅茶を飲んでいた。
「お嬢様」
マーサが声をかけた。
「例の件、すべて完了いたしました」
「ありがとう」
エレノアは微笑んだ。
「これで、終わりね」
「……本当に、よろしかったのですか?」
「何が?」
「ルーク様への、最後のお手紙です」
エレノアはカップを置いた。
「うん」
少し考えた。
「だって、本当のことしか書いていないもの」
「……左様でございますね」
マーサは、それ以上何も言わなかった。
彼女だけは知っていた。
海の見える家は、すでに完成していたことを。
新しい商会も、設立の準備が整っていたことを。
ルークのための書斎には、彼が欲しがっていた本が何百冊も並べられていたことを。
そして。
それらの計画を、エレノアがすべて自分の手で処分したことを。
完成した家は売却された。
商会の設立は取り消された。
書斎の本は図書館へ寄贈された。
何ひとつ、ルークの手には渡らなかった。
それだけなら、普通の婚約解消だっただろう。
けれど、マーサは知っていた。
エレノアが、ルークに送った最後の手紙を、何度も何度も書き直していたことを。
どの言葉が、一番彼の心に残るか。
どの思い出が、一番彼を苦しめるか。
何を伝えれば、彼は自分が失ったものを理解するか。
エレノアは、それを考えていた。
何日も。
何週間も。
かつて、彼を喜ばせる贈り物を選んでいたときと、まったく同じ熱心さで。
そして、最後に選んだのが、あの手紙だった。
マーサは、主人の横顔を見つめた。
エレノアは穏やかに笑っていた。
美しく、優しい、どこにでもいる令嬢のように。
けれど、マーサは知っている。
この人は、愛した相手を幸せにするためなら、どこまでも努力できる。
そして。
愛した相手を不幸にするためにも、まったく同じだけ努力できるのだ。
エピローグ 次は、きっと
一年後。
エレノアは、王宮の園遊会に出席していた。
婚約を解消してから、初めての大きな社交の場だった。
「エレノア様、お久しぶりです」
声をかけてきたのは、若い騎士だった。
背が高く、穏やかな目をした青年。
名前は、ガレス・アシュフォード。
王宮騎士団に所属する伯爵家の次男だった。
「ガレス様。お久しぶりです」
「お元気そうで、安心しました」
「ありがとうございます」
二人は庭園を歩いた。
他愛のない話をした。
最近読んだ本のこと。
王都にできた新しい菓子店のこと。
騎士団で飼っている犬のこと。
ガレスは、話し方の穏やかな人だった。
エレノアが何かを話すと、最後まで聞いてくれた。
彼女は、少しだけ嬉しくなった。
「エレノア様」
「はい?」
「もしよろしければ、今度、お茶をご一緒しませんか」
ガレスは少し緊張しているようだった。
「あなたと、もっとお話ししてみたいんです」
エレノアは瞬きをした。
そして、微笑んだ。
「……嬉しいです」
本当に、嬉しかった。
誰かに好意を向けられることが、こんなに温かいものだったなんて。
忘れかけていた。
「ぜひ、ご一緒させてください」
ガレスは、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、エレノアも笑った。
今度こそ、幸せになれるかもしれない。
そう思った。
その夜。
侯爵邸に戻ったエレノアは、マーサを呼んだ。
「ねえ、マーサ」
「はい、お嬢様」
「ガレス様って、どんな方なのかしら」
「アシュフォード伯爵家のご次男で、現在は王宮騎士団の第三隊に所属していらっしゃいます」
「そう」
エレノアは頬に手を当てた。
「優しい方だったわ」
「左様でございますね」
「お菓子は何が好きなのかしら」
「お調べいたしましょうか」
「お願い」
エレノアは少し考えた。
「それから、好きな本と、趣味と、休日の過ごし方も知りたいな」
「承知しました」
「ご家族との仲はいいのかしら」
「そちらも確認いたします」
「あと……」
エレノアは、少しだけ言い淀んだ。
「……恋人は、いないのよね?」
「現在、特定の女性とお付き合いしているという話はございません」
「そう」
エレノアは微笑んだ。
「よかった」
それから、机の引き出しを開けた。
中には、新しい手帳が入っていた。
真っ白な表紙。
まだ、何も書かれていない。
エレノアは最初のページを開いた。
そして、丁寧な文字で書いた。
『ガレス・アシュフォード様』
その下に、今日の日付。
さらに、彼が話してくれたことを一つずつ書き込んでいく。
好きな本。
好きな食べ物。
苦手なもの。
仕事のこと。
家族のこと。
最後に、彼が言った言葉を書いた。
『あなたと、もっとお話ししてみたいんです』
エレノアは、その一文を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……嬉しいな」
マーサは、その横顔を見ていた。
昔と同じだった。
ルークと婚約したばかりのころ。
エレノアは、こうして毎晩、彼のことを手帳に書き留めていた。
好きなものを覚え、嫌いなものを避け、喜んでもらうために何ができるかを考えていた。
その愛情は、少しばかり重かった。
けれど、決して悪いものではなかった。
ただ。
マーサは、ふと思った。
もし、次の相手もエレノアを裏切ったら。
もし、また同じように嘘をついたら。
この人は、今度は何をするのだろう。
「マーサ?」
「……はい」
「どうかした?」
「いいえ。何でもございません」
エレノアは不思議そうに首を傾げた。
そして、また手帳に目を落とした。
「ねえ、マーサ」
「はい」
「私、今度こそ、ちゃんと幸せになりたいな」
「……はい」
「ガレス様も、幸せにしてあげたい」
エレノアは微笑んだ。
「だって、好きな人には、幸せでいてほしいもの」
その言葉に、嘘はなかった。
彼女は本当に、そう思っていた。
愛する人が笑ってくれるなら、何だってしたい。
どんな努力も惜しまない。
どんな苦労も厭わない。
相手が望むものを、できる限り与えたい。
それが、エレノア・クリフォードという女の子だった。
ただし。
彼女には、ひとつだけ。
どうしても許せないことがある。
嘘だ。
愛していると言いながら、裏切ること。
信じている相手を、馬鹿にすること。
自分が与えた愛情を、踏みにじること。
それだけは、絶対に許せない。
たとえ、相手をどれほど愛していても。
いや。
愛しているからこそ。
許せないのだ。
エレノアは手帳を閉じた。
窓の外には、綺麗な月が出ていた。
「……次は、嘘をつかない人だといいな」
小さく呟いた。
それから、いつものように微笑んだ。
ごく普通の、恋する女の子の顔で。
その笑顔を見ながら、マーサは心の中で祈った。
どうか、次の方は。
この人を、裏切りませんように。
心から。
切実に。
祈らずにはいられなかった。
(終)
微ホラーな恋愛もの。
ChatGPTに相談して作りました。
AIと一緒にやる創作が楽しいので、ひさしぶりに投稿してみました!
しばらく連続して投稿する予定です。
よろしくお願いします。




